松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

茉莉花(ジャスミン)

2005-07-13 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
初夏からは緑茶を飲む機会がぐんと増えてきます。
飲み方はマグに茶葉を直接入れて
お湯を注いで飲みます。
残り1/3くらいになるとお湯をつぎ足して…
という中国式です。

緑茶といえば龍井、黄山毛峰、廬山雲霧などを
好んで飲みますが、この時期はやっぱり茉莉花茶。
ジャスミンの香りがとっても似合う季節です。

中国語教室に通っていた頃聞いた話では、
夏になると女の子達は
ジャスミンの花をブラウスのボタンにつけて
香りを楽しむんだそうです。
中国の人達にとって
茉莉花は、ごくごく身近な花なんですね。

そういえば『茉莉花』という有名な曲があります。
もともとは揚州の民謡だった曲を
リメイクしたものらしいです。
ちょうど日本の『さくらさくら』のように
広く愛唱されている曲なのだそうです。


     茉 莉 花
 好一朶茉莉花,好一朶茉莉花
 満園花草,香也香不過它
 我有心采一朶戴 又怕看花的人儿罵
 好一朶茉莉花,好一朶茉莉花
 茉莉花開,雪也白不過它
 我有心采一朶戴 又怕旁人笑話
 好一朶茉莉花,好一朶茉莉花
 満園花開,比也比不過它
 我有心采一朶戴 又怕来年不発芽

宮大工の小川三夫さんの話

2005-07-12 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
いま「ほぼ日刊イトイ新聞」では、
宮大工の小川三夫さんと糸井重里さんの対談
法隆寺へ行こう!』が連載されています。
ひじょうに刺激的でおもしろいです。

後世に伝えるというのは技や心だけではなく、
同時にそれらが活かせる材も
育てていかなければならないこと。
仮に技を受け継いだ優れた宮大工が揃っていても、
その技を活かす木が揃わないことには
伝承とはいえないのではないか。
寺の改修に必要な木は
寺が山を持ち何百年後の改修に備えて
今から育てるくらいの行動力がなければならないことなど、
指摘されるまでは
全く想像もしなかった種類の危機感のようなものを
改めて感じさせられます。
しかもそれはあらゆる場にあてはまることでもあるのです。

例えば法隆寺が次の改修期を迎えるときには
国内産の相応しい木がそろうのか。
気候風土が異なる外国産の木材では
当然その性質も異なるわけで、
材の質に合わせることになるでしょう。
法隆寺のエンタシスの柱も
五重塔の伽藍も変容を余儀なくされるわけです。
もちろん現在の建造物にしても
建立当時とは変わっているわけですから
当然といえば当然なのかもしれません。

日本文化の保護とはいうけれど、
いったい何を守ろうとしているのでしょうか。
政府も寺も国民のひとりである私も
本気で残そうとは考えてないかもなあと思えてきます。

何をもって伝承というのか、
後世に伝えたいと思うこと自体が
自然の理からはずれていることなのか。
それでも技を磨き続けていく人間、
ものを創らずにはいられない人間の
情熱というのかエネルギーというのか…。
人間って何なのでしょうね。

宮大工・小川さんのお話は、しごく真っ当で謙虚で、
ご本人が日頃から考えていらっしゃる
本物の言葉であることが伝わってきます。

孫式97式太極拳総復習始まる

2005-07-10 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
孫式97式の総復習が始まった。
大きく三つに分けて練習してきた套路を
実際に一つにつなげてみると、
その長さに改めて驚く。
導引練習では40分くらいかけて動くことになる。
今までに経験したことのない長さだ。

一回の套路練習で
それだけの時間をかけるということは、
それだけの集中力も要求されることになる。
残念ながら今はまだ
それだけの時間を持ち堪えることは
できないだろうと思う。

動作確認のために
ややスピードを上げた練習だったにもかかわらず、
曖昧な動作に出会えば動揺し、
何度目かの単鞭やら開合手に次の一手を思い出せず
立ち往生する始末。
最初の総復習の結果は散々だった。

次回は少なくとも立ち往生することだけは
避けられるよう、
一度動きはじめたら
できるだけ流れをとどまらせずに動けるように
調整して臨みたいところ。
集中を持続させるためにも
心を平静に保つように努めたい。
内面に気持ちを向けていかないと動けないと
つくづく思った。

きょうはとにかく套路をしっかり確認するために
スピードを速めて練習。
それでも1回に20分くらいはかかる。
仕事の調整をしながらとりあえず練習時間を確保した。
二起脚を取り入れてみたが、
二起脚が近づくとリズムが崩れ始める。
自然になじむまではしばらくかかりそうだ。
でも簡単には諦めたくなかったりしている。
気持ちは気持ちとして
無理はしないが練習は続けるつもり。

もちろんこれは欲かもしれない。
というか欲だと思う。
松静自然の要求に対して
できるだけはみ出さないように
注意しながらするつもりではいるのだけれど、
どうだろう。
自分には難しいかな?


体感センサー

2005-07-09 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
整体を受けた後は、どうも体感センサーの感度が
変わるような気がします。

治療前の問診であらかじめ自分で感じている体調や
変化の有無などを報告するわけですが、
その時には感じていなかったものが
翌日になってあれ?っと、思うことがよくあります。
治療中に違和感をとくに感じないと言ったのは
ウソではないのです。
昨日は感じていなかったのに
今日は何だか違和感があったりするのです。

ひょっとして痛みや違和感などにも
その状態によって序列みたいなものが
あるのではないでしょうか。
そのときに最もつらい部分を
優先的にセンサーが感知して、
症状として訴えるように仕向けているのではないか
という仮説です。
つまり最優先の症状が緩和されると、優先順が入れ替わって
新たな症状をセンサーが訴えかけてくるのではないかと。
そうやって次から次へと
さまざまな症状を繰り返し訴えながら、
徐々に快復にむかっていくのかなあと思ったりしています。

東洋医学に長年お世話になってきた経験からすると、
どうもそういう傾向があるような気がするのです。
とくに慢性的な症例に対しては
時間をかけて改善を積み上げていく東洋医学の処方は、
患者にとっても必然的に時間をかけて
自分の身体やこころの傾向(性質)に向き合うことになり、
場合によっては生き方やものごとに対するとらえ方まで
変わってしまうこともあります。

もちろん症状によっては
西洋医学や外科的処置によって改善快復をはかる方が
よい場合もあります。
ですが、ヒトの心は「ノドもと過ぎれば…」という
懲りないところがありますので、
だからこそ意識して養生することが
欠かせないのだろうと思います。

養生を身近に習慣づける意味でも、
体感センサーが良好な状態にあることは大切ではないか
と思うのです。
たまにメンテをしてあげることも必要かなと。
それには太極導引みたいな運動は
ピッタリだろうなあと思っています。

武術の背景に改めて感じ入りました

2005-07-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
いくつかある中国武術や
太極拳関連サイトのB.B.S.を訪れてみると、
実にさまざまな流派が中国や台湾から
伝わってきていることや、
本来の武術として研鑽に励んでいる方達から
趣味として楽しむ愛好者まで、
それぞれの立場からいろいろな思いや考えを
発信していることがわかります。
自分の感性に合ったサイトを
見つけることができれば、また別の楽しみが
広がってきます。

そんな中で最近改めて考えさせられたことがありました。
たまたま陳式十三刀の講習会の告知があって、
その講習会に申し込まれる方達と
主催される方とのやりとりを拝見していたわけです。
すると陳式十三刀というのは
対日本刀としての技術が盛り込まれているという
一文に目が止まりまして、えっ?と思ったのです。
日本刀対策って…戦争中のことなの?それっていつの?

そうなんです。太極拳も今でこそ健康によいという
謳い文句で多くの愛好者がいますけれど、
本をただせば武術です。
生命を脅かされる情況下でいかにして生き延びるか
という目的のために編み出されてきたもので、
先代による命がけの切実な思いによって
創造された技術なのです。
技を磨くことは殺傷能力を磨くことでもあったわけです。

先生が動作の意味を教えてくださりながら、
ときどき「この型は女性にとっても護身になります」と
話されることもあるのです。
しかし聞いている方はそうなんだ~
くらいの反応しかできません。
身の危険を感じる情況をリアルには
想像できないからです
(実際にはそこまで要求されても困ってしまいますし、
先生も望んでいるとは思えません。
これは批判などではありませんのであしからず)。

先の陳式十三刀にしても、
そこから当時の日本と中国との関係が
否応なく見えてくるのです。
中国の伝統文化の中では
太極拳の歴史は意外に新しいのです。
いま套路練習している孫式にしても、
ひとつひとつの型を掘り下げていけば、
そこには打ち方ひとつで
相手の命を奪ってしまうこともできる殺傷力が
備わっているのでしょう。
現代では必要がないから伝えないだけなのかも。

ちなみに「伝わる」ことと「伝える」こととは
全く違うものだと思います。
その意味では武術だけに限らず、
さまざまな世界で伝承人(者)といわれる立場の人達は
常に選択を迫られていることになるのでしょう。
かたやこうしてノー天気なことを書いていられる自分ですが、
それでもそのような世界の存在をちょっとでも知ることで、
改めて感じ入ることも少なくないのです。

憧れの陳式そして陳家溝

2005-07-05 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極導引ではじめて練習した套路は24式で、
その次が陳式太極拳の18式でした。
先生が模範表演してくださったのですが、
その第一印象はとにかくカッコイイ!
24式とはガラッと変わって動作に緩急があり、
そのダイナミックな動きに
思わず“いいなあ。こんなことができるようになるんだ~”と、
のんきに考えていました。

太極導引を始めてからまだ一年にも満たない時期ですから、
体づくりも基本姿勢もまだまだの段階です。
当然先生はそのつもりで指導しているのに、
自分達は先生の表演イメージを思い描いて
練習していたわけでして、今思えばお恥ずかしい限りです。

陳式を実際に練習してみてわかったのは、
力強さは力だけでは表せないということでした。
呼吸も動作を形成する上で大切であることも
感じました。
ことに緩急をつけることで
呼吸と動作との協調性が求められますから、
不安定な呼吸は不安定な姿勢に、
姿勢が不安定になれば呼吸が止まるというように
密接にかかわってきます。

当然ながら自分の段階では
たいした要求もされていないのにもかかわらず、
それでもまだ思い通りになりません。
思い通りに体を動かせない、
体が自由に動かないのはなぜだろう?
陳式はカッコイイだけじゃない。
もっともっと何かがある、それを知りたいと思いました。

そうして陳式への興味が日増しにつのり、
個人的にもいろいろと調べたりしていました。
そのときたまたま手にした某雑誌のグラビアに
陳家溝が掲載されていたのです。
太極拳の発祥の地と紹介されていました。
それ以来、陳家溝は陳式太極拳とともに
私の憧れとなりました。

お盆休みが明けると、専科では
三度めの陳式太極拳の套路練習をします。
過去2回は18式でしたが今回は38式です。
陳式を練習するたびに
何かにひっかかり迷いながら何かを得てきたように思います。
太極導引は健康法ですから
必要以上に何かを求めることもないのかもしれません。
ですが、太極拳の套路には
何かを思わずにはいられないものが
潜んでいるような気がしています。

ちょっとうれしい変化

2005-07-03 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
基本科で「玉女穿梭」を練習していて
自分の動きが少し変わっていることに気がついた。
背中側の力みが少し消えたような気がする。
ただし左玉女穿梭のみで、
右の場合は左に比べるとまだ硬さを感じる。
おそらく左側に弱点を抱えているので
それが何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。

自分なりに流れがスムースに
なったように感じたのは
旋の意識が通りはじめたことかもしれない。
腰の回転が非常に軽くでき、
とくに左玉女穿梭の場合は両手の動き、
体重移動、姿勢ともに、
わりと自分の思い通りに動かすことができていると
感じた。
おもしろいもので、そう感じるからなのか
意識が身体の中を流れるようにつながっていき
気持ちがいい。
右足から伝わってくる力?が
そのまま身体の中を通って
右手を前に伸ばし出しているみたいな、
自分の筋力じゃない力?で動いているみたいな感覚。
でもそれは動かされているという
受動的なものではなく、
自分が確かにコントロールしているんだと
思えるもので。
……たぶん伝わらないだろうなあと思う(笑)。

とにかく不思議な感覚。
実は右足だけでなく
両足から感じているんだけれど、
踏ん張っているわけじゃないのに
ドシッとした安定感を感じる。
実際にはバランスを崩せばよろけるんだけれど、
なんかちょっとやそっとじゃ
揺れても倒れなさそうに感じる。

ここまでの感じははじめてかもしれない。
それを知ってしまうと、
今まで自分がどれだけ踏ん張っていたのかが
わかってくる。
足首や膝や股関節などの
動きの邪魔をしていたんだなあと思う。

それにしても右への動きは
どうしても強ばってくる。
腰も坐骨神経痛も痺れも左側が強いから
仕方ないのだろう。
普段から無意識に立っていると
やや右側に身体が回っている。
だから意識的に右へ身体を回そうとすると、
バランス的には回しすぎるきらいがある。
左側が弱い分
その動きを意識しないといけないらしい。
右側への動きほど
うまく流れないのは動きの中に
余計な段階が含まれるからだろうか。
これをどうやって
少しずつ解消していくかが課題かな。

いずれにせよ人間の身体は
左右対称ではないから、差があって当たり前。
右と左の差があることすら気づかなかった頃を思えば、
体感センサーの精度もアップしたと思う。
まずはよしよしとしておこうと思う。

孫式を練習してわかってきたことなど

2005-07-02 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
これからお盆休みまでは
孫式の復習となる専科。
思えばこの孫式のおかげで
いろんなことに気づくことが
できたように思う。

ゆるむことは脱力とは違う
ことの理解も、
少しずつ体でわかってきたような
気がする(といっても、
まだまだ序の口なのだけれど)。
開合手のような
小さな動きの単練を繰り返すことで
わかってきたようなものかも。
小さな動きなのに
ゆったりと見える動きの感覚を
知りたかったから。

今は開合手も単鞭も
感覚はほとんど同じに思えるように
なってきている。
形としてはまだまだ未熟だけれど、
自分なりのイメージはできてきたかな。

肩や肘の具合をはかる目安も
見つけることができた。
今の段階ではここを意識しているが、
また違うポイントが出てくるのかもしれない。

微かな感じなのだけれど、
身体の中を意識が動く?ような
感じがするときがある。
今までは意識はスポット(点)のように
感じていたのだけれど、
このごろはそれとは違う感覚が出てきている。
それをどう表現していいのかがわからない。
不思議な感じ。

旋のイメージが変わったこと。
動きのスピードにかかわらず、
旋が生み出す慣性を感じ出している。
例えば懶扎衣。
上体の旋によって両手が回るときに
感じるものが違ってきている。
雲手でも手の捻りが
今までと少し違うイメージになっている。

孫式はおもしろいと思う。
はじめて見た印象と
実際に練習してみた印象のギャップが
一番大きかったかも。
これからの復習練習で
またどんな発見があるのかな?

もの思う6月でした

2005-07-01 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
6月の終盤からちょっとパタパタして
落ち着かない状態だったので、
せめて週末だけでも仕事から離れる段取りをとりました。
これでどうにか一息つけるかな?やれやれです。

どうやらいろいろなことの見直し期間に入ったようです。
仕事や生活全般について物理的、精神的な面について
真剣に考えなければいけない。

もうちょっと後でもいいかなと、
先送りして逃げていたことから「そろそろお時間ですから」と
声をかけられたような感じでしょうか。
梅雨という季節のうっとうしさに
負けたのかどうかはわかりませんが、
6月は何となくこころからの笑顔でいることは
少なかったような気がします。
ひとりでいると眉間にシワ寄せてたかも。

一年がどんどん短くなっている感じがします。
やる(べき)こと、やりたいこと、やれること。
やらないこと、やりたくないこと、やれないこと。
別に焦る必要はないのですが、
無駄に時間を費やすことはもったいないと
思うようにはなってきました。