大学時代の友人と塩原温泉に行ってきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onsen.gif)
那須の鹿ノ湯を含めて源泉かけ流しの湯を3湯入ってきたのは満足。
ところで、塩原にはぜひ訪れたい所があった。
温泉地唯一の寺、臨済宗妙心寺派の甘露山妙雲寺(写真)。
塩原へ行く数週間前、8月末の会津の旅に行く直前、近所の古書店で『鶴ヶ城を陥すな:凌霜隊始末記』(藤田清雄著 1965 謙光社)をたまたま手にした。
戊辰戦争時、美濃郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)として塩原~会津若松と転戦した隊士の手記(『心苦雑記』『夢物語』)などを元に、小説風に再構成されたもの(セリフなどは著者の創作でも、出版の意図からして、活動内容は記録どおりのはず)。
わが佐幕派の話だし、会津に塩原に、名古屋からも近い郡上八幡と地理的にも縁続きなので買った。
書をひらくと、凌霜隊が塩原に滞在した重要なエピソードから始まる。
戊辰戦争の趨勢がはっきりしない情勢の時、東西の両軍どちらが勝っても藩が存続するため、郡上藩は公式には西(新政府)軍に立っていながら、東(旧幕)軍へも味方した実績を作っておこうと、ひそかに応援部隊を派遣した。
それが「凌霜隊」である。
この隊は17歳の朝比奈茂吉を隊長とする江戸在府の若者たちで構成された44名からなる。
彼らは藩命により”脱藩”し、下総行徳から旧幕軍と行動と共に北上した。
新選組・土方歳三も戦った宇都宮戦退却の後、慶応4(明治元)年5月10日から、会津藩の命により、3ヶ月間、下野の塩原を守備していた。
7月の妙雲寺での盆踊りの時には、隊士らも故郷の「郡上踊り」を披露したという。
戦いのない滞在中、若い隊士達と地元の少女の間に恋もめばえたようだ。
ある娘は「凌霜隊なら お嫁にゆけと 親に言われた 夢を見た」と唄う。
ところが、会津若松に危機が訪れ、会津藩の命令で、一帯を焼き打ちすることになった(北上する新政府軍に駐屯する場を提供しないため。これは会津藩がナポレオン軍に対するロシア側の戦術を採用したという。確かに軍事的はこの作戦はありうる)。
しかし、3ヶ月も世話になったこの地を、自らの手で焼き払うことには人情として抵抗がある。
でも会津のために戦うなら、彼らの指示に従わざるをえない。
隊士らが駐屯場とした和泉屋・丸屋(いずれも現存している旅館)に対しては、3日がかりで丁寧に解体し、すぐ再建できるように、柱などに番号をつけた。
彼らが滞在中に坐禅をした妙雲寺は、本尊など寺宝はすべて搬出した。
そこで困ったのは本堂釈迦堂(写真)内の格天井(ごうてんじょう)にある88枚もの立派な菊花紋章である。
そもそも南朝方であった郡上藩(菊の紋を家紋の一部に取り入れている)として、これを焼くには抵抗がある。
でも火急の軍令に背く事もできない。
思案した末、墨で紋章に×印をつけることにした。
図を別物に改ざんして皇威を打ち消せば、心理的に抵抗感が薄れるというわけである。
その作業の最中、隊の密使となって会津若松に行っていた村民の渡辺新五右衛門が戻ってきた(塩原の住民は凌霜隊に協力的であった)。
彼は焼き打ちの仕打ちに驚き、せめてわれわれの菩提寺だけは焼かないでくれと懇願した。
凌霜隊もそれを承知し、本堂から離れた畑に薪を焚いて、寺を白煙で覆い、放火したつもりだったことにして塩原を後にした。
その結果、塩原の妙雲寺は焼けずに残った。
その後の凌霜隊は、会津藩とともに鶴ヶ城を守ろうと戦った後、落城により武装解除した。
迎えにきた郡上藩の役人は、隊士らの家族のいる江戸には戻さず、同年11月17日より郡上藩内で無事に戻った隊士全員を幽囚した。
藩命で東軍についたというのに、この措置はなぜかというと、
藩は新政府におもねるため、凌霜隊を藩意にそむいて脱藩した叛逆者と位置づけたのである。
さらには政府への忠誠の証しとしてか、全員を斬首にする案が出ていた。
その頃、塩原の妙雲寺の住職塩溪は、塩原での凌霜隊の功績を京都の本山妙心寺へ報告した。
妙心寺はそれを郡上にある末寺の慈恩寺に伝え、隊士達に礼を伝えるよう指示した。
ところが、慈恩寺からは、彼らが罪人として禁錮されていることが伝えられる。
慈恩寺住職の淅炊は、本山の後押しで、郡上内の寺によびかけ、助命嘆願をはじめる。
郡上内では真宗の寺が一番多く、臨済宗は少なかったが、宗派を越えて、支援の輪が広がった。
藩庁に出向いた淅炊は、家老に藩の措置を東京の政府に報告に行くとまでいった。
明治2年9月23日、禁錮が解けて自宅謹慎、半年後赦免となる。
明治3年4月、自由の身になった朝比奈は愛馬で美濃郡上からはるばる塩原を再訪した。
塩原滞在中、心を寄せた少女に気持ちを伝えるために…(結末は略す)。
という話を読んで、ぜひ妙雲寺を訪れたいと思ったのだ。
ところが、今回、塩原の地では記述が不足・あるいは異なっていた。
まず当事者妙雲寺が配布している『甘露山妙雲寺小史』には、
「会津軍占領し官軍を迎えうたんとしましたが事敗れ退去に際し全村を焼き打ちしました。その際釈迦堂も焼かんとし先づ皇室への畏敬の念から格天井の菊花紋章を消しましたが、檀徒渡辺新五右衛門の信仰的必死の嘆願により、その厄をまぬかれました。」
とあり、凌霜隊を「会津軍」の一部隊とみなせば、基本的に記述に問題はない。
ただ、妙雲寺が凌霜隊士の助命に関係したことも入れてくれてもよかったのだが。
ところがこれが宿の部屋にあった観光客用の冊子『いい旅しよう塩原温泉郷』では、
渡辺新五右衛門という村人が格天井の菊花紋章に×をつけて、官軍に味方するものではないと会津軍に訴えたことになっている。
この記述は断じて容認できない。
ます×をつけた当事者が違っている。
もちろん凌霜隊であって渡辺新五右衛門ではない。
この記述だと、渡辺新五右衛門が”逆徒”におもねり、皇室を侮辱する行為をしたことになってしまい、
渡辺新五右衛門とその子孫に拭いきれない不名誉を被せてしまう危険なものとなる。
なぜ取材したはずの妙雲寺の説明通りに書かなかったのか。
原稿の書き手の頭の中に、東軍を”天皇に反抗する賊徒”とみなす「勝てば官軍」そのままの不勉強な偏見に支配されているのが曝露される。
この偏見が一番問題だ。
幕末維新の騒乱は徳川への態度(倒幕か佐幕)が争点であり(尊王での相違はなかった)、戊辰戦争はあくまで徳川を壊滅したい薩長土を中心とした西(新政府)軍と、その徳川への仕打ちを非道として抵抗する東(旧幕)軍との戦いであり、東軍は反・薩長であっても決して反・天皇ではなかった。
そもそも会津藩主にして京都守護職の松平容保は孝明天皇の信任が最も篤かった。
むしろ”朝敵”と呼ぶに値するのは、京都御所に発砲し孝明天皇を拉致しようとした長州藩の方である。
戊辰戦争は、徳川幕府が平和裡に大政奉還し、国民一丸となって新時代を迎えるべき折りの、あらずもがなの内戦なのである。
『鶴ヶ城を陥すな』のあとがきによると、凌霜隊の活躍は会津ではまったく伝えられていないという(負け戦だから、結果論的に助勢は無意味だったし、自分たちの悲劇の思い出で精一杯だろう)。
そして今回、塩原においても、凌霜隊の事績が「会津」に置き換えられ、一文字も言及されていないことが分かった。
塩原では自分たちの寺が救われたこと以外に関心が広がらないのかもしれないが、
その寺が、そこを焼かなかった人たちの命を救ったことに、少しは関心をもってくれてもいいのではないか。
少なくとも誤った記述は、地元の渡辺家のためにも改めるべきだろう。
この忘れ去られた凌霜隊。
地元の郡上八幡ではどうなのだろう。
書では八幡城の本丸に「凌霜隊之碑」が残っているという。
現在も残っているのだろうか。
2,3年前に郡上八幡に訪れた時は、凌霜隊の事などぜんぜん知らなかった。
今度はこの目で確認してみたい。