第四章
徳富蘆花は、明治40年より死去するまでの20年間、
幾多の本などで氏の略歴に明記されている通り、
都心の青山高樹町より脱れて、田園生活を求め府下・千歳村粕谷356番地に移り、
『美的百姓』になろう、と記されている。
こうした生活を6年ばかりした後、
随筆『みみずのたはこと』(大正2年、刊行)を本名の徳冨健次郎で発表されている。
出典は、『青空文庫』より転載する。
【
みみずのたはこと
徳冨健次郎
故人に
一
儂(わし)の村住居(むらずまい)も、満6年になった。
暦(こよみ)の齢(とし)は45、
鏡を見ると頭髪(かみ)や満面の熊毛に白いのがふえたには今更(いまさら)の様に驚く。
元来田舎者のぼんやり者だが、
近来ます/\杢兵衛(もくべえ)太五作式になったことを自覚する。
先日上野を歩いて居たら、車夫(くるまや)が御案内しましょうか、と来た。
銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。
後(あと)でぺろり舌を出されるとは知りながら、
上等のを否(いや)極(ごく)上等(じょうとう)のをと気前を見せて言い値(ね)で
さっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。
然し店硝子(みせがらす)にうつる乃公(だいこう)の風采(ふうさい)を見てあれば、
例令(たとえ)其れが背広(せびろ)や紋付羽織袴であろうとも、
着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔(ひげがお)の間抜け加減、如何に贔屓眼(ひいきめ)に見ても――
いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑(にがわら)いして帰って来る始末。
此程村の巡査が遊びに来た。
日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、
15歳を満20歳と偽り軍夫になって澎湖島(ほうことう)に渡った経歴もある男で、
今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。
其巡査の話に、正服(せいふく)帯剣(たいけん)で東京を歩いて居ると、
あれは田舎のお廻(まわ)りだと辻待(つじまち)の車夫がぬかす。
如何して分(わ)かるかときいたら、
眼(め)で知れますと云ったと云って、大笑した。
成程(なるほど)眼で分かる――さもありそうなことだ。
鵜(う)の目、鷹の目、掏摸(すり)の眼、新聞記者の眼、其様(そん)な眼から見たら、
鈍如(どんより)した田舎者の眼は、嘸(さぞ)馬鹿らしく見えることであろう。
実際馬鹿でなければ田舎住居は出来(でき)ぬ。
人にすれずに悧巧になる道はないから。
東京に出ては儂(わし)も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。
儂の生活状態も大分変った。
君が初めて来た頃の彼(あの)あばら家とは雲泥(うんでい)の相違だ。
尤も何方が雲か泥(どろ)かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。
引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
其れから中1年置いて、明治四42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。
明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
而して11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。
畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
以前は一切無門関、勝手(かって)に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で
驚いて朝寝の眠(ねむり)をさましたもので、
乞食(こじき)物貰(ものもら)い話客千客万来であったが、
今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬(めがき)や、(かなめ)、萩ドウダンの生牆(いけがき)をめぐらし、
外から手をさし入れて明けられる様(よう)な形ばかりのものだが、
大小(だいしょう)六つの門や枝折戸が出入口を固(かた)めて居る。
己(われ)と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑(おか)しくもある。
但花や果物を無暗に荒(あら)されたり、無遠慮なお客様に擾(わずら)わさるゝよりまだ可と思うて居る。
個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩(けんか)、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂甕(じんたがめ)一つも持つまじきもの」とは実際だ。
物の所有は隔ての原(もと)で、物の執着(しゅうちゃく)は争の根(ね)である。
儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。
まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、
煉瓦塀(れんがべい)上(うえ)に硝子の破片を剣の山と植(う)えたりはせぬつもりだが、
何、程度(ていど)の問題だ、
これで金でも出来たら案外其様(そん)な事もやるであろうよ。
二
畑の物は可なり出来る。
昨年は陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いた。
今年は大麦3俵籾(もみ)で6円なにがしに売った。
田園生活をはじめてこゝに6年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。
去年は月に10日宛(ずつ)きまった作男を入れたが、
美的百姓と真物(ほんもの)の百姓とは反(そ)りが合わぬ所から半歳足らずで解雇(かいこ)してしまい、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。
自分も時々やる。
少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗(きれい)になり、
稀に肥桶を担(かつ)ぐと直ぐ肩が腫(は)れる。
元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。
最早(もう)地味(ちみ)に合わぬ球葱(たまねぎ)を無理に作ろうともせぬ。
最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。
甘藷苗の竪植(たてうえ)もせぬ。
心(しん)をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減(かげん)も、
兎やら角やら先生なしにやって行ける。
毎年儂(わし)は蔬菜(そさい)花卉(かき)の種(たね)を何円(なんえん)と云う程買う。
無論其れ程の地積(ちせき)がある訳(わけ)でも必要がある訳でも無いが、
種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。
蒔(ま)いてしまうのも中々骨だから、育(そだ)ったら事だが、
幸か不幸か種の大部分は地に入(はい)って消えて了う。
其度毎(そのたびごと)に種苗店の不徳義、種子の劣悪(れつあく)を罵(ののし)るが、
春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。
馬鹿な事さ。
然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果(けっか)には活きぬ。
馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
時の経(た)つは速いものだ。
越(こ)した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来た。
砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。
苺(いちご)は毎年移してばかり居たが、
今年は毎日喫飽(くいあき)をした上に、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来た。
生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅(か)られて萩籬の料になったり、
林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実になったり、
杉籬の剪(はさ)みすてが焚附(たきつけ)になり、
落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物(たまもの)である。
追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。
移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植(いしょく)し、
中1年を置いて
また庭の一隅(いちぐう)へ移(うつ)し植えた2尺8寸廻(まわ)りの全手葉椎(マテバシイ)が、
此頃では梢の枝葉も蕃茂(はんも)して、何時花が咲いたか、つい此程内(うち)の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。
と見て、妻が更に五六粒(つぶ)拾った。
「椎が実(な)った! 椎が実った!」驩喜(かんき)の声が家に盈(み)ちた。
田舎住居は斯様な事が大(たい)した喜の原になる。
一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。
儂が植えた樹木は、大抵(たいてい)根づいた。
儂自身も少しは村に根を下(おろ)したかと思う。
三
少しはと儂は云うた。
実は6年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。
固有の背水癖で、最初戸籍(こせき)までひいて村の者になったが、
過る6年の成績を省(かえりみ)ると、
儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。
吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。
村のポリチックスには無論超然主義を執る。
燈台下暗くして、東京近くの此村では、
青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。
儂は唯傍観して居る。
郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。
村の小さな耶蘇教会にすらも殆(ほとん)ど往(い)かぬ。
昨年まで年に1回の月番役を勤めたが、
月番の提灯を預(あずか)ったきりで、一切の事務は相番(あいばん)の肩に投げかけるので、
皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。
儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ
植木屋の亭主、位なもので、
村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。
遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。
儂は最初一の非望(ひぼう)を懐いて居た。
其は吾家の燈火(あかり)が見る人の喜悦になれかしと謂(い)うのであった。
多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥(きはず)かしくなって、
儂(わし)は一切(いっさい)説法(せっぽう)をよした。
而して吾儘一ぱいの生活をして居る。
儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。
此は儂の性分である。
東京に居ても、田舎に居ても、
何処までも旅(たび)の人、宿れる人、見物人なのである。
然しながら生年百に満たぬ人(ひと)の生(いのち)の6年は、決して短い月日では無い。
儂は其6年を已に村に過して居る。
儂が村の人になり切れぬのは事実である。
然し儂が少しも村を愛(あい)しないと云うのは嘘(うそ)である。
ちと長い旅行でもして帰って来る姿(すがた)を見かけた近所の子供に
「何処(どけ)へ往ったンだよゥ」と云われると、
油然(ゆうぜん)とした嬉しさが心の底(そこ)からこみあげて来る。
東京が大分(だいぶ)攻め寄せて来た。
東京を西に距(さ)る唯3里、東京に依って生活する村だ。
二百万の人の海にさす潮(しお)ひく汐(しお)の余波が村に響いて来るのは自然である。
東京で瓦斯を使う様(よう)になって、薪の需用が減った結果か、
村の雑木山が大分拓(ひら)かれて麦畑(むぎばたけ)になった。
道側の並木の櫟(くぬぎ)楢(なら)なぞ伐られ掘られて、
短冊形の荒畑(あらばた)が続々出来る。
武蔵野の特色なる雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
儂にとっては肉を削(そ)がるゝ思(おもい)だが、
生活がさすわざだ、詮方(せんかた)は無い。
筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
要するに曩時(むかし)の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。
京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。
儂が最初買うた地所は坪40銭位であったが、此頃は壱円以上2円も其上もする様になった。
地所買いも追々入り込む。
儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込(こ)まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。
洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見(わきみ)する毎に、
儂は眉を顰(ひそ)めて居る。
要するに東京が日々攻め寄せる。
以前聞かなかった工場(こうば)の汽笛なぞが、近来(きんらい)明け方の夢を驚かす様になった。
村人も寝(ね)ては居られぬ。
10年前の此村を識って居る人は、
皆が稼ぎ様の猛烈(もうれつ)になったに驚いて居る。
政党騒(せいとうさわ)ぎと賭博は昔から三多摩の名物(めいぶつ)であった。
此頃では、選挙争に人死(ひとじに)はなくなった。
儂が越して来た当座(とうざ)は、
まだ田圃向うの雑木山に夜灯(よるあかり)をとぼして賭博をやったりして居た。
村の旧家の某が賭博に負(ま)けて所有地一切勧業銀行の抵当(ていとう)に入れたの、
小農の某々が宅地(たくち)までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。
然し此の数年来(すうねんらい)賭博風(とばくかぜ)は吹き過ぎて、
遊人と云う者も東京に往ったり、比較的(ひかくてき)堅気(かたぎ)になったりして、
今は村民一同真面目(まじめ)に稼いで居る。
其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊(あそ)んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。
・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
こうして美的百姓をめざして、徳富蘆花はこの地の千歳村粕谷で生活をはじめた。
そして、この随筆の最後には、
【・・
大正元年十二月二十九日
都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕
武蔵野粕谷の里にて
徳冨健次郎
・・】
と明記している。
私の実家のある地域は、蘆花が住まわれた千歳村粕谷からは、
給田、そして祖師谷の集落を通して、神代村入間であった。
私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けた。
この当時は、戸主の明治20年代に生まれた祖父、
明治40年代に生まれた跡取り長兄の父、大正九年の母、
そして父の嫁ぐ前の妹の3人、夜間大学に通学しながら農業を手伝った弟ひとりがいて、
私の長兄、次兄の家族構成であった。
そして、小作人、農業大学の研修生の手助けを借りて、
田畑を耕し、竹林、雑木林を維持管理していた。
宅地には母屋少なくとも50数坪あり、
その周囲に、土蔵、納戸小屋がふたつ、そして物置小屋が点在していた。
これらの状景は、私が小学校に入学する昭和26年の春にも、
子供なりに記憶がある。
我が家も農家で生計をしていたので、収穫作物は給田にあった青果市場に、
父らがリヤカーの乗せて出荷していた。
早春にウド、ハクサイ等、春に於いてはタケノコ、キャベツ等
夏になればキュウリ、ナス、トマト、ウリ、スイカ、カボチャ等、
秋になればサツマイモ、ジャガイモ、里芋、ヤツガシラ、ゴマ、
ハス(レイコン)、柿、そして小麦、米、もち米などが、
今こうして思い浮かべても、このときの状景が浮かんでくる。
私が小学三年になるまで、父、そして祖父に死去されたので、
我が家は、大黒柱を失ったので、没落しはじめた。
私が小学校を卒業する頃、近所の70歳を越えた小父さん、
祖父の弟の叔父さんなどから、我が家の祖先の話を聞いたりしていた。
鎌倉時代の末期、上州の新田義貞が鎌倉幕府討伐の為に挙兵し、
鎌倉街道を南下し、幕府軍と小手指原の戦い後、
分倍河原の戦いで新田軍は一度大敗する。
この時に新田軍の下級武士か末端の一員か解からないが、
一部が敗残兵として、各地に散らばり生き延びた。
そして、それぞれがその地に住みはじめた。
徳川の時代には、農民を維持管理する為に地主を選定し、その下に小作人が置かれた、
そして地主は六人組で構成されて互いに監視しながら相互に共同行事を行ったり、
この地の幕府の役人の管理下に置かれ、安定した田畑の収穫が義務づけられていた。
私の幼年期に於いても、六人組の一軒として、
冠婚葬祭はもとより、初午から年末の餅つきまで、互いに助け合いをしていた。
そして、この六人組は結束が深かった。
このようなことを思い出しながら、
徳富蘆花の住まわれた千歳村の出来事を重ね合わせながら、
『みみずのたはこと』を読んだりしていた。
尚、周辺の生活実態、風習、作物の時代による変貌、
そして昭和2年に電車の京王線の開通などで周辺の変貌、影響などは、
次回から記載する。
《つづく》
a href="http://www.blogmura.com/">
徳富蘆花は、明治40年より死去するまでの20年間、
幾多の本などで氏の略歴に明記されている通り、
都心の青山高樹町より脱れて、田園生活を求め府下・千歳村粕谷356番地に移り、
『美的百姓』になろう、と記されている。
こうした生活を6年ばかりした後、
随筆『みみずのたはこと』(大正2年、刊行)を本名の徳冨健次郎で発表されている。
出典は、『青空文庫』より転載する。
【
みみずのたはこと
徳冨健次郎
故人に
一
儂(わし)の村住居(むらずまい)も、満6年になった。
暦(こよみ)の齢(とし)は45、
鏡を見ると頭髪(かみ)や満面の熊毛に白いのがふえたには今更(いまさら)の様に驚く。
元来田舎者のぼんやり者だが、
近来ます/\杢兵衛(もくべえ)太五作式になったことを自覚する。
先日上野を歩いて居たら、車夫(くるまや)が御案内しましょうか、と来た。
銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。
後(あと)でぺろり舌を出されるとは知りながら、
上等のを否(いや)極(ごく)上等(じょうとう)のをと気前を見せて言い値(ね)で
さっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。
然し店硝子(みせがらす)にうつる乃公(だいこう)の風采(ふうさい)を見てあれば、
例令(たとえ)其れが背広(せびろ)や紋付羽織袴であろうとも、
着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔(ひげがお)の間抜け加減、如何に贔屓眼(ひいきめ)に見ても――
いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑(にがわら)いして帰って来る始末。
此程村の巡査が遊びに来た。
日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、
15歳を満20歳と偽り軍夫になって澎湖島(ほうことう)に渡った経歴もある男で、
今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。
其巡査の話に、正服(せいふく)帯剣(たいけん)で東京を歩いて居ると、
あれは田舎のお廻(まわ)りだと辻待(つじまち)の車夫がぬかす。
如何して分(わ)かるかときいたら、
眼(め)で知れますと云ったと云って、大笑した。
成程(なるほど)眼で分かる――さもありそうなことだ。
鵜(う)の目、鷹の目、掏摸(すり)の眼、新聞記者の眼、其様(そん)な眼から見たら、
鈍如(どんより)した田舎者の眼は、嘸(さぞ)馬鹿らしく見えることであろう。
実際馬鹿でなければ田舎住居は出来(でき)ぬ。
人にすれずに悧巧になる道はないから。
東京に出ては儂(わし)も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。
儂の生活状態も大分変った。
君が初めて来た頃の彼(あの)あばら家とは雲泥(うんでい)の相違だ。
尤も何方が雲か泥(どろ)かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。
引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
其れから中1年置いて、明治四42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。
明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
而して11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。
畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
以前は一切無門関、勝手(かって)に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で
驚いて朝寝の眠(ねむり)をさましたもので、
乞食(こじき)物貰(ものもら)い話客千客万来であったが、
今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬(めがき)や、(かなめ)、萩ドウダンの生牆(いけがき)をめぐらし、
外から手をさし入れて明けられる様(よう)な形ばかりのものだが、
大小(だいしょう)六つの門や枝折戸が出入口を固(かた)めて居る。
己(われ)と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑(おか)しくもある。
但花や果物を無暗に荒(あら)されたり、無遠慮なお客様に擾(わずら)わさるゝよりまだ可と思うて居る。
個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩(けんか)、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂甕(じんたがめ)一つも持つまじきもの」とは実際だ。
物の所有は隔ての原(もと)で、物の執着(しゅうちゃく)は争の根(ね)である。
儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。
まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、
煉瓦塀(れんがべい)上(うえ)に硝子の破片を剣の山と植(う)えたりはせぬつもりだが、
何、程度(ていど)の問題だ、
これで金でも出来たら案外其様(そん)な事もやるであろうよ。
二
畑の物は可なり出来る。
昨年は陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いた。
今年は大麦3俵籾(もみ)で6円なにがしに売った。
田園生活をはじめてこゝに6年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。
去年は月に10日宛(ずつ)きまった作男を入れたが、
美的百姓と真物(ほんもの)の百姓とは反(そ)りが合わぬ所から半歳足らずで解雇(かいこ)してしまい、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。
自分も時々やる。
少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗(きれい)になり、
稀に肥桶を担(かつ)ぐと直ぐ肩が腫(は)れる。
元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。
最早(もう)地味(ちみ)に合わぬ球葱(たまねぎ)を無理に作ろうともせぬ。
最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。
甘藷苗の竪植(たてうえ)もせぬ。
心(しん)をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減(かげん)も、
兎やら角やら先生なしにやって行ける。
毎年儂(わし)は蔬菜(そさい)花卉(かき)の種(たね)を何円(なんえん)と云う程買う。
無論其れ程の地積(ちせき)がある訳(わけ)でも必要がある訳でも無いが、
種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。
蒔(ま)いてしまうのも中々骨だから、育(そだ)ったら事だが、
幸か不幸か種の大部分は地に入(はい)って消えて了う。
其度毎(そのたびごと)に種苗店の不徳義、種子の劣悪(れつあく)を罵(ののし)るが、
春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。
馬鹿な事さ。
然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果(けっか)には活きぬ。
馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
時の経(た)つは速いものだ。
越(こ)した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来た。
砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。
苺(いちご)は毎年移してばかり居たが、
今年は毎日喫飽(くいあき)をした上に、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来た。
生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅(か)られて萩籬の料になったり、
林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実になったり、
杉籬の剪(はさ)みすてが焚附(たきつけ)になり、
落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物(たまもの)である。
追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。
移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植(いしょく)し、
中1年を置いて
また庭の一隅(いちぐう)へ移(うつ)し植えた2尺8寸廻(まわ)りの全手葉椎(マテバシイ)が、
此頃では梢の枝葉も蕃茂(はんも)して、何時花が咲いたか、つい此程内(うち)の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。
と見て、妻が更に五六粒(つぶ)拾った。
「椎が実(な)った! 椎が実った!」驩喜(かんき)の声が家に盈(み)ちた。
田舎住居は斯様な事が大(たい)した喜の原になる。
一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。
儂が植えた樹木は、大抵(たいてい)根づいた。
儂自身も少しは村に根を下(おろ)したかと思う。
三
少しはと儂は云うた。
実は6年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。
固有の背水癖で、最初戸籍(こせき)までひいて村の者になったが、
過る6年の成績を省(かえりみ)ると、
儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。
吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。
村のポリチックスには無論超然主義を執る。
燈台下暗くして、東京近くの此村では、
青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。
儂は唯傍観して居る。
郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。
村の小さな耶蘇教会にすらも殆(ほとん)ど往(い)かぬ。
昨年まで年に1回の月番役を勤めたが、
月番の提灯を預(あずか)ったきりで、一切の事務は相番(あいばん)の肩に投げかけるので、
皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。
儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ
植木屋の亭主、位なもので、
村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。
遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。
儂は最初一の非望(ひぼう)を懐いて居た。
其は吾家の燈火(あかり)が見る人の喜悦になれかしと謂(い)うのであった。
多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥(きはず)かしくなって、
儂(わし)は一切(いっさい)説法(せっぽう)をよした。
而して吾儘一ぱいの生活をして居る。
儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。
此は儂の性分である。
東京に居ても、田舎に居ても、
何処までも旅(たび)の人、宿れる人、見物人なのである。
然しながら生年百に満たぬ人(ひと)の生(いのち)の6年は、決して短い月日では無い。
儂は其6年を已に村に過して居る。
儂が村の人になり切れぬのは事実である。
然し儂が少しも村を愛(あい)しないと云うのは嘘(うそ)である。
ちと長い旅行でもして帰って来る姿(すがた)を見かけた近所の子供に
「何処(どけ)へ往ったンだよゥ」と云われると、
油然(ゆうぜん)とした嬉しさが心の底(そこ)からこみあげて来る。
東京が大分(だいぶ)攻め寄せて来た。
東京を西に距(さ)る唯3里、東京に依って生活する村だ。
二百万の人の海にさす潮(しお)ひく汐(しお)の余波が村に響いて来るのは自然である。
東京で瓦斯を使う様(よう)になって、薪の需用が減った結果か、
村の雑木山が大分拓(ひら)かれて麦畑(むぎばたけ)になった。
道側の並木の櫟(くぬぎ)楢(なら)なぞ伐られ掘られて、
短冊形の荒畑(あらばた)が続々出来る。
武蔵野の特色なる雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
儂にとっては肉を削(そ)がるゝ思(おもい)だが、
生活がさすわざだ、詮方(せんかた)は無い。
筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
要するに曩時(むかし)の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。
京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。
儂が最初買うた地所は坪40銭位であったが、此頃は壱円以上2円も其上もする様になった。
地所買いも追々入り込む。
儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込(こ)まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。
洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見(わきみ)する毎に、
儂は眉を顰(ひそ)めて居る。
要するに東京が日々攻め寄せる。
以前聞かなかった工場(こうば)の汽笛なぞが、近来(きんらい)明け方の夢を驚かす様になった。
村人も寝(ね)ては居られぬ。
10年前の此村を識って居る人は、
皆が稼ぎ様の猛烈(もうれつ)になったに驚いて居る。
政党騒(せいとうさわ)ぎと賭博は昔から三多摩の名物(めいぶつ)であった。
此頃では、選挙争に人死(ひとじに)はなくなった。
儂が越して来た当座(とうざ)は、
まだ田圃向うの雑木山に夜灯(よるあかり)をとぼして賭博をやったりして居た。
村の旧家の某が賭博に負(ま)けて所有地一切勧業銀行の抵当(ていとう)に入れたの、
小農の某々が宅地(たくち)までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。
然し此の数年来(すうねんらい)賭博風(とばくかぜ)は吹き過ぎて、
遊人と云う者も東京に往ったり、比較的(ひかくてき)堅気(かたぎ)になったりして、
今は村民一同真面目(まじめ)に稼いで居る。
其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊(あそ)んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。
・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
こうして美的百姓をめざして、徳富蘆花はこの地の千歳村粕谷で生活をはじめた。
そして、この随筆の最後には、
【・・
大正元年十二月二十九日
都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕
武蔵野粕谷の里にて
徳冨健次郎
・・】
と明記している。
私の実家のある地域は、蘆花が住まわれた千歳村粕谷からは、
給田、そして祖師谷の集落を通して、神代村入間であった。
私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けた。
この当時は、戸主の明治20年代に生まれた祖父、
明治40年代に生まれた跡取り長兄の父、大正九年の母、
そして父の嫁ぐ前の妹の3人、夜間大学に通学しながら農業を手伝った弟ひとりがいて、
私の長兄、次兄の家族構成であった。
そして、小作人、農業大学の研修生の手助けを借りて、
田畑を耕し、竹林、雑木林を維持管理していた。
宅地には母屋少なくとも50数坪あり、
その周囲に、土蔵、納戸小屋がふたつ、そして物置小屋が点在していた。
これらの状景は、私が小学校に入学する昭和26年の春にも、
子供なりに記憶がある。
我が家も農家で生計をしていたので、収穫作物は給田にあった青果市場に、
父らがリヤカーの乗せて出荷していた。
早春にウド、ハクサイ等、春に於いてはタケノコ、キャベツ等
夏になればキュウリ、ナス、トマト、ウリ、スイカ、カボチャ等、
秋になればサツマイモ、ジャガイモ、里芋、ヤツガシラ、ゴマ、
ハス(レイコン)、柿、そして小麦、米、もち米などが、
今こうして思い浮かべても、このときの状景が浮かんでくる。
私が小学三年になるまで、父、そして祖父に死去されたので、
我が家は、大黒柱を失ったので、没落しはじめた。
私が小学校を卒業する頃、近所の70歳を越えた小父さん、
祖父の弟の叔父さんなどから、我が家の祖先の話を聞いたりしていた。
鎌倉時代の末期、上州の新田義貞が鎌倉幕府討伐の為に挙兵し、
鎌倉街道を南下し、幕府軍と小手指原の戦い後、
分倍河原の戦いで新田軍は一度大敗する。
この時に新田軍の下級武士か末端の一員か解からないが、
一部が敗残兵として、各地に散らばり生き延びた。
そして、それぞれがその地に住みはじめた。
徳川の時代には、農民を維持管理する為に地主を選定し、その下に小作人が置かれた、
そして地主は六人組で構成されて互いに監視しながら相互に共同行事を行ったり、
この地の幕府の役人の管理下に置かれ、安定した田畑の収穫が義務づけられていた。
私の幼年期に於いても、六人組の一軒として、
冠婚葬祭はもとより、初午から年末の餅つきまで、互いに助け合いをしていた。
そして、この六人組は結束が深かった。
このようなことを思い出しながら、
徳富蘆花の住まわれた千歳村の出来事を重ね合わせながら、
『みみずのたはこと』を読んだりしていた。
尚、周辺の生活実態、風習、作物の時代による変貌、
そして昭和2年に電車の京王線の開通などで周辺の変貌、影響などは、
次回から記載する。
《つづく》
a href="http://www.blogmura.com/">
