それは我がガイガーカウンター(以下、ガイガー)についてである。
今年、これほど頻繁に使うことになろうとは、しかもあんなに高い値を出すとは、予想だにしなかった。
我がガイガーがはじき出した最高値は、空気中で40μSv/h、地表で200μSv/h。
いずれも5月上旬の浪江町。
そもそも私が原発事故前からガイガーを所有して、当時なんでもない東京や名古屋の値を計測していたのは、
ラドン温泉が好きで、各地の温泉地の値を測り、その”効能”を確認したかったから。
そのため、温泉地でない東京などとの値の差を知っておく必要があった。
ラドン・ラジウムなどの”放射能泉”はそもそも危なくないのかが、まずは気になった。
なので低線量放射線の研究成果を勉強した。
また日常の計測により、われわれは自然放射線の中で生きていることを改めて実感した。
そのおかげで、幼少時にインプットされていた放射能恐怖症から脱することができた。
すべては、実際の放射線量を測定して、量的に評価することから始まる。
私が買ったガイガーはアメリカ製のInspector+という物で、
それは放射能事故に対応したものなので、かなり高い線量まで測れる。
説明書には、とんでもない事態になった場合のことも書いてあったが、他人事として目を通していた。
それが、東京の自宅で原発から飛んでくる放射線を恐怖心をもって計測する事態になろうとは…
実は、事故後の半月間(3月いっぱい)、私は祈る心境だった。祈るしかなかった。
神にではなく、事故現場で必死に作業している人たちに。
すべては彼らにかかっていた。
もう1度、水素爆発が起きたら、実家の家族5名を、狭い名古屋宅にでも避難させる必要があろうと思っていた。
今思えば、アメリカでは、放射能事故に備えたガイガーが普段から売られていたのだ。
これこそ、危機管理である。
それに対して、日本では原発を運用する当事者が、住民の説得のために作った”安全神話”に、自らがハマってしまった。
事故を想定することすら、タブーになっていたという。
このような組織に原発をまかすことは絶対にできない。
あと、人々の反応で感じたのは、行動経済学でおなじみの人間の認知的バイアス(偏り)について。
たとえば、「低確率の現象は過大評価され、高確率の現象は過小評価される」というバイアス。
これは、西日本の人が放射線の危険を過大評価する一方、福島の人は過小評価している現状(コメントの指摘があった)に当てはまる。
さらに、放射線は目に見えないだけに、恐怖が過大評価され、また逆に過小評価されるともいえる(つまり主観性に左右される)。
しかも、それぞれの評価にお墨付きを与える”専門家”まで揃っている。
ただ、現実的な”安全基準”も事態の深刻さに応じて、使い分けされているのも事実だ。
つまり、原発敷地内の作業員に対する安全基準と、汚染地域のそれと、その外側の非汚染地域のそれとでは異なる。
前者はそれを超えたら本当に危険というデッドラインに近く、後者になればなるほど、まちがっても健康に影響を与えないような厳しい基準となる。
実は、私も同じように、福島県内の人と隣接県の人と南関東の人とで、コメントを使い分けていた。
このため、多くの人にとって線量値が一義的評価に結びつかなかった。
一義的にするには、たとえば「発がんリスク」という確率値に変換するのが一番いいと思う。
放射線量という定量的現象に対しては、リスク確率という定量的評価をするのが一番”正しい”のだ。
ただその確率値(発がんリスク)をどう評価するかは、個人にまかせるしかない。
原発事故で、今一番腹立たしいのは、除染が進まないこと。
除染は原発の電源が回復した4月からとっとと開始すべきだった。
遅きに失してはいるが、来年は総力(予算、技術力、知恵)を挙げて、取組んでほしい。
予算が足りなければ、国民に募金すればいい。
もちろん、津波の復興も同じこと。
来年は、復興の年でありますように。