夢逢人かりそめ草紙          

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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《3》

2009-05-26 08:36:46 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。

     第3章

前章に続き、徳富蘆花の軌跡を『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)に於ける
執筆者・文芸評論家・荒 正人の綴りを転記する。


【・・
蘆花は、明治27年5月5日、赤坂氷川町の両親の家で、
原田愛子(本名、藍子)と結婚式をあげた。

原田家は、熊本県隈府の酒造家で、愛子は次女であり、
東京高等師範をその年の3月に卒業していた。

蘆花は何かと引け目をおぼえ、
妻が自分の持たぬ時計を持っているのをとがめて、庭に投げつけたりしていた。

蘆花は、結婚にあたり、
父・一敬から、田畑一町歩、紡績株千円を分けて貰った。
蘆花夫妻は、勝海舟邸に借家したが、家賃は4円50銭であった。

翌年、愛子の両親が腸チフスで急死し、
愛子も感染し、その看護で、隈府に滞在した。
勉強と執筆は続いた。


日清戦争が終わって、明治29年5月、
兄の蘇峰は外遊におもむいていたが、
蘆花は神経衰弱がはなはだしくなり、父・一敬の書や横井小楠の掛け軸を裂いたりしていた。
新聞社にも殆ど顔をみせない。
静養のため、伊豆、房総、相州の各地を遊び、利根川下流を探勝し、
『刀禰河上の一昼夜』、『水国の秋』(のちに、二編を合して、『水国の秋』)を発表した。


明治31年3月、最初の文藝作品集『青山白雲』を刊行した。
過去10年の旧稿を整理したものである。
なお、前年から、逗子の柳屋に居を移した。

5月には、結婚五周年を記念して、初めて上州・伊香保に遊び、
千明仁和亭に二週間ほど滞在した。
夏は、逗子の柳屋で過ごした。
同宿していた福家安子から大山信子の実話を聞いて、
『不如帰(ほととぎす)』の構想ができあがった。

明治31年、『不如帰』を発表、ついで『思出の記』(明治33年~34年)を連載し、
8月、『自然と人生』をまとめて、刊行した。

これを機会に、月給を貰う生活をやめ、
逗子から、東京郊外の原宿に移った。
民友社との関係は自由契約になった。

兄・蘇峰との間が不和になったのは、明治32年頃からであった。

『思出の記』は、明治34年5月に刊行された。
蘆花の名声は、『不如帰』で最も高くなったが、
『自然と人生』は、文学的な質も高く、日本人の感情教育に役立った。

『思出の記』は、自伝的要素もつよいが、
キリスト教が明治の人たちの心の糧として、いかに役立ったかを知ることができる。


明治35年、兄・蘇峰への反抗は頂点に達し、
民友社との関係を立つ決心をしたが、蘇峰の前ではそれがいえない。
蘆花は、依然として、負け犬から抜けだせない。

明治36年1月、『告別の辞』を、『国民新聞』によせて、
掲載が拒否された。
1月下旬、原宿に、黒潮社を設け、『黒潮』第一編を自費出版した。
『黒潮』は、明治35年、蘇峰の勧めで、『国民新聞』に連載していたが、
意見の食い違いで、掲載を中止していた。

翌年、愛子と共に各地を旅行した。
『不如帰』は、英訳され、着者としての名声ますまあがった。

明治38年8月、愛子と姪を連れて、富士に登り、
頂上近くで暴風雨に遭い、五日間人事不省に陥った。
その模様は、『富士』(四巻、大正14年~昭和3年、刊行)に詳しく述べられている。

この年の12月5日、兄・蘇峰を訪ね、
3年間の疎隔を詫び、不和は一応解消した。
年末、蘆花は一切を整理し、逗子に移った。

翌年、伊香保におもむき、3月まで滞在したが、トルストイを深く読んだ。
その結果、トルストイを訪問することを思い立った。

一方、愛子は、精神の一致が得られぬからと、別居を主張したが、
3月、群馬県・安中教会で受洗した。

蘆花は、4月4日、横浜を出帆、聖地パレスチナを順礼し、
ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねて、帰国した。
『順礼紀行』(明治39年、刊行)はその時の見聞を集めたもの。

東京・青山高樹町に移った翌年、
府下・千歳村粕谷356番地に移り、『美的百姓』になろうとした。
都会生活から脱れて、田園生活を営んだということは、
自然詩人として理想の境地を求めたものである。

『みみずのたはごと』(大正2年、刊行)は、過去6年間の記録である。

なお、兄・蘇峰との関係は、
明治41年、末女・鶴子を養女に迎えたり、
大正2年、国民新聞社が襲われたりした時は、兄を助ける意味で、
『国民新聞』に、『十年』を連載しはじめたが、わずか11回で、中断した。

愛子や鶴子と共に各地を旅行し、京城(ソウル)で、兄・蘇峰に逢ってから、
蘆花はその後死ぬまで会わなかった。
鶴子は、大正3年に実家に帰してしまった。
その間、蘆花は、たえず兄・蘇峰を重苦しく意識をしていたのである。

・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


私は小説家・徳富蘆花が私が住んでいる近くの地域に明治40年より死去するまでの20年間過ごされ、
この間の随筆として『みみずのたはこと』を遺されている。

私は大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなり、
本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめていたのであるが、
徳富蘆花がなぜこの地に住まわれるようになったかも知りたくなった。


私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。

こうした中で、私の本棚にあった『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)を取り出して、
結果として 執筆者・文芸評論家・荒 正人の解説と評論文にすがり、
無断であるが長々と転載をしてきた。

このように徳富蘆花の幼年期から、私の目的とした府下・千歳村粕谷に移られるまでの時代を転載してきたが、
父・一敬、兄・蘇峰との負い目、劣等感に苦悶し、
その果てに兄・蘇峰に対して確執の心情になるまでを荒 正人に導かれて、
私はすこしづづ明確になった。

この後は、本題の『みみずのたはこと』に描かれた明治40年からの千歳村粕谷の情景、
そして付近の生活実態を転載させて頂きながら、
現在、激しく変貌し跡形もなくなったこの地域と対話ができればと思い、
次章から記したい。




                          《つづく》




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