今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

「昔の人の平均寿命は50歳」に関する2つの誤解

2024年09月24日 | 雑感

日本を含む近代以前の社会では、「平均寿命がおよそ50歳だった」という言説は、医学的な研究(現代での未開社会での平均寿命データ)などから、妥当といえる。

ところがこの言説に対して基本的な誤解をしている人がいることを、ネットの書き込みでわかった。
実は、基本的な誤解はこの問題以外にも、例えばエアコンの温度設定をすると、その設定した温度の風が吹き出し口から出る、という基本的な誤解をしている人もいる。


では「昔の人の平均寿命がおよそ50歳だった」(正しい命題)に対する基本的な誤解とは何か。

それは昔の人は50歳前後になるとバタバタ死んで、それを越える年齢の人は激減する、という誤解。
簡単にいうと「ほとんどの人は平均年齢を越えては生きられない」という統計学的に誤った理解だ。

この誤解の元になっているのは、人々の寿命分布(もちろん個人差があるので幅がある)は明確な正規分布(左右対称の釣鐘状の分布形)をして、平均値=最頻値(最も度数が多い)である、という統計分布に対する勘違い。
これが勘違いであることは医学的に明確で、昔(医療水準の低い自然状態)は乳児死亡率がとても高かったことが判明しており、生まれてすぐの死者数が高い分布となっているため、正規分布にならないのだ。

そもそも平均値は正規分布を前提としない。
例えば30歳の死亡率がとても高い集団の平均寿命が50歳だとする。
するとこの集団の寿命分布はどうなるかというと、(単純化すると)70歳にとても高い死亡率が必要になる。
ということから、乳児(1歳未満)死亡率がとても高い集団での平均寿命が50歳ということは、極端にいうと100歳で死ぬ(それまで生きる)人がかなりいてもおかしくないことがわかる。
より正しくは、乳児の死亡率が高い平均寿命50歳の集団での50歳以上の死亡率の分布は、高い乳児死亡率とバランスをとる状態(50歳から離れるほど有効)でなくてはならないということ
※:更には幼児の麻疹、若者の労咳(肺結核)、若い女性の出産による死亡率も高かったので、平均寿命が50歳に達するにはそれだけ多くの老人が必要となる。
これが平均値に対する正しい理解だ。


ただ「昔の人は50歳で死ぬ」という誤解は、統計学の無理解だけでなく、「50歳」という単語の一人歩き(絶対化)によるものともいえる。
エアコンのリモコンでの設定温度の絶対化も同じ。
なぜそうなったか。


織田信長のせいだ。
彼が悪いのではない。
彼の言説を誤解した後世の人による。

信長は、絶対不利と思える桶狭間の合戦に赴く時、清洲城で『敦盛』の一節を舞った。
「人間五十年。下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」というあの一節。

この「人間五十年」こそが、その後の「人は50歳で死ぬ」という命題の典拠になったともいえる。
実際、信長がその後の本能寺の変で死んだ時は49歳だったので、
まさに信長本人がこの命題を立証した感じだ。

ところが信長自身は「人は50歳で死ぬ」などとは断じて謡っていない。

当時の日本語での「人間」は「にんげん」ではなく「じんかん」と発音する。
なので正しい時代考証のドラマなら、信長に「じんかん五十年」と謳わせるはず。

今でこそ、「人間」は「人」(個体)と同一の意味となっているが、当時は「人」ではなく、文字通り「人の間」すなわち”世間”を意味していた。
なので「人間五十年。下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」という一節の意味は、「人の世の50年は、(人にとって長いが)、天地ではあっという間の短さだ」という時間軸の相対的比較であって、人間スケールの50年は、地球スケールでは瞬間的出来事だ、という現代にも通じる普遍的真理を言っているのだ。

ということで、平均値についての統計的分布の勘違いと、信長の謡(うたい)の意味の誤解が合わさった二重の誤解によって、「昔の人は50歳で死んだ」という思い込みが形成されといえる。


これぞ餃子の街の餃子

2024年02月06日 | 雑感

「餃子の街」ランキング(住民の購入額)で今年は浜松(静岡県)が1位になったという。
2位は最近頭角を現してきた宮崎、有名な宇都宮(栃木県)は3位。

ただ、”餃子を食べる街”として成功しているのは宇都宮
ここは歴史的に餃子と縁があり、それぞれの店に個性があり、それらの餃子をいっぺんに食べれる場所もあるし、「宇都宮餃子」は土産にもなって喜ばれる。

それに対し浜松餃子は、一緒にもやしが蒸せられているというだけで、”浜松”としての個性はあまり感じない(浜名湖の宿のビュッフェバイキングで出される浜松餃子を食べる時は、もやしと一緒に食べることで、浜松らしさを味わっている)
もちろん、餃子それ自体で充分美味しいので文句はないが、焼きそばの富士宮やおでんの静岡レベルの個性がほしい(私が浜松でまず食べるのはうなぎ)。

東海地方で個性的な餃子といえば、なんといっても三重県の県庁所在である”津餃子”だ。→リンク
15cmもある揚げ餃子。
これだけで充分個性的。
発祥は津市の小学校の給食というから、まさに津市民のソウルフード。
こういう餃子こそ、”餃子の街”にふさわしい餃子。

残念なのは、これを食べるのに津まで行かねばならないこと。

せめて名古屋には進出してほしい(広義の”名古屋メシ”に加えたい)。
そう願うくらい個性的だ。
※:今は名古屋メシとされる”天むす”の発祥も津だという。赤(八丁)味噌は岡崎で、豪華モーニングは一宮。それらの超ローカルなものが中京(東海の首都)・名古屋に出て初めて全国に知れ渡る。


小学生の夏休みに宿題は不要

2023年07月23日 | 雑感

小学生に課す夏休みの宿題が減少傾向にあるという。
いい傾向だ。
小学生、とりわけ低学年は、夏休みは思いっきり遊んでほしい。
そして忘れられない思い出を作ってほしい。

課せられた宿題ではなく、自分で興味を持ったことに集中して取り組んでほしい。

私が小学生の時は、ドリル(問題集)を早々に片付け、あとはうっちゃってた。

夏休みは、「休み」む権利があるものとして、その権利の行使を最優先した。
なので「自由研究」については、”やらない自由”もあるとうそぶいて、全く手をつけなかった。
当然、1日だけある意味不明の「登校日」とやらも無視。

休み明けには、他の児童たちの立派な自由研究の展示会があったが、そこで綺麗に飾られた昆虫標本を見ても、残酷な遺体展示にしか映らず、無益な殺生をしない自分の方がマシだと思った。

小学生の時から、私は自分が納得しない決まりには従わなかった。

学校ではシャー(プ)ペンの使用が禁止だったが、納得いかないので、小学3年生の時点で鉛筆を使わずシャーペンを使い続けていた。
そのシャーペンはコンパスにもなっているので、コンパスとして使うためとして堂々と筆箱に入れていた(なんでコンパスはよくて、シャーペンはダメなの?)。

6年生になると、校内や登下校時に名札をつけている意味を感じないので、わざと「沢田研二」と書いてつけていた。

今から思うと、時代感覚が早すぎたようだ。
幸い、私の勝手な振る舞いを担任の先生に叱られた記憶はない(通信簿の評価は悪かったが)。

ただし、給食を残すことだけは、厳しく指導され、肉類がダメな私は平日の毎日が地獄だった(だから尚更、夏休みは天国)。


人類はなぜ右利きが多いのか、私の仮説

2022年02月09日 | 雑感

人類はなぜ右利きが多いのか。
発掘された石器などはすでに右手用なので、手が自由に使える状態になってから、すなわち直立してから後に右利きになったらしい。
ただ、なぜ右利きが主となったのかは不明だという
※:加藤俊徳『すごい左利き』ダイヤモンド社(この本は10分で読み終えた程度の内容だが、この記事のアイデアを思いつかせてくれた。ただし内容的に参考にしてはいない)。

そこで私なりに考えてみた。
私は世間の数多の説とは異なり、使うではなく、直立した身体そのものに原因を見出す。

そもそも、人体は基本的には左右均等・対称だ。
まず消化器官は、胃・腸を中心に口から肛門まで正中線に沿ってある。
膀胱や子宮も正中線。
それから二つある肺や腎臓、卵巣・精巣も正中線を軸に左右対称に位置する。
もちろん、目・耳、そして脳(左右脳)も正中線を軸に左右対称にある。

ところが、直立した場合、1つしかない内臓で正中線に配置できないものは非対称的な位置になった(といっても四足歩行の場合、それらの非対称性は、重量バランス的にあまり問題にならない)。
まず心臓は中心よりやや左側に位置している(完全に左側にあるのではない)。
本来は正中線上にあるべきだが、同じ場所にある胸骨が心臓の拍動の邪魔になる(それに食道とも位置が重なる)。
その脇の肋骨なら骨が動くし、しかも隙間があるので拍動の邪魔にならない。
そこでやや左にずれた(右にずれてもよかったし、ごくたまに右側に心臓がある人も支障はない)。

そしてそれを受けてかは知らないが、内臓で一番重い肝臓が右側に配置された(大きいので脾臓や膵臓のように胃の後ろとか胃腸の間には入れなかった)。
これが問題だ。
一番重い臓器なので、身体のバランスに影響する。
すなわち、右半身が重くなり、左半身が軽くなる。

となると、むしろ左半身の方が使いやすくなり、人類はむしろ左利きになっておかしくなかった。

ところが、身軽さにまかせて左利きになると、左右のアンバランスが増幅されて、
たとえば左足が右足よりアンバランスに優位になると、歩行が右回転気味になって、直進すら難しくなる。
骨格・筋肉はもともとは左右均等についているのだから、これでは資源の無駄になる。
そこで、重い側の右をあえて優位に使う事で、左右の運動的アンバランス化を抑えることができる。

つまり、人類の直立直後においては、左利きは自然な状態だったのだが、身体行動的には右利きの方がバランスがとれるので、長い目で右利きの人類が優位になった。
というのが私の仮説。
利き手は遺伝するため、世代を重ねるにつれて右利きが多くなった。

さらに、右利きがデフォとなると、大脳皮質も右利きに対応する左半球が優位になる。
その優位性によって、その後に人類が獲得した言語(さらには文字)は、すでに優位脳であった左脳に中枢が備わった。
それによって右利きの優位性はさらに強化されて、現代に至っている。
同時に骨格・筋肉が直立二足歩行に適応してきたため、アンバランスは事実上問題なくなった。
ただ本来的には左利きがありうるので、先祖返りの左利きも一定割合出現する。

その後、人類の文明は右利き優位でできあがったため、今では生活動作が右利き前提で、かえって左をアンバランスに使わなくなり(左脳偏重)、逆に少数派の左利きの方が右手を使うことを強要されるため、両脳のバランスを回復できるようになった。
私のような生まれ持っての左利きにとってはもちろん左半身の方が身軽なのだが、右利きの人にとっても身体の重心的には、左半身(特に足)の方が身軽なはずである。

人は本来は直立した状態では左利きであっておかしくなかったのだが、左右のバランスを確保するために、直立二足歩行の段階で右利きに傾いた、というのが私の仮説である。
直立直後は、足のバランスが重要で、手が自由に使えるようになるのはその後のこと。

以上、確たる証拠はなく、バランスが重要という価値観が論拠になっている。
あえてこのような仮説を提出するのは、既存の発想とは別の発想の選択肢を提示するため。


本日の外出目的

2019年08月19日 | 雑感

明日からわが勤務先が業務再開ということなので、東京にいる私も今日が休業最終日のつもり。
その今日の予定は、秋葉のパナソニック修理工房に行ってカメラ(Lumix)の故障(シャッターがおりない)を診てもらうこと。
あと、帰りに近所で時計の電池交換も頼みたい。

まずは、修理工房でのカメラ修理の見積が思ったより高かったので(購入価格の半値近く)、カメラは研究の備品ということもあり、自腹は痛いので、研究費で賄うことにして修理はペンディングにした。
ついでに大黒屋で来週使う新幹線のチケットを買おうと思ったが、先客に時間がかかっており、また店内を覗くと私がほしいチケットは空のようなので、御徒町のチケットショップで買おうと1駅分歩くことにした。

御徒町でチケットを買い、ついでに二木の菓子で、チータラを買おうとしたら、売り切れ。
なら近くの多慶屋で買おうと思って、御徒町のガードをくぐって、多慶屋に向った。
すると、私を呼ぶ声がする。

立ち止まって振返ると、なんと愛知の職場の元同僚(♀)!
彼女は首都圏の大学の職を得て沿線の足立区に住んでいる。
人口の少ない町村なら、道ばたで出くわすことも珍しくないだろうが、
ここは大東京の繁華街。
お互いに家の近所ではない、買い物先の歩道で邂逅したわけ。
しかも私は、本来予定になかった行き先に向っていた。
この偶然感はすごい!
驚いた後は、互いに近況を伝え合って別れた。 

こういう”偶然”てごくたまにある。
高校時代、北アルプスの涸沢で高校の同輩と遇ったり、大学時代、甲府の街でサークルの同輩と遇ったり。
べつに「シンクロニシティ」(意味ある偶然) と解釈するほどのことでもないが、相手に象徴される何かが今の私にとって必要なのかもしれない。

ちなみに、チータラは多慶屋でも売り切れだった(結果的には彼女と出くわす道を行く必要はなかった)。
そして、帰りがけに電池交換をたのもうと思っていた店も今日は休みだった。

こうして振返ると、新幹線のチケットは買ったものの、 本日目的とした2つの用事はいずれも達成されなかった。
むしろ結果的には、元同僚に遇うために外出したといってもよいことになる
(ついでに、チータラは近所の店で同額で買えた)。 


いつものように図書館に通う日

2019年07月29日 | 雑感

ここ数日は東京も熱帯夜(25℃以上)で、今日は日中に35℃を越えた。
こういう日こそ、冷房の効いた図書館ですごすに限る。
なにしろ、今週締切の書類作成に追われる身、自宅のエアコンをオフにして、税金を払っている国民の一人として堂々と国会図書館を利用する。
通い馴れたる身、館内の入場ゲートの前に立つ警備員さんと挨拶を交わす。
昔は警備員さんと目を合わすと、かえって怪しまれ、許可ギリギリサイズの私のバッグをじっと睨まれたものだった。
後ろめたくはないし、立っているのが仕事の人をモノ扱いせず、きちんと挨拶をする。 

持参したノートパソコンを開いて数時間すごしていると、手足が冷えてきた。
以前だったら、省エネ温度の28℃に設定されていたので、やや暑かったが、今では冷房大サービスになって、かえって長時間いるのがつらくなった。
18きっぷの鈍行旅と同じく、長袖・長ズボンを標準装備とすべきなようだ。

自宅に戻り、いつものように夕食前に風呂に入る〔寝る前ではなく、汗を流すため帰宅直後に風呂に入る) 。
風呂から上がり、さまざまな計測値が表示される体重計に乗ったら、なんと今まで同じ数値だった年齢が1つ増えていた。
ああ、また1つ歳をとってしまったか。  


紅の豚のパイロットジャケットと

2018年11月02日 | 雑感

私は、格別「ジブリ」ファンというわけではないが、『紅の豚』の主人公ポルコ・ロッソのパイロットジャケットを模したジャケットを持っている。
ただ、まったく同じではないこともあり、本人はポルコ・ロッソを気取っていても、周囲の人が気づくことはないと思う(もう少し太ればそれらしくなるか)。

そのジャケットを買ったのは、たまたまデパートで見つけて衝動買いしたのだ。
この作品、ジブリ(宮崎)映画に珍しく成熟した男が主人公だからか、もともと他の作品よりは親近感をもっていた。

そういえば、もう一着、誰ぞやの服を模したものを持っている。
それは戊辰戦争時の箱館で撮った写真の土方歳三が着用しているフランス風のベストを再現したものだ(前のボタンが14個もある)。

両人(?)とも私にとってカッコいい男なのが共通点。

そもそもベスト自体が好きなこともあり、このベストを着て大学で授業をしたら、学生にズバリ当てられたことがあった。
歳三ファンにはバレてしまう。


地震の夢を見た

2017年08月27日 | 雑感

昨晩、地震の夢を見た。

夢の中で、何の前触れもなく、突然激しい揺れを感じた(その直前の夢の状況は覚えていない)。
地震だ!ということで、急いでタブレットの「ゆれくる」という、実際に地震速報に利用しているアプリを開いたら、
なぜか動画映像が出て(実際は動画配信はない)、実は今の大きな揺れは、突然の強い火山噴火によるもので、
真っ赤なマグマが黒煙とともに激しく噴き出している生々しいシーンがアップで映っている。
それは鹿児島の桜島だとわかった(なので正しくは地震ではなく、火山性振動)。 

夢の中での触覚体験はないことはなかったが、皮膚感覚ではなく、地面の強い揺れを感じたのは初めて。
しかも鮮明な色彩が後続する。

ちなみに、就寝中に実際に地震があったか、起床後「ゆれくる」で確認してみた。
午前3時34分に福島県沖でM4.2の地震があったものの、私が寝ていた東京は震度0(無感地震)。
なのでこの地震が夢に影響を与えたとはいえない。 

私は予知夢を見る能力はないので、鹿児島の人は心配しなくていい(たぶん)。
意識レベルで、鹿児島の錦江湾に弱い地震が続いているのが気になっていただけだから…
何しろ、錦江湾周囲は、巨大カルデラがひしめいていて、もともとカルデラ中央火口丘の桜島が活発な上に、別の地震が続いたのが気になって…。 


干支を一巡

2016年07月29日 | 雑感

温泉から戻ると、仕事たちが手ぐすね引いて待ちかまえていた。
リフレッシュした元気を糧に、それらを必死にさばいて、とりあえず前期の最終日を迎えた。

懸案事項をできるだけこなして、後は締切まで余裕のある成績つけや報告書だけを残すようにした。

なのでもう頭はフラフラ。

そんな今日が、干支を一巡した 自分の生誕日。
干支の一巡は、その思想によれば、生命の一巡を意味する。
人生の後半どころか、終焉を意味している。
なので、一巡したら赤児としての再生の儀式をしたものだった。

実際には、歳をとれば時間を短く感じてしまうこともあり、
「これまで長く生きたなぁ」という実感はまったくない。
むしろいまだ若輩レベルに留まっている感がある。

でも、確かに身体は老化が進んでいる。
一昨年は白内障の手術をし、昨年は顔のシミのレーザー治療をした。
眼鏡は老眼対応だし、難聴も進んでいる。
膝の痛みで下山ができない。 
ただし、これら部分的老化は、上に示したようにテクノロジーで対応できる。
すなわち、私の右目の人工水晶体は赤児レベルの新品だし、皮膚の再生機能を使えば、表皮の老化も局部的にはリセットできる。 

ようするに、身体は経年劣化が進んできたのに、精神は若輩のまま。
これは良い意味での「若い」 ではなく、悪い意味での未熟性を意味している。

これだけ生きてきても、いまだにこの世に慣れず、馴染めない。
失敗や戸惑いが相変わらず多く、いくつになっても生きることの難しさを痛感している。

だからこそ、生きる(在る)ことを大切にしたい。
 生きるとは「在り続ける」という存在論的・時間的営為であり、 少なくとも「在り続けようとする」動機をもっている生物にとっては、在り続けることをヨソから否定される筋合いはない。

在る者はひたすら在り続けようとすればいいのである。
それが類い稀な現象である「在ること 」の体験なのだから。

かように、人生を達観する境地には全く至っていない。

精神の成熟がなかなか進まない者にとってはなおさら、在ることを味わうには、動物的寿命では短過ぎるくらいだ。
もちろん、同僚の幾人かが見舞われている”初老期うつ病”とは無縁な気質のせいでもある。

動物はエネルギー代謝が高いので、処理器官が酷使され劣化がすぐ訪れる。
私も人生の”終焉”ではまだないだろうが、後半の後半にさしかっていることは確かだ。 

動物より1,2桁寿命が長い樹木の生命力が羨ましい。
一生身動きができないのは辛そうだけど。 


ドローン(マルチコ)操縦第二段階

2016年05月25日 | 雑感

我がおもちゃであるドローン(手動操縦なので正しくはマルチコプター、略してマルチコ)は去年の今ごろ購入して当初は熱中していたが、
初の屋外飛行で、彼方に飛んで行ってしまったため(即座に再購入)、屋外での操縦に二の足を踏んで、室内操縦に飽きるとそのままになっていた。

先日、茶臼山の矢作川源流で久々に飛ばした。
ところが、本体内部が断線してしまい、一時使用不能になっていたが、おととい、暇にまかせてハンダ付けをして直した(今後は自分で直せる自信がついた)。

本日、仕事帰りに近所の公園で、わがドローンを飛ばしてみた。

そもそも、初心者がまずやるべきはホバリング(空中の停止)。
これで操縦桿の微調整を学ぶ。
それができたら、前進・後退。 
そして次の課題が、方向転換。
ここで、方向を操縦者の視点ではなくドローンの視点になって方向を切り替える認知的訓練が必要となる。
私はここで終っていた。

今回、第二段階に達した。
四角飛行、八の字飛行ができたのだ。
これは前進のままにして、本体の向きを右向き・左向きに直角に替えて操るもので、本体の主な調整を第1段階の前進・後退・右傾・左傾のレバーから、本体の向き替えるレバーの方の方に移すことを意味する。

これができれば、自分の歩行移動にドローンを同行させることができるようになる。

屋外で操縦するメリットは、壁にぶつからないので、羽根の損傷がまったくなくなること。
デメリットは、風の影響をもろに受けること。
なので樹木に囲まれた公園がおすすめ。
ただし、頭上高く上げてしまうと、操縦不能になってしまうので、高度は控えめにすること。 


自宅で準決勝を観ながら

2015年08月19日 | 雑感

今日は私の帰京中の仕事場になっている国会図書館が休館で、
しかも高校野球の東・西東京代表の2チームがともに準決勝に出るというので、
いっそのこと在宅日に切り替えた。

といってもテレビの前に陣取っていては作業が進まない。
自室パソコンの27インチ大画面を作業用とし、13インチ小画面にネット配信の実況中継画面(と音声出力)を出して、ネット中継をチラ見しながら作業をすすめた。

試合結果は、ご存知の通り、実力差通りになって、ともに完敗。
2試合ともに序盤で決着がついたので、幸か不幸か、中継を見入る時間も少なく、思ってた以上に作業が進んだ。 
そして明日も、清宮とオコエの打席が気にならなくなったので、仕事に打込めるはず。

応援する立場では残念だったが、ともに準決勝まで勝ち残った点ではよくやったといえる。
なにしろ抜きんでた選手が1人いたところで、いい投手のいる総合力が高いチームには勝てないものだ。 

というわけで、今日は一歩も外へ出なかった。
体重が0.4kg増えた。


ドローンの身になる

2015年06月03日 | 雑感

我がドローンもどき(マルチコプター:以後マルチコ)の操縦練習に励んでいる。

全自動の本物ドローンとちがって、マルチコは手動操縦なので、業務用ではなく完全な趣味のものだ。
操縦して自在に操る楽しさは、勝手に飛んで行く本物ドローンでは味わえない。
問題はその操縦技術が難しいこと。
といっても今までのminiヘリに比べればバランスがいいだけにかなり楽なので、なんとかなりそう。

超初心者の時は、機体の正面と自分(操縦者)の正面を同方向にして(操縦方向と運動方向が一致)、それでホバリングができたので、屋外デビューをして、機体を空に見失った。
機体の水平での向きが変化すると、もう操縦が混乱してしまった。

そこで、機体の水平の向きのいかんにかかわらず、自由に操縦できる必要を感じた。

だが、これが難しい。
たとえば、機体の向きが自分と向かい合わせの時は、前進後退、左右の移動の操縦が操縦者の視点とはすべて逆になる(前進は後退、左は右)。
さらに機体が自分と直角の向きの時は、操縦者の視野と前進後退と左右の移動が入れ替わる(機体が右向きの時は、前進は右、後退は左、そして機体が左向きの時は…)。

これらの4方向のそれぞれの変換式を頭に入れるだけでも混乱するのに、機体の向きが勝手に変化してしまうともう頭がパニック。

機体の向きを操縦者と同方向に固定すれば簡単だが、それでは前方についたカメラの撮影が制限される。
撮影するには、機体の正面を自在にして操縦したい。
それがドローン(マルチコ)の楽しみだからだ。

そこで思いついたのは、人間だけができるワザ。
自分が機体の身になることだ。
操縦者の視点ではなく、機体の視点で方向を判断すれば、前進はいつも前進ボタンでいい。
たとえ操縦者からは、それが右方向であっても 。
すなわち操縦者の視点を忘れて、ひたすら機体の視点を操縦者が取り入れる。
これは実際には、二重の視点になるので、その混在はどうしても整理する必要がある。

そこで、機体が右に行きたいときは、心の中で「右」と言語化することで、自然に作動する操縦者の視点(システム1)より、意識的に採用した機体の視点(システム2)を優位にして、その指令を動作化する。
言語による脳の支配力はかように強い。 

こうすることで、複雑な変換式をそのつど当てはめるよりは、ずっと直感的に操縦できるようになった。

これが人間だけができるワザというのは、他人の身(視点)になれる能力そのものだからだ。
この能力は、対象が人間である必要はない。
モノでも単なる空間でも可能(自分を天井から見下ろす視点)。 

 安永 浩(精神医学者)の理論で説明すると、本来の主体たる極自我と視点の立脚点である現象学的自極、この2者は通常は一致しているのだが、それを意識的に分離できるのが人間なのだ。


本を読む楽しみ

2015年03月17日 | 雑感

本を読む目的は大きく2種類ある。
1つは情報を得るため(目的1)。
新聞や学術書を読むのはこのためで、私にとっての読書も大半はこれに当てはまる。
この場合の読書は手段であるから、それ自体は苦痛でもある。
ただ、これが読書のすべてではないことも確か。

もう一つは、悪く言えば”暇つぶし”。
良く言えば、読むことそのものを楽しむため(目的2)。
すなわち目的としての、快としての読書。

以前の記事で「読むに値しない本」に言及したが、
目的1では、情報量(=新しい知識)の無い本がそれに当たる。
なら、情報量の無い本はすべて読むに値しないかというとそうではない。
目的2を満たせばそれは読むに値するから。
すなわち書いてあることがことごとく嘘(情報的価値無し)であっても、
それを読んでいる時間が楽しければそれは立派な”暇つぶし”になる。
嘘なのに読むに値する本、それはズバリ小説(創作話)だ。

人はなぜ小説を読むのか。
それは厳密な意味で”事実”ではなく、しかもそう(うそ)だと分って読む。
リアルでないリアリティ(仮想現実)に、あえて騙されるために読む
(創作の存在意義は、「事実=真実+ノイズ → 真実=事実ーノイズ」という移項式で正当化できる)。

これは学術書を読む時の「騙されないぞ」という批判的態度とは正反対(←小保方論文の扱い)。
その学術書は、仕事として、苦行として読んでいる。
だからこそ、効率化を求めたくなる。

一方、小説は楽しみとして読むのだから、すなわち読んでいる時間を楽しんでいるのだから、楽しみの”効率化”なんかしたくない。
実際、あまりに読んで楽しい小説は、読み終わってしまうと寂しくなる。

学術論文は面倒な時は要約(Abstruct)から先に読んだりするが、
小説の要約なんか読みたくない。
トルストイの『戦争と平和』をひと夏かけて読んだウディ・アレン(アメリカの映画作家)によれば、その作品は要するに「ロシア人の話だった」という。
山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)を要約しても、「家康は幼少時から苦労してやっと天下を取って盤石な体制を作った」で終わってしまうはず(読んでない)。

言い換えれば、読んでいるのが楽しくない小説は読むに値しない
(聴くに堪えない音楽は聴くに値しないのと同じ)。

小説はなんで読むのが楽しいのか(苦しくないのか)。
それは、文字を読んでいることを忘れさせ、あたかも映画を見ているか、自分がその世界に入り込んでいる状態になるからだ。
本を読むのは苦しくても、映画や夢を見るのは苦しくない。
映画や夢は現実を忘れさせて、別の感情的世界を体験させてくれる(退屈な生活の者にもスリルとサスペンスを)。

この過程を小難しく言うなら、文字記号の視覚処理の、その処理過程を自覚させないまま、
すなわちタイムラグがほとんどないまま、生々しいイメージ(映像、音声)に脳内変換されている。
これはすごいことだ。
だって明晰な意識状態でテキストを読んでいるのに、
それを意識しないなんて普通ありえない
(眠くなって、文字を読んでいるのを忘れるのはしばしば)。

実際、古文書の解読や難解な哲学書を読むのは、テキストとの格闘以外の何ものでもない。
たとえば、読み下し文でない白文の漢詩を目の当たりにして、
テキストと格闘せずに、表現されている情景がありありと浮かんでくるだろうか。
 歌心のない私は、和歌1つ理解するのに、その31文字と格闘させられる。

文字を読んでいるのを忘れさせる小説には、もちろん読書特有の不自然さ・辛さがない。
やはりこれはすごいことだ。
読書習慣をつけるには、小説から入るといいのは確かで、私自身がそうだった。

なぜ、文字を読んでいるのに、文字を読んでいるのを忘れることができるのか。
文字という記号情報が本来的にもっている力によるのは確かだが
(私が準拠しているメディア論ではこの力の解明が必要だが、ここでは深入りしない)、
最終的には、作家のプロとしての力量の賜物だろう。

一般的な語の組合せで具体的な情景を描写する。
これこそ文字による表現技法の魔力なんだろう。
たとえば、椅子に「座る」という一般的動作を、素人ならそのまま「椅子に座った」と書いてしまうところでも、
表現にこだわるなら、「カウンターの椅子に軽く腰を乗せた」、「ベンチに崩れるように腰を下ろした」、「ソファにゆっくり身を沈めた」と映像化できる動作表現に書き分けることができる。

テキスト表現の可能性と格闘する作家だからこそ、
読者の記号処理を生き生きとした所記(シニフィエ)へ直接変換させる最適な能記(シニフィアン)を選択できるのだろう。

本来なら苦痛となる読書行動を、楽しいと感じさせてくれる著者(作家)こそ、
読者にとってはありがたいし、その技法は学ぶ価値がある。

ここから先は読書行動論から外れるが、
実は私も、そういう表現力を身につけたいと思って、ブログを書いている一人だ。
内容はどうってことない日常の些事でも、表現によって、読むに値する(読んで楽しい)テキストに洗練できるのではないか。
もちろん、それは上っ面の表現技法だけで済むものではない(それも大事だが)。
着眼点や掘り下げ方に価値がなければ、読むに値しないだろう。
誰もが訪れている旅先でも、自分が旅するとこのような表現になる、
そういう人(素人)の旅行記のサイトに魅せられたことがある。
そういう表現者に私もなりたい。


速読用のレイアウト

2015年03月16日 | 雑感

速読するには、目の無駄な動きをなくす必要がある。
それを助けるためにレイアウトも工夫する必要があり、速読用のレイアウトがあっていい。
①と②は同じ文章だが、どちらがより速く、楽に読めるだろうか。ためしてほしい。


この文を読む人
は、1行を一度に見
るだけで、
1つ1つの文字を
追わずに、
どんどん行を見進
めてほしい。

どうだろうか。
どんどん見進めて
文が理解できただ
ろうか。

読むのではなく、
見るためには、見
やすいレイアウト
である必要がある。

1行を7文字にし
たのだが、読みや
すいだろうか。

7文字にしたのは
ワーキングメモリ
の記憶単位である
chunkによる。

1行を瞬時に見れ
るようなったら、
次は、2行以上を
瞬時に見進めて
みよう。

たとえば、1つ
の段落(行の塊)を
一度に見て、次の
段落に見進める。

これができたら1
行の文字を増やし
て、一度に見れる文
字数を増やしてみる。

 


この文を読む人は、1行を一度に見るだけで、1つ1つの文字を追わずに、どんどん行を見進めてほしい。どうだろうか。どんどん見進めて文が理解できただろうか。

読むのではなく、見るためには、見やすいレイアウトである必要がある。1行を7文字にしたのだが、読みやすいだろうか。

7文字にしたのはワーキングメモリーの記憶単位であるchunkによる。1行を瞬時に見れるようなったら、次は、2行以上を瞬時に見進めてみよう。

たとえば、1つの段落(行の塊)を一度に見て、次の段落に見進める。これができたら1行の文字を増やして、1度に見れる文字数を増やしてみる。

 

いかがだったか。
①は目の動きを下に進めるだけで読めるから楽だったろう。
かように、見るだけで分る平易な文は速読に向いている。
個人的には①は縦書きにした方が、スクロールの手間が省けるのでさらにいいと思う。 


読書の情報効率

2015年03月15日 | 雑感

またまた私の読書行動論(理論化されてはないけど)。

さて、あなたの手もとにある読み終わった本を、どれでもいいから手に取ってみて、
パラパラめくって、後ろの参考文献欄を眺めながら、
その本を書き上げるまでに執筆者が要した時間と労力を想像してみてほしい。
そして、その時間とあなたがその本を読むのに要した時間とを比べてほしい。 

執筆者の立場からすれば、著作に盛られた情報は最大限の圧縮効率の結果なのだ。
つまり執筆にかかるまでの膨大な情報収集とその執筆・編集作業、
たとえばその本を書くために読んだ膨大な資料や、あちこちの取材記録を、
あれこれ試行錯誤しながら削りに削ってなんとか数百ページに凝縮したわけで、
それがわずか2,3時間の読書行動にあっけなく置き換わってしまうのだ。

読者はものすごく効率良く情報を入手していることになる。

さらに読者の読書行動自体も効率化されてきた(これは前の記事で述べた)。

昔の人の読書は音読だった。
”読む”速度は口で”読み上げる”速度と等しかった。
そのため、読み上げやすく、耳に残りやすい韻文の比率が高かった。 

それが、印刷技術の発達にともない(これはマクルーハンの受け売り)、
近代人は黙読できるようになり、”読む”速度は倍速化され、”見る”速度に近づいた。
そのため、感覚的な韻文より、論理的な散文が主流となった。 

すなわち、人類の読書行動そのものが数百年前に革命的進化をとげたのだ
(「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの法則どおり、
個人の発達過程でも音読→黙読の進化を繰り返す)。
なので現代人の読書行動は、すでに能力(脳力)の限界にまで効率化されているといっていい。
だからこそ、その行動の不自然さ=読書の辛さが露呈されているともいえる。
読書行動をこれ以上効率化しようとするのは無理かもしれない。

もちろん、速読術という”読む”速度を可能な限り高速化し、
”見る”速度に到達させるための技術が存在する。

速読術を少々トレーニングした個人的印象だが、
実は速読しやすい本ほど、文章を味わうに値しない駄文の小説か、
常識の範囲内の自己啓発書のような本であり、
結局それらはあえて読むに値しない、元来読書時間0でも済むものだったりする
(これは次の話題につながる)。

もっとも、完全な黙読ができていない人、
すなわち心の中で無自覚に音読しながら読んでいる(読む時自分の舌が動いている)人には、速読のトレーニングは意味がある。

ただし学術書など読むに値する=きちんと理解するに値する本は、
解釈作業を並行する必要があるので、見るのではなく読まざるをえない。
また、文章の巧みさ、美しさに酔いたい本も速読はもったいない。

 さて、次の話題。
本をどう読むかの前に、どの本を選ぶかが重要だ。

読書の効率化の第一歩は、読むに値しない本は読まないこと
せっかく買ったから読まないと損だと思うなかれ。
金銭的損失より時間的損失の方が損失として深刻だから。
なにしろ(本代ていどの)失った金額を回復することはたやすいが、
失った時間は決して取り戻せない。
そもそも読書を効率化したいのは、時間を有効に使いたいからのはず。

こういってもいい。
読んで面白くなければ(読む意味を感じなければ)、
我慢せずに即座に他の本に移るべきだ。
読むに値する本は、読むに値しない本よりもずっと多い。

学術書に限っていえば、できるだけオリジナル(原書)に近い本をよむべきで、
その解説書を3冊読むより絶対効率的。
たとえばフロイトの精神分析を知りたければ、
まずは彼自身による『精神分析学入門』を読むべき。
もっとも、精神分析そのものがもはや知るに値しないかもしれないが。

もちろん他の人によるすぐれた解説書というのは確かにあり、
それに当たればすこぶる効率的だが(数十冊の本が一冊に凝縮されている)、
あまたの類書からそれを選ぶのが実に難しい(図書館に行ってみなされ)。
章立てがきちんと構造化されているかどうかがポイントか。
今ではネットの読者コメントが参考になろう。

逆に「マンガで分かる」シリーズなど、一見バカにされそうだが、
解説部分は結構優れている。
しきいを低くするためのマンガ部分に非効率性(本筋とは関係ないストーリー展開)
があるのは致し方ないが、むしろ文字テキストの情報効率の良さが実感できるというもの。

ついでに関心をもった特定領域について、
解説書→専門書→学術論文の順で合わせて10冊(編)ほど
読書ノートを取りながら(以前紹介したワードのアウトラインモード推奨)
続けて読んでみなされ。
2冊目から情報がダブりはじめ、
冊数が進むと、やがてほとんど新しい情報が得られなくなる(=飽和する)はず。

そうなった段階で、あなたはその領域について人に解説できるほどの知識を得たことになる(読書ノートがあなたの知的財産)。 

その域に達すれば、その領域の新しい本は、全部を読む必要はなくなり、
新たな知識の所だけを読めば済む(もちろん、読書ノートに追加)。
こういう読み方(拾い読み)も効率化に貢献する。

ちなみに、ネットで情報を検索すると、ヒットしたサイトのほとんどが同一の情報源に頼っている場合がある(すぐに飽和する)。
情報の探求が浅いのだ。
やはり専門書の方が情報源として信頼性がある。