すなわち、地盤がやわらかい土の堆積層に人工的な空間を作ると、その境界が破損すれば土が流動してしまう可能性がある。
そもそも日本では、人が集中する都市部は基本的に河川の氾濫で作られた沖積平野だから、こういう現象が発生しそうな場所は至る所にある。
確かに埼玉だと、江戸川と中川・古利根川に挟まれた八潮を含む東部がこれに該当する。
われわれに襲う突発的な災難は、地震だけではないようだ。
フジテレビが抱える問題の根本は、過去の成功体験※を引きずったままの人たちが未だに上層部を占めていることだというのは、既に外部では言い尽くされている。
※:確かにテレビの”黄金期”ともいえるくらい華々しい状態で、私も充分楽しませてもらった。
過去の成功体験から一歩も出られないために、時代の変化に対応できずに自滅の道を歩んでいる。
中生代末に滅亡した恐竜と同じで、環境の変化に適応できない生き物(組織)は滅亡する。
言い換えれば、有機体(組織)は常に時代の変化に対応して自らが変化してこそ生きていける。
例えば、わが大学では教員の倫理教育として、5年ごとに倫理教育を受講して合格することが要請されている。
5年ごとに受講して痛感することは、5年前は問題なかったことが、5年後は倫理的に問題となってしまう変化。
倫理意識そのものの更新が常に必要なのだ。
さらに全員参加のハラスメント講習会は毎年実施される。
「コンプライアンスは年々厳しくなっている」という抽象命題を耳/口にしただけでは無意味で、どこがどう厳しくなっているのかを具体的に学習しなくては、実際の行動は変化しない。
まともな組織なら、構成員に変化に対応するための上のような対策をしているはず。
ところが、そこに出入りするだけの自営の外部スタッフ(芸能人)は、この対策が義務づけられない。
なのでいい年したベテランがとんでもないハラスメントをする。
時代の先端を行っているように見える世界が、実は古い価値観・センスの人たちの棲み家だった。
いったん滅んだつもりになって、生まれ変わるしかない。
トップの全面的刷新をはじめとした抜本的な組織改革が必要だ。
組織は人さえ替われば再生できる。
「集団心理学」のレポートで、過去の不快な集団経験を尋ねていると、大学生は異口同音に小〜高校時代のクラスでの経験を挙げる(それ以外だと現在のバイト先)。
それを読んで痛感するのは、小学校〜高校で、集団運営の方法が正しく教育されないということだ(自分の生徒時代を思い出してもそう思う)。
公教育の場である学校は単に勉強を学ぶ場でなく、社会的存在として、個人と社会とを仲介する”集団”を経験する場でもある。
すなわち、学校は”集団”を、ぶっつけ本番ではなく、教育的に経験する場であるべきだ。
ところが、先生たちは生徒たちを集団にすればそれでいいと思っているフシがある。
生徒たちは授業中のグループ討議、学園祭でのクラス企画でぶっつけ本番の”集団”として放り出される。
先生は生徒たちを集団化しておしまいで、具体的(効率的)な集団運営の仕方を教えない。
なぜなのか。
集団を無条件に「良いものだ」とする思い込みがあるためだ。
集団化すれば、それで自律的に集団の効能が作動すると思い込む「集団神話」だ。
その信奉者たちは、「三人寄れば文殊の知恵」という格言を論拠にする。
実はそれに対する反証が社会心理学で提出されている(「ブレイン・ストーミング」作業実験での生産性:個人>集団)。
集団神話に陥っている人は集団には”負”の効果があることを知らない。
責任分散による「社会的手抜き」や「同調」、「集団思考」※、「内集団ひいき」などに思いもよらない(これらは集団において自然発生する)。
※:集団によって意思決定の質が下がる現象で、これこそ「三人寄れば文殊の知恵」の反証。社会人になればこれら集団の負の効果を把握できるが、「集団神話」への信仰までは改まらないようだ。
ダイレクトな社会環境としての集団の力は、個人ではその力に抗し難く、それによって個人が潰されていく。
特に学校では、インフォーマルな”グループ”の階層化すなわち「スクールカースト」が放置され、それがグループ内からクラス全体に広がる日本固有の”集団的いじめ”※に発展していく。
※:特定のいじめっ子によるのではなく、それを含めた協力者・傍観者たちのいじめ集団がクラス全体を構成する。
かように子供たちは学校の集団で傷ついてきた。
効率的な集団運営とは、(単なる集まりに過ぎない)集団を”組織”として構造化することである。
リーダシップのあり方、個々の成員の役割分担、成果のフィードバックと再調整。
集団目標の共有と、個々の責任・役割の自覚、そして同調圧を過大にしないリーダーシップ、これらを体験させて、実行する能力を育成する。
学校でもクラブ活動ではこれらが体験されることが多いが、顧問が上述した内容の集団教育に関心がないと、そうならない。
はやり、教室内でまずは集団教育を実施すべきだろう。
職場関係の共済事業団から、健康診断結果を元に計算された私の「健康年齢」の通知が来た。
それによると実年齢より”7.9歳”低い(若い)とのこと。
この健康年齢の算出根拠は、BMI,血圧(上下),中性脂肪,HDL,LDL,ALTなどの肝臓の諸数値,血糖値(HbA1),血清クレアチニン,尿タンパクによる。
この中で血圧に関しては降圧剤服用の結果なので、私の健康年齢は降圧剤も貢献している。
言い換えれば、血圧以外は生の状態の数値なので、結果の説明通り「健康習慣が身についている証拠」と言える。
しかも毎晩の寝酒+つまみ食(2日間だけ禁酒)という悪習慣込みの結果だ。
その代わり毎日食事量を抑えて、しかも野菜・大豆中心の自炊で、運動(ウォーキング)もそれなりにしている。
元来肉より野菜が好きな草食人間で、さらに元々歩くのが好きなので、ちっとも無理はしていない。
これに酒好きも加えると、毎日の生活を楽しんでさえいる。
その結果が”健康”なのだから、ありがたい。
先週で後期授業が終わり、全国の大学が一年で最も緊張する昨日を無事乗り越えたので、担当のない翌日の今日から2泊で慰労の温泉旅に出る。
目的は慰労だから、気に入った湯がある気に入った宿(中津川の定宿)に、食事は質素でいいので格安のビジネス用※プランにした(2食付でなんと1泊8500円!。しかも食事処は個室)。
※:料理が豪勢でないだけで貧相ではない。ちゃんと鍋もつくし。朝食は一般客と差がなくむしろ私には豪華すぎるほど。
行く前に、後期期間中に出した中間レポートなどを採点して期末成績評価の準備を整えた。
なのでこの慰労旅には持ち込みの仕事はなく、温泉と食事だけを繰り返し堪能すればよい。
この後は待ち構えているのは、後期試験課題の採点・成績評価、卒論発表会、一般入試、大学院入試と続く一年で最大の繁忙期。
なので尚更、オンとオフのメリハリをつけて、オンに備えたオフを味わう。
ロスの大規模山火事の現場で、路上で乗り捨てられた車が邪魔で消火などの緊急車両が通行できない状況になっていて、
これが山火事を広げてしまっている。
すなわち自家用車で避難した人たちが道路に溢れて渋滞し、そこに火の手が迫ったため、車を乗り捨てて避難した。
それだけなら問題ないのだが、皆、車を駐車モードにして(タイヤが固定され)、キーをはずしてそのキーを持ち帰ったため、通行の邪魔をして動かせない車が道路に溢れたのだ。
大規模災害時に、車を道路に置いて避難する場合、どうすべきか定められている。
しかもそのやり方は通常の行動レパートリーにないもの。
なので、それがどれほど周知されているか気になっている。
日本では大規模山火事よりも、地震や津波を想定するといい。
まず道路の走行車線を開けて路肩に寄せる。
道が狭い場合、歩道に乗り上げてもいい。
とにかく緊急車両の通行に邪魔にならないように止める。
そして、次がポイントだが、
ギアはニュートラルにしてサイドブレーキも引かず、車のキーはつけたまま去る。
前者は車を手で押して動かすため、後者はもっと効率よく車を移動させるため。
後者に抵抗感を感じるだろう。
なので、車検証は持ち帰る。
車を置いて逃げる事態なのだから、いずれこの車は被災して乗れなくなる(実際、↑の路上の車は皆焼けた)。
再び戻って乗る可能性は限りなく低い。
だから廃車として邪魔にならない措置をして、逃げてほしいということ。
そもそも車で避難すること自体、かえって非効率で、たとえば渋滞中に津波に呑み込まれてしまう(水平に逃げるより、近くのビルの最上階に上がった方がまし)。
心を複数の(サブ)システムの構造的複合体とみなす私の「心の多重過程モデル」では、心の過程を以下のように分けている。
明晰な意識過程=「システム2」
知覚されるが意識過程を素通り=「システム1」
知覚されない過程=「システム0」
このモデルにおいて、言葉の正しい意味での”無意識”は「システム0」、
すなわち自律神経・内分泌・免疫過程に限定される。
一方「システム1」は、認知過程における無自覚過程から周辺意識(意識の端をかすめる)までが該当する(中心意識はシステム2)。
すなわち科学的心理学と同様にこのモデルにおいても、フロイト的な「無意識」は想定されない※。
※:フロイト的精神分析療法を実施するのは心理学者ではなく精神科医
では逆に(フロイト以降を含む)精神分析における「無意識」は多重過程のどこに配置しうるのか。
それを考える時、もちろん「無意識」を実体視するフロイトの説明は無視し、
「無意識」とされる心理現象(防衛機制・転移・夢など)の中身から検討する。
フロイトは、心の本能的部分である「エス」を、自我が住まう意識に(系統発生的にも個体発生的にも)先立つ領域としての無意識に配置した。
すなわち自我・意識⇔エス・無意識の2元論が基本である(後から超自我がまたがって居座るが)。
多重過程モデルでは前者がシステム2なので、後者はシステム1に収まりそうだが、システム1はむしろ条件づけメカニズムが作動する世界で(条件づけで全てを説明する行動主義は「無意識」を認めない)、自我意識の及ばぬ領域とて、ここには収まりにくい。
実はシステム2にも自我の及ばぬ領域がある。
むしろシステム2の本体は自我(モニター)ではなく、システム1(知覚→行動系)には存在しなかった想念(イメージ表象・思考)機能の方だ。
想念は、自我が主体的に制御している部分もあるが、自我とは独立して作動しうる。
その作動パターンについては別の記事(→リンク)で説明済みなので、それを前提とすると、
「抑圧された思考」は自我を離れた想念なのでシステム2に属する。
さらにユングが「集合的無意識」の機能とした「神話的思考」もシステム2の典型的想念機能である。
すなわち広義の精神分析学派が想定する「無意識」は、高度な想念構造をもっており、それは動物的なシステム1ではなく、人類に創発されたシステム2、ただしシステム2内で主役のつもりでいる自我の制御を離れた状態の想念機能に相当する。
心のそれぞれのサブシステムにはアンバランス状態を補正する機能があり※、
システム2においても自我が関与しない補正機能=防衛機制は作動しうる。
※:それでも補正しきれないことがあるため、その解決として高次システムが創発される
転移は、想念機能がシステム1の記憶と感情を媒介に連合された現象であり、
夢はシステム0の特定状態(REM睡眠)において想念のイメージ生成機能が睡眠中ながら作動している自我を巻きこむ現象である(夢は意識現象!)。
システム2を意識とみなすなら、精神分析的「無意識」は意識の一部であり、
ただ自我の制御から離れている意識状態である。
だからこそフロイトの精神分析療法の目的である「無意識の意識化」(=自我による統合)は実現可能なのである(それに対して原理的に無意識であるシステム0は意識化できない。自我が心の一部であるように、意識も心の一部である)。
このように心の多重過程モデルは、心を最も幅広く扱うため、既存の心理学理論を全て包摂でき、それらを構造的に配置できる。
そして心理学の枠組みそのものを拡大する。
(※…):追記
法政大学で韓国籍の女性学生がハンマーで学生たちを襲った事件。
動機は、”仲間はずれ”に遭ったためらしい(※本人の弁。被害妄想の可能性もある)。
一番の問題はこの学生のメンタルにあるだろうが(※日常の言動からこの可能性がひじょうに高い)、この学生の立場が気になった。
この犯人が留学生かどうかは不明だが(※留学生と判明)、今年度の私の卒論生に韓国の留学生がいて(日本語は普通に使える)、選んだテーマが「外国人留学生の孤独」だった。
その学生自身、当学科唯(たった)一人の留学生ということもあり、一人で行動することが多く、孤独を強く感じていたようだ。
もちろん大学として制度的な受け入れ態勢はとっている。
具体的には、学生生活を支援するボランティア学生が複数名つき、日本文化を体験する目的で毎年皆で1泊旅行をする(大学からの予算・教員付添)。
ということは最低限そのボランティアの学生たちとは仲良くなれ、実際私の卒論ゼミにはそのボランティアの学生(複数)も一緒だった。
ただ、毎週のゼミでは、その学生たちと当の留学生は隣には座らず、留学生は一人離れた席を取っていた。
すなわち、日常での友人関係には至っていない感じだ。
その留学生は、卒論(もちろん日本語)として、ネットを通して周辺大学の留学生たちに質問紙(アンケート)調査をした(数カ国語対応)。
その結果、一般的に留学生と日本人学生との交流は低調で、どうしても同国の留学生同士の関係に限定されがちな傾向があった。
同じ大学での同国人の数は多くないのでの、その関係自体が小規模で固定される。
なので留学生たちは、大学の枠を超えた留学生同士の交流の機会を望んでいた(これは大学の現行の態勢を超える)。
一番の要因は、日本人側の閉じた関係だ。
日本の学生側に立って言うと、日本人同士の友人関係だけで精いっぱいで、外国人に特別な関心がない限り、あえて積極的につきあおうとはしない。
私自身、学生の時、留学生歓迎パーティに参加したが、動機は英語で会話してみたい、というだけで、それができたので満足して、その後、留学生と交流しようとはしなかった。
実際、その当時も留学生の間からは、日本人学生との交流の少なさに不満があがっていた。
さらに細かい要因を挙げると、まずかわいそうだったのは、在学時期がコロナ禍と重なってしまい、日本人学生ですら、友人関係の確立に苦労した世代だった。
それから性別の問題もあるかもしれない。
少なくとも日本の女性学生は、閉じた関係に籠りやすい。
女子中高生の”グループ”ほどでないにしろ、大学生の友人関係も、閉じた関係が確立すると、それが維持されやすいようだ。
その結果、友人関係が確立した後の卒論ゼミでは、新しい関係が築かれにくい(共同研究可能だとそうでなくなる)。
ただし、中高年になると女性は開放的になり、男性の方が閉鎖的になる。
ちなみに、自分の学生時代の男子留学生は、顔見知りになった日本の女子学生に対して会うたびに「きれいだ」とほめちぎるという(その女子学生から聞いた。日本男子学生にはマネできない)。
このように留学生側にも積極性があるといい。
結局、留学生の私的な対人関係には大学側はノータッチだということ(日本人学生に対しても同様だが)。
韓国に関心のある日本人学生は少なくないので、その気運を利用した交流会などを開催できたらよかったかもしれない。
10日10時現在、東京の私設「本駒込気象台」での露点温度が-11℃になっている。
露点温度は、暖気/寒気移流のような、太陽光に影響されない大気の温度指標に使えるのだが、-11℃という値は、確かに今季一番の寒気下にあるにしても、実際の気温は7℃なので東京の”寒気の値”としては低すぎる。
同時刻の東京よりも気温が低く、今雪が降っている愛知の私設「日進気象台」の露点温度は-3℃と、東京よりずっと高い。
実はこれが露点温度の欠点で、露点温度は温度(気温)と湿度(大気水蒸気量)が合成した値なので、温度だけでなく湿度の指標も兼ねているという二義的解釈が必要。
今の東京が降雪中の愛知より、気温が高いのに露点温度が低いのは、東京の相対湿度が26%とやたら低い(乾燥している)ため(愛知は89%)。
もともと気温が氷点下になりにくい東京で、露点温度が-10℃以下になるのは、乾燥空気、より正確には「乾燥した寒気」のため。
あまりに乾燥しているから、降雪などの湿った寒気下よりも露点温度が低くなるのだ。
ということで、東京はひどく乾燥※しているので、火気・インフルエンザに注意ということ。
※:空気の乾燥具合なら、馴染みのある相対湿度で事足りるが、夜間になると太陽光不在による気温低下の影響で相対湿度が上がってしまうので、大気水蒸気量の指標としては太陽光の影響を受けない露点温度の方が優れている。
本日1月7日は、五節句の最初の節句である「人日(じんじつ)の節句」。
この日は”春の七草”を粥で食べるという。
これは5世紀の中国(東晋)の年中行事を記した『荊楚歳時記』に載っている風習で、19世紀に明治政府が五節句そのものを廃止したのだが、こうして民間で古代からの伝統を大切に守り、21世紀の日本でも実施されるのだから面白い。
スーパーに行けば「七草粥セット」が490円で売られていて、それを買って、卵入りのレトルトの粥と混ぜる。
お茶漬けの元を入れて味付けをしたら意外に満足できた。
正月のお節に飽きた腹には、こういう野菜いや野草中心のシンプルな粥が新鮮。
次の節句は3月3日の「上巳(じょうし)の節句」(「桃の節句」は通称であって正称ではない。他の4節句は正称で通っている)。
この日は缶詰めでいいから桃を食べよう(桃の花の時季であって桃の実の時季でないため)。
その前に「節分」があるが、似非伝統の”恵方巻き”とやらは無視する。
年末にインフルエンザのワクチン接種を受け、年明けの今日、コロナワクチン接種(7回目)を受けた。
いずれも年齢枠による居住区の補助で無料。
しかも、近所の最寄のクリニックで予約無しで受けれた。
いずれの感染症も大流行中で、前者は姪が年末に感染して40℃以上の熱を出していた。
また勤務先の学生たちの間でも両者の患者が多いので、これから業務的に彼女らと接する前に予防策をとっておきたい。
私はもちろん「反ワク」デマに惑わされず、コロナ禍を6回のワクチン接種で無傷で過してきた。
ワクチンも、微弱な毒素を接種することでむしろ抵抗力が高まるというホルミシス効果の1つであり(筋トレも同じ)、毒素を微弱でも拒否する1次関数的単純思考では理解できない現象だ。
ホルミシス効果は生物を強靭にする複雑ながら確かなメカニズムで、この効果を活かした生物こそが、厳しい環境下で生き残れる※。
※:実際、私の周囲の過敏な健康オタクは早死にしている。
なので紫外線を含む放射線に対しても電磁波に対しても同じ態度で臨んでいる(ただし顔の紫外線ケアは実施)。
睡眠トラブルの中でも”不眠”に悩む人が最も多い。
私自身、大学生の時は日が昇るまで眠れない時が続いたので、後述する自分なりの打開策を取って、結果的に不眠を克服している。
まず睡眠に入るにはどうしたらいいのか、一般論を示そう。
哲学者にしてパリ大学心理学教授のメルロ=ポンティは「人は眠る時、まず眠る真似をする」と言ったが、
まさに眠る真似、すなわちあたかも自分が眠っているかのような心身の状態を実現することで入眠が導かれるのは確か。
ただしそれは体を床に横たえ、閉眼するだけでは足りない。
眠れない時に思わずやってしまう「寝返り」という体動をまずは制止する。
体動は目覚めさせる運動になるからだ。
それゆえ、意識的に手足を固定し、静止姿勢を維持する。
次いで、思考を停止する。
あれこれ考えると頭が冴えてしまうから。
具体的には頭に浮かぶイメージ表象を動画で展開させるのではなく、静止画にする。
音声もなくす。
そしてそれをゆっくり暗転(フェードアウト)する。
そうすると、いつしか眠ってしまう。
上の方法でうまくいかない場合、例えば思い悩むことが頭から離れない場合などは、むしろ強制的に頭の中を眠くなる方向に持っていく。
覚醒時に”睡魔に襲われる状態”を再現すればよい。
一番おすすめは、退屈な読書。
小難しい哲学書や、淡々とした記述の歴史書などがいい。
逆に面白い小説は、かえって目覚めてしまう。
実は私の長年の打開策はまったく別の方法を取っている。
ただし健康を害する可能性が高く、言い換えれば高度な自己管理が必要なので、一般的にはお勧めしない(まず医者は絶対に勧めない〕。
それは寝酒+つまみ+鑑賞の3点セットによる毎晩の”入眠儀式”。
観賞は読書でもマンガでもいいが、最近の私はもっぱら映画(ビデオ)。
これは短くても1時間を要する(いずれも途中で眠くなったら観るのをやめる)。
この3点セットは気分転換になってその日のストレスを解消する効果があり、これ自体が楽しみな娯楽行為である(意識的な努力を要しない)。
この場合の観賞はあえて”退屈”である必要はなく、気分転換効果として感動したり笑う内容で構わない(ただしホラーは見ない。夢に出てきたら嫌だ)。
眠気を促進するのは、もっぱらアルコールにまかせるからだが、
酒だけで観賞がないと、頭の中の問題に悶々としてしまう。
寝酒は睡眠の質を悪くするという説があるが、スマートウォッチの睡眠データで毎日確認する限り、”深い睡眠”は標準的に取れている(私は説よりデータを信じる)。
アルコール飲料だけだと体に悪いのでつまみを要する。
つまみはアルコール摂取を促進するとも減らすとも解釈できる。
少なくともアルコールの吸収を遅らせ、また血液を消化活動に集中させることで、脳への血液集中を抑える(昼でも食後に眠くなる。特に糖質摂取後)。
この方法の問題点は複数ある。
まずはアルコールの常用による、アルコール依存症の危険と内臓負担の問題。
それにはアルコール摂取量を増やさない歯止めが必要。
すなわち、アルコール度数を1桁に下げ、総量を一定に抑える。
度数を下げるのは、食道・胃を傷つけないためにも必要。
眠くなるための摂取※なので、酔う必要はない。
※:350mlの缶ビール(5%)1本で心地よい眠気がくるのを帰京時の新幹線で毎度経験。
私は焼酎を数倍の水と若干の酸性の汁で割って、それを小ジョッキ並みのグラスで3杯、時間をかけて飲むことにしている。
一定量に保つことを”習慣化”するのだ。
また肝臓の負担を軽減するためのサプリ(Lシステインなど)を飲む。
もちろん毎年の健康診断で、肝臓の健康度を数値で確認し、2-3年に一度の内視鏡で食道・胃と大腸内部のチェックをしている。
就寝前につまみを食べること自体は、内臓的にも口内的にも良くない。
実際、たんぱく質の他に、糖質中心のスナック菓子を1袋は食べる。
これは体重増加、そして内臓脂肪の増加を招く。
なので、朝夕の食事で糖質を減らし、1日単位でのバランスを維持する。
また糖質の分解を促進するサプリ(キトサンなど)も飲む。
そして眠る前に洗面所で歯を磨くと眠気が飛んでしまう恐れがあるので、歯磨きはせず床の上で歯間ブラシで掃除する。
以上の結果、内臓脂肪はやや多めだが、体重は維持され、肝臓の数値も健康状態を保っている(若干細工をしているが→健康診断に臨む)。
また半年ごとの歯科のチェックでも、歯の状態は良好を維持。
それから寝る前の水分補給自体は悪いことではないが、夜間にトイレに行くことは避けられない。
でもその頻度は1回程度で、睡眠の妨害になっていない。
こういう自己管理をすることで、健康に悪い要素をできるだけ抑えて、楽しい入眠儀式を毎晩やって、ストレスをためずに快眠を実現している。
ただし人にお勧めはしない。
1月6日追記:俳優・吉沢亮の酒の飲み方(酩酊が目的になっている)はよくない。
これだと酒の上のトラブル(実際に発生)やアルコール依存となる。酒は睡眠導入のためで(350mlの缶ビールで可)、ストレス解消(気分転換)は酒よりも観賞の方に求めるべき。もっとも私も量が固定するまで長い時間がかかり、30代の時は飲み過ぎて二日酔いで授業したこともあったが。