夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去りし、この五月は私の人生のターニング・ポイントとなり・・。

2009-05-31 17:50:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
相変わらずこのサイトに綴り、この五月は47通ばかり投稿してきた・・。

私はその日の思い、少しばかり思索していることを心の発露として、
綴っている。

私はこの5月は年金生活が実質四年半となっているが、
先ほど投稿した文を読み返して、
私の人生のターニング・ポイントかしら、と微苦笑しながら読んでいたのである。

このことは、5月20日の投稿文のひとつとして、
【 『人生50年・・』と古来には、表現されていたが・・。 《下》】
と題して、投稿したが、
私の思いを余すところなく明確に表示したのは初めてであり、
残された人生の日々の決意表明であるので、
まぎれなく私のつたないなりの人生のターニング・ポイントである。

最近の投稿文で少しばかり躊躇するがあえて、再掲載をする。

【・・
私は定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
私は若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも心痛な思いで、
綴ったりしてきたこともあった。


私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等性だったこと。

小学二年の時に父が42歳の時に病死され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。
そして、幼年期には本といえば、『家の光』しかなく、
都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、愕然としたこと。


高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、小説らしき習作を始めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動して、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の五年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたのである。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の五年前頃からは、
漠然と定年後の十年間は五体満足で生かしてくれ、
後の人生は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、
自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


余談であるが、私と同じような年金生活をしている方で、
生きがいを失くし、目に輝きを失くした方を見かけたりすると、
齢ばかり重ね、孫の世代の人々にお恥ずかしくないのですか、
と私は思ったりしている。

・・】


このような深い思いで綴ったのであり、
私は安楽な年金生活を求めるのではなく、苦節の多い日々を迎えるが、
もとより自身の選んだ道のりであり、生きがいを深めた日々でもある。




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《8》

2009-05-31 16:28:49 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
前回は、徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまったが、
今回はこの続編である。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

【・・
      都落ち

       1

2月ばかり経(た)った。

明治40年の1月である。
ある日田舎の人が2人青山高樹町の彼が僑居(きょうきょ)に音ずれた。
1人は石山氏、今1人は同教会執事角田新五郎氏であった。
彼は牧師に招聘(しょうへい)されたのである。
牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。

彼は千歳村にあまり気がなかった。
近いと聞いた玉川は1里の余もあると云う。
風景も平凡である。
使って居た女中は、江州(ごうしゅう)彦根在の者で、
其郷里地方(きょうりちほう)には家屋敷を捨売りにして
京、大阪や東京に出る者が多いので、うその様に廉(やす)い地面家作の売物があると云う。
江州――琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近い――
大に心動いて、早速郷里に照会してもらったが、一向に返事が来ぬ。

今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込(ひきこ)む者があろうか、
戯談(じょうだん)に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。

江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇(むやみ)と乗地(のりじ)になって、
幸い三つばかり売地があると知らしてよこした。
あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。


一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、
一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍(そ)うて居た。
此等(これら)は彼が懐(ふところ)よりも些(ちと)反別が広過ぎた。

最後に見たのが粕谷の地所で、1反5畝余。
小高く、一寸見晴らしがよかった。
風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木に
しばりつけた土間共15坪の汚ない草葺の家が附いて居る。
家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、
家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。

地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。
其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。
此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。


石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。
江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。
彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。

手金を渡すと、今度は彼があせり出した。
万障(ばんしょう)一排(いっぱい)して2月27日を都落の日と定め、
其前日26日に、彼等夫婦は若い娘を2人連れ、草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、
東京から掃除に往った。

案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。
雲雀(ひばり)の歌が纔(わずか)に一同の心を慰めた。


来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、
先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。
以前石山君の壮士をしたと云う家主の大工とも挨拶を交換した。

其妾と云う髪を乱(みだ)した女は、
都の女等を憎くさげに睨(にら)んで居た。

彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩(いこ)うた。
小さな墓場一つ隔てた東隣の石山氏の親類だと云う家のおかみが、
莚(むしろ)を2枚貸してくれ、
土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、
彼等は莚の上に座(すわ)って、持参の握飯を食うた。


十五六の唖に荷車を挽(ひ)かして、出る人々はよう/\出て往った。
待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。

引越しあとの空家は総じて立派なものでは無いが、
彼等はわが有(もの)になった家のあまりの不潔に胸をついた。
腐れかけた麦藁屋根、ぼろ/\崩(くず)れ落ちる荒壁、
小供の尿(いばり)の浸(し)みた古畳が6枚、
茶色に煤(すす)けた破れ唐紙が2枚、
蠅の卵のへばりついた6畳1間の天井と、
土間の崩れた一つ竈(へっつい)と、糞壺(くそつぼ)の糞と、
おはぐろ色した溷(どぶ)の汚水と、其外あらゆる塵芥(ごみ)を残して、
先住は出て往った。

掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。
彼は憤然(ふんぜん)として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、
ヤケに塵の雲を立てはじめた。
女連も是非なく手拭かぶって、襷(たすき)をかけた。


2月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。
あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。
今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、
女連はへと/\になって居た。

       2

明くれば明治40年2月27日。
ソヨとの風も無い2月には珍らしい美日(びじつ)であった。

村から来てもらった3台の荷馬車と、
厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、
臼田(うすだ)氏、角田勘五郎氏の息子、以上4台の荷車に荷物をのせて、
午食(ひる)過ぎに送り出した。

荷物の大部分は書物と植木であった。
彼は園芸が好きで、原宿5年の生活に、借家に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。
大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。
其等は皆持て行くことにした。
荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立(かぶだち)の榛(はん)の木まで、
駄々を捏(こ)ねて車に積んでもろうた。

宰領には、原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。


加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、
おの/\告別して出て往った。
暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。
隣に住む家主は、病院で重態であった。
其細君は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。
甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別(わかれ)を告げねばならなかった。
別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札が張られてあった。


彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、
手々に手廻りのものや、ランプを持って、
新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を1時間余ガタくり、
馭者(ぎょしゃ)に教えてもらって、上高井戸の山谷(さんや)で下りた。


粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、
武蔵野一円金色の光明を浴(あ)びた。
都落ちの一行3人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。
遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、
先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
人と荷物は両花道から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、6畳2室に敷かれて、
流石に人間の住居らしくなって居た。
昨日頼んで置いたので、先家主の大工が、
6畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏を隠す可く粗末な天井を張って居た。


日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。
道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、
荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。

兎も角もランプをつけて、東京から櫃(おはち)ごと持参の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、
彼等夫妻は西の6畳に、女中と三吉は頭合せに次の6畳に寝た。


明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、
一時寄寓(きぐう)して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、
8歳の兄は「破れ家でも吾家(わがいえ)が好い」と喜んで踊ったそうである。


生れて40年、1反5畝の土と15坪の草葺のあばら家の主(ぬし)になり得た彼は、
正に帝王の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。

・・】

このように綴られていた。


徳富蘆花自身、千歳村粕谷に決めるまでは、
京都に近い江州の彦根地方は、家屋敷を捨売りにして
京、大阪や東京に出る者が多いので、破格に地面家作の廉い売物があると聞き、
江州であったならば、琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近いので、
問い合わせしながら思案を重ねたが、明確な返信がなく、待ちわびたのである。


この間も、上祖師ヶ谷で青山街道に近く所、或いは品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た所もあったが、
此等(これら)は彼が懐よりも些(ちと)反別が広過ぎたので、断念した。

そして最後に見たのが粕谷の地所は1反5畝余があり、
小高く、一寸見晴らしがよかった。
風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木に
しばりつけた土間共15坪の汚ない草葺の家が附いて居る。

家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、
家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。

地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。
其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。
此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。


地主の石山氏は所決に促がされたり、問い合わせた肝要な江州からは便りがなかったので、
粕谷の地所にきめて、手金を渡した、と明記されている。

こうした揺れ動く思いの結果、千歳村粕谷に住むことを決意した後、
2月27日を都落の日と定め、前日に彼等夫婦は若い娘を2人連れ、
草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、
東京から掃除に往った。

そして案外道が遠かったので、娘等は大分弱ったりしながら、到着したが、
前日中に明け渡す約束なのに、先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで折、
この妾と云う髪を乱した女は、都の女等を憎くさげに睨(にら)んで居た。

やむえず彼等は先住の出で去るを待って、
畑の枯草の上に憩(いこ)うた。
そして石山氏の親類だと云う家のおかみから、莚(むしろ)を2枚貸してくれ、
土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、
彼等は莚の上に座って、持参の握飯を食うた。

この後、先住の人たちが去った後、彼等は立上って掃除に向ったが、
引越しあとの空家は総じて立派なものでは無く、
余りにも不潔で掃除の手をつけようもなかったが、
氏自身は、憤然としながら竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、
ヤケに塵の雲を立てはじめた。
そして女たちも、やむえず手拭かぶって、襷(たすき)をかけた、
と記されている。

2月の日は短い中、掃除半途に日が入りかけたので、
あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。

今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、
女たちはへと/\になって居た。

私は読みながら、氏自身迷いながらも千歳村粕谷に住むことを決め、
引越しの前日に大掃除に訪れ、
先住者の住んでいた荒れ果てた不潔な草葺の小屋を掃除したのである。
何よりが、都心の青山・高樹町の住まいから、
彼等夫婦は若い娘を2人連れ、草箒と雑巾とバケツを持って、
結果として往復の長い道のりを歩いたことであった。


引越しの当日の明治40年2月27日、
村から来てもらった3台の荷馬車と、厚意で来てくれた知人等も加わり、
そして4台の荷車に荷物をのせて、昼過ぎに青山・高樹町を送り出した。

荷物の大部分は書物と植木であり、荷車の諸君にこのようなもの、
と笑われたりした上、
栗、株立の榛(はん)の木まで、懇願して、車に積んで貰ったりした。
そして運搬の宰領として、
原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。

その後、彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、
手々に手廻りのものや、ランプを持って、
新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を1時間余ガタくり、
馭者に教えてもらって、上高井戸の山谷(さんや)で下りた。

粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、
武蔵野一円金色の光明を浴(あ)びた。

都落ちの一行3人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。
遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、
先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
人と荷物は両花道から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日掃除しかけて帰った家には、
石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、6畳2室に敷かれて、
流石に人間の住居らしくなって居た。
昨日頼んで置いたので、先家主の大工に粗末な天井を張って居た。

日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。
道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、
荷車と荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。

兎も角もランプをつけて、
東京から櫃(おはち)ごと持参の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、
彼等夫妻は西の6畳に、女中と三吉は頭合せに次の6畳に寝た。


生れて40年、1反5畝の土と15坪の草葺のあばら家の主(ぬし)になり得た彼は、
正に帝王の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。


このように引越しの状景を微妙な心情をまじえて綴っているが、
私なりに想像ができる。
このことはもとより徳富蘆花氏の筆力によるものであり、
あの当時はそうでしたの・・と私は深く思いを寄せて読んでいた・・。


                            《つづく》


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