今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

忙しい中での

2013年10月27日 | 生活
東京宅の土地売買と新居の設計相談およびその資金繰り。
研究室ではパソコンが壊れ、幾度も試みてきた復旧作業をあきらめて修理先の選定。
そして何事もなかったように平然と授業をこなし、
この土日は連続して入試業務をこなした(台風の影響がなくてホッとした)。

かくなる状況なので、ブログの更新もままならない。

上の用事のため、ここんとこ毎週末帰京していたが、
今週は入試があって週末は名古屋にいたので、
休日出勤の慰労を兼ねて、明日から山中の宿に泊まる。

といっても、主目的は慰労ではなく、
来月締切の論文原稿に集中するための”お篭り”。
こういう機会(場)を設けないと、論文執筆がちっとも進まないからだ。

お篭りが終われば、研究室のパソコン2台の修理依頼手続き(と箱詰め作業)を開始し、
いつもどおり授業をこなし、
週末は帰京して土地と家のやりくり。

来月からは、家と授業に加えて、自分の論文執筆と卒論指導が佳境に入る。
そしても新たな入試業務も。

「いいとも」が終わる

2013年10月23日 | 作品・作家評

「笑っていいとも」が来春3月で終了するという。
「さざえさん」ほどではないが、フジのお化け番組の一つだった。
生放送という点ではさざえさんよりはるかにすごい。

その前の番組、漫才ブームの頃の「笑ってる場合ですよ」を引き継いだ番組で
まずはその流れで、なかば惰性で観ていた。
その頃の私は大学院生で、時間がたっぷりある生活だったので、
起きぬけの遅い”朝食”を摂りながら観るのが日課だった。
深夜の番組でしかお目にかかれなかったタモリが、
真っ昼間に毎日観ることに、違和感を残しながら。
(今でも、タモリの真骨頂は夜の番組の方だと思っている)

当然、普通に仕事をする生活になると観なくなる。
週末版にチャンネルを合せるほどのファンではもとよりない。
いわゆるバラエティものの視聴率低下の代表例なのだろう。

30年以上も継続したことには驚嘆するが、
これからは夜のタモリをしっとりと楽しみたい。


自宅固有の危険性がある

2013年10月17日 | 防災・安全
台風26号による伊豆大島の被害の大きさに驚いている。
台風が本土に近づいている時、テレビはずっと台風を追っている。
マスコミ総出でリアルタイムに台風を追っているのだから、地震や竜巻に比べて、絶対に対応しやすいはずだ。
それなのに被害を予想できなかった。

自治体の避難指示態勢の問題も指摘されている。
だが、自治体レベルでは地域の細かい危険度の差異にまで、
そして地域内のあらゆる場所の異変に注意を向けるのは無理だ
(責任を負わせることはできるが、実質的に防ぐことはできない)。

マスコミは、気象庁が「特別警報」を出さなかったことを問題視しているが、
「記録的短時間大雨情報」が発令されたことで、現実の災害発生が予測されている。
それまでの”警報”とはレベルが違うことを、自治体は深刻に受けるべきなのだ。

防災の授業をしている私が、学生にまず調べさせるのは、
自宅付近の危険性の把握だ。

まずは、自治体発行のハザードマップを調べさせる。
だが、ハザードマップは地震と洪水にたいてい限定されている。
そもそも多くの人は、地震の防災だけで満足している。

もちろん、それだけでは足りない。
地震でも大雨でもともに起きる、すなわちこれら単独よりも起こりやすい別の災害があるからだ。
土砂災害である。

今の日本では洪水の被害は少ない。
雨がもたらす深刻な被害は、土砂災害なのだ。
日本の7割以上が、傾斜地であるためだ
(2011年の紀伊半島での深層崩壊の被害が記憶に生々しい)。

なので、学生の自宅近くに「急傾斜地崩壊危険箇所」があるかを調べさせる。
この情報は自治体の上記のハザードマップとは別個の情報となっている
(もちろん、地形図持参で近所を見て回るのを勧める)。
一部、意識の高い自治体(たとえば名古屋市千種区)は、
地震ハザードマップに土砂災害危険箇所の情報を重ねている。

これらによってわかるのは、危険箇所というのは、狭い自治体の中でも複雑な分布をしているということ。
地震や洪水と違って、ブロック1つ隔てただけでも危険度が異なるのだ。
すなわち、各家で自宅の危険度を前もって把握し、
近所とは別個の固有の基準で避難判断が必要になるのだ。
この点が、河川増水の避難判断と異なる。

自宅の災害危険度は、各自で把握しよう。

ちなみに伊豆大島の土砂災害危険箇所マップは下記のサイトで見れる。
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasen/map/Tokyo/Sakuinzu/html/Tokyo56.html
これ(図5/7の左上)を見ると、今回の被害地付近に大島特有の「土石流危険箇所」が分布している。

私の八百屋お七

2013年10月13日 | 東京周辺

今NHKで八百屋お七のドラマ「あさきゆめみし~八百屋お七異聞」(毎週木曜20:00~)をやっているが、
視聴率が悪いという。
ネットでは、お七役の前田敦子の演技が悪い、日本髪が似あわない、いや相手役の男が悪い、
いや脚本が悪いと、いろいろ指摘されているが、まぁそのどれもが当てはまっているような気がしないでもない。

かように人にお勧めできるドラマではないが、私にとっては見逃すことができない。
前田敦子をではなく、お七をだ。

江戸の八百屋の娘で数えで16歳(今の満だと15歳)の”お七”という、
日本史上類い稀な、いや唯一ともいっていい悲恋のカリスマを、見逃すことができない。

そもそも、私が八百屋お七を知ったのは中学生の時だった。
その頃住んでいた家の近所に曹洞宗の名刹吉祥寺(文京区本駒込)があり、よく散歩ついでに境内に足を運んだ。
ある時、なんかさえない風貌のおじさんたち(生意気盛りの中学生からの印象)が大勢集まっていて、
なんだと思い近寄って見ると、境内の一角に大きな碑を建て、その除幕式をやっていた。
そこに集まったドブネズミ色の背広姿のおじさんたちは、風貌こそさえないが(彼らなりに正装なのだろう)、
皆笑顔で、自分たちが建てた碑の完成に満足そうだった。

いったいなんの碑だろうと近寄って見ると、見上げる高さの碑の中央にでかでかと「お七・吉三郎 比翼塚」と彫ってある(写真)。
その時は、なんのことだか解らなかったが、後になって、あのおじさんたちを見直した。

駒込吉祥寺の近くにあったという八百屋の娘お七は、江戸の大火事に遭って、
この寺(史実では少し離れた円乗寺)に家族とともに避難した。

そこでお七は、寺の小姓吉三郎という青年に一目惚れした。
お七はまっすぐな性格で行動力があったためか、
吉三郎とは深い恋仲になった。
だが、避難が解除されたことで、お七は吉三郎と別れるはめになる。

それがかえってお七の心を燃え上がらせた。
もう一度火事になれば、再び吉三郎に会える、それしか吉三郎と会える方法はないと思ったお七は、
あろうことかわが家に放火する(目黒の大円寺という話も)。
幸い、すぐに発見され、被害がなく消し止められたが、
当時放火犯は、人殺し以上の重罪。
お七は、捕えられ、火あぶりの刑になった
(今でも、放火の最高刑は死刑)。

以上、史実と創作が入り交じった形での伝説になっている。
お七の悲恋は、ずっと離れた大坂の作家井原西鶴をはじめ当時の人々にも共感をもって語り継がれた。
そもそも自由恋愛など許されない時代。
その中でのお七のあまりにもまっすぐな恋心は、表面的な社会規範の壁をぶち破り、深く人の心に突き刺った。
お七を愚かな放火犯と見る人はおらず、
お七の悲恋に心を動かされて、歌舞伎になり、明治の芝居になり、円乗寺(文京区白山)に墓が3つもできた(本来なら火刑に処せられた重罪人の墓は許されないのに)。
それでおさまらず、昭和の世に、あのおじさんたち(実は「日本紀行文学会の作家先生達)が、
お金を出しあって、お七と吉三郎の比翼塚を建てた。
比翼塚とは、お七があの世で吉三郎と結ばれますようにと祈る塚だ。

江戸時代の16の少女の熱く悲しい恋心が、数百年の時と性別と年齢を超えて、昭和のおじさんたちの心をも締めつけたのだ。
お七の話を後から知った私は、そういうわけで比翼塚を建てたおじさんたちを見直した。
おじさんたちが完成した比翼塚を前にして示した笑顔は、
お七の想いを叶えたことの満足感、
吉三郎とあの世で結ばれることのできたお七の幸せな姿を想像しての笑顔だ。

お七の恋は、かように人の心を打つ。
だから、お七はこれからも語り継がれる。
今回の低視聴率にめげないでほしい。

※お七の史実を探るには、『お七火事の謎を解く』(黒木喬、教育出版)がお勧め。
  吉祥寺と円乗寺はともに東京メトロ南北線の本駒込駅から歩いて行ける距離。

火元の目黒大円寺


松茸パーティ

2013年10月12日 | 身内
母の誕生会として、年に一度の松茸パーティ。
といっても節約するため、アメ横の毎年1回だけ行く店で、それを恩着せがましく交渉する。
値切り倒すのが趣味ではないので、適当なところで妥協する。
結果、信州産の極上8本に、岩手産を4本つけて、大1枚で収めた。
ちなみに、店頭最前列の本数の割りに安いやつは中国産だと。
ついでに他の店で白いカナダ産2本を小1枚弱で追加。

1本の松茸を縦に4等分して(傘が開いてないので等分できる)、合計56枚を鉄板で焼く(経験上、網焼きよりこの方が香りがいい)。
それを大人4人と子供と幼児で食べる。
毎度のことながら、香りはもとより、こりこりした濃密な歯触りが他のキノコとは全く違う。
味付けは塩コショウにスダチまたはカボス。
一緒にエリンギも焼いたが、なんとスカスカで無味乾燥なことか(日頃はこれで満足しているのに)。

月一度の温泉旅で、”松茸づくし”を一人で味わったこともあるが、
おいしい料理は一人で食べてもなんか寂しさが残る。
こうして大勢で食べてこそ幸福感が倍増する。






秋がなくなる?

2013年10月11日 | お天気
昨日は、職場のある名古屋が30℃を越え、
今日帰京したら東京が30℃を越えていた。
10月も中旬になるのに、夏服で扇風機の生活が終わらない
(冷房は意地でも使わないようにしている)。

まぁ、8月が40℃だったから、これでも10℃は気温が下ったか…。
ここが日本だとは思えなくなってきた。
温暖化の影響で、いずれ日本は半年間夏になるという。
そうなったら日本に秋がなくなる
(風上側の対岸が北半球で最も寒いシベリアなので、冬将軍は必ずやってくる)。

ただ、大正4年にも10月に30℃を記録したという。
それなら、100年に2回、すなわち50年に1回の確率的異常値ともいえ、
今年だけの出来事をもとにトレンド(傾向)視することは非科学的かもしれない。

次の連休後半に、やっと秋の移動性高気圧が日本を覆うようだ。
ただ次の木曜頃に台風がまた日本を縦断する予想なので、また南の暖気が呼び込まれる。
とにかく、異常な今年は、秋は来ないかも。

国立国会図書館vs都立中央図書館

2013年10月07日 | 東京周辺

私は大学受験以来、勉強は図書館でという習慣がついた。
まだその頃は近所の図書館で足りた。
大学の卒論となると、より資料が充実し、長時間の作業に向いている広尾の都立中央図書館
(以下、中央図書館)に通うようになった(当然だが、大学開校期間は大学図書館を使う)。
ここは他の大学生、とりわけおしゃれな女子学生が多く(聖心女子大が近い)、眼福にもなった。

研究者になってからは、論文執筆はすべてパソコンでやるので、
ノートパソコンを持ち込んで作業できる(電源がある)図書館が必要になった。
この条件だと街の図書館はほぼ全滅。
国会図書館もまだそれに対応していなかったので、蔵書検索以外には使えなかった。
いち早くパソコンに対応した都立中央図書館に、それからずっと通った。
かくして、私の図書館通いは大学受験以来、連綿と続き、
ここ数十年は、中央図書館が中心だった。

ただ、たまの休館日の時は、国会図書館しか選択肢がなくなる。
時々利用するうち、国会図書館も次第にパソコンスペースが増えていった。
そして、新館がリニューアルした今年、新館でのパソコンスペースが大幅に増え、
新しい椅子も机も心地よく、国会図書館が僅差でベスト1にのし上った。

ここではさらにノートパソコンで作業する場合に限定した用途で両館を細かく比べてみよう。
まずトータルな電源コンセント付き席数は新館・旧館合わせて国会図書館の方が多い。
新館の席は、1人分に電源が2口あるのでパソコン以外の機器も使う場合に便利。
ただ4人用の大きなテーブルを使えるのは旧館の中の4卓だけなので、その机に限っては中央図書館の方が多くなる。

中央図書館のアドバンテージは、なんといっても日曜も開館していること。
これは大きい。
なので当然日曜は100%中央図書館の利用になる。
それと、4階のフロアでは、ヘッドホンが使える。
つまり音楽聴きながらの作業がOKなのもうれしい。
ついでに4階だけソフトバンクの無線が契約者には使える。
あと、4階でよくちょっとした展示会(無料)が開催されるので、気分転換にいい。
展示会は国会図書館でも開催されるが頻度がずっと少ない。
それと、開架資料も多いので(国会は辞書以外はほとんど閉架)、気分転換の読書もしやすい(とりわけ旅行ガイド)。

国会図書館の席数以外のアドバンテージは、食事の選択肢が多いこと。
食堂が2軒のほか、喫茶室でも昼食がとれ、売店でも和洋の弁当やカップ麺を購入できる(食べるのは食堂内で)。
総じて両館とも私基準で昼食代は500円前後で済む。
中央図書館では私には「広東麺」(480円)と「揚げ焼そば」(580円)しか選択肢がないが、
国会図書館では目玉焼きの乗った焼そば(400円)で満足できる。
そばの天ぷらも自分で選べる(少々割高だが)。
国会図書館のメニューでは「国会丼」(カレーと牛丼の二色丼)というオリジナルメニューが話題になった。
新館だとソファも数ヶ所に置いてあり、そこに体を沈めてゆったり読書できるのもいい
(ただし先客がいること多く、しかも睡眠中なのでなかなか動かない)。

国会図書館のデメリット
は、まずは入館規制が厳しいこと
(初回利用時に登録して利用カードを発行してもらう)。
持込めるバッグの大きさがB5の面積までなので、それ以上の荷物はロッカーにしまう必要がある
(中央図書館にも規制はあるがもっとゆるい)。
私はこれにパスするために、規制に合うバッグをわざわざ買った。
まさに許容限界サイズなので、入り口でよく警備員に呼び止められて、バッグにチェック用のB5図版を当てられて、
うーんとうなった後OKをもらう(ちょっとバッグが膨らんでいると規制外に見えてしまう)。
うっかりヘッドホンをしたまま入ろうとした時は、中央図書館では耳からはずせと言われるだけだが、
国会図書館ではヘッドホンを持ち込まずにロッカーにしまうよう要求される※。
すなわちヘッドホンをその場でバッグに入れるのも許されない。

※その後、国会図書館(新館)でもヘッドホン使用がOKになった。

もうひとつ大きな欠点は、夏の空調が弱いこと。
省エネ基準の28℃に設定してあるのだろう※。
人やパソコンの熱源が入るとさらに高くなってしまう。
暑さ、とりわけ蒸し暑さは集中する頭脳労働には不向きなのに。
中央図書館はその点、涼しく感じられる空調にしてある。
もっとも、歩いてきた直後は着席して汗が出て扇ぎたくなる(実際、今日も暑かった)、
ただ、しばらくして体が落ち着くと、なんとかしのげる。
夏季に利用する時は扇子を持参する。

※これも改善され、扇子は不要。

あと、ごく希だが、国会図書館では職員や警備員にどなり散らしている客を見かけることがある。
”国立国会”図書館側の”権力”行使に不満を爆発している様子だ。
実際には、館内の人たちは委託の人たちが多いので、ちゃんと客に対する応対をする
(そういえば私も資料複写で文句を言った覚えがある)。

客の年齢層は中央図書館の方が若い(国会図書館は16歳以上という年齢制限がある)。
そうそう、客層でいえば、中央図書館には、簿記の勉強にくる人がいて、
同じ4人掛けのテーブルに着かれると、電卓の音と震動に悩まされる。
なんであんなに力を込めて電卓を打つのだろう。
国会図書館の新館は一人用卓なので、少なくとも振動からは逃れられる。
第一、簿記の勉強に来る人が見当たらない。

中央図書館は有栖川公園内にあるので、退館後に林や池の周囲を散歩できる(入館中の一時退館は不可)。
広尾での買い物(外人用のスーパーやMEIDIAがある)でもいいが、
私は地下鉄の運賃を1区画分安くするために六本木まで歩く。

国会図書館は道路の向側が国会議事堂。
もちろん、議員会館や首相官邸も近い(たから路上の警官が多い)。
憲政記念館も道路の向こうで、そのまま皇居の向かいまで公園になっている。
両館とも周囲の環境は散歩向き。

かくして甲乙つけがたいが、席と飯で国会図書館に軍配が上る。
家から地下鉄で1区間分安いのも理由の1つだ。
帰京した時、平日は国会図書館、日曜は中央図書館と使い分けている。

※この記事の続編に「国会図書館のアドバンテージ」(2014/2/24)を追加したのでそちらもよろしく。


みずほ銀行のお辞儀

2013年10月04日 | 時事
みずほ銀行の謝罪会見をテレビで見た。
3人が謝罪のお辞儀をしたが、
右端の人は、手を前に組んだままお辞儀をしていた。
これでは謝罪にならない。

お辞儀は、日本の小学校で習うように「気をつけ」の姿勢でやるものである。
相手に”敬意”をこめる瞬間だから、全身に”気”を満たすのである。
手を組むのはもちろん「休め」の姿勢。
だから手を組んでお辞儀をするのは、休めのままのお辞儀で、
気をつけのお辞儀にくらべれば、心がまったくこもっていないことになる。
少なくともわが日本の、これが所作の文法である。
もちろん、小笠原流礼法総師範の私は、授業で正しお辞儀を指導している。

たしかに、昨今の”ビジネスマナー”では、非日本的な”休めのお辞儀”を広めようとしている文化破壊勢力が伸長している。
日本の伝統文化を普通に知っている者、あるいは小学校の朝礼を忘れない者は、
そんな工作に騙されないはずなんだが。
企業の教養レベルが反映されているのだろう。

あまフェードアウト

2013年10月03日 | 時事
福一の汚染水処理のあきれた状態にいつかコメントしたいと思っているうちに、
次々とあきらた状態が追加されいくので、コメントする気も失せた。
国が前面ではなく全面に出て、日本が自慢する”技術力”(=予算)とやらを結集しないとダメでしょ。

さて、あまちゃん終了後の私は、あまロスにはならず、撮り貯めた映像を観返す”あまフェードアウト”の進行中。
毎朝のリアルタイムの番組進行についていく必要がなくなったので、
毎晩寝る前のリラックスタイム時に数本分をまとめてじっくり観返している。
なので私にとってはあまちゃんはまだ終わっていない。
この観返しの終わった時が二度目の終了となり、
その気があれば、三度目にトライできる。
かように、マイペースでさよならしていく。

踏切事故の経済倫理的むなしさ

2013年10月02日 | 防災・安全

1人の命を救うために、別の1人が死ぬ。
確かに称賛されるべき英雄的行為で、私も感動する1人だが、
その一方で何かむなしい、やるせない気持ちがある。

人の命は対等として、失った命と失わずに済んだ命が等しく1であり、合計0となるからだろう。
すなわち、そこで”何もしなかった”場合と、合計は同じだから、
したことの意味が消失してしまうのだ。

一緒にいた彼女の父は「間に合わないから行くな」と言った。
多くの人は、「自分だったら何もできない」と言うだろう。
でも、それらに後ろめたさを感じる必要はない。

救急救命の原則として、救命をする側の安全確保が、救命行為よりも優先される。
二重遭難のおそれがあるとき、遭難者の捜索は打ち切られる
(捜索していれば救出できるのに、という思いを残して)。

冷徹だが合理的な人命の経済原理でいえば、失う命は少ないほどよい。
さらにいえば、人命は常に等価といわけではなく、生存率・余命確率の高い命が優先される。
災害医療での「トリアージ」(治療対象の選別)とはそういう措置だ。
親が命を賭してわが子を救おうとするのもこの原理である。
さらに生物的経済原理でいえば、子孫を残しうる命ほど救う価値がある。

自ら死のうとした老人男性と、若いとはいえないが、また子孫を残しうる能力に限界はきていそうだが、まだまだ元気に生きながらえる女性。
この二人の違いを思わず”計算”してしまうのも、むなしい気分にさせる理由だ。
タテマエ倫理的に素直に称賛する気になれないのも、
究極の判断としての経済倫理学的思考が私にあるからかもしれない。


ぎりぎりせーふ

2013年10月01日 | 生活
消費税がやはり8%にアップする。
実は、昨日9月30日の深夜、一生で一番大きい買物契約をした。
すなわち土地と住宅(建設)だ。
消費税5%で。

大事な買物なので、別に、9月中にとあせったわけではない。
というより、あせらずじっくり決めようと思っていた。
ところが、土地は売買(今の土地を売り、別の土地を買う)がとんとん拍子に進み、
住宅建設は、建設会社が必死になって(そこまでしなくていいのに)、間に合わせてくれた。
結果的に、ぎりぎりセーフだった。

まぁ、人生の行く末を考えて、それなりの動きをしたわけよ。
ごく私的な事ながら、人生の大きな選択行為として、皆さんにも参考になるかもしれないので、
きっちりしたらその時に経緯を記そうと思っている。