今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

道路陥没の懸念がある場所

2025年01月29日 | 防災・安全
埼玉県八潮市で起きた道路陥没事故。
土中の下水管の破損によって、土砂が下水管に入り込み、地中に空洞ができたためらしい。
穴に落ちたトラックの運転席に土砂が入り込み、下水管からの有毒ガスも発生して、1日たっても救出がままならない状況になっている。

このような道路陥没は、東京や福岡でも発生している。
すなわち、地盤がやわらかい土の堆積層に人工的な空間を作ると、その境界が破損すれば土が流動してしまう可能性がある。
共同溝でない古い下水管などでこれが発生しやすく、
地形的には河川の氾濫原すなわち河川の周辺の土地で発生しやすい(河川が暗渠になっている場合も)。
そもそも日本では、人が集中する都市部は基本的に河川の氾濫で作られた沖積平野だから、こういう現象が発生しそうな場所は至る所にある。
確かに埼玉だと、江戸川と中川・古利根川に挟まれた八潮を含む東部がこれに該当する。
それに、自宅付近が該当しなくても、通行する道路が該当していたら、トラック運転手のように運悪く危険は降りかかるかも。
われわれに襲う突発的な災難は、地震だけではないようだ。


組織が滅びる時

2025年01月28日 | 時事

フジテレビが抱える問題の根本は、過去の成功体験を引きずったままの人たちが未だに上層部を占めていることだというのは、既に外部では言い尽くされている。
※:確かにテレビの”黄金期”ともいえるくらい華々しい状態で、私も充分楽しませてもらった。

過去の成功体験から一歩も出られないために、時代の変化に対応できずに自滅の道を歩んでいる。
中生代末に滅亡した恐竜と同じで、環境の変化に適応できない生き物(組織)は滅亡する。

言い換えれば、有機体(組織)は常に時代の変化に対応して自らが変化してこそ生きていける。

例えば、わが大学では教員の倫理教育として、5年ごとに倫理教育を受講して合格することが要請されている。
5年ごとに受講して痛感することは、5年前は問題なかったことが、5年後は倫理的に問題となってしまう変化。
倫理意識そのものの更新が常に必要なのだ。
さらに全員参加のハラスメント講習会は毎年実施される。

「コンプライアンスは年々厳しくなっている」という抽象命題を耳/口にしただけでは無意味で、どこがどう厳しくなっているのかを具体的に学習しなくては、実際の行動は変化しない。

まともな組織なら、構成員に変化に対応するための上のような対策をしているはず。
ところが、そこに出入りするだけの自営の外部スタッフ(芸能人)は、この対策が義務づけられない。
なのでいい年したベテランがとんでもないハラスメントをする。

時代の先端を行っているように見える世界が、実は古い価値観・センスの人たちの棲み家だった。

いったん滅んだつもりになって、生まれ変わるしかない。
トップの全面的刷新をはじめとした抜本的な組織改革が必要だ。
組織は人さえ替われば再生できる。


学校の集団神話

2025年01月26日 | 心理学

「集団心理学」のレポートで、過去の不快な集団経験を尋ねていると、大学生は異口同音に小〜高校時代のクラスでの経験を挙げる(それ以外だと現在のバイト先)。
それを読んで痛感するのは、小学校〜高校で、集団運営の方法が正しく教育されないということだ(自分の生徒時代を思い出してもそう思う)。

公教育の場である学校は単に勉強を学ぶ場でなく、社会的存在として、個人と社会とを仲介する”集団”を経験する場でもある。
すなわち、学校は”集団”を、ぶっつけ本番ではなく、教育的に経験する場であるべきだ。

ところが、先生たちは生徒たちを集団にすればそれでいいと思っているフシがある。
生徒たちは授業中のグループ討議、学園祭でのクラス企画でぶっつけ本番の”集団”として放り出される。

先生は生徒たちを集団化しておしまいで、具体的(効率的)な集団運営の仕方を教えない。

なぜなのか。
集団を無条件に「良いものだ」とする思い込みがあるためだ。
集団化すれば、それで自律的に集団の効能が作動すると思い込む「集団神話」だ。
その信奉者たちは、「三人寄れば文殊の知恵」という格言を論拠にする。
実はそれに対する反証が社会心理学で提出されている(「ブレイン・ストーミング」作業実験での生産性:個人>集団)。
集団神話に陥っている人は集団には”負”の効果があることを知らない。

責任分散による「社会的手抜き」や「同調」、「集団思考」、「内集団ひいき」などに思いもよらない(これらは集団において自然発生する)。
※:集団によって意思決定の質が下がる現象で、これこそ「三人寄れば文殊の知恵」の反証。社会人になればこれら集団の負の効果を把握できるが、「集団神話」への信仰までは改まらないようだ。

ダイレクトな社会環境としての集団の力は、個人ではその力に抗し難く、それによって個人が潰されていく。
特に学校では、インフォーマルな”グループ”の階層化すなわち「スクールカースト」が放置され、それがグループ内からクラス全体に広がる日本固有の”集団的いじめ”に発展していく。
※:特定のいじめっ子によるのではなく、それを含めた協力者・傍観者たちのいじめ集団がクラス全体を構成する。
かように子供たちは学校の集団で傷ついてきた。

効率的な集団運営とは、(単なる集まりに過ぎない)集団を”組織”として構造化することである。
リーダシップのあり方、個々の成員の役割分担、成果のフィードバックと再調整。
集団目標の共有と、個々の責任・役割の自覚、そして同調圧を過大にしないリーダーシップ、これらを体験させて、実行する能力を育成する。
学校でもクラブ活動ではこれらが体験されることが多いが、顧問が上述した内容の集団教育に関心がないと、そうならない。
はやり、教室内でまずは集団教育を実施すべきだろう。


私の”健康年齢”

2025年01月24日 | 健康

職場関係の共済事業団から、健康診断結果を元に計算された私の「健康年齢」の通知が来た。
それによると実年齢より”7.9歳”低い(若い)とのこと。

この健康年齢の算出根拠は、BMI,血圧(上下),中性脂肪,HDL,LDL,ALTなどの肝臓の諸数値,血糖値(HbA1),血清クレアチニン,尿タンパクによる。
この中で血圧に関しては降圧剤服用の結果なので、私の健康年齢は降圧剤も貢献している。
言い換えれば、血圧以外は生の状態の数値なので、結果の説明通り「健康習慣が身についている証拠」と言える。
しかも毎晩の寝酒+つまみ食(2日間だけ禁酒)という悪習慣込みの結果だ。

その代わり毎日食事量を抑えて、しかも野菜・大豆中心の自炊で、運動(ウォーキング)もそれなりにしている。
元来肉より野菜が好きな草食人間で、さらに元々歩くのが好きなので、ちっとも無理はしていない。
これに酒好きも加えると、毎日の生活を楽しんでさえいる。
その結果が”健康”なのだから、ありがたい。


『死とは何か』を考えよう

2025年01月20日 | 作品・作家評
『死とは何か—宗教が挑んできた人生最後の謎』(中村圭志 2024年 中公新書)の紹介と私なりの付加。

「死」は、本書の副題にあるように人生”最後”だけでなく、”最大”の謎でもある(実際、この問題を卒論に選ぶ学生もいる)。
なのに、それに真正面に立ち向かおうとすると気が引ける。
正直、どう考えていいのかわからないから。
そして結局、その謎を頭から消して、日常の「忙しさ」と「暇つぶし」に心を費やしてしまう(それがハイデガーのいう”存在忘却”)。
ただ、それでも頭の片隅からは離れないはず。
なので、本ブログでもいずれきちんと問題にするつもりでいるが(もちろん「心の多重過程モデル」を使って)、その前に参考になりそうな文献に当たっている。

本書は、人類は「死」をどう理解(説明)してきたかという視点で、死の問題を直視する。
実際、この問題に対峙してきたのは各地の宗教なので、必然”諸宗教の死生観”の概観となる。
※:死生観とは、死の理解を前提としてどう生きるかを考える態度
ということで、本書は表面的には古今東西の「死後の世界」の諸言説の紹介となり、例えば仏教の地獄話のように物語的に読めるので、この問題に入るのに敷居が低い。
※:これに特化した本として、大角修『地獄の解剖図鑑』(エクスナレッジ)
では逆に、死を自分の死として実存的に、しかも科学的に捉えたいという人には無用かというと、著者の立場も実はそこにあるので、既存の宗教的物語に対しても現代(脱宗教)的視点から批判的に接していて、その点で既存宗教の死生観の限界を乗り越えることができる(これが重要で、この視点がなかったら紹介しなかった)。
 
具体的には、古代ギリシャから始まり、中東のユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教へと続き、輪廻転生説の本家であるインドのバラモン・ヒンズー教から仏教(とりわけ浄土思想)、さらに儒教・道教、そして神道(古事記の”黄泉”から平田篤胤まで)に至る。
なので、キリスト教とイスラム教の天国、さらに仏教の極楽との違い、あるいは3宗教間の地獄の異同なども理解できる。
これらの中で死後の世界(あの世)について意外に無関心なのはキリスト教以外の一神教(ユダヤ教・イスラム教)で、ご存知のように儒教や神道も関心が薄い(これらは現世の在り方を重視)。
プラトン的な霊魂不滅論も仏教的な六道輪廻の物語も素直に受容できなくなった現代人には、19世紀以降のスピリチュアリズム(心霊主義)という選択肢も紹介されている。
 
そして結局、我々に与えられているのは、死後の世界(冥界、天国・地獄)の物語とこれらの物語を一切否定して死後の世界を無しとする希望もへったくれもない唯物論的な死生観の2つに集約される。
ただし、現代人の死生観はこの2つに引き裂かれているのではなく、「自然に還る」という発想やかつてヒットした「千の風になって」という歌にあるように、「『死後はない』『死後はある』の境界線について言挙げしない態度」になっているという。
※:私の大学の恩師の墓碑銘は「地に還る」
なぜなら、「死後の意識の存続の証拠はないとしても、死後の消滅が完全に立証されているわけでもない」からだ。
このあえて宙ぶらりんな死生観で本書は終っている。

この結末に接して、私はほくそえまざるを得なかった。
実はこの結論は、2500年前の釈尊(ブッダ)が在命中に達していたものだから。
本書で紹介された後世の物語化された仏教ではなく、その開祖釈尊こそが、21世紀の死生観レベルに達していたことが確認できた。
 
2500年前のインドでもすでに死後の世界は無い(死で全ておしまい)とする「断滅論」と、霊魂不滅を標榜する「不滅論」とがあり、真っ二つに意見が分かれていた。
この問題に対し、いわゆる”宗教”を形成する神話的思考を排し、リアルな経験論に徹していた釈尊は沈黙で答えた(無記)。
なぜなら、生者の中に死を実際に経験した者がおらず、「断滅論」「不滅論」いずれの観念論も証明することはできないためだ(その意味では、孔子の不可知論的弁明も納得できる)。
※:唯一の例外と言えるのが、生きながら死者が赴く天国・地獄を往復してきたというスウェデンボルグか。
 
釈尊のこの態度は、実証性を重視するという点で唯物論的断定よりも科学的だ(だから現代でも通用する)。
 
そこであえて、本書の結論からさらに一歩を進めるために現代に釈尊をよみがえらせば、解答を「断滅論」「不滅論」という両端の中間、すなわち”中道”に求めたであろう。
すなわち絶対無と絶対有の中間、「空」の状態(この論理については→空とは何か1)。
生が「空」なら、死も「空」ではないか。
では死の「空」とは、いかなる状態か。
これについては本記事の書評から離れるので控えておく。
もちろんこれも証明されないから、観念論にすぎない。
ただし「断滅論」でも「不滅論」でもない第3の観念論である。

ちなみに、死の問題について、死を看取る(脳死判定する)医師の立場から、人が死にゆく過程を現象学的に論じた脳神経外科医・安芸都司雄の『死の体験』(世界書院)についてはこのブログですでに紹介した(→記事)。
宗教的神話に興味のない現代人にとっては、むしろこちらの本から「死」に対峙する方が真っ当なアプローチといえる。
ただその医学的立場といえども、安芸氏がイエスとブッダに言及せざるをえなかったのは、唯物論的死生観(断滅論)に立ち切れないためだろう。

繁忙期前の定宿温泉

2025年01月19日 | 温泉

先週で後期授業が終わり、全国の大学が一年で最も緊張する昨日を無事乗り越えたので、担当のない翌日の今日から2泊で慰労の温泉旅に出る。

目的は慰労だから、気に入った湯がある気に入った宿(中津川の定宿)に、食事は質素でいいので格安のビジネス用プランにした(2食付でなんと1泊8500円!。しかも食事処は個室)。
※:料理が豪勢でないだけで貧相ではない。ちゃんと鍋もつくし。朝食は一般客と差がなくむしろ私には豪華すぎるほど。

行く前に、後期期間中に出した中間レポートなどを採点して期末成績評価の準備を整えた。

なのでこの慰労旅には持ち込みの仕事はなく、温泉と食事だけを繰り返し堪能すればよい。

この後は待ち構えているのは、後期試験課題の採点・成績評価、卒論発表会、一般入試、大学院入試と続く一年で最大の繁忙期。

なので尚更、オンとオフのメリハリをつけて、オンに備えたオフを味わう。


大規模災害時に車を乗り捨てる場合

2025年01月13日 | 防災・安全

ロスの大規模山火事の現場で、路上で乗り捨てられた車が邪魔で消火などの緊急車両が通行できない状況になっていて、
これが山火事を広げてしまっている。

すなわち自家用車で避難した人たちが道路に溢れて渋滞し、そこに火の手が迫ったため、車を乗り捨てて避難した。
それだけなら問題ないのだが、皆、車を駐車モードにして(タイヤが固定され)、キーをはずしてそのキーを持ち帰ったため、通行の邪魔をして動かせない車が道路に溢れたのだ。

大規模災害時に、車を道路に置いて避難する場合、どうすべきか定められている。
しかもそのやり方は通常の行動レパートリーにないもの。
なので、それがどれほど周知されているか気になっている。

日本では大規模山火事よりも、地震や津波を想定するといい。

まず道路の走行車線を開けて路肩に寄せる。
道が狭い場合、歩道に乗り上げてもいい。
とにかく緊急車両の通行に邪魔にならないように止める。

そして、次がポイントだが、
ギアはニュートラルにしてサイドブレーキも引かず、車のキーはつけたまま去る
前者は車を手で押して動かすため、後者はもっと効率よく車を移動させるため。
後者に抵抗感を感じるだろう。
なので、車検証は持ち帰る

車を置いて逃げる事態なのだから、いずれこの車は被災して乗れなくなる(実際、↑の路上の車は皆焼けた)。
再び戻って乗る可能性は限りなく低い。
だから廃車として邪魔にならない措置をして、逃げてほしいということ。

そもそも車で避難すること自体、かえって非効率で、たとえば渋滞中に津波に呑み込まれてしまう(水平に逃げるより、近くのビルの最上階に上がった方がまし)。


「無意識」はどこにあるか

2025年01月12日 | 心理学

心を複数の(サブ)システムの構造的複合体とみなす私の「心の多重過程モデル」では、心の過程を以下のように分けている。
明晰な意識過程=「システム2」
知覚されるが意識過程を素通り=「システム1」
知覚されない過程=「システム0」
このモデルにおいて、言葉の正しい意味での”無意識”は「システム0」、
すなわち自律神経・内分泌・免疫過程に限定される。
一方「システム1」は、認知過程における無自覚過程から周辺意識(意識の端をかすめる)までが該当する(中心意識はシステム2)。
すなわち科学的心理学と同様にこのモデルにおいても、フロイト的な「無意識」は想定されない
※:フロイト的精神分析療法を実施するのは心理学者ではなく精神科医

では逆に(フロイト以降を含む)精神分析における「無意識」は多重過程のどこに配置しうるのか。
それを考える時、もちろん「無意識」を実体視するフロイトの説明は無視し、
「無意識」とされる心理現象(防衛機制・転移・夢など)の中身から検討する。

フロイトは、心の本能的部分である「エス」を、自我が住まう意識に(系統発生的にも個体発生的にも)先立つ領域としての無意識に配置した。
すなわち自我・意識⇔エス・無意識の2元論が基本である(後から超自我がまたがって居座るが)。
多重過程モデルでは前者がシステム2なので、後者はシステム1に収まりそうだが、システム1はむしろ条件づけメカニズムが作動する世界で(条件づけで全てを説明する行動主義は「無意識」を認めない)、自我意識の及ばぬ領域とて、ここには収まりにくい。

実はシステム2にも自我の及ばぬ領域がある。
むしろシステム2の本体は自我(モニター)ではなく、システム1(知覚→行動系)には存在しなかった想念(イメージ表象・思考)機能の方だ。
想念は、自我が主体的に制御している部分もあるが、自我とは独立して作動しうる。
その作動パターンについては別の記事(→リンク)で説明済みなので、それを前提とすると、
「抑圧された思考」は自我を離れた想念なのでシステム2に属する。
さらにユングが「集合的無意識」の機能とした「神話的思考」もシステム2の典型的想念機能である。
すなわち広義の精神分析学派が想定する「無意識」は、高度な想念構造をもっており、それは動物的なシステム1ではなく、人類に創発されたシステム2、ただしシステム2内で主役のつもりでいる自我の制御を離れた状態の想念機能に相当する。

心のそれぞれのサブシステムにはアンバランス状態を補正する機能があり
システム2においても自我が関与しない補正機能=防衛機制は作動しうる。
※:それでも補正しきれないことがあるため、その解決として高次システムが創発される
転移は、想念機能がシステム1の記憶と感情を媒介に連合された現象であり、
はシステム0の特定状態(REM睡眠)において想念のイメージ生成機能が睡眠中ながら作動している自我を巻きこむ現象である(夢は意識現象!)。


システム2を意識とみなすなら、精神分析的「無意識」は意識の一部であり、
ただ自我の制御から離れている意識状態である。

だからこそフロイトの精神分析療法の目的である「無意識の意識化」(=自我による統合)は実現可能なのである(それに対して原理的に無意識であるシステム0は意識化できない。自我が心の一部であるように、意識も心の一部である)

このように心の多重過程モデルは、心を最も幅広く扱うため、既存の心理学理論を全て包摂でき、それらを構造的に配置できる。
そして心理学の枠組みそのものを拡大する。 


外国人留学生の孤独:※追記

2025年01月11日 | 時事

(※…):追記

法政大学で韓国籍の女性学生がハンマーで学生たちを襲った事件。
動機は、”仲間はずれ”に遭ったためらしい(※本人の弁。被害妄想の可能性もある)。
一番の問題はこの学生のメンタルにあるだろうが(※日常の言動からこの可能性がひじょうに高い)、この学生の立場が気になった。

この犯人が留学生かどうかは不明だが(※留学生と判明)、今年度の私の卒論生に韓国の留学生がいて(日本語は普通に使える)、選んだテーマが「外国人留学生の孤独」だった。

その学生自身、当学科唯(たった)一人の留学生ということもあり、一人で行動することが多く、孤独を強く感じていたようだ。
もちろん大学として制度的な受け入れ態勢はとっている。
具体的には、学生生活を支援するボランティア学生が複数名つき、日本文化を体験する目的で毎年皆で1泊旅行をする(大学からの予算・教員付添)。
ということは最低限そのボランティアの学生たちとは仲良くなれ、実際私の卒論ゼミにはそのボランティアの学生(複数)も一緒だった。

ただ、毎週のゼミでは、その学生たちと当の留学生は隣には座らず、留学生は一人離れた席を取っていた。
すなわち、日常での友人関係には至っていない感じだ。

その留学生は、卒論(もちろん日本語)として、ネットを通して周辺大学の留学生たちに質問紙(アンケート)調査をした(数カ国語対応)。
その結果、一般的に留学生と日本人学生との交流は低調で、どうしても同国の留学生同士の関係に限定されがちな傾向があった。
同じ大学での同国人の数は多くないのでの、その関係自体が小規模で固定される。
なので留学生たちは、大学の枠を超えた留学生同士の交流の機会を望んでいた(これは大学の現行の態勢を超える)。

一番の要因は、日本人側の閉じた関係だ。
日本の学生側に立って言うと、日本人同士の友人関係だけで精いっぱいで、外国人に特別な関心がない限り、あえて積極的につきあおうとはしない。
私自身、学生の時、留学生歓迎パーティに参加したが、動機は英語で会話してみたい、というだけで、それができたので満足して、その後、留学生と交流しようとはしなかった。
実際、その当時も留学生の間からは、日本人学生との交流の少なさに不満があがっていた。

さらに細かい要因を挙げると、まずかわいそうだったのは、在学時期がコロナ禍と重なってしまい、日本人学生ですら、友人関係の確立に苦労した世代だった。

それから性別の問題もあるかもしれない。
少なくとも日本の女性学生は、閉じた関係に籠りやすい。
女子中高生の”グループ”ほどでないにしろ、大学生の友人関係も、閉じた関係が確立すると、それが維持されやすいようだ。
その結果、友人関係が確立した後の卒論ゼミでは、新しい関係が築かれにくい(共同研究可能だとそうでなくなる)。
ただし、中高年になると女性は開放的になり、男性の方が閉鎖的になる。

ちなみに、自分の学生時代の男子留学生は、顔見知りになった日本の女子学生に対して会うたびに「きれいだ」とほめちぎるという(その女子学生から聞いた。日本男子学生にはマネできない)。
このように留学生側にも積極性があるといい。

結局、留学生の私的な対人関係には大学側はノータッチだということ(日本人学生に対しても同様だが)。
韓国に関心のある日本人学生は少なくないので、その気運を利用した交流会などを開催できたらよかったかもしれない。


露点温度が-10℃以下になっているのは

2025年01月10日 | お天気

10日10時現在、東京の私設「本駒込気象台」での露点温度が-11℃になっている。

露点温度は、暖気/寒気移流のような、太陽光に影響されない大気の温度指標に使えるのだが、-11℃という値は、確かに今季一番の寒気下にあるにしても、実際の気温は7℃なので東京の”寒気の値”としては低すぎる。

同時刻の東京よりも気温が低く、今雪が降っている愛知の私設「日進気象台」の露点温度は-3℃と、東京よりずっと高い。

実はこれが露点温度の欠点で、露点温度は温度(気温)と湿度(大気水蒸気量)が合成した値なので、温度だけでなく湿度の指標も兼ねているという二義的解釈が必要。

今の東京が降雪中の愛知より、気温が高いのに露点温度が低いのは、東京の相対湿度が26%とやたら低い(乾燥している)ため(愛知は89%)。

もともと気温が氷点下になりにくい東京で、露点温度が-10℃以下になるのは、乾燥空気、より正確には「乾燥した寒気」のため。
あまりに乾燥しているから、降雪などの湿った寒気下よりも露点温度が低くなるのだ。

ということで、東京はひどく乾燥しているので、火気・インフルエンザに注意ということ。
※:空気の乾燥具合なら、馴染みのある相対湿度で事足りるが、夜間になると太陽光不在による気温低下の影響で相対湿度が上がってしまうので、大気水蒸気量の指標としては太陽光の影響を受けない露点温度の方が優れている。


七草粥を食べる

2025年01月07日 | 歳時

本日1月7日は、五節句の最初の節句である「人日(じんじつ)の節句」。
この日は”春の七草”を粥で食べるという。

これは5世紀の中国(東晋)の年中行事を記した『荊楚歳時記』に載っている風習で、19世紀に明治政府が五節句そのものを廃止したのだが、こうして民間で古代からの伝統を大切に守り、21世紀の日本でも実施されるのだから面白い。

スーパーに行けば「七草粥セット」が490円で売られていて、それを買って、卵入りのレトルトの粥と混ぜる。
お茶漬けの元を入れて味付けをしたら意外に満足できた。
正月のお節に飽きた腹には、こういう野菜いや野草中心のシンプルな粥が新鮮。

次の節句は3月3日の「上巳(じょうし)の節句」(「桃の節句」は通称であって正称ではない。他の4節句は正称で通っている)
この日は缶詰めでいいから桃を食べよう(桃の花の時季であって桃の実の時季でないため)
その前に「節分」があるが、似非伝統の”恵方巻き”とやらは無視する。


7回目のワクチン接種受けた

2025年01月06日 | 健康

年末にインフルエンザのワクチン接種を受け、年明けの今日、コロナワクチン接種(7回目)を受けた。
いずれも年齢枠による居住区の補助で無料。
しかも、近所の最寄のクリニックで予約無しで受けれた。

いずれの感染症も大流行中で、前者は姪が年末に感染して40℃以上の熱を出していた。
また勤務先の学生たちの間でも両者の患者が多いので、これから業務的に彼女らと接する前に予防策をとっておきたい。

私はもちろん「反ワク」デマに惑わされず、コロナ禍を6回のワクチン接種で無傷で過してきた。

ワクチンも、微弱な毒素を接種することでむしろ抵抗力が高まるというホルミシス効果の1つであり(筋トレも同じ)、毒素を微弱でも拒否する1次関数的単純思考では理解できない現象だ。

ホルミシス効果は生物を強靭にする複雑ながら確かなメカニズムで、この効果を活かした生物こそが、厳しい環境下で生き残れる
※:実際、私の周囲の過敏な健康オタクは早死にしている。
なので紫外線を含む放射線に対しても電磁波に対しても同じ態度で臨んでいる(ただし顔の紫外線ケアは実施)。


睡眠を得る方法:追記

2025年01月05日 | 健康

睡眠トラブルの中でも”不眠”に悩む人が最も多い。
私自身、大学生の時は日が昇るまで眠れない時が続いたので、後述する自分なりの打開策を取って、結果的に不眠を克服している。


まず睡眠に入るにはどうしたらいいのか、一般論を示そう。
哲学者にしてパリ大学心理学教授のメルロ=ポンティは「人は眠る時、まず眠る真似をする」と言ったが、
まさに眠る真似、すなわちあたかも自分が眠っているかのような心身の状態を実現することで入眠が導かれるのは確か。

ただしそれは体を床に横たえ、閉眼するだけでは足りない。
眠れない時に思わずやってしまう「寝返り」という体動をまずは制止する。
体動は目覚めさせる運動になるからだ。
それゆえ、意識的に手足を固定し、静止姿勢を維持する。

次いで、思考を停止する。
あれこれ考えると頭が冴えてしまうから。
具体的には頭に浮かぶイメージ表象を動画で展開させるのではなく、静止画にする。
音声もなくす。
そしてそれをゆっくり暗転(フェードアウト)する。
そうすると、いつしか眠ってしまう。


上の方法でうまくいかない場合、例えば思い悩むことが頭から離れない場合などは、むしろ強制的に頭の中を眠くなる方向に持っていく。
覚醒時に”睡魔に襲われる状態”を再現すればよい。
一番おすすめは、退屈な読書。
小難しい哲学書や、淡々とした記述の歴史書などがいい。
逆に面白い小説は、かえって目覚めてしまう。


実は私の長年の打開策はまったく別の方法を取っている。
ただし健康を害する可能性が高く、言い換えれば高度な自己管理が必要なので、一般的にはお勧めしない(まず医者は絶対に勧めない〕。

それは寝酒+つまみ+鑑賞の3点セットによる毎晩の”入眠儀式”。
観賞は読書でもマンガでもいいが、最近の私はもっぱら映画(ビデオ)。
これは短くても1時間を要する(いずれも途中で眠くなったら観るのをやめる)。

この3点セットは気分転換になってその日のストレスを解消する効果があり、これ自体が楽しみな娯楽行為である(意識的な努力を要しない)。
この場合の観賞はあえて”退屈”である必要はなく、気分転換効果として感動したり笑う内容で構わない(ただしホラーは見ない。夢に出てきたら嫌だ)。
眠気を促進するのは、もっぱらアルコールにまかせるからだが、
酒だけで観賞がないと、頭の中の問題に悶々としてしまう。
寝酒は睡眠の質を悪くするという説があるが、スマートウォッチの睡眠データで毎日確認する限り、”深い睡眠”は標準的に取れている(私は説よりデータを信じる)。

アルコール飲料だけだと体に悪いのでつまみを要する。
つまみはアルコール摂取を促進するとも減らすとも解釈できる。
少なくともアルコールの吸収を遅らせ、また血液を消化活動に集中させることで、脳への血液集中を抑える(昼でも食後に眠くなる。特に糖質摂取後)。

この方法の問題点は複数ある。
まずはアルコールの常用による、アルコール依存症の危険と内臓負担の問題。
それにはアルコール摂取量を増やさない歯止めが必要。
すなわち、アルコール度数を1桁に下げ、総量を一定に抑える。
度数を下げるのは、食道・胃を傷つけないためにも必要。
眠くなるための摂取なので、酔う必要はない。
※:350mlの缶ビール(5%)1本で心地よい眠気がくるのを帰京時の新幹線で毎度経験。

私は焼酎を数倍の水と若干の酸性の汁で割って、それを小ジョッキ並みのグラスで3杯、時間をかけて飲むことにしている。
一定量に保つことを”習慣化”するのだ。
また肝臓の負担を軽減するためのサプリ(Lシステインなど)を飲む。
もちろん毎年の健康診断で、肝臓の健康度を数値で確認し、2-3年に一度の内視鏡で食道・胃と大腸内部のチェックをしている。

就寝前につまみを食べること自体は、内臓的にも口内的にも良くない。
実際、たんぱく質の他に、糖質中心のスナック菓子を1袋は食べる。
これは体重増加、そして内臓脂肪の増加を招く。
なので、朝夕の食事で糖質を減らし、1日単位でのバランスを維持する。
また糖質の分解を促進するサプリ(キトサンなど)も飲む。
そして眠る前に洗面所で歯を磨くと眠気が飛んでしまう恐れがあるので、歯磨きはせず床の上で歯間ブラシで掃除する。

以上の結果、内臓脂肪はやや多めだが、体重は維持され、肝臓の数値も健康状態を保っている(若干細工をしているが→健康診断に臨む)。
また半年ごとの歯科のチェックでも、歯の状態は良好を維持。
それから寝る前の水分補給自体は悪いことではないが、夜間にトイレに行くことは避けられない。
でもその頻度は1回程度で、睡眠の妨害になっていない。

こういう自己管理をすることで、健康に悪い要素をできるだけ抑えて、楽しい入眠儀式を毎晩やって、ストレスをためずに快眠を実現している。
ただし人にお勧めはしない。


1月6日追記:俳優・吉沢亮の酒の飲み方(酩酊が目的になっている)はよくない。
これだと酒の上のトラブル(実際に発生)やアルコール依存となる。酒は睡眠導入のためで(350mlの缶ビールで可)、ストレス解消(気分転換)は酒よりも観賞の方に求めるべき。もっとも私も量が固定するまで長い時間がかかり、30代の時は飲み過ぎて二日酔いで授業したこともあったが。


弁天巡りと下谷七福神

2025年01月04日 | 東京周辺
正月三ヶ日は近所の氏神詣以外は家に籠り、4日に外出始めをする。
今年は巳年にちなんで弁天様を詣ようと、ネット検索したら、台東区三ノ輪付近に2か所あるのでそれらをハシゴすることにした。
 
一つ目は、荒川区南千住にある中島弁財天
ここは商店街の脇にあり、最近まで銭湯の女湯の中庭に祀ってあったものだという。
さらに元を辿ると伊勢亀山藩主の屋敷内の弁天池の中の島に祀ってあったといい、それが名前の由来だ。
寺の境内にある石仏と違ってお顔がきちんとした作りになっており、美仏リストに加えてもいい(上写真)。
 
二つ目は、三ノ輪を越えた先、旧吉原(台東区千束)にある吉原弁財天
ここは江戸時代以来の遊郭吉原が関東大震災で火災に遭い、遊女たちが熱さで逃げ込み溺死した弁天池があった所。
手前の吉原神社は稲荷などを合祀しているが、その先の弁財天本宮には、震災死者の慰霊の観音像が立ち、
奥には弁天の壁画(下写真)のある弁天堂と水が落ちている赤富の滝がある(ここは大正時代のものだが完全に神仏習合)。
他の弁天堂と違ってここは悲しい死の思いに満ちている。
 
実はここに来る手前に寿永寺という寺があり、立ち寄ったらそこは下谷七福神の1つで、布袋が祀ってあった。
そこでもらった下谷七福神巡りの地図を見ると、私が向かうルートに恵比寿を祀る「飛不動尊」があり、残りも付近に点在して、一筆書きルートでまわれる。
なので、弁天巡りを終えたので、次は下谷七福神巡りに切り替える。
となるともう1つ弁天が増える。
 
酉の市で有名な鷲神社(ここは参拝者が行列)を越えて台東区竜泉に入ると、公園内に弁天院というお堂がある。
ここが今日三つ目の弁天様。
一応寺だが地元の人たちが管理しているようで、堂内に上がって弁天様を拝み、ここの由来記と七福神巡り用の弁天像(400円)を購入。
由来記を読むと、ここにも弁天池があり、底知れない深さのため池にはまった死者がいたという。
そして関東大震災での焼土を埋めるために埋め立てられ、その跡地にこの弁天院が建てられた。
 
かようにそれぞれ由来は異なるものの、いずれも池を祀るための弁天様という点で共通している。
この後、残りの七福神を巡って(法昌寺=毘沙門天、英信寺=大黒天、入谷鬼子母神=福禄寿、元三島神社=寿老神)、
鶯谷から帰宅し、購入した弁天像は巳年(年女)の母に渡した。
自分用には英信寺の三面(左右に弁天と毘沙門)大黒天の御影を買った。

バス旅が”3人”であることの意味

2025年01月04日 | 心理学
年末に撮り溜めした「バス旅」(テレビ東京)を観て、改めて思うことがあった。
まず、長距離を歩いて大変な思いをするのはメンバーの3人だけでなく、それに随行するカメラ・マイクを持ったスタッフたち。
重い機材を持っての長距離歩行なのだ(彼ら用の車も随行しているはずだが、一緒に歩いてメンバーの会話の撮影が必要)。
そして「バス旅」のメンバーは(対抗する鉄道旅も)、なぜ3人なのか。
そもそも日本では旅には「弥次喜多」という2人パターンが伝統的に存在していた。
ところがそれを踏襲せず、1名増えた状態を構築し、それがうまくいっている。
なぜなのか。

実は、2人事態と3人事態とでは、量的だけでなく質的にも異なる対人場面であることが私を含めた一部の研究者が指摘している。
それは”集団”の最小単位すなわち集団の定義に関わる問題でもあるのだが、ここではその問題には立ち入らいものの、できるだけ理論的に説明したい。
※:既存の心理学では、集団は「2人以上」と定義されているが、私も含めた一部の研究者は「3人以上」を主張している。2人事態は”対人関係”に等しいため。
 
社会学者のジンメルは、3人事態では、内部的連合形成が可能となり、その結果、メンバー間に”中心者”や”孤立者”あるいは”仲介者”という構造的差異が発生しうる点を2人事態との質的相違としている。
心理学者の松村康平は、3人事態で初めて、自分Aが直接関われない関係(BC)が発生し、その関係に対する間接的関係として「間関係」(A→(BC))の発生を質的相違としている(人数が増えると間関係の数が飛躍的に増え,それが集団固有の現象となる)。
私は主に松村の「間関係」を使って集団を3者関係モデルとして構築した※。
※:卒論で構築し、『人のこころ 人のからだ』(市川・氏原・成田編 ミネルヴァ書房)内で紹介している。

この問題を「バス旅」に当てはめてみよう。
2者関係だと、2人の仲(例えば太川氏と蛭子氏)が悪化すると、旅を維持するのが困難になる。
3者関係では、まず両者ともう1人(ゲスト)との関係が残っているので3者レベルではまだ破綻していない。
それにその人が仲介者となり、2人の仲が第三者によって調整可能となる。
言い換えると、直接関わる2人の相手以外に、その2人の関係に対しての働きかけが発生しうる。

2者関係ではABの直接関係1つだが、3者関係ではAB,BC,ACの直接関係が3つ、それに新たな間関係が3つとなる。
このように3人事態では質的も量的にも新たなシステムとなることで、関係状態が単純ではなく、多様性をもつ。
例えば、1人がリーダー(上位者)となる場合、2人事態では状態が固定されるが、3人事態だとフォロアーが2人いるため、人数的にはフォロアーが多数派となりうる(対抗可能)。
3つの対関係(AB,AC,BC)にそれぞれ第3の力が作用し、ハイレベルのバランス(調整)機能が作用する。
すなわち、2人事態は”対人関係”レベルだが、3人事態は個人を超えた”社会”の原初状態に相当する。
それが3人旅の妙味を形成する。
さらにその3人の役割、特性を考慮して配置するのがあの番組の構成だ。