今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ハンドルを取られても歩行者を轢かない方法

2021年06月29日 | 防災・安全

千葉県八街(やちまた)市で、下校中の児童たちにトラックが突っ込むという痛ましい事故が発生した。
事故を招いた要因として、通学路としての道路管理の問題(数年前にも事故が起きている)も運転手の飲酒(本人だけでなく雇っている会社レベル)の問題もあるが、直接原因そのものが避けられたのではないかと思う。

すなわち、運転行動そのもの。
言い換えれば、この事故は飲酒していなくても、ドライバーの行動特性からみて起りうる事故だ。

直接原因は、ドライバーのハンドル操作を中心とする運転行動にあった。
つまり、走行中、右側から人影が出てきたと思ったので(客観的には確認されていない)、左にハンドルを切ったら、道路脇の電柱に衝突し、そのまま突進して、小学生たちの列につっこんだ。

一般にドライバーは、急に車の進行方向がずれた時、そのずれを回復するために、ハンドル操作に専念する。
これはドライバーなら誰でもそうする。

だが、そういう突発事では頭が真っ白になってしまうため、ハンドル操作がスムースにいかず、方向のずれは回復するどころか拡大して、道路脇に突っ込む。

これは、私自身が、かつて信号のない交差点で、右から直進してきた車(一時停止違反)と衝突して、道路左のガードレールにぶつかった時に経験している。

すなわち、進行方向が思わずずれた時、まずはハンドル操作でそれを回復しようとするのは、人の行動として自然だ。
だが車は制御を失って、結果的に道路脇につっこむ(右直事故での死亡事故の例)。

ハンドル操作による回復の試みはドライバーとしては自然な努力なのだが、
それでなんで車の進行方向を制御できないか、冷静に考えてほしい。

一番の理由は、車が速度を出しているからだ(慣性の力の方向に動く)。

ハンドル操作を思い通りにするには、車の速度(慣性の力)を落とすほどよく、停止すればハンドル操作自体が不要になる。

今回のトラックは、電柱にぶつかった後、子どもたちの列に達するまで距離が40mあった。
その間、ブレーキを踏んでいれば、こんな結果にならなかった。

もっとも既述したように、ドライバーの行動特性として、これは意外に難しい。

だからこそ、すべてのドライバーは、走行に異常が起きたらまずは停止
ハンドルよりもブレーキ
これを心に刻みたい。
刻んでおかないと、すぐに行動に移せないから。
そうすれば、今回だけでなく、2019年の滋賀での右直事故での園児たちも犠牲にならずにすんだ。→右直事故に巻込まれないために


都議選の期日前投票してきた

2021年06月28日 | 時事

コロナ感染が収まらないままでオリンピックが迫り、都知事が過労で臥せっている中での都議選がスタート。
投票日には東京にいないので、期日前投票をしてきた。

わが区では、定数2のところに、都民ファースト、自民、共産の3名が出ている。
その中でこれといった”推し”はいないのだが、人類史の中でたくさんの血を流して勝ち取った成果である”民主主義の主権者”の権利は、意地でも行使することにしている。

なので、細かいチェックポイントを判断材料とせざるをえない。
だたし、いわゆる当落予想は参考にしない。

国政なら結構自民側になるのだが、地方選挙は国政とは別の論理・視点が必要だと思っている。
なのであえて自民には入れないスタンス(東京には中央との太いパイプはいらないし)。
また、若い人や女性というだけでも応援する価値がある。
3人の中で最も若く女性なのは共産党候補。

オリンピックに対する態度は三者三様で、私のスタンス(延期※)にもっとも近いのは都民ファースト。
いわゆる小池チルドレンで、積極的に応援したい対象ではないが、自民⇔反自民という構図そのものに与したくないこともあり、これらを総合して決めた。

※:積極的開催派は、始まったらどうせ盛り上がると言っているけど、盛り上がったら感染拡大してまずいんだよ。予定通りの開催に批判的なのは、開催が感染拡大を後押ししそうだからであって、盛り上がるかどうかが問題ではない。


山手線停電事故に思う

2021年06月22日 | 防災・安全

20日の日曜、あの山手線が停電事故に遭い、運行中の車両が一斉に数時間もの間、停まってしまった(数時間前に山手線を利用)。
駅の間で停まった車両では、乗客は1時間以上も停電した車内に閉じこめられた。
都心の山手線だけに線路脇のスペースもなく、できるだけ線路の上を歩かせないための措置だったのだろう。

こういう思ってもみない乗物アクシデントに備えて、私はできるだけ乗る前にトイレを済ませるよう心がけている。
山手線の場合、乗っている時間が短いので、乗る駅ではなく、降りる駅のトイレでいいや、と思うこともしばしば。
だが、こういうアクシデントに遭遇したら、どうなるだろう。
山手線の車両にトイレはないのだ。

なにも公共交通機関だけではない。
エレベータやジェットコースター・観覧車においても同様の対応を心がける。
心がけるというのは、乗る前には必ずトイレに行くわけではないため。
それほど”近くない”時は、降りてからでいいやと思うこともしばしば。
だが、その油断がこわい気がする。
今回のアクシデントで、あらためて油断禁物を心に誓った。


近所に書店がなくなった

2021年06月20日 | 生活

2週間ぶりに帰京したら、自宅最寄り駅のビルにあった書店(TSUTAYA)が閉店していた。
 同じTSUTAYAの別フロアでのレンタルビデオ店は数年前に閉店。
TSUTAYAのビジネスモデル自体が時代の流れに合わなくなっていることがわかるが、
それとは別に、自分の住んでいる町から書店がなくなることに、一抹の寂しさを覚える。

ただ「一抹」に過ぎないのは、私自身、年に6桁の書籍代を使っている身ながら、最寄り駅を含めて市中の書店にはとんと足を運んでいないから。
研究費で買う専門書は大学出入りの業者から購入するし、個人で買う一般書レベルの本は、ほとんど電子書籍で買う。
自分は買わないが、今では雑誌もコミックスも電子書籍化されている。
文庫本を開いた大きさに等しいiPadminiで、それ以上の大きさの本を電子書籍として読んでいる。

音楽を聴くのにCDを買わなくなって久しいが、その波が、本と映画にも来ているわけだ(私が最後に買ったCDは、一生ものの、すなわち今後はこれだけ聴いていればいいモーツァルト全集とバッハ全集。しかもネットで)。
なぜならこれらは物ではなく情報が商品だから、デジタル情報のダウンロードで済む。

だから、このご時世下に、名古屋宅の最寄り駅前に書店が新たにオープンしたのには驚いた。
本好きとして応援したい気持ちでいっぱいだが、自分の読書スタイルが書店を必要としなくなっているので、入店しても、歩き回るだけ。
その店内は、コミックスと参考書と文具が充実しているから、電子化が遅れている子供相手にすれば書店経営もまだ可能ということか。

本というテキスト情報は、最も効率的な情報伝達形式なので、これが廃れることはない。
むしろその情報的価値は、物(紙とインク)という余分な付加価値を要しないことによって、より安価でしかも流通しやすくなる。

電子書籍化は、貴重な本が、ビジネス的論理で絶版となる文化的損失を回避できる(回避してほしい!)。
実際、図書館が貴重な古書をアーカイブ化することで、多くの人がそれを閲覧できる。

ただ、個人の寿命を超えた保存性、数百年・数千年単位の、いわば歴史考古学的レベルの保存性では、電子情報より、紙(和紙)や木簡が勝るんだよな。
もっとも、われわれ市中の人間がそういう保存をする必要はない(古書として流通してほしい)。


辛坊治郎氏の単独太平洋横断成功に思う

2021年06月19日 | 時事

私は、ラジオ番組「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」(ただしポッドキャスト版)を愛聴していることもあり、氏の、出演番組をすべて擲(なげう)っての、ヨットでの太平洋単独横断という暴挙、いや壮挙を、主役不在のそのラジオ番組を通して見守っていた。

そして無事、アメリカのサンディエゴ港に着岸したとのニュースを17日の朝に知り、その後、氏の生の声や映像を確認したので記事にしたい。

まずほぼ同世代として、氏の壮挙に勇気と鞭撻をもらった。
正直、この歳になると、はっきり言って、楽をしたくなる。
肉体が衰えるのは当然として、精神的にも”隠居”気分に傾き、無理をせず、楽に生きたくなる。
早い話、手を抜きたくなる。

そのような自分にとって、生きるか死ぬかの境地に身を置くことをあえてして、しかもそれをやりとげたことに勇気をもらい、そして安逸に堕していた自分に強い鞭撻ももらった。

後者まで感じるのは、アウトドア志向者だけかもしれないが、
生の自然の力と対峙したい、そこに在り方の”本来性”を感じるアウトドア志向の人間は、安逸の文明生活に堕している今の自分は本来的生き方をしていないという”後ろめたさ”を感じているのだ。

氏が、再チャレンジにこだわった気持ちは、心理学的には「ゼイガルニク効果」というもので、中途で終った課題は、頭から離れず、スッキリしたいために再びその課題に取り組みたくなる。
別の言い方をすれば、人は自分の”物語”を完成させたい意志を持つのである。

すなわち、この行為には、自分でも止められない強い”意志”が働いている。
でも大海を越えるというほどの冒険的意志は誰しもが懷(いだ)くものではない、といるかもしれないが、深層心理的にはどうだろうか。

そこで思い浮かべたのは、さらに数日遡って、中国南部で野生の象の群れが都市部を北上しているというニュースがテレビ朝日の「モーニングショー」で紹介された時の玉川徹氏(テレビ朝日社員)のコメント。
象の行動を強い本能的意志ではないかと推論する玉川氏は、そもそも、アフリカで誕生した人類もどうしたわけかどんどん北上して中東に達して、そこで東西に分散し、東に進んだ人類は、さらにシベリアからベーリング海峡を越えて新大陸に達し、さらに南下を続けて南米大陸まで達したと、人類も未知の大地を目指して移動し続けた過去を述べ、このような意志は象だけでなく人間にも共通するのではと語った。

そう、その意志を持ち続けた人類(当然ながら、女性も含まれる)は、陸路だけでなく、舟を作って海上に繰り出して、幾多の失敗(死)にもめげず、太平洋の島々にも到達した。

思えば、ユーラシアの東に浮かぶ日本の島にやってきた我々の祖先も、玄界灘やオホーツク海を越えてそのような壮挙をなしとげた人々だった。
そう、島国の民であるわれわれ日本人こそ、大洋を横断する意志を持ち、それを成功させた人たちの子孫なのだ。
なので、辛坊氏の壮挙を他人事でないと感じるのもむべなるかな。
それと山好きなのに”漂流記”が大好きな自分にも納得できた。

そもそも、”動く”ことを宿命づけられた動物は、植物のようにその場に留まる事をよしとせず、移動することそれ自体に己の存在の本来性を感じていてもおかしくはない(実存的実感を得るのに高度な知性は不要)
「餌を求めて」というのはその根源的衝動を正当化する理由に過ぎない。
動くこと自体が生きる意志なのだ。
大洋を回遊する魚も、大陸を越える渡り鳥も、そして農耕による定住生活に安住できない一部の人間も、その意志に動かされているといえまいか。


ワクチン接種について学生に聞いてみた

2021年06月17日 | 新型コロナウイルス

大学1年生のゼミは遠隔(オンライン)でやっている。
学生同士で話し合ってもらうために、話題としてワクチン接種について意見を出してもらうことにした。
私が直接学生に尋ねるのではなく、私が関与しないネット会議室で話し合ってもらい、その結果を報告してもらう形。
学生は12人なので、会議室を3つ作り、それぞれ4名ずつ割当てた。

その結果、1つの会議室では、接種の賛否が拮抗していたが、他の2つでは接種したくない意見が優勢だった。

その理由として、副反応への危惧が最も多く、有効性への疑問、筋肉注射が痛そうというものあった。

実際若者たちは感染しても重症化しにくいので、いわゆる”インフルエンザ”程度の危機感に近い。
一方、ワクチンの副反応は、女性しかも若年層ほど強いといわれている。
なので、女子学生にとってワクチン接種のインセンティブが低くなるのもうなづける。

接種に賛成という意見も、積極的賛成というのではなく、社会的圧力として受けざるをえないというものだった。

ただ、ワクチンの筋肉注射そのものはちっとも痛くないことは経験者として伝えた。
副反応もある程度発生した方が効果がある証拠だし、多くは1−2日の筋肉痛程度だ。
それに、集団免疫効果の意義もあることも伝えた。
もちろん、ワクチン接種自体は、もともと任意であり、学生個人の判断にまかせるべきなので、上の内容を伝えたものの、学生の意見に理解を示すに留めた。

私自身も、毎年インフルエンザワクチンの接種はスルーしてきた。
余分な注射はしたくない、という理由がベースで、
たかがインフルエンザなのでこわくなかったし、実際、罹患こともなかった。
昨年の正月までは。


カエル館内での生体反応を調べる

2021年06月14日 | 茶臼山カエル館計測

私が正真正銘の「パワー・スポット」と認定する茶臼山カエル館(長野県根羽村)内で、来館者がなんらかの生体反応(ビリビリ感、温/冷感など)を得る空間が、従来の限られた磁気異常空間だけではないことが判明してきたので、磁力計(テスラメーター)よりも敏感に反応する人たちを館長に招集してもらい、その人たちに館内のあちこちで感覚の強さを評定してもらった(私が認定しないないそこらの自称”パワースポット”ではこのような調査自体が不可能)

評定は、医療現場でも使われる”痛み”の評定のように、0の「まったくない」から、10の「強すぎて耐えられない」までの11段階の中から選んでもらう方式にした。

まずは磁気異常空間でのビリビリ感の強さを評定してもらい、それを基準にこちらが指定する場所での評定を求める。
その結果、評定に個人差のある空間もあったが、特定の空間は一様に磁気異常空間並みの反応の強さ(7〜10)が示された。

その空間での反応の強さの因果関係に苦慮したが、改めてそこの地磁気を測ると、その空間もそれなりに磁気異常で、しかもそこにある鉄柱の一部が磁場逆転していた(磁針が180°反転する)。
やはり、生体反応は磁気異常と相関しているようだ。

ただ、反応の個人差、とりわけ反応の強度に周期変動がある人たちがいて、これは直流の地磁気によるものではないので、生体側のバイオリズムなのだろう(該当者数人の平均周期は約1分)。

この調査で痛感するのは、生体側の個人差のバラエティさ。
以前は、温感反応だった人が、今日はビリビリ感で、しかもある空間では手先が冷感となり、実際サーモグラフィで計ると、本当に指先が低温になっていた(その空間の気温は周囲と同じ)。

かように、人間こそが不可思議な存在なのだ。


新カテゴリー:茶臼山カエル館計測

2021年06月13日 | 茶臼山カエル館計測

緊急事態宣言下の愛知から、愛知と長野の県境にある茶臼山高原に泊り旅に出た。

もちろんカエル館(長野県根羽村)でのパワーの調査が主目的だが、せっかく愛知の屋根まで上がるので、その地でのんびりしたい。

カエル館では、パワーの物理的計測(磁力)は限界に達したので、今後は生体反応をデータにして、パワーの正体を探ることにした。
といってもビリビリ感の生理的計測ができないため、その反応強度の主観的評価をデータにするしかない。
そのため、あらかじめ館長から反応性の高い人たちに声をかけてもらっていた。

従来よりこれらの調査結果は、まずはこのブログにアップしてきており、先日それらの記事がまとめられて本になった(カエル館のみで販売)。

今後も記事を通して読みたい人がいることだろうから、今まで「気・パワー」と「計測」あるいは「旅」のカテゴリーに分散していた、茶臼山・カエル館の記事を、新カテゴリー「茶臼山カエル館計測」にまとめることにした。

記事を読み返すと、私がカエル館の計測に手を染め始めたのは、今から10年前の2011年にさかのぼる。
茶臼山高原はその前からお気に入りの地で、しかも元々カエルが好きだったので、2009年から記事になっている(最初に訪れたのはもっと前)。

私にとってある意味最前線(科学と非科学の境界)の研究対象となるので、今後も試行錯誤しながら調査していく。


東京オリンピック:最適解は10月開催

2021年06月08日 | 時事

東京オリンピック・パラリンピックを緊急事態宣言下で進めていいのか、おおいに疑問。

かといってここまで準備してきたので、中止もなんだか…。

ワクチン接種が進んでいる中、もう少し進めば集団免疫も可能。

それなら、本来的に最適時期である10月開催がいいのではないか(9月は台風シーズンなので不適)。

もとともIOCの意向に反して、盛夏の開催はいろんな意味で不適切だと思っていた。

理想的な時期の開催に向けて、いい理由ができたといえないか。

 

ちなみに、2回目のワクチン接種翌日は、接種部位の”筋肉痛”が夕方まで残っただけで、結局1回目の副反応と同程度だった。


ワクチン接種してきた(2回目)

2021年06月07日 | 新型コロナウイルス

1回目のワクチン接種から三週間後の本日、同じ場所(順天堂大学病院)・時間に2回目のワクチン接種をしてきた。

私も接種側も慣れたもので、手続は同じながら一回目よりスムースに進む。
なので予約時間前に接種が終った。

接種自体が「あれ、こんなもん?」というあっけなさ。

接種会場にたくさんいるスタッフは皆20代前半なので医大生たちだろう。
彼らの応対がすこぶる丁寧で、こちらは客でもなく無料でワクチンを受けさせてもらっている側だから、かえって恐縮してしまう。

接種後の注意点で前回と違ったのは、入浴はOKだが、シャワーか軽めにして長湯はしないでほしいとのこと。

これは激しい運動はダメなのと同じ理由で、疲労すると免疫能が落ちるためだ。

あと、なにかあったら24時間態勢で応対してくれる連絡先を教えてくれた。

接種後15分待って開放された。

持参した接種券はなくなり、代わりに「予防接種済証(臨時)」がシール二枚分埋った。
できたらこれを首からぶら下げて歩きたい。

昼前なので、前回と同じ末広町に向ってゆっくり歩く(運動を抑えるため)。

一段落した打上げにと、末広町の中華屋で、ランチセットの五目焼そばを食べた。
その店、ランチ自体はいいのだが、喫煙者のたまり場になっていて、あちこちからの副流煙に辟易した。
近隣の喫煙サラリーマンたちにとっては、唯一のんびりタバコを吸える空間なのだろう…
その意味ではこちらが場違い。
かように中華屋には、喫煙OKで、しかも分煙していない所がよくある。
次に入る店は入口で要確認(あるいは昼時を避ける)。

これまた前回と同じく御徒町まで歩いて、帰宅した。
このあとは、自宅でゆっくりする。
なにしろ明日の午後は会議が連続し、そのうち2つは自分が議長。
2回目の方が重いという副反応が出ないよう、リラックスして体調を整えなくては(今のところ自覚症状はない)。

ちなみに体内で充分な抗体ができるのは、2回目の接種後7日以降だという。
しかも酒を常用しているとその数が若干少ないとか。

追記:18時をまわった時点で接種痕付近が”筋肉痛”的になってきた。この副反応は1回目より早い。


気象記念日に思う

2021年06月01日 | 歳時

今日6月1日は、気象記念日
明治8年(1875年)のこの日に、当時の東京気象台が設置され気象と地震の観測がされた日(wikiによる)。
実は、勤務先の大学の創立記念日でもあるので、私らだけ仕事は休み。
なので、東京にいて国会図書館で仕事をした。
帰りに皇居の反対側の気象庁に足を伸ばそうと思ったが、庁舎1階にあった気象科学館は虎ノ門に移り、また昔からあった書店も閉店したという。

以前は、あこがれの気象庁に用もないのに行き、書店で専門書を買ったり、科学館で時間をつぶし、食堂で昼食をとったりしたが、最近はご多分に漏れず入館チェックが厳しくなった。

この日にちなんで、中公新書の『気象庁物語』(古川武彦)を読んでいる。
うらやましくも気象に人生を賭けた「天気野郎」たちの物語。

そもそも気象観測の最大の目的は、気象災害を減らすことに尽きる。
今では精巧な数値予報によって、明日の最高気温まできちん予測できるのはすごいことだ。
これがいかにすごいことであるか、世間には理解されないのが悔しい。
そのすごさは台風の上陸時に発揮され、数日前からの予想とリアルタイムの実況が逐次公表される。
だから、本来なら気象災害による死者は無くせるはず。

ところが現実には、気象災害による死者が毎年出ている。
問題は住民による情報の活用だ(気象庁からの「警報」だけでは大ざっぱすぎる)。
東日本大震災で津波で無くなった人たちが、地震と津波の間の30分の(避難するには充分の)猶予を活かしきれなかったのは、まずは不足していた情報のせいだ(停電のせいで、地元の人たちだけが仙台湾に向って沖合から大津波が進んでいる自衛隊機からの実況映像を見れなかった)。

気象庁のサイトの「各種データ・資料」のページには詳細な普通の人には手に余る情報が載っている。

気象庁が発表する高度な情報と住民との間をとりもつのが、われわれ気象予報士・防災士の役割だ。

わが勤務先の大学は震災後、防災の授業「安全学」を立ち上げ、先週の土曜に私も防災情報の活用の講義をしてきた。

日本は治安はいいほうだが、自然災害の頻度は世界的にも多い。
そういう国に生きているからこそ、自分と家族の命を守るために、防災情報のリテラシーを高めてほしい。
その役に立てるよう、講義以外でも情報発信していきたい。