今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

不動縁日の高尾山

2021年11月28日 | 山歩き

論文原稿を提出したし、コロナ感染者は低水準のままだし、ヤクルト・スワローズも前日遅く日本一になったので、師走前の日曜は、すっきり気分転換のために山歩きをしようと思った。

最初は峰の薬師(相模原市)が候補だったが、28日は不動様の縁日だと気づき、それなら不動様のいる山にしたい。
するといつもの高尾山か相州大山になった。
大山不動はケーブルの途中駅にあるが、高尾山の不動堂は山上にある。
なので9月に続いてまたもや高尾山に行くことにした(あとになって埼玉県の高山不動の存在に気づいた)

高尾山は準備が不要で、朝もゆっくりでよく、しかも駅からバスに乗らずに登れるので、どうしても第1候補になる(残念ながら、山に対してとても怠惰になっている)

8時に起きて、ゆっくりして9時前に家を出て、途中の店でおにぎりを2個買い、10時半に高尾山口に降り立つ。
ここまでの車中は満席で、駅のトイレも大行列(高尾山頂直下にきれいな水洗トイレがある)
雑沓に混じってケーブル駅のある登山口に行き、ケーブル客の大行列を尻目に、人がぐっと少なくなる谷沿いで日陰の冷え冷えとした6号路を進む。

高尾山はケーブル利用なら、山上駅から1号路の舗装路を薬王院経由で山頂まで、ほぼ街歩きの格好でOK(ベビーカーも通れるし、昼食も麓・山中・山頂で摂れる)。
一方麓から歩いて、しかも1号路以外の”山道”を歩くなら、山の格好が必要。

私はいつも通りに、6号路から分かれて高尾病院前の坂を登る琵琶滝道のショートカットを選び、琵琶滝道の尾根(高尾山の道で一番急傾斜)を直登して稜線上の1号路と合流する。
ここからは登山の格好をした私たちと街中のファッションの人たちが合流して、薬王院の境内(標高500m)に入る。
境内では、願いがかなうという輪くぐりや本堂、そしてその上の飯縄権現堂はいずれも行列になっている。
なので本堂と権現堂は堂の脇から手を合わせて済ませ、奥の院の不動堂を目指す。
標高559mにある不動堂は、縁日のためか、正面の扉が開いている(写真:ただし堂内に上ることはできない)。
大半の人が不動堂を素通りする中、私は正面の扉の前で合掌して、不動明王の真言(ノウマクサンマンダー、バーザラダンセンダー、マーカロシャーダーソワタヤ、ウンタラターカンマン)を三唱する。

ここからは道が狭くなるので、行列状態になって山頂(599m)に達する。
冬晴れのいい天気なので、東京から横浜にかけての日本一広い大都市部が一望。
目を西に転じると雪を頂いた富士が丹沢・道志の山の奥に超然とそびえている。

だが山頂は立錐の余地がないので、昼食をとる場所がない(山頂の標識付近も記念撮影のために行列ができている)。
なので山頂をそのまま通りすぎ、西側の奥高尾方面にくだって、山頂周囲にある巻き道との合流点まで下るとベンチがあり、しかも空いているので、そこに座っておにぎりを食べる。
高尾山頂から奥の”奥高尾”山域には観光客は足を踏み入れないので、ぐっと人が少なくなるのだ。
ただ、冷めたおにぎりと水だけではさみしいので、少し奥に進んだ「もみじ台」の茶屋(細田屋)で、暖かいなめこ汁(400円)を注文する。
茶屋からは高尾山頂以上に富士が真正面で、しかも混雑しておらず、茶屋の椅子に坐って暖かいなめこ汁を口に含みながら、じっくり眺望を楽しむことができた(写真:富士の左側の鋭峰は丹沢の大室山1587m)。

奥高尾に入ったので、この先の小仏城山(670m)まで行きたい気持ちもあったが、時刻が正午をまわっているので、無理をせず下山を選ぶ。
高尾山頂には登らない巻き道を通って、麓までの最長路・稲荷山道(いなりやまみち)を下る(登りに急斜面、下りに最長路を取ることで、高尾山の中で最も負荷の高い、歩きでのあるルートを選んだつもり)
今回もまた左脚の腸脛靱帯が痛むかどうか気になるが、サポーターは簡易なものをつけ、持参したストックもあえて使わず、露岩や木の根が多い山道をスタスタ降りる(この道は街の格好では無理)。
久しぶりの運動のためか、両膝の裏側に違和感を覚えたが、腸脛靱帯は無言のまま、ケーブル駅のある登山口に降り立った。
時刻は午後2時前で、まだ登りにくる人もいるし、麓の蕎麦屋(高橋屋)は大行列。

山歩きというのは、高尾山レベルであっても、登りも下りもそれぞれ身体に余分な負荷をかけて疲労感を与える(さらには、高尾山よりぐっと低い神奈川や愛知の山で、遭難死が今月起きているように、命の危険を伴う)。
山歩きは、現代人にとっては”いい運動”という位置づけだが、修験道などの山岳宗教的にはあえて身体をこき使う”苦行”である。
今回、怠惰な態度ゆえに選んだ高尾山だが、都心から一番近い修験道の霊山なので、”行”としての山歩きにもふさわしい山かもしれない。


祝、ヤクルトスワローズ日本一!

2021年11月27日 | 時事

日本シリーズ第6戦今日の試合は、オリックスに追いつかれてから、延長戦は後攻が有利だし、今日は諦めて、観るのをやめて、別の作業をしていた。
11時過ぎたので寝る準備をしていたら、母から、まだ試合をやっていてしかもヤクルトが1点入れたと教えられた。

あわててテレビをつけて、日本一になる瞬間を確認できた。

かようにあまり熱心ではないが、一応の東京ヤクルトスワローズファンとしては素直に嬉しい。

日本シリーズはここ数年パリーグが強かったが、今回はヤクルトスワローズの方が少しばかり強かった感じで、優勝は信じていた(絶対大丈夫!)。

いい気分で眠りにつける。

 


高校同期会に不参加

2021年11月27日 | 新型コロナウイルス

本日、2年ぶりに開催される、わが秋川高校八期会だが、すでに欠席を通知している。

飲み会の我慢の限界に達しているのは確かだが、まさにだからこそ、”大人数で集まる飲み会”は、まだ我慢すべき。
予想以上に感染者が減っているのも、これまた確かだが、世界的にみても、いつ第6波が始まってもおかしくないタイミング。
ワクチンの効果も切れ頃だし。
卒論指導で絶対に休めない時期だし。
職場の忘年会は、今年も無し。

とうことで、涙を呑んで、年に一度の楽しみである旧友との再会をあきらめた。

来年こそは、飲み会を再開したい。


論文ぎりぎり提出

2021年11月23日 | お仕事

本日は、いつもより1時間早く7時前に目が覚め、眠気がまったくないので起床した。
これは緊張感の現れだろう。

そう、今日は論文原稿の締切り日。
教員ではなく、研究者として最も大事な日。
論文を出さない者は研究者ではないから。

実は思うように原稿が進まず、締切り前日になって、提出を諦めようと思った。
それでも出来るだけ進めてみようと、授業や会議のない昨日、日中は研究室、夜は寓居でずっと原稿を進めた。
夜11時近くになると目のピントが合わなくなり、パソコンの文字が読みづらくなった。
でもあと一日あれば仕上がりそうな感触を得たので、諦めずに締切り当日、勝負の日を迎えたわけだ。

本日の大学の用事は、先週末の入試結果の判定会議のみ。
あとは午前中からずっと研究室に篭って原稿を進める。
夕方近くなってやっと本文を書き終えて、引用文献リストを整理し、最後にタイトルを決め、その英訳をつける(論文のタイトルは最後につけた方が論文全体の内容を表現できる。もちろん最初に方向づけのための仮題はつけておく)。
これらをプリンタで印刷して、原稿ファイルを出版原稿用にCD-RWに焼く。
それらをA4の印刷原稿が入る封筒に入れ、提出。
提出先は、自分のメールボックス。
なぜなら、自分が編集委員だから。

論文といっても、今回のは過去の研究をまとめ直しただけなので、”原著”より一段下の”研究ノート”レベルだ。
でも、これを出さなかったら、今年は”研究者”ではなくなっていた。
なにしろ、9月に投稿予定だったもう1本をすでに未提出にしていたから。

かように、無理だと思っても頑張ればなんとかなるもの。
これで肩の荷が降りた。
今後は教員としての仕事だけとなる。


インフルエンザ・ワクチン接種受けてきた

2021年11月15日 | 健康

この冬はインフルエンザが流行すると予想されている。
昨年まったく流行しなかったので、集団免疫ができていないためだという。

今までの人生でインフルエンザには無縁で、どうせ風邪の一種とたかをくくっていたら、一昨年の元日に生まれて初めてインフルエンザを発症した。
丸2日間高熱と頭痛で寝込んだ結果(普通の風邪とは大違い)、もうああいう経験はしたくないと思い、今年はワクチン接種の機会を待っていた。

流行の予想はすでに世間で知られているため、ワクチン供給が不足気味だということも報道されている。

居住区役所からワクチン接種の案内が来たが、コロナ・ワクチンとは異なり、予約は受け付けていない。

母によると、近所の診療所にワクチンが入荷する日があり、その日なら接種可能だと言われた。
その日である今日は運良く月曜の在宅日なので、診療所が開く9時の20分前に行くと、私の前に11人が入口前に並んでいた。
幸いまだ寒空ではないので、屋外で待つことはつらくない。

診療所の扉が開いて、並んでいた順に受付を済ませ、その場で体温計を渡され検温を求められる。
私の後ろにも行列が伸びていたので、待合室はあっという間に満席(ワクチン接種と診療目的の人が混じる)。
なかにはずっと咳き込んでいる人がいて(マスクはしている)、いやな気持ちになるが、そういう症状だからここに来たわけだから、にらみつけるわけにもいかない。

順を待つのは覚悟していたので持参した本を読んで時間をつぶす。
結局診療開始から80分待って、やっと接種の番がまわってきた(その前に医師から問診)。
接種位置はコロナ・ワクチンでの肩の付け根より下の上腕の中ほど。
刺した所をこすらなければ当日の入浴もOKという。

インフルエンザ・ワクチン接種は大人になってからは初めてなので、接種後も15分は院内で安静にして副反応がないことを確認する。
もちろん、異状はなく、15分後すなわち行列に並んでから1時間55分後に会計(2500円)を済ませた。

ご存知のように、インフルエンザ・ウイルスには型があり、接種した型と流行する型が合うとは限らない。
だが、ワクチン接種(の刺激)によって免疫能自体が活性化されるので、打って損はないのだ。


地磁気の正しい測り方

2021年11月13日 | 計測

パワースポットの指標の1つである地磁気(磁というパワー)を、各地で計測している私からみると、磁気を正しく理解せずに間違った方法で計測し、その値を盲信して”ゼロ磁場※”や”磁場逆転”だと誤解しているフシがあるようだ。
※:磁気が分布している空間を磁場あるいは磁界という。
そこで、正しい地磁気の測り方を示すことにする。

まず、地磁気は、磁南極から磁北極(以下北極)に向って流れる惑星規模の磁気で、磁気なので強さと方向(極性)をもつベクトルである。

ご存知のように磁気の同極側は反発し、異極同士で引き合う。
この理屈で、方位磁石のN極側が北極方向に向いているわけだから、北極自体はS極※である。
※:違和感があるが、歴史的に磁極よりも先に方位磁石が発見され、北を向く磁針がまずはN極とされたため。
そもそも磁気はN→Sの方向のベクトル。現在の地球では南極にN極があり、北極にS極があるが、長い地球の歴史では両地の極性は幾度も入れ替わっている

磁場の中心地に近いほど磁力は強くなるので、地磁気の磁力は、緯度に比例して強くなる。
逆にいえば緯度が0の赤道付近は磁場が0となるので、「ゼロ磁場」は地球上では広範囲に分布している。

地磁気は3次元空間での特定方向をもつベクトルなので、経度面での水平角度の違いはもちろんだが、緯度に従って磁気ベクトルの鉛直面での角度が異なる。
北半球では地中に入りこむ俯角であり、その角度は赤道付近が0°で、北極が90°、すなわち緯度=磁気ベクトルの俯角となる(赤道上で地磁気が0となるのも、磁気ベクトルが地面と平行になるため)
だから北半球では、空中にある磁針のN極は北を指すだけでなく、下向きになる。

ちなみに、磁気は電気とともに電磁波を構成するから、電気があるところに磁気もある。
我々が使っている電気製品の電磁波を測る場合は、電気が交流だから磁気も交流となる。
それに対して地磁気は、直流といっていい(厳密には24時間という大周期の交流だが、ほとんど変化がないので直流とみなせる)。
なので、交流(AC)専門の電磁波計では地磁気は測れない(交流の電磁波計で測定される磁気は、電気製品の交流磁気)。
交直両用の電磁波計ならスイッチを直流(DC)にして測る。

直流の地磁気を測る時は、地磁気のベクトルに合わせて測らなくてはならない。
これをきちんとやらないと正しい数値を得られない。

地磁気を測る場合、極性情報が必要なのだが、安い電磁波計やスマホのアプリにはこれがない。
その場合は、方位磁石で北極の正しい方位を確認し、その方向に計器のセンサーを向けること。
私が使う計器は極性も出るので、計器のセンサーを北方向にゆっくり水平回転をして、S極への磁気が最大となる方角(=北)で回転を止める。
その方角でセンサーの水平軸の向きを固定した状態で、今度はセンサーをゆっくり下向きにする。
その向きが磁力の俯角と合った時が、磁気の最大値となり、その値(全磁力)がその地の地磁気の値とみなせる。

すなわち、方位と俯角を正しく合わせて初めてその地の正しい地磁気がわかる。
私が、分杭峠は”ゼロ磁場”ではなく磁気は正常値※だと断言し、一方で茶臼山カエル館は磁気異常だと明言するのも以上の計測結果による。
※:地磁気の等磁力線は緯度に沿って平行に分布しているので、その緯度でのおよその正常値がわかる。日本の地磁気分布図は国土地理院で作成されている☞地理院磁気図
その図で、異常を示す場所は愛知県の東栄町など☞磁気異常地帯を訪れる

いいかえれば、正しい磁気ベクトル(磁力線)から外れると計器の値はそれより小さくなる。
たとえば、正しい磁気ベクトルの球面上の正反対(方位も角度も180°逆)方向にセンサーを向けると、極性は逆になり、磁力の数値はマイナスの同値となる。
ということは、正しい磁気ベクトルの球面上の正反対の中間値(方位も角度も90°ずらす)にセンサーを向けると計器の磁力は極性なしの0(μT)を示す。

このような磁気の特性とそれを理解した計測法を知らない人は、ある場所で計器を適当な方向に向け、それが0を示したら”ゼロ磁場”だと騒ぎ、値がマイナスになったら”逆転磁場だ”と騒ぎそう。
なので私は、素人さんの磁気計測報告は、そのまま鵜呑みにしない。


久々の都立中央図書館

2021年11月07日 | 東京周辺

自分が論文執筆モードに入ったので、帰京中の日曜も遊びに行かず、図書館に篭りたい。
そこで日曜も開館している都立中央図書館に前日にネットで予約した。

予約手続は簡単で、定員に達していなければその場で受理される。

受付で予約の画面を見せ、入館証を受取る。
久々の訪館で戸惑ったのは、手荷物はロッカーに入れずにそのまま持ち込み可になっていたこと。

4階の閲覧室は、4人掛けのテーブルに斜(はす)向かいで2人掛けになっていて、テーブル中央部分にアクリル板が斜めに立ててある。

人数的に斜向かいになることはなく、各テーブルに1人でOK。

テーブルには電源があり、無料のネットにも繋れる。

5階のレストランは休業中とわかっていたので、おにぎりを持参した。
ところがレストランスペースは施錠されて入れない。
もちろん閲覧室のテーブルでの食事は禁止(ペットボトル・水筒での飲料摂取は可)。
館内で食べることができるのは、レストラン入口の廊下に4つある一人掛けスツールしかなく、すでに2人が使用中で、3つめのスツールに坐って、せわしなくおにぎりをたべる。

国会図書館だと、ちゃんと食堂スペースを解放しているし、だいいち食堂と喫茶部が開いている(ただし日曜休館)。

かように都立中央図書館のアドバンテージは日曜開館の1点しかない。
しかも今月11日から、来年1月6日までずっと閉館になる。
ここより小規模の区立図書館は推して知るべし。

かのカール・マルクスは19世紀において、ロンドンの大英博物館の図書室に通いづめて大著「資本論」を書き上げた。
一方、私は21世紀の東京で小論を書き進めたいのだが、日本の首都東京での図書館事情はこのありさま。


夢うつつ状態の経験

2021年11月05日 | 心理学

睡眠と覚醒の中間(混合)状態には「半睡」のほかに、より味わい深い表現の「夢うつつ」がある。
こちらは、夢と現実(うつつ)のどっちつかず/まざった状態なので、前回の「半睡」のような夢見がないものは該当しない。

今日は、「夢うつつ」を体験した。

バスの座席で居眠りをした。
バスの走行音はそのまま聞こえるが、いつのまにか閉眼し、静止画的な映像(本の見開きのような画像)の夢を見た。
とても浅い眠りで、バスが停車すると目が覚めた(時間も短い)。

これはノンレム睡眠における睡眠段階1の入眠期に相当するだろう(降りるバス停がアナウンスされると目が覚めるレベル)。

前回の「半睡」と共通するのは、聴覚が覚醒していて、外界の音が聴こえている。
異なるのは、まず呼吸が寝息(睡眠段階2)に至っていないで、覚醒時の呼吸のままであること(この点ではこちらの睡眠の方が浅い)。
そして思考ではなく、また能動的空想でもなく、意識にとっては受動的な夢見の視覚像がある点(この点ではこちらの睡眠の方が深い)。
前回の「半睡」は脳は覚醒して、身体が眠っていたが、今回は視覚的には睡眠(夢見)状態で、聴覚的には覚醒している※。
まさに「夢うつつ」だ。
※:真の睡眠に入る時、外界からの聴覚刺激が突然聴こえなくなり、無音状態になる(車中では走行音が消える)。なんらかの理由でその無音状態が破られて覚醒に戻った時、自分がその間、睡眠に入っていたことがわかる

これはノンレム睡眠だから、もとより身体の休息ではなく、かといって睡眠段階がごく浅いので脳の休息というほどでもない。
あまり意味がない状態だと思うが、思考や視覚情報処理は抑制されているので、少しは脳のエネルギー消費が節約されているのかもしれない。

そう、脳は暇さえあれば、エネルギー節約モードに入りたがるようで、そのため睡眠と覚醒の中間段階が多様にあるのだ。

 

 


「半睡」という現象

2021年11月02日 | 心理学

半睡(はんすい)とは、国語辞典によると「意識もうろう状態」というまさに朦朧とした定義で、もっときちんと睡眠行動学的な定義をしたい。

なぜなら、この半睡としか言いようのない体験をしたから。

先日の旅先の宿で寝ていて、もうじき起きなくては(旅宿は朝食が早い)と思いつつ、5分か10分ごとに睡眠と覚醒を繰り返していた時に経験した(日常の平日でもこういうことはある)。

頭はほぼ覚醒して意識があり、閉眼しながら思考状態になっている。
ところがふと気がつくと、身体は寝息をたてている。
寝息という睡眠時特有の呼吸運動は、覚醒時の呼吸より深くまたリズミカルな大きな運動で、”寝息”と言われる音を立てる。
その時、意識は覚醒しているから、自分の寝息の音を聴くことになる。
実に不思議な体験だった。
自分の寝息をリアルタイムで聴いたという意味でも。

眠っている自分を別の自分が気づいている状態だが、夢は見ていないので明晰夢ではない。
それでいて身体は眠っているので、短時間ながら眠ったという充実感は得られる(睡眠負債が減る)。

意識は覚醒状態でありながら身体は睡眠というこの現象(行動)をこそ、「半睡」と定義したい。

行動についての言葉は、せっかくなら学術的正確さをもちたい(学問は社会に適用されてこそ存在意義がある)。

開眼夢とともに、これも睡眠と覚醒の中間状態(混合状態)の一つだ。
睡眠と夢見と覚醒との関係はかくも複雑だ。→「夢を見る心:序


反自民ではなく超自民

2021年11月01日 | 時事

今回の衆院選は、もとより政権選択選挙ではなく、野党共闘がどの程度評価されるかがポイントだった。
結果は、左派※政党同士の共闘では「評価されない」ということ。
※:左派≠リベラル→『「リベラル」という病の克服』を読む
伸びたのは維新と国民民主だったことからも(れいわも増えたけど)、自民に代わりうるのは、反自民一本やりでではない、より現実的な立ち位置の政党に対する期待がある。

政権交代が可能でないと、政党政治そのものが無意味になる。
それはイデオロギー的な2元対立ではなく、政権担当能力のある2大政党の交代を前提とする。

未成熟だった民主党政権の失敗に懲りて、国民だけでなく当の政治家までが諦めてもらっては困る。
ただし、自民に代わる政党は、今の野党のような文句ばっかりの”反自民”ではなく(それでは永遠に過半数を取れず、結局自民党一党支配を永続させる)、自民党投票者※をごっそり奪い取れる、すなわちこの層にとっても魅力的な”超自民”でなくては実現が難しい。
※:積極的な自民党支持者ではなく、経済・外交・防衛を託せる政党は自民党しかないから、仕方なしに自民党に投票している人たち。

元々民主党の主力メンバーも多くは自民出身者だった。
自民分裂を含めた政界再編成をして、言葉の正しい意味での「リベラル」な政策を出せるもうひとつの「保守」(≠守旧)政党の出現を望んでいる(リベラルと保守は漸進的改革という路線によって矛盾しない)。