今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

反応者による館内測定

2021年10月31日 | 茶臼山カエル館計測

冬期閉館間際のカエル館(長野県根羽村)を訪れ、館長が招集してくれた反応者(カエル館内で身体反応が出た人)たちに館内のあちこちでの反応の強さを評定してもらった。

まず、館内の磁気分布は以前に測定し、磁気異常スポットは確認済み。
ところが近年、磁気異常スポット以外でも反応を示す人たちが出てきたため、反応の原因を磁気異常に関連づけることができなくなった。
ただ、たとえば反応者が訴える「ビリビリ感」を身体反応として客観的に測定できない。
客観的に確認できるのは、それを訴える人の身体表面に静電気が帯電していないということだけ。
良導路計による表皮の電流測定も、ビリビリ感の強さとはまったく相関がなかった。

なので、客観的な計測は諦め、主観的な感覚評価をデータにすることにした。
これは、館内での私が指定した場所で、痛みの強さの評定のように0(まったく感じない)から10(強すぎて我慢できない)までを選んでもらうもの。
これらのデータを集めれば、館内の反応分布図が作れると思った。

ところが、反応者の個人差が大きすぎ、また反応の種類も多様で、データを集めるほど、却って傾向性が見えなくなる。
反応者にとっては、その身体感覚は明確なので、評定は容易にでき、しかも場所によって値が異なるのだが、その変化が個人によってまったく異なる。
さらには、反応の種類も場所によって異なるという(たとえば、ある場所はビリビリ感ではなく、揺れを感じるという)。
これらの反応は、日常的に経験するものではなく、カエル館(とその周辺)に限られるという。

さらに、ここを訪れたら上がらなかった腕が上がるようになったという人、とにかく気分が良くなるので毎週訪れる人など、好転反応を示す人が多い(逆に頭痛を訴える人もいる)。

総合的に見て、館内の反応スポットが特定分布していないということから、館内のパワー自体が拡大しているように思える。
館内にはいろいろなパワー・ストーンを展示してあるが、必ずしもそれらの近くで反応が強いわけではない(もちろん主たる展示物であるカエルとの関連もない)。
パワーの源はそういう即物的なものではなく、より根深い所にあるように思える。
それは客観的な計測がさらに困難になる方向だ。

風水的な解釈が一番スッキリするのだが(→風水診断によるカエル館のパワーの正体)、実証なしの辻褄合わせの理屈では、学術研究者(”真実”の探究者)にとっては受け容れられるレベルの”仮説”にはなれない。
まずは、現象の最前線である生体反応データを地道に集めるしかない。


祝、スワローズ優勝

2021年10月27日 | 時事

昨日は、私にとって嬉しいことがもう1つあった。
ヤクルト・スワローズのセ・リーグ優勝である(地上波の実況がなかったのでニュースで知った)。

東京ローカルなチームとしてずっと贔屓にしてきた。
といっても熱心なファンではなく、同じ東京を本拠地にしているジャイアンツはいやだという反骨精神の現れにすぎない部分もある。
それにしても昨年の6位からの優勝はすごい。

過去の優勝チームを見ると、ジャイアンツかカープで、それ以外だと6年前のスワローズ。
ということは、タイガースよりは優勝してもおかしくないチームだった。

後半での勢いがあるからクライマックスシリーズも大丈夫だろう。

ただ、日本シリーズの優勝チームを見ると、ずっとパ・リーグ。
リーグ間の実力差がいかんともしがたい状態になっていて、
2軍リーグでの優勝を喜んでいるレベルになっている。


かけがえのなさ=愛

2021年10月26日 | 心理学

小室圭さんと(名字なし)眞子さんの結婚には、世間はいろいろな思いがあるだろうが、私は祝福したい。
花嫁側の両親は不承不承で、両家レベルのつき合いはないだろうけど、本人同士の気持ちという本質部分が貫徹された。
私にとって小室圭さんは、きちんと立ち止まって礼ができる品格のある人だという印象。

さて、お二人の会見で、心に残ったのは、眞子さんが「かけがえのない人」と言い、圭さんが「愛している」と表現したこと。

手前味噌だが、私の「心理的距離モデル」では、心理的距離を構成する2次元(空間的距離は1次元だが、距離感は2次元)に個別性と共同性を措いている。

個別性は、その人であることの存在感の強さ。
共同性は、自分との存在的近さ。
通常の心理的距離は、自己との一体感である共同性のみを意味するだろうが、私はあえて個別性、すなわち相手を”他者”として認める部分を対人関係としての心理的距離の要素とした。
そして、2次元としての心理的距離が接近するということは、単に共同性(一体感)のみが近づくことではなく、その人であることの重要性が増すことを同時に満たすことと定義した。
いわば個別性と共同性の2次元空間上の合成値が私が定義したい”心理的距離”である。
その合成値は、心理現象としてどのような感じ方なのか。
それを「かけがえのなさ」と表現した。
ただし、あえて「欠け替えのなさ」と当て字する(正しい漢字ではない)。
すなわち、相手が欠けてほしくない=そばにいてほしい(共同性)という気持ちと、
他の人には替えられないあなたであること(個別性)という気持ちの合成としての”欠け替えのなさ”である。
さらにこの二重意味の用語をたった一言に置き換えるなら、それは「愛」だ。
愛とは盲目的な自他融合ではなく、相手を自己ならざる者”他者”として認め、その存在を受容し、大切にすることである(自己投影としての単なる一体感は、相手の存在を認めていない)。
お二人が語ったように、「欠け替えのなさ」とは愛であり、個別性と共同性によって構成される心理的距離の値のことである。
なので、二人の愛は本物といえる。


不在者投票してきた2021

2021年10月25日 | 時事

いつものように、選挙当日は東京にいないので、不在者投票してきた。
民主主義を具現する行為を主権者として行使できる喜びを噛みしめて。

私は、自民党に代わる政権担当可能な政党の出現を求めている。
特に、憲法・外交・防衛など国の根幹の問題にきちんと現実的対応できる政党を。
すなわち、ただ反対するだけの野党は、実質的には自民党の補完勢力でしかなく、政権担当可能だとは思わない。
なのでそのレベルの野党が共闘しても、かえって危機感が増すだけ。

そこで小選挙区は自民候補に入れた。
一方比例区は、自民でない、かつて政権をとったことのある政党に入れた。
政党としての成熟を願って。
バランス感覚的には逆の対応でもいいのだが、小選挙区はやはり人物で選びたい。

投票はこれで終りではない。
最高裁判事の国民審査がある。
これには毎回全員に×を入れる。
真に×を入れたい有権者の意思が反映されやすくなるように、ハードルを下げるのが目的。
この無意味そうな審査方法に対する批判の意味も込めて。


荒川を歩く3:赤羽から彩湖

2021年10月24日 | 川歩き

晴天の日曜、再開した山歩きに行きたかったが、山手線内回り(池袋→渋谷)が運休のため、新宿経由で山に行けない。
なのでこちらも途絶えていた”川歩き”に切り替えて、荒川(河口→赤羽)の続きをやることにした。→荒川を歩く2
ただし東京の川歩きとしては赤羽で終了したので、今回は埼玉の川歩きとする。


自宅から地下鉄南北線で終点の赤羽岩淵で降り、セブンイレブンで昼食用におにぎり1個と100円のフランクフルトを買う(このサイズのフランクフルトが売っているセブンイレブンは貴重)。

広い車道沿いに埼玉県境の新荒川大橋に向う。
前にも書いたが、最近では、東京側よりも川向こうの県側の方が高層ビルが多い(写真:新荒川大橋からの荒川上流側。右が埼玉、左が東京)。
ただしいずれも高層マンションで、住民は東京に通勤・通学する人たちのはず。
今回は埼玉の川歩きなので、その高層ビルが並ぶ埼玉県川口市に入る。

河川敷には舟戸野球場というグラウンドが広がり、その先の川沿いの歩道に達するには遠回りになるので、グラウンドを突っ切ると、案の定フェンスの切れ目があったのでショートカットできた。


荒川の左岸の河川敷の道を上流に向って進むと、「川口緊急用船着場」という所に出た。
ここは緊急時専用の船着き場で、大災害で陸上交通が寸断された場合、荒川の水路を使って、たとえば東京港から埼玉に物資を運ぶ事ができるという(この上流にも同様な船着場が設置されている)。
過去の洪水での水位が電柱の上の方に記されていて、新しいところで平成11年8月の熱低による増水で、荒川の基準面(東京湾よりは1.1m低い)より6.4mの高さ、すなわち今の水面からおよそ5mの高さに達した。

荒川のような大河川だと河川敷はグラウンドや自動車学校などがあり、さらに川との間には潅木が茂っているので、道はあっても川を見ることができない。
むしろ堤防に上がれば川面と周囲の風景を眺めながら歩ける。
ただ日射を遮るものがないのでツバの広い帽子は必須。

行き交う人は、球技や釣り、あるいはサイクリングやジョギングが多く、歩く人は多くはない。
振り返ると、対岸の東京側にスカイツリーが見えてきた。
あの群を抜いた高い建造物が加わると、建物の高さ競争は、一挙に東京側が逆転する。

堤防上に珍しく「桜堤」という木陰があったので、その下に坐ってフランクフルトとおにぎりを食べる。

堤防上の道は川が内側にカーブすると大回りになるので、そういう箇所は河川敷の道を歩く。

荒川支流の菖蒲川の水門を過ぎ、行く手に新幹線の鉄橋が近づく頃に堤防上にあがると、堤防外の下には「中山道戸田渡船場跡」の石碑が見える。


今の中山道である国道17号線の下をくぐり、ボート競技場のある戸田公園に達する。
ここには大学の漕艇施設(合宿所)などがある。
驚いたことに、大阪大学のボート部の人たちがいた。
試合があるのだろうか(長いボートを大阪から運んでくるのだろうか)。

この公園でトイレを借り、再び堤防上の道を進む。
荒川は微妙に屈曲して、そのおかげで河川敷の潅木帯の緑が視野に拡がる。

川の奥には上流域の秩父の山々が拡がっている(写真)。
こういう壮大な風景は街中の小さな川歩きでは味わえない。

戸田ボートレース場の大きな建物を過ぎ、笹目橋を横切ると、川全体が向って右にカーブして、流れは北西に傾く。


ここから荒川本体は左岸の堤防から離れて、その間に彩湖(さいこ)という長大な調整池が入りこむ。
これは荒川の氾濫原を貯水池にしたもので、利根川の渡良瀬遊水池に相当する。

といってもしばらくは、彩湖自体も(立入禁止区域のため)遠くに眺めるだけ。
高速道路となっている国道298号線(東京外環道)をくぐると、やっと彩湖の湖畔沿いの道となる。

令和元年の増水時の浸水高が頭上はるか高い所に記されている(写真:柱中央の白い横線)。
平時では公園にもなっている彩湖一帯がすべて水没したのだ。
そのおかげで、下流の東京の東側の0メートル地帯が水没しないで済んだ。

埼玉はこうして実際にわが身を犠牲にしながら、黙って首都東京を守っている(東京は埼玉のこの度量に感謝すべきだ)

ここから先は湖畔の公園になっていて、多くの人がテント持参で、休日を楽しんでいる。
ボードセーリングに興じている人もいて、海無し県なのにマリンスポーツを楽しめる。

行く手のJR武蔵野線が走っている所で彩湖は終りとなるので、その手前で水辺から離れて武蔵野線の西浦和駅に向った。

ここから先の荒川は、しばらく(熊谷まで)は鉄路から離れてしまう。
スマートウォッチによると歩程は16km、歩数は25000歩に達した。
帰宅後体重計に乗ったら1kg以上減っていた。


パワーストーンの店はパワースポット?

2021年10月23日 | パワー・スピリチュアル

帰京した週末。
秋葉を逍遥して、そのまま御徒町に向い、天然石の店に立ち寄る。
こういう店には、アメジストの立派な晶洞(結晶がぎっしり詰まった洞)が置いてある。
値段は数十万円クラスなので、比喩としては「手が出ない」が、実際に洞内に手を入れてみる。
まずは温感を得て、その後、手の上下から圧迫感に等しい気感を得る。
さすが晶洞、かように強いパワーに満ちている。

店内は、商品として大小の晶洞が置いてあり、他には大小のいろいろなパワーストーンが所狭しと置かれている。
中には、ラジウム鉱石であるバドガシュタイン鉱石もたくさん置いてある(我が家の浴槽にもこの石を置いていて、ラジウム温泉にしている)。

そして客は、限られた予算で一握りのパワーストーンを買って帰り、家のパワーを高めるわけだ(私もアメジストの玉を購入)。

ということは、パワーストーンに満ちた天然石の店こそ、最も強力なパワースポットといえるのではないか(少なくとも、”自称パワースポット”よりは直接的なパワーを実感できる)。
ならば、店自体、さらには従業員の人たちは、そのパワーの恩恵を受けているのだろうか。

同じ論理で、温泉宿の従業員の人たちは、人一倍健康なのだろうか。
温泉医学の研究によると、温泉地の住民は、健康度に差があるというわけではないとのこと。
環境に馴化してしまって、温泉が生体に刺激にならないためと解釈されている。
”湯治”という数週間レベルの滞在がもっとも効果があるらしい(1泊では効果なし)。

ということで、私も帰京時には、こうして時折、この種の店を訪れるようにしている。


第6波は抑えられている

2021年10月19日 | 新型コロナウイルス

緊急事態宣言が解除されて(潜伏期間の)2週間以上が過ぎたが、うれしいことに日々の感染者が少ない状態が維持されている。

解除後の人流の回復それ自体は、感染拡大を引き起こさないことがよくわかる。

それは、マスクの着用と距離の維持がそれなりに保たれているからだろう(岡崎の訪問先でも皆マスクをしていた)。

逆にイギリスやロシアで感染者が再び増えているのは、マスクを外す人が増えているためだ。

日本ではワクチン接種者が増えている一方で、先行した接種者のワクチン効果が消える時期に来ている。

ここで油断したらダメだ。

外出はかまわないが、マスクと3密を避ける行動パターンを維持することで、第6波を抑えつつ、経済、いや、まともな生活を取り戻そう。


夏と冬の境

2021年10月18日 | お天気

東日本に寒気が入った昨晩は、愛知でもどんどん気温が下ってきたので、長袖のパジャマを取り出し、それを着て寝たが、掛けたのは夏のタオルケットだけだったため、明け方寒かった。
でも、なんとかそのままで眠ることはできた(今晩からは羽毛布団を掛ける)。

朝、耐えられずにスイッチを入れたのは便座のヒーター。
一番冬を感じた瞬間だった。

ところが出勤先の研究室に入ったら、暑くて冷房を入れた。

今は夏と冬の端境期なようだ。

今までは、その期間を「秋」と言っていたが、季節を構成するほどの長さがなくなり、夏と冬の二季になっていくのかも。


岡崎に行く

2021年10月17日 | 名古屋周辺

久々に名古屋で迎える日曜。
愛知の西三河にある岡崎に行く事にした。

ここの市美術博物館の「至宝」展を見に行くため(右がパンフ)。
岡崎には、岡崎城や瀧山寺の運慶仏(パンフの像)があり、前々から行きたかった。

本当は鉄路で行きたかったのだが、美術博物館や瀧山寺は市街から外れた所にあるので、車で行く事にした。
名古屋宅は東名高速名古屋インター近くなので、実は車の方が便利。
それに都市部とちがって、出先で駐車場を探す必要もない。


岡崎インターで降りて(約30分)、山側に向うと広い公園があり、そこに近代的な美術博物館がある。
今回、こちらに瀧山寺の本尊聖観音が展示されている(パンフの像がそれ)。
運慶と子の湛慶作といわれるそれは、頼朝の等身大で、胎内に頼朝の歯と鬢を納めているという(当時の住職が頼朝の従兄弟だった)。
名にし負う運慶・湛慶の作なので造りは見事だが、白い肌の江戸時代の彩色が古仏らしからぬ不自然さを与えてしまっている。
ここには瀧山寺以外に甲山寺などの仏像が展示されている。
あと展示のすべての文書の翻刻が配布資料で読めるのはうれしい(古文書の展示はこれをデフォにしてほしい)。


他の仏を見るために、瀧山寺(天台宗)に向う。
宝物殿の近くの駐車場に車を止め、宝物殿には呼び鈴で来訪を告げる。
作務衣姿の住職が庫裡から出てきて、扉をあけ、拝観料400円を払う。
博物館から来たというと50円返してくれた。
今回の展示で連携しているとのことで、こちらから博物館に行くと入館料800円を700円にしてくれるという(こちらを先に訪れた方が50円得)

不在の本尊の両脇に梵天と帝釈天が立っている。
帝釈天は肌が金色で衣の彩色もそれなりに古色になっていることもあり、見栄えがする。
住職によると、運慶作ながら、この江戸時代の彩色のため、国宝になれず重要文化財止まりになったという。
でもそもそも最初から彩色されたはずだから、彩色された姿は本来に近いはず。


寺の本堂はずっと高い所にあり、東照宮が隣接している。
岡崎一帯は徳川家康の故郷なので、家康とその父祖の松平氏関係の史跡は至る所にある。
なのでつい、道脇の「家庭ごみ」の立て札も「家康ごみ」と読んでしまう。

岡崎第一の観光地である岡崎城は駅から近いので、それは次回に鉄路で訪れることにして、


今日は駅から遠い所ということで、徳川家の菩提寺である大樹寺に行く。
大樹寺は浄土宗で、松平時代からの菩提寺。
今川方に属していた若き家康が桶狭間の戦いで、ここに逃げてきて、寺僧が追手を追い払ったという。

本尊は平安末期作の阿弥陀如来。
拝観料400円払って本堂奥の方丈を巡り、さらに宝物殿には松平家・徳川将軍家の等身大の位牌が並んでいる(綱吉は異常な低身長だった)。
ここで『家康と母於大※の方』(川崎記孝)を買う(書店では目にしない、自費出版的な本)。
※於大(おだい)は、兄が織田方についたため離縁され、3歳になるわが子竹千代のいる岡崎城から退去させられた。しかし再婚後もわが子との親交は絶えることなく、天下統一を果たした家康に見守られて世を去った(法名:伝通院)。東京文京区の伝通院は於大の菩提寺。
かように、岡崎は松平氏〜徳川家康の史跡に満ちている。
次回は岡崎城をゆっくり見学したい。
まだ日は高いので、帰路は一般道で帰った(約1時間)。


街中で背中を刺されない方法

2021年10月16日 | 防災・安全

なぜか、全国で刃物による殺傷事件が続いている。

特に通り魔に遭うと、警戒する暇がなく、防御のしようがない。

けんかによる場合でないと、まず無防備な背中をやられる。

これを防ぐには、私の日常スタイルのようにリュックを背負うしかない。
リュックの中に硬いノートパソコンを入れていれば完璧。

リュックを、電車に乗る時のように胸側にもっていけば、前からの攻撃にも防御できる。

刃物を持っている相手には、長く硬い棒を持っていない限りは応戦しないこと。
相手との間合いを充分に開けておくしかない。

普通、背中を見せて逃げるのは危険なのだが(熊に対しても)、リュックを背負っているなら大丈夫(熊の場合は引きずり倒されるかも)。

もちろんリュックには荷物を入れておく(食べ物を入れておくと、熊から逃げられる)。


祝、きのこの日

2021年10月15日 | 歳時

昨日、大学に出勤したら、職員の人から「先生、明日はきのこの日なんですって?」と言われた。
私がきのこ好きであることを知っているゆえの問いかけだ。
もちろん、私がそれを知らぬはずがない。
パソコン・タブレットのカレンダーに登録している。

夕方、近所のスーパーに行ったら、ブナシメジの売り場に「10月15日はきのこの日」と表示があった。

なんでも、10月はきのこシーズンなので、日本特用林産振興会が、その中日である15日を「きのこの日」としたらしい。

この日はきのこを食べよう、というわけだ。

私も、ブナシメジ、エノキ、マッシュルームを買い、15日の夕食は、きのこをたっぷり入れた「きのこそば」にする(「きのこ鍋」はちと早い)。
ちなみに生食できるマッシュルームはサラダ用だ。

きのこは食としてはこうして楽しめるのだが、グッズに関しては文句を言いたい。
きのこ好きは、食べるだけでなく、きのこを眺めていたいので、きのこのインテリアグッズや小物もほしい(その極致はガレの「ひとよ茸」のランプ)。
ところが、販売者はきのこなんて、見栄えのいいベニテングタケでありさえすればいいという安易な発想ばかりで、まさにベニテングタケばかり
きのこって種類がたくさんあり、色も形状もそれぞれバラエティに富んでいるのに。
キヌガサタケやタマゴタケ(幼菌)なんか実際見つけると感動ものだ。


IT化の推進=自動化という発想の残念さ

2021年10月14日 | パソコン・メディア

岸田首相の演説を聞いていて、 iT化の推進=作業の自動化という発想に、改めてがっかりした。

改めて、というのは、またか、ということで、岸田首相本人を責めているのではなく、日本でIT化を進めようとしている人たちの”総意”が相変わらず、効率化・いながらにしてという人間の”怠惰化”=能力低下の推進であることが変っていないことにがっかりしたから。

日本には、メディア論という思想的背景がないので、メディアは工学のテクノロジーの問題でしかなく、その工学的発想は、効率化、いいかえれば人間自身の劣化に収斂するのだが、それをよしとしている(工学はメカを見て、人間を見ていない)。

アメリカ、いや新大陸には、メディア論という思想的背景があり、マーシャル・マクルーハンというカナダ人が、メディアを思想的・認知科学的に、すなわち人間における意味づけをした。

マクルーハンの時代は、メディアはラジオやテレビだったが、もちろん出現したばかりのコンピュータは最新の”メディアだった。
この表現は当たり前に聞こえるかも知れないが、日本人にとってはしばらくはコンピュータは”計算機”であってメディアとはみなされていなかった。

マクルーハンにとってメディアとは、人間の能力を拡張したものである。
すなわち人間の素の能力をパワーアップするものである。
だから彼にとっては、靴は足の、服は肌の、メガネは目のパワーアップした立派な”メディア”であった。
この発想からいえば、コンピュータは”脳”のパワーアップ版ということになる。
この発想が日本にはいまだに根付いていない(計算機よりは中国語の訳語「電脳」の方がいい)。

マクルーハンの影響を受けた、アラン・ケイという人が、当時 IBMの大型計算機しかなかった時代に、これからのコンピュータは、人間の脳の拡張版すなわちメディアであるべきだと主張し、当時は存在しなかった、個人所有のコンピュータ、すなわち「パーソナル・コンピュータ」というコンセプトを提出した。
個人が使うコンピュータは、既存のあらゆるメディア、すなわち本・ノート、キャンバス、楽器・楽譜という既存のメディアのメディア=メタ・メディアであり、そして新聞、ラジオ、テレビというマス・メディアに対抗するという意味での”パーソナル・メディア”であるべきというもの。

すなわち、アラン・ケイが考えた”パソコン”とは、20世紀を支配したマス・メディアという情報権力に、情報で対抗できる個人の能力を育成し、個々人がオリジナルな情報創造者・発信者になれる道具(メディア)を意味した。
それは、マスコミの情報支配下にある20世紀的な”大衆”から脱して、個々人がアーティスト、ジャーナリストとして自由に情報発信する社会を可能にするメディアである。

そのアラン・ケイの思想に共鳴し、ではその意味での”パソコン”とやらを作ってやろうじゃないか、と思い立ったのがスティーブ・ジョブズであり、その作品が家のガレージで作られた Apple IIを経由したMacintoshである。

だから、Macには、最初から創造性をサポートするアプリがインストールされていた。
メディアは人間の能力を拡張するもの、というマクルーハンの思想が込められていた(だからその製作物をあえて”作品”と称したい)
すなわちマクルーハン→ケイ→ジョブズという系譜には、パソコンは、人間の能力を拡張するために、すなわち自分がもっとハイレベルになるために、できないことができるようになるためにこそあるべきだという思想が一貫している。

一方、その頃、マイクロソフト社を立ち上げたビル・ゲイツは、パソコン=大型コンピュータ(計算機)のダウンサイズ版という発想でIBMのOSとして自社のMS-DOSの組み込みに成功した。
 巨大企業IBMのマシンと、自宅のガレージで生まれたMacとのシェアの差は最初から歴然で、ほとんどの人にとってパソコンとは仕事を効率化する計算機、いながらにして楽をさせてくれるマシンと理解された(それは人間を怠惰にする)。

そして、今では、スマホがあれば充分でパソコンすら必要ないという人たちが増えている。
彼らにとっては、情報はネットから得続けるだけもので、自分から発信するのはラインやツイッターレベルの創造とはいえないつぶやきでしかなく、それ以外はスマホのゲームに興じて、デジタル情報の大量消費者=21世紀の大衆の位置に甘んじている。

その一方でユーチューバーのような、パーソナルな映像作家として、能力を確実に拡張している人たちが出現し、マス・メディアを圧倒しつつある。
彼らこそアラン・ケイの思想の体現者だ。

以上をふまえて、ITをどのように使うといいのか、もう一度考え直してもいいのではないか。
パソコンが出始めの頃、パソコンで徹底的に効率化して、できた時間を創造活動に使えばいいと言われていた。
でもどうすれば創造的になれるかわかる人がほとんどいなかった(また、せっかく効率化しても、人員削減で別の仕事が回ってきて、結局時間はできなかった)。
むしろ、パソコンこそが創造活動に向いているのだ。
Windowsで効率化して、Macで創造活動してみようか。


来週から第6波が来る?

2021年10月13日 | 新型コロナウイルス

現在の感染者激減は、夏のワクチン接種の広がりが奏効していると思われる。

ところが、接種後90日たつと、抗体の量がかなり減るという。
私自身は、6月7日に2回目の接種をしたから、90日はとっくにすぎている。

3回目の接種はアナウンスすら来ていない。

そして10月からの緊急事態宣言解除によって、人出が普段に戻っただけでなく、道に面した店などでは、マスクを外しての会食が目についた。
なんでそう簡単に行動変容するんだろう。

かように人々が油断してから(潜伏期間の)2週間たつのは今週金曜以降。
来週早々、6度目の増加に転ずるのではないかと危惧している。
せっかく、対面授業となるのに。


緑内障になるのを抑えている

2021年10月11日 | 健康

緑内障は、視野が欠けて、最後には失明にいたる恐ろしい眼の病気であることは知られている。
緑内障は、網膜にある神経細胞がどんどん減っていくという現象だ。
はっきりした原因は不明で、加齢によってなりやすくなるという。

ただ、視野の欠損は、他方の目の視野と脳によって補われるため、自覚症状がなく、発症しても気づかないことがあるという。

私は、数年前、白内障(これははっきり自覚症状がある)を発症したため、近所の眼科を受診した。
白内障は手術以外に治療法はないので、そこで紹介状を書いてもらった。
そもそも目なんて、異状がなければ、年に一度の職場の視力検査以外は、何もしない。

ということもあり、せっかくなのでいろいろ検査してもらったら、眼圧が基準値(20mmHg)を超えて高いことがわかった。
眼圧が高いのは緑内障への道だ。

幸い、視野検査では異状がなく、発症はしていない。
ただ、網膜の神経細胞の密度が一部薄くなっているという。
つまり、緑内障の手前の段階になっている。

そこで、眼圧を下げる目薬を処方され、それを毎日点眼することになった。
それ以来、眼圧が基準値を超えることは一度もなく、視野も問題ない。
ただ、眼圧を絶対に上げてはならないので、目薬はこれからも手放せない。

たまたま別件の通院で、緑内障の危機から逃れたわけだ。

普通の人が、眼科で眼圧の検査を受ける理由はないが、検査だけでもお勧めする(目に空気を吹きつける検査)。


首都圏で震度5強の地震

2021年10月08日 | 防災・安全

昨晩、名古屋宅で、タブレットの緊急地震速報がけたたましく鳴った(アプリはPREP)。
見ると、千葉で強い地震が起きるという(緊急地震速報が反応するのは震度5弱以上)。

するとテレビでも首都圏に震度5強の地震が発生という速報。

テレビスタジオで揺れている最中のようで、ニュースキャスターがテーブルに両手をついて立ち上がっている。

その間、名古屋宅では、揺れを感じないが、天井にある電灯の紐がかすかに揺れている(震度1)。

テレビで首都圏の揺れが収まったのを見計らって、東京の実家(文京区)に電話をかけた。
回線は混んでいないようだ。

まもなく、母が出て言うには、揺れは大きかったが短く、室内の液晶テレビが揺れ、仏壇の扉が開いたが、物の落下などの物的被害は発生していないという。

テレビの速報では、東京の最大震度は5強となっているが、どうやら足立区あたりに限定されているようで、実家の状況では震度4といえる。

震源地は、千葉県の東京湾側で、首都直下型地震の想定震源域に近いと思ったが、鉛直的にはかなり深く、関連はないようだ。

ちなみに、建築の耐震性が進んだ日本では、震度5強では建物被害はほとんど発生しない(ただし10年前の3.11の時の東京も震度5強だったが、古い建物の内部崩壊などで死者3名を出した)。
停電等のインフラは若干混乱するだろうが、深刻な被害はないようだ。
あとは、この程度の揺れであわてて逃げようとする人が転倒して怪我をするのだが、今回もそれは発生した。
揺れの最中に動くことの方が、バランスを崩しやすく危険だ。
揺れの最中は頭を守ることに専念し、避難行動や消火は揺れが収まってからで間に合う。

追記:翌日帰宅して、自分の部屋を確認したら、棚に飾ってある仏像フィギュアの風神が床に落ちていて、あと多聞天迦楼羅が倒れていた(いずれもバランスが悪い)。
あと体の向きだけが変ったのが数体。
向きが変るというのは水平面での円運動だから、今回の地震はそういう揺れ方をしたのかな。