今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

霊に関わる人たちの概観

2024年08月28日 | パワー・スピリチュアル

前稿の「についての概観」の続編で、次に霊に関わる(影響を与える、受ける)人たちを分類してみる。
もちろん今回も霊が存在するという心霊論的立場での記述である(私が信じているわけではない)。

これら霊に関わる人たちを、霊能者、霊媒(と審神者)、霊感者、霊障者の4種に分けることができる。
それぞれについて説明する。


1.霊能者
霊能者は、霊に対して働きかけ(制御)ができる人。
より具体的には、霊視すなわち、霊を直観的・抽象的形態で認識できる(霊視認ではない)。
そして霊に対して、口寄せ・除霊・浄霊ができる人。
口寄せは、霊を呼び出して、言いたいことを語らせること(人間を媒介させるのが霊媒)。
除霊は、強制的に霊を取り除くこと。
浄霊は、供養しながら霊に離れてもらうこと(納得ずくめ)で、霊格の向上も可能にする。
このように霊能者は、霊が”視える”よりも、”祓える”ことを要件とする。
また霊の憑依を制御し、憑依を防御したり、他者についた霊を自分に憑かせたり(自分で処理するため)することができる。
生霊に対しても、送ってくる念を遮断できる。
これらのパワーは基本的に霊能者自身の念の力をもってする。
※:念の力については、記事「心理現象としての宗教:システム4」。私が真に興味あるのは、こっち。

霊能者にも能力の差があり、以上の全てができるのが理想であるが、これらの一部が不得意な霊能者もいる。
ちなみに、供養は素人でも可能(除霊は無理)。


2.霊媒審神者(さにわ)
霊媒は、霊が憑く人すなわち憑依ができる人。
レベルに2種類あり、霊の着脱を任意に制御できる人は、職業的な霊媒となれる。
すなわち、シャーマンやイタコである。
着脱が任意に制御できない人は、「霊媒体質」と言われ、霊障を受けやすい。
霊媒は霊の言葉を代弁(媒介)するわけだが、霊が演技したり嘘をつく場合もある。
ということは霊媒を正しく導いて、その言葉を冷静に聞ける人も必要になる。
それを伝統的に審神者(さにわ)という。
審神者は、霊を制御して、思い通りに霊と対話できる人(霊との付き合い方を知っている)で、霊媒の成否を左右する。
御嶽講(普寛系)での「中座」という人がこれに相当し、霊媒に対する霊能者として、霊媒以上の修行が必要とされる。
※:中座による降霊儀式は、木曽御嶽山上でオープンで実施されるので、登山シーズン中、誰でも目の当たりにできる。


3.霊感者
霊に関して、働きかけはできないが、霊を感じる・知覚できる人。
ただ漠然とした”霊感”(感じ)だけだと主観的思い込みとの区別がつかない。

私が命名し、研究対象としている「霊視認者」はこの霊感者に属する。
霊視認者は、覚醒時に明瞭な視覚像で霊を認識(霊視認)する人。
それによって霊の形態(性別・年齢帯、姿勢、服装)など、霊能者の直観的霊視では得られない具体的情報を得ることができる。
私の研究対象とする霊視認者には、必ず視た霊のイラストを描いてもらう。
視認者ならそれが可能だから。
ただし霊能者のように祓うことはできないし、霊と交流することもできない
※:例えば実話心霊コミックの世界でいうと、
霊能者・寺尾玲子氏は、霊視ができるが霊視認は得意でない(できる人にまかせる)。

天宮視子氏は霊視認ができ、霊視もできるが祓う力は寺尾氏より劣るようだ。
伊藤三巳華氏は純粋な霊視認者である(自ら描く)。

霊能力のない純粋な霊視認のタイプ、すなわち霊を視るだけで、音声がなく、コミュニケーションもないタイプを「シャルル・ボネ型霊視認」と名付けたい。
視野欠損による”シャルル・ボネ症候群”の幻視と同質の視認経験だから。
シャルル・ボネ症候群と区別するには、視野欠損がないことが条件となる。
また、その他に統合失調症、薬物依存、てんかんなどの精神・神経障害がない(=幻視でない)ことも条件となる。

一方、覚醒時には霊を感じず、レム(REM)睡眠時に霊を感じる人を「レム霊感者」と名付けたい。
レム霊感者は、レム睡眠という固有の睡眠パターン時に霊を感じる。
レム睡眠は、睡眠の一種だが、覚醒時とは異なる脳の活動状態で、身体は睡眠中だが、自我は目覚めている(意識がある)状態。
ストーリーがあり自己を巻きこむ夢(睡眠後期に多い)を見るのがレム睡眠で、その夢の中に霊が登場する(大抵は悪夢)。
ちなみに、普通の人が見る夢には霊は登場しない(逝去した肉親であっても)。

もう1つは、金縛りで、これは夢見の睡眠とは逆に入眠時に覚醒が残った状態で発生するレム睡眠。
意識は覚醒状態でありながら、身体の筋電位が喪失状態で手足が動かず開眼も発声もできない。
そして五感の幻覚を伴う。
この幻覚がない場合、あるいはあっても霊的な内容でなければ単なる睡眠障害としての「睡眠麻痺」だが、
霊が出てきたり、視覚と触覚の幻覚によって幽体離脱を経験する場合は、霊感とみなせる。
実話心霊コミックの漫画家・山本まゆり氏は長年「レム霊感者」だったが、やがて覚醒時に霊を視認して「霊視覚者」となった。

身体の睡眠であるレム睡眠は、システム0(恒常性維持御能)が低下するので、元々外邪(外界の邪気)の侵入を受けやすい状態
※:たとえば外邪の1つである風邪(ふうじゃ)の侵入を許すと、「風邪(かぜ)を引く」。さらにレム睡眠時の明け方は心停止になりやすい。
それが心霊的にも当てはまるということだ。

霊視認者がいるなら、霊聴認者もありうる。
すなわち、霊の存在を音でのみ認識できる人たち。
ラップ音、ポルターガイスト(騒霊)が出す音、あるいは霊の声(帰宅音)などがその内容。
もちろん幻聴でないことが条件となる(同席者の確認、録音データが必要)。
そうでない場合は幻聴との区別がしにくく、統合失調症の可能性も否定できない(この患者は幻視より幻聴を経験しやすい)。

上に示したように霊能者はたいてい霊感者でもあるが、霊感者は霊能力を前提としない。


4.霊障者
霊障(霊による障害=不都合)を受ける人。
霊能も霊感もないのに、霊障だけ受ける場合がある(最も多い)。
実は霊に対峙する霊能者こそ最も霊障を受けやすい(そのダメージを乗り越えて能力を高めていく)
※:霊障を恐れる人は霊能者の道に進まない方がいい。

霊障は以下の3つに分ける。
①身体反応
医学的に原因不明の不調で、器質疾患や感染症ではない。
慢性的なだるさ、発熱、不快感などに襲われるが、明確な身体的原因が掴めないので、
医師からは「自律神経失調症」「心身症」などと診断される。
すなわち心因性のストレス障害と見なされ、症状はそれらに準じる。
特定部位の痛みあるいは異常な腫れが起こることもあり、その部位が霊障のヒントになりうる。
ちなみに身体反応は除霊後も しばらく残るという。

②憑依反応
霊の直接憑依(乗取り)ではなく、本人の同一性を保ったままの人格変容として、たいてい負の方向への変容する(人間性の低下、凶悪化)。
※:精神病理としての人格乖離(多重人格)は、本人の同一性が保たれず(性別・年齢・氏名などが変わる)、また必ずしも負の方向の人格変容とならない。
ケモノ憑きの場合は、動物的仕草や鳴き声を発する(昭和以前はキツネの鳴き声(「コーン」)を発した例が多かった)。
これ以外の精神反応(抑うつ、不安、妄想、感情鈍麻など)は精神疾患との区別がつかないため、
精神科では確実に精神疾患(うつ病、統合失調症など)と診断される(憑依現象は、精神医学で認められていない)。
これらの反応が霊障で疾患でないなら、除霊後に消失する(疾患だと消失しない)。

③事故・不幸な出来事が続く
同じ種類の事故・不幸が本人あるいは関係者の間で続く(有名なのは「ツタンカーメンの呪い」)。
ただし客観的(統計的)には、偶然である可能性があり、また共時性(意味のある偶然)の可能性もある。
あるいは霊障とは別の理由で運気が低迷する場合もある。


霊障の判断
実はこれが難しい。
事象が霊障であるかの判断は、客観的な基準がないため、霊障者自身は判断の手がかりがない。
判断が可能なのは霊視ができる霊能者なのだが、霊能者の力量によって判断が異なり、その霊能者の力量は霊障者側で判断できない。

なので原因帰属に対する不合理な心理バイアスが発生する。
すなわち、霊障を気にしている人は、なんでも霊障だと思い込むことになる。
そのため自称霊能者が「○○の霊障だ」と自信あり気に断言すれば、それを信じ、
その後に提示される高額なグッズ(壺など)を言われるがまま購入してしまう。
事態はそれで終わらず、その後は雪だるま式に出費が増える。
「霊障」こそ、素朴な素人がカモにされる霊感商法のキーワードなのだ
※:カモにする側の正体はせいぜいケモノ憑きレベルの霊能なので、人間を陥れるのが快感。

まずは「霊障ではない」という前提で対処を試みることを強く勧める。
まともな霊能者なら(たいていの場合)「それは霊障ではない」と言ってくれる(そしてグッズを売りつけない)。
そして本当の霊障だったら、霊能者が祓ってくれる(それができないのは霊能者でない)。
※:何しろ霊障でない場合(因果関係が明確)の方がずっと多いから


実は、ここ数日94歳の母が原因不明のめまい・吐き気で苦しんでいる。
こういうタイミングなので私自身が”霊障”を疑った。
同時期に自室のテレビのリモコンが突然作動しなくなったし(結局買い替えた)
※:電子機器は人より敏感に霊障を受けやすい

ただ、先祖供養は怠っていないし、生霊の心当たりもない(対人関係は良好)。
母のベッドの壁を挟んだ隣の私の部屋では如意輪観音をはじめ吉祥天、薬師如来、不動明王、そして巳年の母の守護神・弁才天を毎朝拝んでいる(それぞれに真言と手印。吉祥天と弁才天は相性の関係で別区画に離している)。
そして仏壇の下に置いてある”ばけたんWARASHI”は、たまに浮遊霊をキャッチする(赤く光る)が、守護霊のキャッチ(青く光る)の方が多い。
めまいで起きられない母は睡眠が多いが、悪夢は見ず、良好で現実的な夢ばかり。
病院でのMRI検査では脳に問題はなかった。
どうやら最大の原因は、水分不足らしい。
そこで、めまいと水毒に改善効果のある漢方薬「五苓散」を与えた。


霊についての概観

2024年08月27日 | パワー・スピリチュアル

実話心霊コミック『魔百合の恐怖報告』25巻を読んだので(記事)、
それに基づいて霊と対峙してきた現場の人による言説から、霊の実態についてまとめてみたい。

ちなみに、これは霊の存在を前提とする心霊論の視点であり、科学的に承認されているものでなく、
私自身もこれを信じる訳ではない(以下、断定的な表現を使うが、私の信念を示すものではない)。


心霊論が存在を前提としているのは、霊だけでなく前世、すなわち死後の転生を認めている。
すなわち人間は死んだ後、霊として存在し続け、時に別の人間として再生する
(人間として再生するかしないかの基準は仏教の六道(ろくどう)輪廻思想で説明できる→人間存在の分かれ道)。
その一方で特定の神・仏の存在は前提されない(そのパワーを借用することはある)。
言い換えれば、霊の存在は、特定の宗教を前提とする理論(観念)的なものではなく(むしろたいての宗教は浮遊霊の存在を認めない)、
リアルな視覚をはじめとする霊との実際の交流を通して得られた経験的なものである(なので理論的整合性は優先されない)。


現在では、霊の正体は、””という心的エネルギーとされる(すなわち物質でない)。
死霊(しりょう)は死してなお残る念、生霊(いきりょう)は生者が発する念、
そして寺社がパワースポットであり続けられるパワーは、宗教者や参拝者による祈りの念の集積による。
念というエネルギー(波動)は物質でない(光を反射しない)ので本来は不可視であるが、
特定の能力のある人(霊能者)はそのセンサーを持っている。
※:量子論的には、波動の方が粒子(物質)よりも根源的存在(状態)。ただし科学的に存在を認定するには波動ならば波長(周波数)、エネルギーならばエネルギー量(Jジュール)が測定されなくてはならない。「エネルギー保存の法則」に従うはずなので、可測的なエネルギーに変換することで間接的に存在を証明できないだろうか。電磁波との相性の良さがヒントになるかも。→霊の音声探知機を購入
ちなみにそのセンサーは宗教的信仰や修行とは無縁である
(無宗教の凡人がセンサーを持つことが多々ある)。
センサーをもっていない大多数の人も、霊からの念の力を悪い方向で受けることがあり、
それが霊障である。
このように心霊の世界は、霊と人の事象とに分けられる。


ここではまず、霊側についてまとめてみる。

霊は、上述したように人間の肉体以外の念に相当する部分であり、
それは本体の生命状態を基準に死霊生霊に分けられる。
ただし霊は必ずしも人間に限定されない。
人間とは無縁で、はるか昔から存在している自然霊がある。
最高格の自然霊はと呼ばれ、空を渡る光の線(龍道)として視覚される
(龍は伝説的なあの形態を示さない)。
人間はそのパワーの恩恵を受けるとよい。
自然霊でずっと格下なのは魑魅魍魎(ちみもうりょう)で、
下手にちょっかいを出さなければ問題はなく、神社の祭りの時に人間と交流する。

人間にちょっかいを出してくるのは低級霊の動物霊で、日本ではキツネで代表されている。
動物は元々は人間より数が多かったが、その多くが人間によって殺された。
なので、人間に怨みをもって悪さをしてくる。
霊として生身の人間よりはパワーがあるので、新興宗教の教祖に憑いて人間を騙したりする。
すなわち霊としては低レベルのパワーを発揮して、素朴な素人を手品的に煙に巻くのが得意(素朴な素人は、同じ人間の振り込め詐欺にも騙される)
動物霊は固有のしつこさと動物臭があり、ちゃんとした霊能者なら見破れる。
※:日本の民間信仰には、この(眷属)レベルの”神様”が多い。

人間の死霊は、世代が進むと先祖霊となり、子孫に対して守護霊の立場にもなる。
それは霊としての成長(浄化)であり、霊格が上がるのが霊の本来進むべき道である。
子孫たちの先祖供養がそれを助ける(先祖霊は守護霊として子孫を助けので互助的関係)。

ただ一部の死霊は自分の死を受け入れ難く、またこの世に執着していて、
霊格を上げることに関心がない。
これらの霊が生きている人や土地に憑いたりして、人間にとって不要の交渉をしてくる。
これら浮遊霊は、仏教的には「未成仏霊」といい、霊能者による浄化が必要となる。

この未成仏霊がたくさんいる場所がある。
古戦場、大災害や空襲のあった所、大病院(特に軍関係)のあった所、自殺者が多い大規模団地などである。
すなわち遺体の霊的処理(供養)が充分でなかった地。

またこれら霊が大勢通る道があり、それを「霊道(れいどう)※という。
※:「霊道」は寺尾玲子氏の命名
霊道は上のような場所や火葬場から寺・墓地に続くことが多いが、
その途上の家の中を通ることがあり、その家では不特定多数の霊が目撃される。
霊能者に頼めばその霊道を移動させることができる。

以上のように、我々は、先祖霊や守護霊だけでなく、
自分と無関係な霊とも接触する機会がある。


それだけでなく、生きている他者から、怨み・嫉妬や羨望の念を受けてしまうこともある。
これが生霊だ。
生霊は、必ずしも本人が意図的に念を送る(呪詛する)場合だけでなく、無自覚の場合もある。
生霊の元は生者なので「浄化」の対象にならない。
また念のパワーは死霊より強い場合が多い(エネルギーがたっぷりあるから)。
心霊的方法でパワーを遮断することも不可能ではないが、
対人関係の調整という非心霊的方法で収めることも可能である。
ただ生霊の発信者は性格的に歪んでいる人が多いので、
むしろ関係を遮断したい相手であることが多い
(「ストーカー」は本人が生霊と化してしまった恐ろしい例)。
※:生霊はSNSを通じても繋がってくるので、文字通りブロックした方がよい。

以上が、霊側のまとめ。
これら霊に対する人間側の影響・対応については次の記事で。→霊に関わる人たち


今まで訪れたスピリチュアル・スポット

2024年05月18日 | パワー・スピリチュアル

私が今まで訪れた場所で、強力な霊気を感じたり、計器が異常反応した所、すなわち心霊(浮遊霊)スポット+神霊(神格化した霊)スポット=スピリチュアル・スポットを紹介する(→記事元記事)。
※:何らかのパワー(力)が計測される”パワースポット”とは定義が異なる。


①東京大手町の将門首塚記事(訪問時の元記事、以下同)
ここはスピリチュアル・スポットとして既に有名だが、その客観的根拠を探りに行った。
その結果、地磁気(直流磁気)の計測によって、客観的な磁気異常を確認した。
まず首塚のある敷地内に入ると地磁気が減少し、首塚に近くにつれ、その減少度が増す。
塚の周囲を巡ると、塚の内部が磁気減衰の中心であることがわかる。
塚の中に強力な反磁性体が埋もれているかのようだ。
年をおいて複数回計測して同じ状態だったので偶然ではない。
そして、このような反応傾向の場所は、他にはない。


②埼玉狭山丘陵のトトロの森1号地付近記事
トトロの森1号地近くのある草むらに近づいたら、首から下げていた”ばけたん”が暴走反応を示し、制御不能になった。
※:固有のアルゴリズムによるお化け探知器。私は初代器から使っていて、霊感の師匠的存在。
いつもはばけたんは自動的に霊を探知していて、探知したのが心霊だと赤く、神霊だと青く光り、あえてその場を探知したい場合は探知ボタンを押すのだが(「何もいない」と緑に光る)、ここに近づくにつれ、赤と緑が交互に点滅し、それが止まらなくなった(こんな反応パターンは正常ではありえない)。
その後、電池切れになったらしく、反応が止まった。
帰宅して外電池を入れるとまたあの点滅になった。
あの場所で、回路が故障したようだ。

実は、ばけたんが暴走した草むらは、1週間前にキャミソールをつけた白骨遺体が発見された場所。
もちろん遺体の痕跡はなかったが、目に見えない何かがその場所に残っていたのかも。
ばけたんは霊の探知だけでなく、防御のバリアを張ることもできる。
ばけたんは身を賭して防御してくれたのか。


③群馬高崎の田村堂記事
ここは幕末の下仁田戦争で水戸の天狗党と戦って死んだ高崎藩士31名と民間人5名の全員が、当時の衣装をまとった木像として作られて祀られているお堂。
その姿が珍しいので、堂内の木像にデジタルカメラを向けて、電源スイッチを入れたら、カメラの動きが途中で止まって撮影不能になってしまった。
急いで堂から出て、外でカメラの電池を入れ直すと、今度は無事にスイッチが作動した。
これは「撮ってくれるな」という彼らの霊からのメッセージだと思い、もちろん堂内でカメラを向けることは止め、改めて合掌して死者たちの冥福を祈った。

このようにデジタル機器が反応することはよくあることで、それを利用した霊探知器もある。


④千葉県成田東勝寺の霊宝殿
江戸時代の義民・佐倉宗吾の墓のある東勝寺境内にある宗吾の遺品などを展示する建物。
館内に入ると”ばけたん”がにわかに青く光った。
館名はともかく、展示館の中で光ったことに驚いたが、後ろを振り返ると、そこには宗吾と連座した子どもたちの位牌が祀られていた。
彼らの死を悼む後世の人たちの祈りで霊が浄化されたのだ。


スピリチュアルブームの危険性

2024年02月10日 | パワー・スピリチュアル

私自身のスピリチュアル志向には論理的必然性があるものの、世の”スビリチュアルブーム”には全く関心ないし、危険だとすら思っている
(それだったら”超能力ブーム”の方が、超心理学という実証的心理学に準拠しているので、まだマシ)。

最もストレートな危惧は、自称”霊能者”に騙されること(詐欺やセクハラの被害を受け、果ては人生を狂わされる)。
なぜなら、システム2が心の最上位レベル(=システム3に達していない)の常人には、霊能者の真偽の区別がつかないため
(尤も、大抵の偽者は、システム2の科学的・論理的思考で見破れる)。

私自身のスピリチュアル志向は、人間の心を構成しているシステム2(思考・想像する心)の欠点に達し、その欠点に対処するためで、
その結果、より超越的なシステム3(瞑想)、そしてシステム4(スピリチュアリティ)の扉を開けた(仏教もこれに対応している)。
すなわち、知性(システム2)が十全に作動していることが前提となっている。

システム2をきちんと鍛えない人は、システム2を超越するどころか、システム2の欠点である神話的思考(想像と現実の混同)の罠に嵌(はま)っていく。
自称霊能者の頭(システム2)が捏造した神話(お話)を、”スピリチュアルな世界”と思いこまされる。
素朴なシステム2だと”辻褄が合う”だけで納得してしまうから。
実はそれこそがシステム2の限界(欠点)なのだが、本人はそれを超越したと思い込んでしまう(その結果、その人の霊的成長はそのレベルで停止する)。

スピリチュアリティ(霊性)の世界は、確かに””の力が発揮されるが、それはシステム2の単なる頭の中での念(妄想)とは異なるもので、
心がシステム4に達していない常人ではその違いがわからない。

そういう危険性があるから、「正しい師につけ」(正しくない師につくな)という教えがあるのだが、
上述したようにそもそもこのレベルの人は師の正邪を判断する眼を持っていない。

あえて「師を求めるな」と語ったクリシュナムルティは、安易に師を求めることは、自分の願望を投影した”師”に嵌ってしまうことを危惧した。
まさに、麻原彰晃を師(グル)としたオウム真理教の信者たちがそうだった。
※:子供時代に神智学のトップに見出され、やがて自身が神智学協会のトップに立った途端それを解散した。教団という社会集団自体が反・霊的であることを痛感していたのだ。
ちなみに、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)も満足する師に出会えず、結局一人で悟りを開いた。その後の釈尊はサンガ(出家集団)を組織したが、そのサンガこそ仏教史上最も”正しい師”の元にあったといえる。

現世レベルでの正邪を見極める眼は、システム2(思考能力)を正しく鍛えることで達成できる。

正しいスピリチュアリティに達するのに抜け道はない(能力差はある)。
システム2をきちんと鍛え(「正見」=正しく見る努力)、システム3(「正定」=正しい瞑想による正見の実現)でシステム2の妄想支配から脱し、
そしてやっと真正のシステム4の扉を開けられる。

こう言ってもいい。
思考している自分から脱するシステム3に達しないと、すなわち通常のシステム2レベルだと、システム4(霊性)とシステム2(妄念)との区別がつかない。
真っ当な霊性に達したいなら、まずはシステム2を十全に作動させ、さらにきちんと手順を踏んでシステム3を作動させて、システム2の限界を乗り越えること。


2024年を易で占う

2023年12月22日 | パワー・スピリチュアル

毎年冬至の日に、易で翌年の占筮(せんぜい)をする。
占う対象は、自分を含む漠然とした”世間”。

2023年の冬至の今日は、今年最後の担当授業と会議を終えて帰京したので、夕食後、東京宅で「冬至の占筮」をした。

筮竹をさばいて中筮法で爻(陰陽の確定)を6度出した結果、得た卦(か)は「火水未済」だが、初爻と上爻が変爻だったので、それが「雷沢帰妹」の卦に変わると出た。
前者の「未済」は未完成の意で、「成らぬ」というより「まだ成らぬ」卦。
後者の「帰妹」は「そうしない方がよい」という、再選択を求める卦。

前者を来年の前半、後者を後半とみなすと、前半は混沌として動き出すには早い状態で、後半は動こうとした方向には実は進まない方がよい(政策ミス?)、という、いずれも慎重運を示したもの。

ちなみに、昨年の年筮で出た今年の卦は、前半が「山沢損」、後半が「離為火」と出たので、前半は停滞するが、後半は上向く卦だった。
それに対し来年は、今年後半の上昇機運から再び混沌に陥り、しかも選んだ方向が誤るという、年間を通して未達成となる良くない卦だ。
ここ数年、年筮を続けているが、一向に確固とした良運にならない。


霊の音声探知機を購入

2023年06月23日 | パワー・スピリチュアル

「ばけたん」という信頼性のある霊の探知機を長年(初代ばけたん以来全てのバージョンを)愛用しているが、客観的に探知するには、1機種だけに頼らず多重性が必要。

そこで、海外で定評のある外国製の Sprit Box(P-Sb7T)なる霊の音声探知機を購入した。
かように、私こと”計測マン”はスピリチュアルの領域にも進出している。

この装置はラジオ波(AM,FM)を走査するもので、原理はラジオそのものだが、ラジオ視聴より周波数走査を優先しているのが特徴。
走査帯域と速度(精度)を変更することで、探索的に霊の声を拾おうというもの。

この装置の仮説は、霊はラジオ周波数帯域(AM:520-1710kHz,FM:87.5-108MHz)で音声を発するということ。
ちなみに生身の人間の声は、大まかに100-3000 Hz程度だ。
霊の声がなんでラジオ周波数帯域なのか私は知らないが、霊の姿を可視領域よりも高周波帯域を測定する電磁波計で捕捉しようとしているのと対応しているのか。

ネットなどでは、この装置を夜の墓場などで使用したりしているが、”夜の墓場”に霊がいると思うのは、霊が見えない人の恐怖心を根拠とした主観的思い込み(墓場にいるのは魂ではなく肉体の残骸の魄)。

そもそも霊は怖くはい。
実際の霊視認者(霊が視覚像として明確に見える人)によると、地上に残っている霊は、人恋しいのだから、昼間、人が大勢集まる所にこそいるという(霊はドラキュラではないので、太陽光下でも平気)。


手相は統計学ではない

2023年06月14日 | パワー・スピリチュアル

「手相は統計学である」という嘘を、いまだに言う人がいて呆れる。

その人は「統計学」がなんたるかを知らない。
知らない概念を使って断定しているのであるから、その命題は意味不明な妄言でしかない。

統計学とは、データを集計する応用数学である。

データを集計する基本は、データ数とのその合計である。
この計算結果に準拠しないものは統計学ではない。

特定の手相の人が、どういう状態(知性・寿命など)だったかという、2つの変数間の相関性を判断するには、データをとった人たちから、ある状態だった人は幾人、そうでない人は幾人という集計結果を明らかにする必要がある。
そして、それらのデータによって、2変数間の関連性の強さの指標である「相関係数」が算出される(上の場合、正確にはクロス表分析による連関係数の算出だが、ここでは2変数間の相関性を説明したいので、より一般的な相関係数に置き換える)
それによって特定の手相たとえば生命線の長さと寿命の長さとの相関関係が強いか弱いか、0(無相関)とみなして良いかまで判断できる。
これが統計学。

こういうことを一切しないどころか、幾人のデータを元にしているか、それに該当すのは幾人かの%すら示さないのは、小中学生レベルの集計ですらない。

なので手相は統計学ではないと断言する。
それでも統計学と強弁するなら、統計学の数学的根拠は確率論であるから、手相は確率現象ということになり、決して”断定”できない(手相が真にデータに基づいているなら、あなたが○○である確率は65%というように確率表現ができる)

いやしくも「〜学」というなら、その学の要件を満たさなくてはならない。
それが知性ある人間が構成する世界の常識というものだ。

それに対し、易(えき)占いは、データに基づいて帰納的に構成されたものではなく、陰陽理論に基づく演繹的論定であるから、原理的に統計学ではない。

一方手相は、陰陽理論に基づくものでもない
なら手相の論拠はいったいどこ(那辺)にあるのか。
※:易は運気の絶え間ない変動を重視する運命論、手相は誕生時にすでに決まっているという宿命論という違いもある。


(浮遊)霊の宗教的根拠

2023年02月10日 | パワー・スピリチュアル

”霊”という概念は、肉体的生命に対立する存在、という基本はあるものの、例えば現代スピリチュアリティ(霊性)論と日本の通俗的霊概念とではかなり隔たりがある。
このため、霊を学術的に扱う場合、概念定義を明確にする必要がある。
私は本来は霊性(スピリチュアリティ)の問題として接近したいのだが、当面対象とするのは「霊が視える」という現象なので、こちらの通俗的霊概念についてまずは整理しておく。

「霊が見える」という場合の見える対象の霊は、死霊でも生き霊でも、いずれも元の生体から遊離した”浮遊霊”を意味する(本体から浮遊している意味のため、地縛霊も含まれる)。
見えた対象としての”幽霊”は、死霊の浮遊霊に他ならない。

そもそも人は死ぬと上の意味での霊(浮遊霊)になるという考えはどこから来ているのか。
実は、既存のメジャーな宗教は上の意味での”霊”を否定している。
メジャーな宗教は、現世以外の別世界(他界)を想定していて、人は死ぬとこの世から離れてその他界に行くものとみなしている。
宗教としては素朴な神道でさえ、死者は”黄泉(よみ)の国”に行くし、民俗信仰レベルでは”山”が他界だった。→山は異界である
キリスト教では、審判の後、天国か地獄のどちらかに行き先が決まる。
仏教(本来は自我さえ否定するので死後の霊などありえないのだが)では、宗教(=物語)化された教理としては、人は六道という(人間界を含む)6種類の世界※への輪廻転生をしていて、仏道修行によってその輪廻の苦しみから抜け出られる(成仏)という。
※:天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄
これが通俗化されると、キリスト教と類似して、閻魔大王(道教の十王と習合)の裁きによって大抵は(誰でも何がしか悪いことをしたことがあるから)地獄行きとなるのだが、一部、阿弥陀如来の誓願によって、悪人ですら極楽往生が約束されているとみなす宗派(浄土真宗)もある。
※:極楽は天国ではなく、快適な環境で仏道修行ができる天界の1つ

要するに、宗教では本来は、人は死ぬと”他界”に行くと理論づけられているので、浮遊霊を認める余地がない。

もっとも、身の回りの現実の宗教・宗派では、この後示す霊を認める思想と習合するのだが、浄土真宗だけは今でもキッパリと浮遊霊の存在を認めない(なので浄土真宗の葬儀では「御霊前」は使わない)。

では、浮遊霊を思想的に認める宗教を紹介する。
儒教だ。
ここでいう儒教は、孔子を開祖として人倫思想的に発展したいわゆる儒学ではなく、孔子の生家が営んでいた当時の葬儀にまつわる民間信仰的な宗教(=儒)をさす(孔子自身はこの話題を意識的に避けて語ろうとしなかった)
この宗教は、日本の神道を含む東北アジアに共通する宗教メンタリティを持っているため、南アジア由来の仏教よりも、日本人に素直に受容された(仏教は儒教化されて受容された)。
ただし、仏教などに比べると、あの世に対する想像力が貧弱で、その後の儒学と同様、子孫の儀式という現世ばかりに目がいっているため(生き方の指針のための儒学ならそれでいいとしても)、死後の問題については浅さを禁じ得ない。
だが、その浅さゆえに、深遠な宗教思想よりは、庶民には理解しやすかったのも事実。
ではその霊思想を示そう。

生きている人間は、(こん)(はく)とから成り、魂・魄が一体となっているのが生きている状態である。
そして死とは、魂・魄が分離することであり、魄は遺体として残り(朽ち果て)、魂は魄(肉体)から離れて浮遊する。
浮遊して天に行きたいのだが(天の内実についての言及がない)、天に届かず、浮遊したままの魂もある。
その魂に対応する魄の名残があれば、再び合体して再生できるので、遺族は魄としての依代(位牌)を保管しておく(位牌・祖先崇拝は仏教ではなく儒教の風習)。
そして依代がなく、浮遊したまま行き場を失った魂を”(き)”という。

この鬼こそが、(浮遊)霊に相当する。
ただし鬼は日本ではご存知の通り、特定の形態をもった下等霊(妖怪)に限定され、形態のない状態は霊(御霊:ごりょう)と表現する。

御霊は、菅原道真のそれが有名なように、生前の怨念などがエネルギーとなって、落雷や疫病など人間業(わざ)を超えたパワーを発揮するとされる。
パワーを備えた形態のない存在は日本でいえば”神”に相当する。
なので神道では御霊を神として持ち上げ、その怒りを鎮める儀式が必要となった。
※菅原道真は天神様として祀られ、今では学問神(善神)となっている。平将門も怨霊ではなく神となって神田明神に祀られている。

また仏教においても霊を位置づけせざるを得なくなり、たとえば死から審判(結審)までの49日間は、霊(死後の仏になる前の状態)の行き先が決まらずに浮遊するとか、あるいは横死など葬儀・供養されなかった場合は、あの世に行けずに霊として浮遊するという考えも広まった。
そして仏教の法力によって、これらの霊を”成仏”させる(正しくは霊が本来行くべきの六道のいずれかに導く)という論理が成立する。
※:この安直な解決法が、死者=ホトケという仏教の論理に反する図式を蔓延させてしまう。

かように、浮遊霊の概念は儒教の”鬼”概念に由来するといえる。

ただ逆に言えば、なぜ”死者は(必ず)あの世に行く”という真っ当な宗教思想がほころんでしまったのか。
これは西洋においても同様で、キリスト教でも本来は幽霊(ゴースト)は存在しえないのだが、幽霊という概念がキリスト教徒の間にも存在している。
日本と違って、儒教の影響とは言えない。

高度に理論化された宗教の合間を縫って、その論理に反してでも湧き出てしまう幽霊。
その強固な基盤は、頭で考えられただけの”他界”とは違って、一部の人には確実に、否定しがたく”霊”が見えたからではないか。
というのも、霊視者はもともと浮遊霊の存在を信じていたわけではなく、外界に見えるから信じざるを得なくなったからである(逆に浮遊霊の存在を信じれば誰でも霊が視える、とはならない)。
ただ、浮遊霊の概念を理論化し、広めたのは、少数の霊視者ではなく、霊は見えないけど信じた人たち(流言の拡散と同じ社会心理メカニズム。人は物語を好む)。

ということもあって、私にとっても霊を頭で考える観念としてよりも、リアルな知覚対象としてまずはとらえてみようと思うわけである。

参考文献:加地伸行『沈黙の宗教−儒教』筑摩書房


「霊が見える」という心理現象の探求

2023年01月21日 | パワー・スピリチュアル

今年からの研究テーマとして「霊が見える」という心理現象を真面目に扱うことにする。

本当に「霊が見える」という人が少数ながら一定数いて、本人自身がその経験を扱いあぐねているようだ。
そして、そう言明することで周囲から変な目で見られてしまうため、秘匿していることが多い(幾人かはその経験を本にしている)。

私自身は、見えるとされる”霊”が客観的に実在するとは思っていない(思えない)。

ただし「霊が見える」という知覚経験(以下、霊視)を心理現象として存在することを認めることで、少なくとも心理学の研究対象としたい。

このように霊視現象を、素朴に”霊が外的に実在する”とは認めずに、まずは心理現象すなわち主観的経験として認め、その次元で霊視経験を批判的に精査することで、霊が外的に実在するか否かの判断に導きたい。

このような態度で心理現象として扱うには次のチェックを要する。

①虚言でないこと
この第一関門で、日常的に出回っている”霊視”言明の多くは脱落するかもしれない。ここをチェックするには、言明者の人格特性の確認が必要であるため、きちんとした面談が必要(それを経ない報告だけの情報は採用しない)。特に顕示性性格者が本人も信じてつく虚言癖※のチェックが必須(こういう人は霊視以外でも日常的にホラを吹く)。
※:霊が見えるお笑い芸人・シークエンスはやともによると、テレビに出る(自称)霊能者にも実は”見えていない”人がいるらしい。それは見える人からみれば分かるという(『ヤバい生き霊』より)。

②錯視(錯覚)ではないか
霊視を(検討もせずに)錯視と断じている科学者がいて、確かに瞬間的な”霊視”経験は錯視であることが多いが、その場合は一部の人ではなく、多くの人がそう反応するはず。さらによく見れば本人でも錯視と分かるもので(幽霊の正体見たり枯れ尾花)、実は本人でチェック済みが多い。ただし視覚上(網膜像)のトラブルの可能性があるので、視野のチェックは必要。

③幻視(幻覚)ではないか
視覚現象は最終的には脳の現象なので、網膜上に映らない映像も”見る”ことは可能(夢がその実例)。ただ覚醒中の幻視は錯視のように誰でも経験するものではなく、また一時的で再現性がない(錯視は恒常的)。
まずは、脳(視覚中枢)の機能障害の有無を確認する(専門的な検査ではなく、中枢性の視覚障害があるかの確認でよい)。
また幻覚症状を呈する精神病理(統合失調症、アルコール・薬物依存など)の有無もチェックする。

以上の虚言、錯視、幻視の可能性を徹底的にチェックし、これらで説明できるものは(””なしの)霊視現象とは認めない。

そしてこれらの関門をクリアして、霊視現象と認められた事例は、その内容を詳細にデータ(変数)化し、他の心理現象と同じく客観的な分析対象とする。
分析結果の考察(解釈)については、霊を実在視する既存の神話(宗教)的な解釈図式は採用せず、データのみを根拠としてボトムアップ的に理論化を試みる。

以上を今年から実行するつもり。
というのも、大学教員をやっていると、霊視者は意外に身近にいるから(統計分析に堪える人数には達しないが)。
来年度中に執筆するので、論文として公開されるのは、早くて2024年3月となる。


付知峡の宮島源平古戦場跡を訪れる

2023年01月16日 | パワー・スピリチュアル

中津川に滞在するので、ここはひとつ付知(つけち)峡まで足を伸ばし、その入り口にある”宮島源平古戦場跡”を訪れることにする。

宮島源平古戦場跡とは、平安末の源平合戦跡の1つではなく、戦国時代になって、平氏の末裔の三木氏の軍が、源氏・木曽義仲の末裔義元を襲ったという平安末以来の因縁に基づく戦国合戦。
その跡地には、木曽氏側の義元をはじめとする戦死者を祀った宮島神社がある。

私が訪れる理由は、古戦場巡りではなく、この古戦場が、対岸のキャンプ場でキャンプをしていた小学生が生まれて最初に霊を視た場所だったから。

その小学生は今は成人しており、本人から上の話を聞いたばかりで、たまたま私が中津川にいるので、訪れようと思ったわけだ。

もっとも私自身は霊は視えないので、霊視が目的ではなく、そういう因縁のある場所の計測と必要なら浄化が目的。

GoogleMapを頼りに車で宮島神社を目指し、行きついた所は付知峡キャンプ場。
神社への道は今は閉鎖中のキャンプ場入り口にあるが、道が破壊されていてとても登れない。
その登り口に、石が置いてあって”塚”と見えるものが3つ並んであり、そこから少し離れた1つには日本酒が奉納してある(写真)。
なのでまずはこれらの塚に対して合掌して光明真言を唱え、その後”ばけたん”で探知すると、青緑に光った。

他に神社に行く道を探して歩きまわると、神社のある丸山の北側からかすかな踏み跡を発見。
そちらから登ると、案の定、山頂の神社に達した。

小さな社殿の脇には「南無阿弥陀仏」と掘られた真新しい石塔があり、地元の家の墓標のようだ(掘られている家紋は清和源氏の「笹リンドウ」ではない)
この石塔には念仏を、戦死者を祀る神社に対しては神式に参拝して光明真言を唱えて、ばけたんで探知すると、緑色に光った。
緑色は「何もない」、青緑は「良い霊の出現に期待」という結果。
きちんと祀れらていることでも納得できるように、少なくとも付近に悪い霊はいないようで、あえて浄化するまでもない(もっとも私にたいした浄化パワーはないが)。

神社のある丸山周囲の平地には、同様な塚があちこちあり、集落の周囲にある墓と区別がつかない感じ。

このように、これからは”霊”に関係する記事が増えていくと思う。


2023年を易で占う

2022年12月31日 | パワー・スピリチュアル

易では冬至の日に翌年を占う(年筮)ので、私も毎年そうしているが、今年の冬至の日を失念してしまったので、大晦日の今日、年筮をやってみた。

ちなみに、昨年の年筮では、今年は「天水訟」と出たので、争いが起きると読んだ。
果たして2月にロシアのウクライナ侵略が発生したが、「訟」は戦争というより言い争いレベル。
もっとも我々日本人にとっては、戦争の当事者でないので、対岸の火事的ということか。

さて、来年の卦は「山沢損」と出たが、2・3・4爻が変爻なので「離為火」に変わる。
よって、来年の前半は「損」、後半は「離」とみなす。
損は、まさに損(目減り)することで、物価高(値上げ)や増税に見舞われるようだ。
だが後半になると、正しい選択(特に相手)をすれば運気が上昇して、活性化できそう。
前半は自重し、後半は上昇気流に乗るといい。

皆さんにとっても、来年は良い一年でありますように。


将門塚のパワー再計測

2022年12月12日 | パワー・スピリチュアル

東京千代田区大手町にある将門(まさかど)の(首)塚は、以前(2012年)地磁気を測ったら、塚に近づくにつれて磁気の値が減少したと報告した(→記事)。
その後、塚が再整備され、計りやすくなったようなので、また当時は結構ビビっていて、正しく計測できなかったので、再計測に行った。

三井のビルに囲まれたそこは、以前よりも広々と整備され、また塚の前に「南無阿弥陀仏」という石碑が建っている(写真:南東下図③方向から)
平日の午前中というのに、参拝者が引も切らない。

早速、地磁気を測ろうとテスラメータのスイッチを入れたら、値が変動して落ち着かない。
近くの交差点に戻って、そこで計測しても変動するので、計測モードを交流にしてみたら0.9μTほどの強さで振動している。
普通屋外では(交流電気に伴う)交流磁気は計測されないが、周囲がビル街なので交流電気が強いようだ。
この地域のバックグラウンドとしての直流磁気としても50±3μT(以下、同単位)と高め。

さて再び、塚に赴き、まず敷地内のバックグラウンドとして、塚から西に離れた⑧(下図)は52。

次に石碑背後の石塔(埋まっているものの真上)周囲(石段の下の砂利に立って)を測定する(右図の①〜⑦。②と⑥の間にあるのが塚の上の石塔)。
整備前の前回は正面(⑧→④からの⑦-①面)以外の周囲には足を入れられなかった。
地磁気の計測は磁北極にセンサーを向けて(図の③→⑦方向)、緯度に等しい俯角に向ける必要がある。
なので周囲といっても、計測方向と塚中心部の位置が合うのは③のみで、⑤〜⑦は塚と反対側(図の上方向)にセンサーを向けなくてはならない。
各ポイントの計測結果を以下に示す。
①37,②35,③31、④31、⑤41、⑥45、⑦46

まず塚の周囲全体が、バックグラウンドたる⑧より低く、さらに塚の中心部にセンサーをむけている③とそれに近い④の値が最も低くなった。
やはり今回も、塚は異常に磁気が低いことが確認された(塚の外側でこれほど磁気が低いということは、塚の内部にあるのは強力な反磁性体か)。

次に霊気を測ろうと、首に下げた「ばけたん霊石」のスイッチを入れたが、つかない。
今朝はちゃんと室内の良い霊気を検知していたのに。

実は以前にも、ばけたんは強い霊気の場で反応がおかしくなったことがある→記事
ここの霊気が強すぎたのかもしれない。

霊気はともかく、物理的計測である磁気は異常値を示したのだから、改めてここをパワースポットと認定する(「パワースポット認定士」を自認する私としては、計測的根拠のない所はパワースポットと認めない)

将門塚を訪れた後は、将門を神と祀る神田明神に行って、将門の霊を敬したい。
神田明神は、あいにく境内の清掃中で落ち着かなかったが、社殿と大黒天像南側(写真:灯籠の左側)が31と低かった。
境内のバックグラウンドは42(この値は東京宅と同じでこちらが東京の標準値といえそう。将門塚周囲は値が高すぎる)。
ただ社殿のような建築物はあちこちに金属が使われているので、それらに近寄ると磁気値に変動を示すことが普通にある。
大黒天像(石像)は、将門塚に来ていた人から教えられたスポットで、見た目は心が動かされなかったが、測ってみると確かに異常値を示した(石像からは1m以上離れての計測)。


月瀬の大杉はパワースポット

2022年06月19日 | パワー・スピリチュアル

長野県根羽村月瀬(つきがせ)にある月瀬の大杉(県内一の巨樹で、天然記念物)は、過去2回の計測で、いずれも静電位異常を示した。

各地のスポットのパワー(力)を物理的に計測しているが、磁気の異常はあっても静電位の異常は珍しい。

今回、茶臼山カエル館(第一のパワースポット)に行く道すがら、月瀬の大杉の3回目の計測を行なった。

すると今回は、+0.11Vとプラス側に傾いていた。
これほどの値は、通常の屋外では計測されない(±0.02Vは誤差の範囲)。
また、以前は大杉周囲に張ってある縄の電位だけが高かったが、今回は大杉周囲の空気中で高かった(縄だけが高いのではない)。

ただ、写真をよくみると、電線が大杉に接近している。
仮に電線と接触していると、その影響での帯電ともとれるが、電線が木に接触していたら、電力会社がそれを放置しないはず。
実際、値が高かったのは電線の真下ではない。

以上から、3度の計測によって、静電位というポテンシャルパワーが偶然でなく存在していることが確認された。
来訪者による生体反応のデータはないが(虫歯に霊験ありという伝説はパワーとして採用しない)、県内一という巨樹(樹齢1800年ほど=卑弥呼の時代)であることそれ自体が生物学的パワーの証拠となるので、ここを「パワースポット」と認定したい。

根羽村においては、カエル館に次ぐ2つめの私(自称パワースポット鑑定士※)が認定したパワースポットとなる。
※:私はパワーの客観的根拠のないそこらの”パワースポット”は認めない。

ちなみに、同村内にある「亀甲(かめのこ)石」も磁気異常が計測されている。


大鹿村の新しい磁気スポット

2022年06月01日 | パワー・スピリチュアル

大鹿村の”磁場坂”は私の計測では、道路端のガードレールが帯磁していて、他方端が電気柵が作動中だったが、空気中の磁気は通常値なので、磁気スポットとは認定できない。

実は、大鹿村に行った目的はそこではなく、人づてに聞いた別のスポット。

そこは塩川にかかる橋で、近くの個人宅も磁気が高いといわれていた。

鹿塩温泉に泊まった翌日、その地に行き、さっそく計測開始(写真)。
まず、橋の手前の広い所(写真では奥)で基準となる地磁気の値を計測し、48.9μTを得た(納得できる値)。

目的の橋の欄干は左右両側とも350μT以上(計器の計測限界)に帯磁している(路上の鉄製構造物が帯磁しているのは、工事の時の電動ドリルによるもので、よくあること)。

ただ、橋の上流側(写真の手前)から4個目の欄干の位置にある道の中央(欄干の磁界の影響は受けない距離)で64.4μTと空気中で高目に出た(磁場坂にはこれがなかった)。
さらに橋の手前(写真の奥)から左側3個目の欄干の位置にある道の中央では、41.8μTと基準(地磁気)より低い値になった。
帯磁すればその分基準の地磁気より高い値となるが、人工物の影響を受けない空間で地磁気より低くなるのは珍しい(もちろん磁気は方位がずれると値が小さくなるので、計測値はその地点での最大値→地磁気の正しい測り方)。

次に個人宅にお邪魔して、家の周囲を測らせてもらった。
家の前にある長い鉄柵の両端が帯磁しており、これらは不要な帯磁と思い、許可を得て消磁した。
また壁面を伝う鉄管の一部が強く帯磁していたので、そこも同様に消磁した。
かように今回から、”消磁マン”としても活動する。

そこの主人から、付近で不思議な犬の現象(鹿の死骸を口を真っ赤にして食べる二匹の白いかわいい子犬が人の合掌の手のように互いに立って寄り添ってじゃれあっていたと思ったら、目を離した数分後に鹿の死骸ごと跡形もなく消えた)を経験(3名で確認)し、それと同じことが20年前にもあったことを知ったというのを聞いた。

書籍にもなっている”山の不思議な話”においても、山の動物はそれなりに登場する(山は”異界”なのだ)。

実はここの近くに”三峯(みつみね)”という祠があり、それについて尋ねると、最近の大雨による出水時(そのせいで林道が破壊されたので改修工事中)に溢れた塩川の水が、三峯様の鳥居を避けるように道路を越えたという。
そもそもなんで大鹿村の山奥に、秩父の三峯様が祀ってあるのかというと、主人によれば、同じ大鹿村の荒川岳(3083m)を開いた人が三峰※の人だったという(秩父の三峰の前を流れる川も”荒川”)。
※:地名は三峰、神社名は三峯

三峯神社の御眷属である大口真神(おおくちのまがみ)はオオカミ(山犬)。
ということは、さきほどの山の犬の不思議な話も三峯様と関係ありそう。
そう話していたら、ここの宅内にも三峯神社のお札が祀ってあった。

三峯様は、道路脇の岩山の上にあり、この家を含めた塩川最奥の集落で管理しているという。
岩山を登って、祠に参拝し、祠の前でバケタンのスイッチを入れて探知したら、水色となり「守護霊の出現を期待できる」とのお告げ。
これは宅内での探知結果と同じだったので、この付近一帯が三峯様に守られているようだ。

磁気計測に来て、この地は”磁場坂”以上の磁気スポットと確認できた。
それだけでなく、この地は”三峯様”のパワーの圏内でもあるようだ。


新城のパワスポ計測:百間滝、鳳来寺の弁天堂

2022年05月17日 | パワー・スピリチュアル

今回の旅の目的の1つは、愛知県新城(しんしろ)市内のパワースポットの計測。

このあたりのパワースポットとして一番有名なのは百間滝
滝としてはより手前にある阿寺七滝の方が有名だが、パワスポとしては百間滝の方が知られているようだ。

といっても、私にとってのパワースポットは、何らかのパワーが計測され、しかも生体反応を及ぼすレベルでないと認定しない。

すなわち、パワーの正体と効果が明確でない、口だけの自称”パワースポット”は認めない。
それらの多くの”パワースポット”は、無根拠の僭称か、生体反応らしきものでも主観的な思い込みやプラシーボ効果にすぎない。


百間滝は、茶臼山カエル館の常連客の一人から、ここはパワーがあると言われたので、行ってみる事にした。
前の晩に浜名湖に泊まって、そこから北上したが、こちら方面からの滝までの道は工事による通行止め(5月31日まで)のため、北の貯水池からの迂回路を通った。
滝入口には車2台分の駐車スペースがあり、1台分空きがあったので、そこに止めた(結構次から次に車が訪れる)。
まずはここで地磁気を測ると49.1μTの正常値。
静電位は+0.03V で、イオンバランスを測ると+側に5V。
急な道を下っていくと、まず滝の頭への左へ分岐があり、さらに下っていくと、滝見台的な場所に出て、滝の上部から滝つぼまで見渡せる(写真)。
水量も落差もある見事な滝だ。
滝の飛沫が届く所で測ると、電位は-0.07Vとなり、イオンバランスは-側に5Vとなった。
地磁気は変化なし。

バケタン(霊気探知器)のスイッチをオンにすると、緑となり、「何もない」という反応。
パワーの有無の判定をしようと、ダウジング・ロッドを握ってみたが、滝からの風でロッドが動かされ、判定不能。
このように、陰イオンに傾いたが、パワーは計測できなかった(もちろん滝は、位置エネルギーを運動エネルギーに変換する重力パワーを発揮しているが、そういうシンプルな力学現象ならあえてパワースポットという必要はない)
滝の近くで空気が陰イオンに傾くのはよくあることで珍しくはない(いわゆる”マイナスイオン”)。

なので、私はここをパワースポットとは認定しない。


ここから湯谷温泉に向う途中に「不っ田の七滝」というのがあったので、立ち寄った。
その奥にはその奥に中央構造線の露頭がある(日本最大の活断層の活動の跡)。
不っ田の七滝入口には、私設の駐車スペースがあり100円入れる。
七滝は遠方からだと全部見えるが、近づくと上部は視野から外れる。
滝の近くには自由に突ける鐘があり、苔むした石の不動様が祀ってあるので、不動の印を結んで真言を三唱する。
かように宗教的なパワーが期待される所だが、静電位は-0.01vで、百間滝より低かった(百間滝の方が物理パワーがあるといえる)。


湯谷温泉で泊った翌日、鳳来寺の参道沿いにある「なんじゃが池弁財天」に立ち寄る。
ここはパワースポットとしては知られていないが、私のブログの読者から、ここで強い生体反応を得たので調べてほしいと前々から依頼されていた。

鳳来寺の参道を進むと、高校の先の道路右側に幟が立っていて、池を渡った先に小さな祠(弁天堂)がある(写真)。

まず、池の手前で地磁気を計測し、49μTの正常値を確認(静電位は計測されない)。
池を渡る通路上(写真中央)で(直流)磁気の値が上がり、渡った先の弁天堂の前でも同じく高い。

通路の両側にある(幟の立っている)鉄製の欄干が磁化したものと思い、欄干に計器を近づけると値はどんどん上がり、堂側に立って右側の欄干の端(下写真右手前)でも200μT(以下同単位)、左側の欄干の端(下写真左手前)で300を超えた(地磁気の6倍の値)。
振り返って弁手堂のトタンの屋根を測ると、向って左端が90、中央が130、右端が200。
弁天堂の右端と、欄干の左端は同じ側(下写真左側)なので、弁天堂に向った位置(上写真)でいうと右側の空間の値が高い。
ちなみに、弁天堂周囲の土の地面の上は正常値。

実は屋外にある鉄の構造物が磁化することは珍しいことではない。
実際、弁天堂に沿った道路の向い側にあるガードレール(上写真を撮った場所の背後)も100を超えている。
バケタンでの探知結果は緑で、霊気的には「なにもない」という結果。

といっても人工構造物でも強く磁化している場合、生体反応をもたらすことがあるのも事実(茶臼山カエル館のように)。
実はいくら300あっても、直流磁気の場合はμTレベルでは本来なら生体反応は起きない(磁気ネックレスは千倍のmTレベル)。

磁気が自然状態よりは強く計測されるも、同時にその磁気の強さでは説明できない生体反応が起きるのは、磁気としても測定される別のパワーの存在が示唆される。
そのパワーこそが、パワースポットの正体といえる。

ここ”なんじゃが池弁財天”は、まずは生体反応が報告され、そして今日、磁気異常が確認されたので、パワースポットと認定せざるを得ない。