松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

意とこころ

2005-07-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
人間関係ならぬ“こころ関係”に関心がある。
心構えとか、心意気とか、心づもりとかをきっかけに、
何となく考えるようになってしまったみたい。
太極導引を始めてからは
意念、意という言葉をよく耳にするようになった。
意念は意識とはちょっと違うと
きいていたのだが、
最初は“ふーん、そうなんだ”程度だったのだが、
この頃は“確かに違うよね~”と思う。

意識は主体が自分だけれど、
意はもっと大きいというか広いというか、
自分をもコントロールされているかのような
大いなるもののような気がしなくもない。
いったい何なのだろうと思う。

例えば、先生から同じように教わっているのに、
それぞれの動きになるのは
どうしてかなと思う。
動作としてはみな同じ型なんだけれど、
現れているものが微妙に違う。
それは体型の違いとかというような
外見の違いだけではない。
仮に体型が同じでも、
この微妙な違いはでてくるんだと思う。
たぶんそれぞれの感じるところが
微妙に異なっているんだろうなあと思う。

同じものを見て聞いて教わったとしても、
そこから何を感じ、どのように理解し、
どのように表現するかはそれぞれだ。
こうして身につけたものというのは、
概ね同じような指向というか
方向性はあっても、
それぞれ個々のものなのだろう。

どこで見かけたのか
記憶が定かではないのだけれど、
興味ある内容だったのでちょっと触れてみたい。
それはこころを器(うつわ)にたとえた話だった。

「人はそれぞれ形状の異なるこころという
器を持っており、
例えばそこに水を注ぎ入れたとしたら、
水はその器の形状ごとに姿を変える。
同じ水でも器によって変わるのだ。
つまり等しく伝えたはずのものの意味を
変化させるのである。
こころが時間をかけて熟成し
大いなる形を成すことを大器晩成という。
器の大きい人というのはこころの広い人である」
というような話だったと思う。
なるほどなあと思った。

どうして先生はいつもニコニコしているのか。
いつも穏やかでいられるのか。
器がまるで違うということなのだ。
振り返って自分の器の小ささには声もない…。