今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私御用達の店・物:東京編

2007年09月29日 | 東京周辺
今日は、身の回りの買物をしまくった。
まず「池袋西武」に行って、和紙と竹製のソックスを一足づつ購入。
どちらも履き心地が麻のようにさわやかで、しかも麻より強いので長持ちする。
靴の中で靴下がムレるのはとてもイヤなので、冬以外はこれらを着用。
この手のソックスは他のデパートでは夏期しか置いてないが西武ならいつでも置いてある。

次に巣鴨に戻って、地蔵通りに。
赤い下着で有名な「マルジ」で中和繊維社製の越中褌を買う。
ここの褌は、生地の肌触りがよく、また紐がしっかり太くてよいのだ(他店で見たことがない)。
通り沿いの「巣鴨薬局」では、簡易鍼の「スポールバン」の30個入りが8個おまけがついて2600円と他店にくれべてお買い得。
また地蔵のある高岩寺向いの仏壇屋でいつもの沈香を買う。
和装に薬に線香と実に巣鴨らしい買物。

秋葉原に出て、いっきに若返る。
通りをちょっと入った所にある「エックス」で太陽誘電製のDVD-R(強化タイプ)のスピンドルを買う。
ここが一番安く、種類も豊富だから(もっとも太陽誘電製しか買わないが)。

ほかにもいつもチェックする店を廻り(今日は買うものがなかった)、
今月新装開店した「ソフマップ本館」内を一通りみてまわる。
秋葉はやっぱりソフマップにがんばってほしい。
中央通りに面したビル内の細い階段を登って「武装商店」で刀袋を求める(模造刀でも外に持ち出す時は袋に入れないと銃刀法違反だから)。
この店特注の黒い袋なのがうれしい。
秋葉にも、こういう”硬派”のオタク店が増えるのは歓迎。

今日は足を伸ばして、御徒町に行く。
いつもなら上野広小路まで通り沿いに行くのだが、今日はなぜか末広町で昭和通りに出た。
そしたら「文具のディスカウントショップFUKUYA」なる店を見つけ、入ってみる。
そしたらずっと探していた、A4の長辺側に挟み口のあるボードが置いてあったし、
私が大好きな三菱のピュアモルトト・リプルペン(定価3000円)がなんと2205円で売っているではないか。
もう充分の本数持っているのだが、また買ってしまった。
品揃えが豊富でしかもどこよりも安いというこの文具店は、当然私の御用達リストに追加!

そして御徒町の「多慶屋」(中学時代からの永年御用達)でPortugalのヘアトニック(2割引)と、つまみ用の珍味類を買う。
ここまで来たら、アメ横にも足を伸ばす。
ガード下のレザーショップ(私のレザーウエアはここばかり)をチェック。
今年はライダージャケットがメインらしい。
ローバー・ミニドライバーの私にライダーは合わないな。
今年は服は買う気配がなさそう。

と、山手線の上半分を巡って、
あちこちの買物でぱんぱんに膨らんだバッグを下げて、ようやく帰途についた。

鼓膜炎再発

2007年09月25日 | 健康
両耳の鼓膜炎が再発した。
ここ1年ばかりはなんともなかったのだが、最近また夜中に耳の中が痒くなりはじめた。
掻きたくても掻けない場所なので、狂おしくなる。
しばらくは耳鼻科で治療を再開。

しかもここ数年来、前の鼓膜炎の時併発していた両耳の耳鳴り(キーン音)が止まらず、
健康診断で両耳とも高周波が難聴気味と出た。
もともと金属音は嫌いなのに、その金属音がずっと両耳の中で止むことなく鳴り響いているのだから始末が悪い。
夏休みの間、毎週鍼治療を試みたが、ちっとも改善せず、
今は、「イチョウ葉エキス」と「蜂の子」の錠剤を飲んでいる。
これらサプリメントを飲みはじめたら、却って音が大きくなった気がする。
でも、錠剤が尽きるまでは飲み続けてみる。
というわけで、私の耳はすこぶる調子悪い。

なので、私と話す時は、明瞭な発声でお願い(ひそひそ話は不可)。

姥子温泉・秀明館

2007年09月15日 | 温泉

前回の「グリーンプラザ箱根」の続き。
秀明館が守る姥子(うばこ)の湯は、箱根七湯には入ってないが、金太郎の目の傷を姥が治させたという伝説の湯。
大涌谷と芦ノ湖の間にありながら、箱根神社の領内ということもあり、観光開発されず秘湯的雰囲気が残った。
この秀明館、木造の古い造りの棟が並ぶ宿で、その全貌は上を行くロープウエイから眼下に望むと、森の中の和風建築がひときわ目だって、誰しもが心誘われるはず。
実はしばらく閉鎖されてたのだが、数年前に湯本の”天山”経営で再開された。
ただし休憩のみ。

ネットでは入浴のみが1800円とあったのだが、それは15時以降で、10時から15時までは部屋休憩2300円~しかない。
正直1800円でも高いと思っていたので、入る気をなくす。
でもせっかく宿に向って歩いているので、宿だけでも見に行こう。
小雨の降る中、古い造りがそのままの建物を見ていると、やはりこの中を見たくなる。
中で掃除をしていた人と目が合い、挨拶してきたので、入ることにした(このタイミングって結構効く)。
本当は仙石原のススキ野の中を歩く予定だったのだが、この雨だし、ここで時間をつぶすか。
それにグリーンプラザ箱根のカウンターの女性がせっかく印刷して持ってきてくれた情報を無にするのも心苦しい。

古い木造の秀明館(写真)は湯に入って休憩するだけなら、確かに風情があって居心地よさそう。
でも泊るとなると居住性の悪さが表面に出てきてしまう(泊るのはグリーンプラザ、昼はここっていうのが最高)。
昔は客間だった部屋に通された。
このクラスの和室って入口から窓枠まで昭和30年代の家庭風景って感じだもんな。
貧乏臭くなってしまう。

浴室の入口には、先客2人分の履物が並んでいた。
狭い浴槽で面と向かうのも気詰まりなので、部屋に戻ってしばらく待ったが、出た様子もないので、3人目として入った。
浴室は、2つ並んだ(仕切られた)浴槽の奥の正面に、しめ縄が張られた溶岩が(あたかも建物の壁を破ったかのように)せり出していて、
そこから源泉が連続してしたたり落ちている。
源泉がたまっている湯壷の上には竹の棒が横断してあり、
そこは「聖域」と表示され、湯を目につける以外は立入禁止とのこと。
”源泉かけ流し”は数多くあれど、目の前の自然湧出泉をそのままいただける風呂はいまや貴重。
手前の2つの浴槽の、一方は聖域からの熱い湯がそのまま入り、他方は温度が下げられている。
こういう風情なので、湯に入るのも神妙な気分になる。
先の2人の客も、まるで入湯が修行であるかのように黙々と出入りを繰り返す(熱いので長湯できないため)。
浴槽の外はかけ流しの湯が常にあふれ出ている(これも熱い)。
洗い場はなく、石鹸・シャンプー禁止。
観光地箱根にもこういう厳粛な本格的温泉がほしかった。

ただし泉質は単純温泉なので無色無臭。
なのでこのような”演出”がないと確かに有り難みがわかないかも。
単純温泉とは、化学成分の溶存量が1g/リットルに達しないもので、要するに、常水に近い薄い湯(といっても家庭用浴槽に”名湯”入浴剤を入れた程度では0.15g/リットルしかない)。
なのにここは眼病に効くと言われているのも面白い。
せっかくなので、聖域の湯で目を洗ってみた。
いくらなんでも近眼&老眼には無理だろうな。
それに湯はかなり熱いので、湯をつけすぎると目玉が半熟玉子になってしまいそう。

部屋には4時間も居残れるので(そう考えると2300円も高くない)、
せっかくなので、後でもう一度入ることにし、部屋に戻ってノートパソコンでこうして温泉紀行を打つ(空き電源あり)。
テレビがなく、さっぱりとした室内には、湯茶のセットがあり、ビーズクッションに身を沈めれば心地よい(ビールを含む飲物の自販機は館内にある)。
窓の外は深い森なので、雨もまた落ち着いた風情。
客はほとんどいないので、館内は静まり返っている(乳幼児連れ・団体はお断りとのこと)。
昼の4時間、昔風の和室で、縕袍(どてら)をはおって、湯茶をすすりながら、中央に置かれた小さい卓で原稿執筆する(原稿用紙と万年筆の代わりにノートパソコンだけが今風)。
そういうのにいいかも。
たしかに騒音もなく集中できる(私は喫煙者ではないが、片手に煙草を挟んで…というのも絵になるが、室内は禁煙)。
疲れたら、神聖な湯に入ればいいし。

雨もあがったので、再び湯に入り(今度は誰もいない)、休憩2時間弱で宿を後にした。

経営者は自らを支配人ではなく「湯守り」と名乗っている意気込みが頼もしい。

グリーンプラザ箱根にとっては、この貴重な湯屋が徒歩圏内にあることが自らのセールスポイントになることにも気づいてほしい。
グリーンプラザに連泊して、昼は秀明館に入るという通向けの「湯治ブラン」を設定してみてはいかが?(双方にとってメリットあるよ)。
でも姥子の湯は、湧出量が降水に依存して不安定だというから、むずかしいか。


グリーンプラザ箱根

2007年09月15日 | 
大学の長い夏休み(夏期休業)の締めくくりとして、秋のススキ野を味わうべく、箱根に一泊した。
泊ったのは、会員として利用できる「グリーンプラザ箱根」。

1人だと広々と使えるツインの部屋(旅館の和室より居住性良し)は、有線放送が使え、好きなジャンルの音楽をかけっぱなしにできるのがいい(この宿のお気に入りポイント)。
たとえば「ヨーデル」を選んで室内に響かせると、窓から見える大涌谷にそびえる鋭峰の冠ヶ岳が緑のマッターホルンに見えてくる。

夕食は、標準よりも安いコースにしたのだが、量(皿数)的には問題なく、揚物がつかない分、カロリー的にはかえってありがたい。
田舎の旅館と違って、飯と漬物の扱いが正しいのも、この問題にうるさい私を安心させる(飯を漬物で食べるのは農民の風習であって、和食の作法ではない)。

さて、チェックアウト時のこと。
支払いを済ませた私は、応対したカウンターの女性に、近くの姥子温泉の湯宿についての情報を求めた。
彼女は、わからなかったため、奥に入ってしばらく出てこなかった。
ガイドブックで調べ、相手の宿に電話して確認をとっていたことがあとで分かった。
でもその情報は私が求めた宿ではなかった。
近くの伝統のある湯で最近営業を再開した所なので、もしかしたら割引券でもあるかなという下心で尋ねただけ。
なので、その気配がないと分かると、私は「じゃいいです」とあっさりしたもの。
さんざん情報を探し回った彼女は「お役に立てず申し訳ありません」と謝った。

カウンターを後にした私は、自分でその宿に行って見ようと、小雨の降る中、歩きはじめる。
広い敷地から道路に出ようとするところで、後ろから私を呼び止める声がした。
ビニール傘をさして駆け寄ってきたのは、さっきのカウンターの女性。
傘をリュックにしまったままの私は、一瞬ビニール傘をサービスでくれるのかと思った。

そうでははく、彼女は、私が尋ねたかった「姥子温泉秀明館」の案内のホームページを印刷して、私に手渡してくれた。
しかも相手先に電話して宿の利用方法を尋ね、ホームページと違う点をペン書で書き足し、それを説明してくれた。
姥子温泉についてはここグリーンプラザにもけっこう問合せがあるらしい(ロープウエイの姥子駅そばだから)。
それについて知らなかったので職務上調べたとも言えるが、
わざわざ印刷して、雨の中、私を追いかけてきてくれたそのサービス精神にはやはり感動する。
「お役に立てたかどうか分かりませんが」と言う彼女に、
その場では、感動を表現できず、通りいっぺんのお礼しか言えなかった。
こうして公開することで、感謝の意としたい。

塩原妙雲寺と凌霜隊

2007年09月10日 | 
大学時代の友人と塩原温泉に行ってきた。
那須の鹿ノ湯を含めて源泉かけ流しの湯を3湯入ってきたのは満足。

ところで、塩原にはぜひ訪れたい所があった。
温泉地唯一の寺、臨済宗妙心寺派の甘露山妙雲寺(写真)。
塩原へ行く数週間前、8月末の会津の旅に行く直前、近所の古書店で『鶴ヶ城を陥すな:凌霜隊始末記』(藤田清雄著 1965 謙光社)をたまたま手にした。
戊辰戦争時、美濃郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)として塩原~会津若松と転戦した隊士の手記(『心苦雑記』『夢物語』)などを元に、小説風に再構成されたもの(セリフなどは著者の創作でも、出版の意図からして、活動内容は記録どおりのはず)。
わが佐幕派の話だし、会津に塩原に、名古屋からも近い郡上八幡と地理的にも縁続きなので買った。

書をひらくと、凌霜隊が塩原に滞在した重要なエピソードから始まる。
戊辰戦争の趨勢がはっきりしない情勢の時、東西の両軍どちらが勝っても藩が存続するため、郡上藩は公式には西(新政府)軍に立っていながら、東(旧幕)軍へも味方した実績を作っておこうと、ひそかに応援部隊を派遣した。
それが「凌霜隊」である。
この隊は17歳の朝比奈茂吉を隊長とする江戸在府の若者たちで構成された44名からなる。
彼らは藩命により”脱藩”し、下総行徳から旧幕軍と行動と共に北上した。
新選組・土方歳三も戦った宇都宮戦退却の後、慶応4(明治元)年5月10日から、会津藩の命により、3ヶ月間、下野の塩原を守備していた。
7月の妙雲寺での盆踊りの時には、隊士らも故郷の「郡上踊り」を披露したという。
戦いのない滞在中、若い隊士達と地元の少女の間に恋もめばえたようだ。
ある娘は「凌霜隊なら お嫁にゆけと 親に言われた 夢を見た」と唄う。

ところが、会津若松に危機が訪れ、会津藩の命令で、一帯を焼き打ちすることになった(北上する新政府軍に駐屯する場を提供しないため。これは会津藩がナポレオン軍に対するロシア側の戦術を採用したという。確かに軍事的はこの作戦はありうる)。
しかし、3ヶ月も世話になったこの地を、自らの手で焼き払うことには人情として抵抗がある。
でも会津のために戦うなら、彼らの指示に従わざるをえない。
隊士らが駐屯場とした和泉屋・丸屋(いずれも現存している旅館)に対しては、3日がかりで丁寧に解体し、すぐ再建できるように、柱などに番号をつけた。
彼らが滞在中に坐禅をした妙雲寺は、本尊など寺宝はすべて搬出した。

そこで困ったのは本堂釈迦堂(写真)内の格天井(ごうてんじょう)にある88枚もの立派な菊花紋章である。
そもそも南朝方であった郡上藩(菊の紋を家紋の一部に取り入れている)として、これを焼くには抵抗がある。
でも火急の軍令に背く事もできない。
思案した末、墨で紋章に×印をつけることにした。
図を別物に改ざんして皇威を打ち消せば、心理的に抵抗感が薄れるというわけである。
その作業の最中、隊の密使となって会津若松に行っていた村民の渡辺新五右衛門が戻ってきた(塩原の住民は凌霜隊に協力的であった)。
彼は焼き打ちの仕打ちに驚き、せめてわれわれの菩提寺だけは焼かないでくれと懇願した。
凌霜隊もそれを承知し、本堂から離れた畑に薪を焚いて、寺を白煙で覆い、放火したつもりだったことにして塩原を後にした。
その結果、塩原の妙雲寺は焼けずに残った。

その後の凌霜隊は、会津藩とともに鶴ヶ城を守ろうと戦った後、落城により武装解除した。
迎えにきた郡上藩の役人は、隊士らの家族のいる江戸には戻さず、同年11月17日より郡上藩内で無事に戻った隊士全員を幽囚した。
藩命で東軍についたというのに、この措置はなぜかというと、
藩は新政府におもねるため、凌霜隊を藩意にそむいて脱藩した叛逆者と位置づけたのである。
さらには政府への忠誠の証しとしてか、全員を斬首にする案が出ていた。

その頃、塩原の妙雲寺の住職塩溪は、塩原での凌霜隊の功績を京都の本山妙心寺へ報告した。
妙心寺はそれを郡上にある末寺の慈恩寺に伝え、隊士達に礼を伝えるよう指示した。
ところが、慈恩寺からは、彼らが罪人として禁錮されていることが伝えられる。
慈恩寺住職の淅炊は、本山の後押しで、郡上内の寺によびかけ、助命嘆願をはじめる。
郡上内では真宗の寺が一番多く、臨済宗は少なかったが、宗派を越えて、支援の輪が広がった。
藩庁に出向いた淅炊は、家老に藩の措置を東京の政府に報告に行くとまでいった。
明治2年9月23日、禁錮が解けて自宅謹慎、半年後赦免となる。
明治3年4月、自由の身になった朝比奈は愛馬で美濃郡上からはるばる塩原を再訪した。
塩原滞在中、心を寄せた少女に気持ちを伝えるために…(結末は略す)。

という話を読んで、ぜひ妙雲寺を訪れたいと思ったのだ。
ところが、今回、塩原の地では記述が不足・あるいは異なっていた。

まず当事者妙雲寺が配布している『甘露山妙雲寺小史』には、
「会津軍占領し官軍を迎えうたんとしましたが事敗れ退去に際し全村を焼き打ちしました。その際釈迦堂も焼かんとし先づ皇室への畏敬の念から格天井の菊花紋章を消しましたが、檀徒渡辺新五右衛門の信仰的必死の嘆願により、その厄をまぬかれました。」
とあり、凌霜隊を「会津軍」の一部隊とみなせば、基本的に記述に問題はない。
ただ、妙雲寺が凌霜隊士の助命に関係したことも入れてくれてもよかったのだが。

ところがこれが宿の部屋にあった観光客用の冊子『いい旅しよう塩原温泉郷』では、
渡辺新五右衛門という村人が格天井の菊花紋章に×をつけて、官軍に味方するものではないと会津軍に訴えたことになっている。
この記述は断じて容認できない。

ます×をつけた当事者が違っている。
もちろん凌霜隊であって渡辺新五右衛門ではない。
この記述だと、渡辺新五右衛門が”逆徒”におもねり、皇室を侮辱する行為をしたことになってしまい、
渡辺新五右衛門とその子孫に拭いきれない不名誉を被せてしまう危険なものとなる。
なぜ取材したはずの妙雲寺の説明通りに書かなかったのか。
原稿の書き手の頭の中に、東軍を”天皇に反抗する賊徒”とみなす「勝てば官軍」そのままの不勉強な偏見に支配されているのが曝露される。
この偏見が一番問題だ。

幕末維新の騒乱は徳川への態度(倒幕か佐幕)が争点であり(尊王での相違はなかった)、戊辰戦争はあくまで徳川を壊滅したい薩長土を中心とした西(新政府)軍と、その徳川への仕打ちを非道として抵抗する東(旧幕)軍との戦いであり、東軍は反・薩長であっても決して反・天皇ではなかった。
そもそも会津藩主にして京都守護職の松平容保は孝明天皇の信任が最も篤かった。
むしろ”朝敵”と呼ぶに値するのは、京都御所に発砲し孝明天皇を拉致しようとした長州藩の方である。
戊辰戦争は、徳川幕府が平和裡に大政奉還し、国民一丸となって新時代を迎えるべき折りの、あらずもがなの内戦なのである。

『鶴ヶ城を陥すな』のあとがきによると、凌霜隊の活躍は会津ではまったく伝えられていないという(負け戦だから、結果論的に助勢は無意味だったし、自分たちの悲劇の思い出で精一杯だろう)。
そして今回、塩原においても、凌霜隊の事績が「会津」に置き換えられ、一文字も言及されていないことが分かった。
塩原では自分たちの寺が救われたこと以外に関心が広がらないのかもしれないが、
その寺が、そこを焼かなかった人たちの命を救ったことに、少しは関心をもってくれてもいいのではないか。
少なくとも誤った記述は、地元の渡辺家のためにも改めるべきだろう。

この忘れ去られた凌霜隊。
地元の郡上八幡ではどうなのだろう。
書では八幡城の本丸に「凌霜隊之碑」が残っているという。
現在も残っているのだろうか。
2,3年前に郡上八幡に訪れた時は、凌霜隊の事などぜんぜん知らなかった。
今度はこの目で確認してみたい。

五万円台のくず入れ

2007年09月07日 | 東京周辺
地元の腕のある伝統職人さんたちが一堂に集まる伝統技術展を見に行った。
一番目にとまったのは、江戸指物(さしもの)。
いい形の文机が60万円。
形も色つやもいい「くず入れ」が5万6千円。
文机はそこで仕事するわけだから、ある程度の出費もわかるけど、
くず入れって鼻かんだティッシュとか、数日後に捨てるゴミの一時的保管庫なわけでしょ。
100円ショップでプラスチックのが売ってる。
それに5万以上出すか?

でも、ほしい。
あのくず入れなら一生もの。
それどころか、世代を超えて使える(プラスチックも半永久的にもつけど)。
そう考えると高くない。
適正価格=使用満足度×使用頻度×使用期間 とすれば
良いもので使用頻度が高く、しかも長持ちするのであれば、適性価格は高くなれる。
だから一般的に家具類は良いもの・気に入ったものを買うべき。
昔の江戸市民は、江戸指物のくず入れ・文机・灰皿・衣紋掛けなどに囲まれていたのか。
羨ましい。

※後日、近所の江戸指物専門の家具屋に行った。
すると置いてある物だいたいが、上でみたものより高い。
確かに、小売りを経由するより、制作者から直に買った方がマージン分は安い。
次回は、「技術展」で買おう。

台風9号経過報告

2007年09月07日 | 時事
小田原に上陸した台風9号は夜中に東京西部を通過していった。
わが”ひぐらし気象台”(西日暮里)では、午前3時から4時にかけて、気圧が最低になり、風も雨も一時やんだ。その後風向はそれまでの東寄りから南西風にみごとに変化。
風が一番強かったのは、14.3m/sで6時51分だから、吹き返しの風。
暴風(>25m)圏内であったにもかかわらず、強風(>15m)にも達しない。
雨が一番強かったのは、2時50分の29.2mm/hで、前の晩の方が強かった。
総雨量は130mm。
台風が間近を通ったにもかかわらず、付近で被害なし。

台風って被害に地域差が大きい。
海沿い・川べりなど水辺はたいへん。
山ぎわの造成地も土砂災害が怖い。
公共交通の影響はどこでもおなじだが、
都市部では、低地でないかぎり雨は巨大な下水溝に全部入っていくし、風は建物の凹凸によって弱まる。
昔は停電被害があったが、強風がなくなったので、それもなし。
報道が脅かして伝える「予想される最大雨量」は実は山地の予想値なので、都市部は関係なし。
このように、実際の影響の差が大きいので、予想も地域差をもっと細かくしないと、
都市住民には「狼少年効果」になってしまうし、毎度不必要な警戒で活動が制限されてしまう。
過大でも過小でもない、等身大の警戒情報が必要なのではないか。
そのためには地域区分をもっと細かくする必要がある。