今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

惜夏の奥軽井沢2018

2018年08月31日 | 

あまりの暑さに、遠出する気になれなかった2018年の夏。
8月晦(ツゴモリ:最終日)くらいは、過ぎ去る夏を惜しもうと、
老母を連れての旅行先として復活した「グリーンプラザ軽井沢」に一泊。

確かに降り立った駅は「軽井沢」だが、宿が建つのは群馬県側・嬬恋村の北軽井沢の西側、
浅間山北麓の”奥軽井沢”(道沿いの樹相は軽井沢そのもの)。

出発地の東京は36℃もあったが、標高1100mのこちらは(雨天ということもあり)21℃
(この地が舞台の映画「ジャージの二人」では、東京の35℃に対し、こちらが23℃だったので、
ジャージ姿の二人が「勝った」と拳を握ったが、今回はそれを上回る勝利ではないか)。

この地は高原野菜の産地だけに、夕食バイキングに地元野菜がふんだんに使われて、野菜好きの私は実に嬉しい。
ここのバイキングは、安宿チェーンのそれと違って、地元(群馬+長野)の素材がそれぞれ本格的に料理されており、
いわゆる(食べるに値しない)ハズレがなく、とても充実している(たとえば、群馬のこんにゃく餃子に信州の馬刺し)。

とりわけ毎回楽しみにしているのは、生で食べれる白トウモロコシ。
8月で終りとのことで、ぎりぎりラストに間に合った(翌日の朝市で土産に買おうと思っていたのだが、もう無いとのこと)。 

もちろん風呂は温泉(薄い単純泉ではなくしっかり濃度のある療養泉)で、露天を含め浴槽がいくつもある。

母と泊る部屋はメゾネットタイプで、母が一階の和室でテレビを観ている間、
私は二階の部屋でノートパソコンでの作業にいそしむ(こうしてブログ記事を打っている)。

このホテルは、「おもちゃ王国」という子ども向けの遊園地を併設していることもあり、
就学前の小さい子連れや乳児に対応した設備を売りにしているので、実に子連れファミリーが多い。
おそらく全国的にも客の”平均”年齢が最も低いホテルだろう(逆に平均年齢を上げているのは私たち)。
なので館内は実ににぎやか。
その中で、夕食を静かにすごしたい大人たちには、子連れは入れないビュッフェレストランもある。

かように気に入っている宿なので、このブログでも過去に記事がある。 

翌朝、あいにく雨天気味だったが雲が高く、浅間山がくっきり見えた。
朝市で、地元産のふっくらしたトウモロコシとキャバツ1玉を使った漬物を買い、
帰路はいつものように、軽井沢駅からJRバスで横川に降り、信越線で高崎に出て、
そこから高崎線のグリーン車に乗ってのんびり帰京した。

これで、私の唯一の夏の行事はおしまい。 


開帳日の世田谷観音

2018年08月28日 | 東京周辺

昨晩の雷雨(”ゲリラ”は不要)に襲われて気温が下った翌日、久しぶりに雲が出ていて日差しも強くなさそう。
今日は図書館以外の外出で、予定通り、世田谷観音に行く。
毎月28日がここの不動尊の開帳日なのだが、東京にいる日となかなか合わなかった。
そう、最近趣味にしている秘仏開帳の寺参り。  

ここへは渋谷から東急バスで行く。
渋谷に立ち寄る時は駅ビル内の”しぶそば”で蕎麦を食べることにしている。
この店、大きめの立ち食い蕎麦屋なのだが、チケットもないのに席に着くとちゃんと注文した蕎麦を持ってきてくれるのに感心する。


東急バスの「循環:野沢龍雲寺」行きに乗り、「学芸大学付属高校」で降りる。
風格ある校舎の国立学芸大学付属高校に沿った住宅地を西に進む。
ほどなく、右側に世田谷観音の入口にあたる太い桜の樹に達する。
まず目に入るのは小田原藩代官屋敷の門がある本坊。
その奥の仁王門では、平安末期作の仁王像(この寺で一番古い?)が両側から迎える。 
結構リアリティのあるしっかりした造りで鑑賞に値する(金網越しに撮った写真→)。

門をくぐった右側に三層の変わった造りの阿弥陀堂がある。
扉はしまっているが、靴を脱いで開けて中に入れる。
ただし、素足は禁止。
そういうこともあろうと、本日はソックスを履いてきた(8月帰京して初めて)。 
中に入ると、中央に新しげな阿弥陀如来立像。
その右側に珍しい韋駄天象がある。
そして側面の左右両側になんと目黒五百羅漢寺と同じ造りの羅漢像がそれぞれ4体(計8体)ある(造りに特徴があるので一目で判る)。
江戸期に500体造られた五百羅漢寺の羅漢像は現在305体であるから、散逸したうちの8体(寺の表示だと9体)がどういう経緯かこの寺に移っていたのだ。
その証拠に寺はこの8体の羅漢を「五百羅漢」と説明している。 

阿弥陀堂の向い側の六角堂に本日開帳の不動像があるのだが、厨子に当る扉が硬く閉まっていて、開帳は午後2時からと書いてある。
あと1時間以上ある。
境内でじっと待つには長すぎるので(蚊にもさされた)、近所の 西澄寺(山門が立派な武家屋敷門)と地元鎮守(義家・頼朝の由緒)の駒繋(こまつなぎ)神社を見て回る。 


2時前に世田谷観音にもどったが、六角堂は前のまま。
一方、観音堂内で法会をやっている。
しばらく待っていると、法会が終わり、僧侶と法会に参加した人たちが出て来て、そのまま六角堂に入っていく。
その合間に、観音堂に入ってみると(ここも素足禁止)、正面に古そうな聖観音像(桃山期の作)。
左右にはもっと古そうな(南北朝期の作)日光・月光菩薩(本来は薬師如来の脇侍)。
その他、陶製のマリア観音などがある。
この堂内は撮影可なので、撮影して堂を出ると、六角堂で法会が始まろうとしている。

六角堂に行くと、秘仏の不動像(重要文化財;鎌倉期)の扉が開いており、さきほどの参加者がその前の椅子に座っている。
堂外から像を眺めていた私を見つけた中の人が手招きをしてくれたが、法会がいつ終わるかわからないので遠慮した。
私は仏教は好きだが、信仰心には乏しいので、つい面倒がって遠慮してしまったが、法会に参加して秘仏を拝むというやり方の方が宗教的に理にかなっている。

かように、世田谷観音では仏像をたくさん拝めた。
しかも平安期から江戸期までと幅が広いのは東京では珍しい(東京でたくさん拝める場合はたいてい江戸期の作)。 


帰途は、近くの「世田谷観音」バス停から(循環路なので往きとは違うバス停)。
バス停に着いたら、丁度渋谷行きのバスがやってきた(最近、”意味ある偶然”体験が多い)。

渋谷ついでに、バブルの頃はよく通った繁華街を歩いた。 


図書館通いの健康効果

2018年08月27日 | 健康

昨日は、家から一歩も出ず、しかも瞑想ばかりやっていたので、食事の分だけ体重が増えてしまった。

平日の 今日は、暑さは変わらないが、国会図書館に作業に行った。
長時間坐りっぱなしは体によくない(寿命を縮める)ので、
昨日も使った SPIREという呼吸計(+スマホアプリ)を腹に装着して坐位姿勢が50分続いたら、振動で知らせるようセットした。
この装置、呼吸パターンによって私が集中しているか、リラックスしているかも判定する。
その他に呼吸が計測できない身体活動時間中は、歩数を計測してくれる。

たかが、図書館通いだが、
家から最寄の地下鉄の駅まで1kmあるので、黙っていても往復2kmは歩くことになる。
ただ、図書館は駅の近くで、館内の席につけば、後は坐ったままとなる。

それでも50分ごとに振動で知らせてくれるので、その都度作業を中断して、フロアを一周する。

帰りは、近所のスーパーに2軒立ち寄った。
帰宅して、スマホアプリで結果を見ると、坐位姿勢は3.6時間、そのうち集中状態は69分(集中には限度があるから)。
歩行である活動時間は84分に達し、歩数も7916歩で(消費カロリー換算652k)、健康にいいという8千歩にほぼ達した。
国会図書館の往復だけでもいい運動になるんだな(スーパーの立ち寄りが効いた)。

そして、 いつものように夕食前の風呂上がりに体重測定をしたら、今日一日で0.9kg減少していた(体脂肪率も減少)!

暑くても外出した方がいい。


瞑想三昧の結果

2018年08月26日 | パワー・スピリチュアル

8月最後の日曜なので、気分転換にどこか(できれば山)に出かけたかったのだが、
7月の再現のような酷暑がぶり返しているので(「本駒」の最高気温は39.2℃)、
外出そのものをする気が失せた。

家にいてできる最高の暇つぶしといえば”瞑想”。
坐る場所さえあれば、なにもいらない(後述するように私は道具を要する)。 
そして、無駄に時間をつぶすのではなく、精神的健康に貢献する(と思う)。

日頃は気が競っているせいで、瞑想も毎日のスケジュールとして軽くこなすだけなので、

今日は、ベッドの上に膝を組んで、思い切りいろんな瞑想を体験したい(休憩をはさむ)。

まずは、システム3(マインドフルネス)の洞察瞑想。
思念をからっぽにして、身体感覚(触覚と聴覚)を鋭敏にして、 感じるすべてを受け入れる。

次は、システム2(思考)を併用した瞑想。
要するに瞑想しながらの沈思黙考。
瞑想にとって、システム2の思考は邪魔であり、思考にかまけることは瞑想の失敗を意味するのだが、
経験上、 瞑想状態での思考は、原稿を前にしての論理を詰めた思考とは違った、気づきに満ちたものになる(釈尊が悟った”縁起論”も、内容が論理的なだけに、きっと瞑想中の思考で得たに違いない)。
しかも今回の原稿は瞑想がテーマの一部なので、そこで問題にしたことをあえて瞑想で体験して、
その体験を思考で解釈してみる。
おかげでリアルな記述をゲットできた。 

次は、システム4(スピリチュアル)のイメージ瞑想。
眉間の印堂アージャニャー・チャクラ)に意識を集中して、そこから白毫が生え出るイメージにひたり、それによって発生するビリビリ感を堪能する。
システム3の洞察瞑想と異なり、身体感覚を能動的に創る瞑想なのだ。 
ついでに、瞑想状態で小周天をやる。 
註:下線の語は気功用語。
 システム2〜4は、それぞれが”心”を構成するサブシステム。

次は、脳波トレーニング瞑想。
Museという脳波装置+スマホアプリで、瞑想時の脳波をモニターする(音でフィードバック)。
瞑想の状態を客観的にもチェック・評価したいため。 

次は、瞑想時の呼吸測定。
SPIREという呼吸モニター装置+スマホアプリで、瞑想時の呼吸を計測する。
呼吸に集中した瞑想(呼吸瞑想)と呼吸を意識しない他の瞑想との呼吸の違いを確認。
前者では呼吸はリズミカルな深い呼吸(通常呼吸と深呼吸の間)となるが、後者だと呼吸が止まったかのようにものすごくゆっくり・浅くなる。
後者の呼吸パターンでの呼吸瞑想ができるようにしたいのだ。

日頃の時間に追われた中で瞑想をしても、早く切り上げて次の作業をしたくなるのだが、
何もすることがない時にやると、ずっと瞑想していたくなる。
幸い、同じ坐位姿勢を続けていると(下肢の関節が硬いこともあって)脚の方が音を上げるので、それを合図にやめることができた(真に瞑想に集中するとこの痛覚もなくなるという。ただ菩提達磨がそうなって両膝から下を切断したという言い伝えがある)。

かように気分的には満ち足りた瞑想三昧だが、大きな欠点があった。
ベッドに日がな坐ったままでいて運動量が極端に減ったため、食事した分(たいして食べていないのに)だけきっかり体重が増えてしまったのだ。 
体を動かさなかっただけでなく、脳内活動も低下し、心拍数や呼吸量も減って、基礎代謝量自体が減ったためだ。

何事もほどほどがいいようだ。


国会図書館最高!

2018年08月25日 | 東京周辺

いまだ昔の記事「国立国会図書館vs都立中央図書館」にアクセスがあるが、もはや都立図書館を国立国会図書館と比べること自体がおこがましいといえる。

それだけ国会図書館の優位性は盤石。

そもそも国会図書館の最大のアドバンテージは、蔵書が可能なかぎり最大であること。
ここと比較できる図書館は国内に存在しない。
もちろん、私もこのアドバンテージを昔から利用してきた(ただし、当時はこのためだけに国会図書館を利用し、他の作業には使わなかった)。

今回、執筆中の論文の参考に、ある外国の学術論文(学術雑誌に掲載)を急いで入手する必要が発生した。
勤務先の大学図書館にあれば、そこで借りればいい。
大学図書館のサイトで調べたら、購読していない雑誌だった。


購読している他大学の図書館を利用するには、勤務先の大学図書館で申込書を記入し、利用許可書の発行を受けないといけない。

そこで国会図書館でその論文を検索したら、データベースで閲覧・印刷可能だった。
印刷代は1枚14円+税。
大学図書館だったら10円だが、枚数が少ないのでたいした差はない。
居ながらにして解決。 

食の選択肢が多いのもここのアドバンテージ。
昼食はごく軽くていいので、カフェテリアでホットドッグだけにしたら270円。
上階の売店で小振りの納豆巻きにすれば180円ですむ。 

以前と違って、エアコンも寒いくらいに効いているし(短パンでは確実に冷える)、ヘッドホンで音楽聴いてもいいし、一人当りの作業スペースも広く確保されるし(電源2個付き)、手元にない文献資料(特に和書)はこの場で得られる。

最高の作業環境だ。
しかもわが家から地下鉄一本で通えるのが嬉しい。 


それは起きなかった:高校野球決勝

2018年08月21日 | 時事

生きている間に一度は経験したい事って、誰でも幾つかはあるもの。

寡欲な私にとってはそれは、①自民党以外の政権の誕生、②大洋ホエールズ(もしくはその後継球団)のペナント優勝の二つくらいで、幸せなことにいずれも経験できた(①は結果的には嬉しくなく、②によってプロ野球への興味が消えた)。

高校野球甲子園大会で、優勝旗が”白河の関”を越す、というのは個人的にはこれに該当しないが、世間、とりわけ東北地方の人たちにとっては100年越しの悲願となっている。

もちろん、私とて人生でたった一度経験するかしないかの場面に遭遇すれば、わくわくするものだ。
しかもその全員が地元出身者たちであれば、この思いの純粋性が高まるというもの。

そんなわけで、今日はやるべき事を昼過ぎまでに終えて、午後二時からは家のダイニングのテレビの前に陣取った。 

しかし、結果はご存知の通り。
いや、その前に、5回の裏の時点で観るのをやめた。 

世間の”悲願”がまたもお預けとなったのは、他人事ながら残念だ。
なにしろ、ノンアルコールビールを祝杯のために買っておいたから(自分の悲願だったら、最低でもヱビスビールだが)。

こうして思うと、あの横浜高校の松坂大輔は超人的だった(その当時もたまげた)。
ただ成長途中の高校生の身体を酷使するのは反教育的ともいえる。
そもそも野球って、投手の負担がアンバランスに重過ぎるヘンなスポーツだ。 


不健康でないカップ麺

2018年08月20日 | 健康

かつて若くてスリムで貧乏な頃にはたいへんお世話になったカップ麺だが、
歳とって太って一定の収入を得るようになってからは、普段の食事の対象にはならない、
格が低い食品として、カップ麺というジャンルごと食べる選択対象から外れた。
なぜなら、食べる時の雰囲気がまず貧乏臭く(せめてちゃんとした器に盛りたい。
いや盛ると中身の貧相さがバレるか)、カロリーと塩分の両方が高すぎて栄養的にも貧しいから。

唯一選択肢に残っていたのは、軽い朝食として旅先の素泊り時に買う、
味の素の「スープパスタ」のシリーズだけ(量が少ないので小腹がすいた時用)。

そんな中、通っている国会図書館の売店で、陳列されているカップ麺たちが目新しいものばかりなので、
いくつか手に取ってみたら、カロリーも塩分も低く抑えられた商品が数種類出ているではないか。

糖尿病や高血圧につながるとしてカロリーや塩分の摂取制限が拡がっている中、
それに対応した商品を出さない方が食品企業としておかしい。
栄養バランスなど気にせずとりあえず空腹を埋めればいい、
というわけにはいかなくなった健康に気を遣う人たちをターゲットから外すことはないだろう。

そういうわけで、もしやカップ麺もありかもと、認識を改めた。

もともと、ご飯やパンより麺の方が好きな私だ。
本当はカップ麺を人生の選択肢から外したくはなかったのだ。
軽めですませたい時の昼食は、今まではコンビニのおにぎり一択だったが、
カップ麺も選択肢に入れるなら嬉しい。
これらはカロリーと塩分が低い以外に、フリーズドライの野菜が結構入っているから、
おにぎりよりもいいかも(おにぎりの海苔も捨てがたいが)。

ところが、近所のコンビニやスーパーに行ったら、
棚に並んでいるのは、従来型の高カロリー(300k以上)・高塩分(4g以上)の不健康な代物ばかり(日本人の目標塩分摂取量は6g/日)。
特にコンビニは、不健康さがエスカレートした新製品中心(若者だけがターゲットになっている)。

どうやらカロリーと塩分を抑えた”不健康でないカップ麺”は、カップ麺としてはまだマイナーで、
国会図書館売店のような意識の高い非チェーン店でないと置いていないようだ。
近所では、なんとハナマサに皿うどんのカップ麺(ヒガシマル) があった。
カロリーは190k,塩分は2.4gなので合格。
皿うどんは麺の中でも好きな部類で(麺では丼系より汁のない皿系の方が好きだし塩分も低い)、
これがカップ麺として気楽に食べれること自体が嬉しい。 

カップ麺だからこそ、さまざまな中身の商品開発が可能のはず(野菜を増やしほしい)。
インスタント麺の経験からいれば、スープの塩分は今の半分で充分だし。 

追加:最寄り駅のビルにある成城石井では、従来の不健康タイプは1つもなく、
上のカップ麺よりさらに低カロリー&低塩分のフォーのヌードルスープが主体だった(さすが意識高い系)。
 隣接するJR経営の NewDaysは、半分が従来型で、あと半分は合格圏内のリゾットやスープパスタ系などがある。
電車帰りに買っていくとするか。 


山で道に迷うと沢に行く法則

2018年08月15日 | 時事

山口県・周防大島での2歳児行方不明事件が、3日後に無事解決してなによりだった。

発見者は、前日にやってきたアカの他人である78歳の老人。
だがその正体は、ボランティア界では”師匠”と呼ばれる、凄腕の捜索請負人。

その人に注目する前に、まずは行方不明になった当人の方を問題にしたい。

といっても行方不明の翌日に2歳の誕生日を迎えた幼児なりたての年齢。
対象関係論的には母親に対する「再接近期」を迎え、母への愛着が再燃する頃。
なので、母でない親族との同行を嫌がり、母の元へ戻ろうとした。
ところが、慣れない親族宅で、帰り道も行きとは違っていたため、
家にたどり着けなかった(それを放置した祖父が責められても仕方ない)。

その後は、年齢的に行動力がなかったこともあり、
道を大きく踏み外すことはないものの、どんどん道なりに山に入り込んでしまった。

小学生くらいになれば、迷ったら来た道を引き返すという判断もできたろうが、
そういうメンタルマップ(脳内地図)はまだ形成されていない
(そういえば「となりのトトロ」のメイも 道迷いに2度も陥った)。

発見されたのは、道脇にある沢(小さな川)。

またもやだった。
山で道に迷うと人は沢に向ってしまう
(5月に東京奥多摩で家族とはぐれた男児も、同月新潟の山で遭難死した父子も)。
経験も判断力もない2歳児でもそうするとは、どうやらこれは本能的な行動なようだ。
そしてそれが深い山だと沢相が険悪なので致命的になるが、
幸い今回は人里近くの森の中の小さな流れ。
むしろ、水の確保と暑気の回避になった。 
あともう一つ大事なことは、3日間あまり動かなかったと思われる。
それによって絶食状態でも体力を消耗せず、 また転落などの危険に遭遇するリスクも減る。

さらに幸いなのはこの間、天気が安定していたこと。
接近中の台風、いや数日前に私が経験した一過性の雷雨であっても、
沢は増水し濁流と化していたろう。
それにびしょ濡れになって体温が奪われる。 

ついでに、今回の出来事をこの子は心に刻むだろうか。
そうはならない可能性が高い。
私の甥が2歳の誕生日の前日に、皆でイタリアに行き、
あちらにいる姉一家と盛大な誕生会をやったのだが、
後年それを含むイタリア旅行自体を覚えていないという。

確かに、私も2歳の時の記憶はない。
この年齢では、エピソード(出来事)についての長期記憶機能が成熟してないためだろう。
でもこんな大事件だったら、トラウマになって忘れないはずと人は思うかも知れない。 

フロイトが言うには、ごく幼い時に体験したトラウマは、抑圧され、
さらには何でもない出来事に置換えられて記憶されるという。
そこでフロイトは、人が思い出す最初期の記憶(たいていなんでもない情景)を
あえて「隠蔽記憶」と名づけた。
なので、この子もこの出来事を忘れてしまう可能性が高い。 


「バケツ降り」の雷雨

2018年08月12日 | お天気

今日は大学のオープンキャンパス(高校生たちを対象とした大学公開)で、午前中は模擬授業を担当。
といっても教室にいるのは、高校生だけでなく、その母や父なども交じり、年齢と性別がバラバラ。
高校生向けにあえて軽い内容にしたので、親受けはイマイチだったかも。 

午後3時に無事に終ると思ったら、それまで夏の暑さだった空が一転にわかにかき曇り、雷鳴が響くようになった。
タブレットアプリでXバンドレーダーを見ると、 大学の南に積乱雲の強いエコーが発達中。
この地にあるわが「日進」気象台は、北風になっている。
すなわち、発達中の積乱雲が周囲の空気を取り込んでいるのだ。

そして充分発達した積乱雲から、強烈な雨が落ち始めた。

「日進」によると、雨量強度の平均は30mm/h(瞬間値はその数倍を記録)。
土砂降り(20mm)を超える大雨警報クラスで、道路に白いしぶきが立つ強さだ。
「バケツをひっくり返したような雨」と形容されるレベルなので、私は強度30mmの雨を「バケツ降り」と名づけている。

駐車場に停めてある車の窓が熱気を出すために少しあけていたのを思い出した。
窓を閉めないと車内がびしょびしょになる。
迷わず傘を拡げて、駐車場に向って走る。

稲光と雷鳴が響く中、駐車場横のグラウンドの木立の間を選んで、思いきって通り抜ける(ひらけたグランド上に単身傘を差して出ると落雷の直撃を受ける危険が一番高い。ただし木立近くも側劇を受けるので安全ではない。要するに雷雨の中屋外に出ること自体が危険)。 

雷の直撃を受けない事を祈りながら傘をたたんで、急いで車に入る。
傘を差してきたのに、全身びしょ濡れだ。
そう、30mmの雷雨は「傘を差しても全身が濡れる」ことになっている。
まさにバケツの水を浴びた状態。
窓を閉めたものの、この雷雨の中、再び屋外に出るのは危険なので、車内でしばらく待つ。
だが、いっこうに小やみにならず、むしろ雷が激しくなる。

エンジンをかけずに車内で待っているので、蒸し暑くなってきた(この雨では窓を開けられない)。
なので、ワイパーも効かないほどの雨の中、車をゆっくり動かし、建物に近い駐車場に移動して、そこから研究室に戻った。

「日進」を確認すると、風向がさきほどとは真逆の南風になっている。
充分発達した積乱雲から、下降流が吹出しているのだ。
1分間隔で更新されるXバンドレーダーエコーをしばらく見ていると、
大学の近くまで北上した最も強いエコー領域が消えた。
積乱雲が衰退しはじめたのだ。
やがて、雨の強さも普通の雨程度になってきた。
これで帰宅できる。 

途中、スーパーに立ち寄って買物をして、車に戻る頃には、雨はやんで、周囲の空が明るくなっていた。


やっと読んだ『自我の終焉』

2018年08月11日 | 作品・作家評

クリシュナムーティ著『自我の終焉—絶対自由への道』(根本宏・山口圭三郎訳)篠崎書林。
この本は、自分が学生時代に購入して、ずっと”積ん読”状態だった。 

なぜ買ったままずっと読まなかったかというと、タイトルだけで、仏教の基本テーゼの一つである「無我論」のことだとわかるので、読んだ気になってしまって、改めて読む気にならなかったから。

それが最近、私が接近したトランスパーソナル心理学の本で引用されていたので、そういえばこの本持っていたなと思い出し、読んでみた次第。

内容を簡略に説明すると、
現象をありのままに経験することで、既存の限定された自我を超越できるということ。
これを私の「多重過程モデル」で言い直すと、システム3という非日常の心を開発することで、システム2の主体である”自我”を超越した心に達することができるということ。
かように、私の多重過程モデルにぴったりはまっているので、とてもわかりやすかった。

この自我を超越する視点は、それこそ「トランスパーソナル」(超個)であるが、著者は、超個的な存在(観念)を実体視しない点が既存のトランスパーソナル心理学と違う(システム3の現象学的態度を堅持している)。

システム2までの既存の心理学も、システム3とかなりダブっている認知行動療法的なマインドフルネスも、そして本当はシステム4という境地に達してほしいトランスパーソナル心理学も、自我あるいはそれに代わる何ものかを実体視している(既存の心理学はシステム2の主体=自我をそれこそ大切にしている)。

この主張、もし私が買った当初読んでいたら、心理学理論としては受け付けなかったろう。
幸い、自分の方が既存の心理学を拡大した多重過程モデルに達したので、心理学として受け入れることができた。
その点でいいタイミングで読んだことになり、”積ん読”には意味があるなと我ながら感心する。 

さらに、ここしばらく、前近代的非科学思想を引きずっているトランスパーソナル心理学や気の理論の本を続けて読んでいたので、これらが内在しているシステム2的妄念・妄想のアカが取れて、心がすっきりした。

「システム3って何?」という人でも、マインドフルネス(療法的/仏教的)を知っていれば、著者が、自我による誤った条件づけ・認知的バイアス(システム1)や自動的思考(システム2)を問題にしていることが理解できよう。

本書でさらに特徴的なのは、クリシュナムーティはこの境地を目指すのに導師(グル)を不要としている点。
この手の多くの教説本は自己流を戒め「よき師につけ」と勧めるもの。
それって実はその本の著者の自己宣伝を含意していたりする。

クリシュナムーティによれば、導師を求めることは、自己の願望を求めているにすぎないという。
だから、その願望を満たしてくれそうな人にハマり込む。
麻原彰晃という誤った導師(グル)にハマって、それこそ他人と自分の人生を台無しにした人たちをわれわれは知っている。 

クリシュナムーティ自身、ほとんど独学でこの境地に達したがゆえの確信によるのだろう。

そういえば、仏典によると、釈尊が入滅の時、弟子たちがこれから誰を師とすればいいのか釈尊に問うた。
釈尊の答えは、「己れを頼りなさい。法(ダルマ)を頼りなさい」だった。
どこぞの誰(他者)を頼れとは言わなかった。

さらにそういえば、私ら大学教師も、学生に「自分の頭で考え、自分の言葉で語れ」と指導する。
決して「私のように考え、語れ」とは言わない(教師は導師ではない)。
”自分”が現象と一体になれれば、その経験は個我の限定された主観性ではなくなるからだ。
ただ学生の”思考”はシステム2レベルの作用だから、クリシュナムーティの境地には達していないが。 


東日本が突然”秋”に

2018年08月07日 | お天気

今朝、東京のわが「本駒」気象台は、21℃に下った。

昨夕から、突然涼しい風が吹きだして(それまではムッとした熱風)、ずっとつけっぱなしだったエアコンを止めたほど。

「本駒」の観測記録によると、昨夕から露点温度が急に下り、それまでの数日間とは明らかに異なる気団に覆われたことがわかる(日射の影響で日内変動が大きい気温よりも、露点温度の方が気団の交替が分りやすい)。

残念ながら「本駒」は周囲が高いビルに囲まれているので、風向は歪められている。
そこで気象庁のアメダスを見ると、東京を始めとする関東エリアはことごとく北寄りの風となっている。

天気図を見ると、関東の南に台風13号が接近していて、北からの風を吸い込んでいる。
風上の北方には、オホーツク海高気圧がいつのまにか発達して東北日本の太平洋側に勢力を伸ばしている。
この高気圧は時に東日本に冷夏をもたらすもので、たとえば札幌が30℃になっても道東の釧路の気温が低いのもこの高気圧のため(海流の影響もある)。

関東を含む東日本は急に”冷夏”パターンになった。

しかも台風とオホーツク海高気圧との間、まさに関東南岸には停滞前線が発生している。
これは南の夏の気団と北の秋の気団との境界で、この前線は通常は9月後半に北から南下して梅雨の逆パターンである秋雨前線に発展する。

すなわち、東日本は突然秋雨前線の北側、すなわち”秋”の大気状態になってしまったことになる。

もっとも、これから北上する台風に押されて、この秋雨前線も北方に追いやられるから、この突発的”秋”状態は一時的でしかない。

ただし、かように秋の準備ができてしまったのも確か。
なるほど、確かに今日は”立秋”だ。 


静岡(JR東海)の無冷房車

2018年08月05日 | 

学校が長期休暇にあたる期間は、JRの「青春18きっぷ」で名古屋から東京(実家)まで、中距離の列車を乗り継いで帰る。

合計6時間も冷房の効いた車内でじっとしているため、身体が冷えることから、盛夏でも服装は長袖・長ズボンにしている。

昨日でやっと補講が終わり、私も夏休み。
18きっぷでのんびり帰京する。 

名古屋から豊橋までの快速はいつものように快適だった。

ところが、乗り継いだ11時23分豊橋発浜松行き(3両)、
そして12時27分浜松発興津行き(3両)は、いずれも冷房がない車両だった(乗った瞬間、暑さでムッとする)。

設備的には天井の中央部に送風口の溝がある。
そこから風は来るがちっとも冷たくない(扇風機と同じ)。

携帯の気象計で測った車内温度は32℃。
iPadに装着するサーモグラフィで送風口を測ると30℃を超えている。
冷房が”弱い”のではなく、そもそも冷房が作動していないのだ。
そのくせ窓は開かない(もっとも外は35℃を超えているので、外気を入れたくない)。

今どき、いや今の時期、無冷房列車に乗せられる不幸な乗客になってしまった。

当然、乗客はみな暑がっており、扇子があればあおぎっぱなし、携帯扇風機を持参している人は顔にあてっぱなし。
日頃この区間の利用者はこれらの装備が必要らしい。

実際、ときたま通る車掌に誰も文句を言わないので、この区間はこの無冷房車が標準なのか(冷房が故障しているとのアナウンスもない)。 

JR東海は在来線を冷遇しているといわれるが、競争相手のいない静岡県内でそれを実感する(文字通りの”冷遇”なら歓迎だった)。

予定通り、島田で13時25分の 熱海行き(3両)に乗換える。
この車両は新しく、冷房はきちんと利いていた(車内28℃。送風口の温度26℃)。
へたしたら豊橋から興津までの間ずっと無冷房車になるところだった。

熱海から先(JR東日本)は、もちろん冷房車。
ただ室温が25〜26℃なので、長時間乗っていると手足が冷えてくる。 


名古屋も40℃越え

2018年08月03日 | 生活

大学は8月から夏休みなのだが、その期間を利用した集中講義として毎日4コマの長時間授業をこなしている。

昼間はずっとエアコンの効いた教室で講義をし続けているため、本日、地元名古屋が40.3℃に達した事も幸か不幸か知らなかった。

幸とは、もちろん、記録的暑さを体験しないですんだことで、不幸とは、名古屋初の40℃超えを地元にいながら体験できなかったこと。

もっとも、前に記したように、仕事が終って市内の棲み家に帰ると、室内は連日40℃を超えているので、私はすでに名古屋宅内で40℃超えの気温を体験していたのだ。

長年生きてきて、日本でこうたやすく40℃の気温を体験するとは、誰が予想しただろう。

しかも昼は40℃で、夜は熱帯夜(25℃以上)どころか30℃を下回らない。

エアコンつけっぱなしのおかげで寝苦しくはないが、連日1限からの集中講義のため、朝から余裕がない。

 

ところで、最近我が一族のルーツ探訪のブログ記事へのアクセスが増えているけど、
連日世間を賑わしている日本ボクシング連盟の会長さんは、ウチとは縁もゆかりもないからね。