私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
ここ4日ばかり小雨が降り続いて折、ときおり止んだりしている。
私はいつものようにほぼ毎日に最寄の四百メートルのスーパーに買物に行ったり、
銀行、郵便局、理髪店(散髪屋)に寄った程度で、
余り散策をしていない状態である。
そして、余りにも小雨が降り続けるので、早くも走り梅雨かしら、と苦笑したりしている。
今朝は大粒の雨脚が屋根にあたる音が聴こえ、雷鳴が響きわたる音で目覚めた後、
玄関の軒下で煙草を喫いながら、激しい雨の降る空をぼんやりと見上げたり、
そして玄関庭の樹木を眺めたりした。
新緑の樹木は豪雨を受け、樹木越しの景色は
白いベーェルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいる。
そして地上の草花は、激しい雨と水しぶきを受けて、
もう降参よ、と悲鳴をあげるように震(ふる)わしていた。
そして、私の履いている下駄も水しぶきを受けていた。
しばらくすると、付近で落雷が数度響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。
私は土砂降りの雨を眺め、よく降り続けるね、とため息をし、
その上、雷だもの、俺も降参したいよ、と心の中で呟いたりした。
この後、雷鳴も消えうせて、主庭の激しい雨から幾分衰えた雨を眺め、
やがて雨は止み、空は明るくなり、しばらくすると陽射しが射しこんできた。
新緑の枝葉は雨粒をたたえて、雨粒は陽射しを受けると煌(きらめ)いていた。
私は初夏にときおり見られる夕立である白雨(はくう)のようだった、
と思いを馳せながら、しばらく見惚(みとれ)れたりしていた。
そして、この後はどんよりとした曇り空におおわれて、
小雨が降りだし、そして止んだりし、不安定な気候の午前中であった。
私はこのような情景を居間から眺め、主庭の若葉を見つめたりしながら、
パソコンに向かい、このサイトに綴った自身の投稿文を読み返していた。
そして、あの頃はこのような思いであったのかしら、
と微苦笑した。
【 倉本 聰・著の『失われた森厳~富良野風話~』】と題して、
2006年5月27日に投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
今、読んでいる本は、倉本 聰・著作の『失われた森厳~富良野風話~』である。
私は倉本 聰氏に関しては、1部のシナリオを除き、購入し、精読しているつもりである。
従って、私はこの著作者から影響は多大に受けているひとりである。
昨夜、読んでいて、私の場合であったら、と考えされられた。
一部を無断であるが、引用させて頂きます。
【
『適疎』
・・・
僕が住んでいる富良野の土地は文化村という森の中にある。
この村はそもそも、東大演習林元林長・高橋延清先生の、
どれ位の森にどれ位の人間が住めば、
人と森とが共存出来るかという一つの実験的な試みから始まった。
市の所有する約1万2千坪の自然林を図面上12に分割し、
家を建てる場所以外、木を伐ってはいけない。
垣根、塀などを立ててはいけない。
水は沢から引く。
電気だけは一応通してくれる。
そういうことでスタートした。
爾来に20数年、12の土地は全て売れ夫々に夫々の家が建っていたが、
僕を含めて3軒だけを除くと後は全て別荘であり、
それもあんまり利用されていないから、
全ての森は僅(わず)か3軒で殆ど独占していることになる。
言い方を変えれば、1万2千坪割る3、
イコール1軒当たり4千坪の森の空間で豊かに暮らしている計算になる。
この森にはフキ、ゼンマイ、ツクシ、フキノトウ、ウド、タラノメと山菜が豊富だし、
秋になれば様々なキノコが森のあちらこちらに顔を出し、
どこで採ろうが文句は言われない。
そもそも僕は土地は所有するという概念にかねがね疑問を持っているのだから、
塀に囲まれた都会の暮らしならいざ知らず、
自然を独占するのは自由である。
過疎の暮らしとはそういうものである。
確かに過疎の地は消費が乏しく、従って雇用の機会が少ない為に、
経済社会の概念から見れば失格というレッテルを貼られてしまうだろう。
しかし僕のような自由業のものにはここがたまらない天国である。
・・(略)・・
僕は今この土地を決して過疎でなく、適疎であると認識している。
】
以上、引用させて頂きました。
注)著作者の原文にあえて改行を多くした。
著作者の以前からの数多くの随筆で、概要は綴られていたのが、
具体的な事は初めてである。
私は、今回の『適疎』を読んでしばらく言葉を失った。
さて、私達の退職後の身としての夫婦は、
これ等の万一与えられた場合、
果たして生活が出来るかしら、と考えた・・。
私達夫婦が、このような文化村の森の生活を与えられた場合、
退職後の身となった今、果たして過ごせるものだろうか・・。
著作者が40代半ばの時、開墾者のような強い意志と意欲があった上で、
周囲の人々との交流で自己を鍛えられた、と想像する。
著作者のご夫婦は、こうした時の流れの中、森の中で生きる知恵を修得し、
定着という稀(まれ)な栄誉を自ら獲得したと思われる。
私の20歳頃のあこがれとしては、
里山の一面、500坪前後の樹木に囲まれて、
平屋の30坪前後の住居で生活するのが夢であった。
私は自由職を目指していたが、拙(つたな)い自己を悟(さと)り、
サラリーマンの身に転じた。
28年前頃、東京の郊外にわずか百坪の敷地のある住居を構え、
若さの勢いで茶室も付けてしまい、悪戦苦闘しながら住宅ローンを返済してきた。
サラリーマンの生活をしている中、
都会の垢に染まり、利便性に囲まれ、甘受している身となった。
定年退職後の今、単なるあこがれだけては、心身無理である。
私のような小心者は、今ある庭の樹木を手入れをし、
著作者の住まわれている森に思いを馳(は)せるのが、
私の拙(つたな)い実力に相応しい生活かしらと苦笑している。
・・】
このように投稿していたのである。
私は東京郊外の調布市の外れに住み、世田谷区と狛江市に隣接して地域の関係で、
電話に関しては、世田谷区の管轄下となっている。
そして小田急線と京王線の間にあり、いずれも最寄駅まで15分前後の徒歩の距離である。
私共の夫婦は、自動車を所有するつもりがないので、
私は平素は駅前までは散歩がわりに歩くが、
都心に出たりする時は、殆どバスと電車を利用し、
止む得ず急ぎの用事とか冠婚葬祭などの場合はタクシーを使うこともある。
いずれにしてもバスと電車を利用しても、
自宅から都心の新宿、青山、六本木、渋谷、東京駅には、ほぼ1時間で行ける。
私の住んでいる地域は、住宅街であり、この外れに私の家がある。
そして落葉樹の多い樹木につつまれた庭を眺め、
築後30年過ぎた古惚けた家に住み、私達夫婦は子供に恵まれなかったので、
ふたりだけの生活している。
このような今の現状の上、私は齢を重ねるたびに体力も衰え、
今のようにスーパーなどで買物、病院、そして本屋が近くにないと、
何かしら不便と感じ、郊外の利便性に甘受しているのである。
しかしながら私の幼年期は農家の児として育ったので、
起伏の少ない田畑、あぜ道、湧き水、そして竹林、雑木林などに、
限りなく愛惜しながら心を寄せている。
こうした時、ときおり家内と国内旅行をして、
里村の情景を眺めながら、あぜ道、農道、村道を歩いたりし、
しばらく見惚(みと)れたり、ときには涙を浮かべることもある。
そして、齢を重ね体力も、気力も衰えた今、
里山に住むという夢のようなあこがれの住まいと現実とは違う、
と思いを知らされたりしている。
a href="http://www.blogmura.com/">
ここ4日ばかり小雨が降り続いて折、ときおり止んだりしている。
私はいつものようにほぼ毎日に最寄の四百メートルのスーパーに買物に行ったり、
銀行、郵便局、理髪店(散髪屋)に寄った程度で、
余り散策をしていない状態である。
そして、余りにも小雨が降り続けるので、早くも走り梅雨かしら、と苦笑したりしている。
今朝は大粒の雨脚が屋根にあたる音が聴こえ、雷鳴が響きわたる音で目覚めた後、
玄関の軒下で煙草を喫いながら、激しい雨の降る空をぼんやりと見上げたり、
そして玄関庭の樹木を眺めたりした。
新緑の樹木は豪雨を受け、樹木越しの景色は
白いベーェルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいる。
そして地上の草花は、激しい雨と水しぶきを受けて、
もう降参よ、と悲鳴をあげるように震(ふる)わしていた。
そして、私の履いている下駄も水しぶきを受けていた。
しばらくすると、付近で落雷が数度響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。
私は土砂降りの雨を眺め、よく降り続けるね、とため息をし、
その上、雷だもの、俺も降参したいよ、と心の中で呟いたりした。
この後、雷鳴も消えうせて、主庭の激しい雨から幾分衰えた雨を眺め、
やがて雨は止み、空は明るくなり、しばらくすると陽射しが射しこんできた。
新緑の枝葉は雨粒をたたえて、雨粒は陽射しを受けると煌(きらめ)いていた。
私は初夏にときおり見られる夕立である白雨(はくう)のようだった、
と思いを馳せながら、しばらく見惚(みとれ)れたりしていた。
そして、この後はどんよりとした曇り空におおわれて、
小雨が降りだし、そして止んだりし、不安定な気候の午前中であった。
私はこのような情景を居間から眺め、主庭の若葉を見つめたりしながら、
パソコンに向かい、このサイトに綴った自身の投稿文を読み返していた。
そして、あの頃はこのような思いであったのかしら、
と微苦笑した。
【 倉本 聰・著の『失われた森厳~富良野風話~』】と題して、
2006年5月27日に投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
今、読んでいる本は、倉本 聰・著作の『失われた森厳~富良野風話~』である。
私は倉本 聰氏に関しては、1部のシナリオを除き、購入し、精読しているつもりである。
従って、私はこの著作者から影響は多大に受けているひとりである。
昨夜、読んでいて、私の場合であったら、と考えされられた。
一部を無断であるが、引用させて頂きます。
【
『適疎』
・・・
僕が住んでいる富良野の土地は文化村という森の中にある。
この村はそもそも、東大演習林元林長・高橋延清先生の、
どれ位の森にどれ位の人間が住めば、
人と森とが共存出来るかという一つの実験的な試みから始まった。
市の所有する約1万2千坪の自然林を図面上12に分割し、
家を建てる場所以外、木を伐ってはいけない。
垣根、塀などを立ててはいけない。
水は沢から引く。
電気だけは一応通してくれる。
そういうことでスタートした。
爾来に20数年、12の土地は全て売れ夫々に夫々の家が建っていたが、
僕を含めて3軒だけを除くと後は全て別荘であり、
それもあんまり利用されていないから、
全ての森は僅(わず)か3軒で殆ど独占していることになる。
言い方を変えれば、1万2千坪割る3、
イコール1軒当たり4千坪の森の空間で豊かに暮らしている計算になる。
この森にはフキ、ゼンマイ、ツクシ、フキノトウ、ウド、タラノメと山菜が豊富だし、
秋になれば様々なキノコが森のあちらこちらに顔を出し、
どこで採ろうが文句は言われない。
そもそも僕は土地は所有するという概念にかねがね疑問を持っているのだから、
塀に囲まれた都会の暮らしならいざ知らず、
自然を独占するのは自由である。
過疎の暮らしとはそういうものである。
確かに過疎の地は消費が乏しく、従って雇用の機会が少ない為に、
経済社会の概念から見れば失格というレッテルを貼られてしまうだろう。
しかし僕のような自由業のものにはここがたまらない天国である。
・・(略)・・
僕は今この土地を決して過疎でなく、適疎であると認識している。
】
以上、引用させて頂きました。
注)著作者の原文にあえて改行を多くした。
著作者の以前からの数多くの随筆で、概要は綴られていたのが、
具体的な事は初めてである。
私は、今回の『適疎』を読んでしばらく言葉を失った。
さて、私達の退職後の身としての夫婦は、
これ等の万一与えられた場合、
果たして生活が出来るかしら、と考えた・・。
私達夫婦が、このような文化村の森の生活を与えられた場合、
退職後の身となった今、果たして過ごせるものだろうか・・。
著作者が40代半ばの時、開墾者のような強い意志と意欲があった上で、
周囲の人々との交流で自己を鍛えられた、と想像する。
著作者のご夫婦は、こうした時の流れの中、森の中で生きる知恵を修得し、
定着という稀(まれ)な栄誉を自ら獲得したと思われる。
私の20歳頃のあこがれとしては、
里山の一面、500坪前後の樹木に囲まれて、
平屋の30坪前後の住居で生活するのが夢であった。
私は自由職を目指していたが、拙(つたな)い自己を悟(さと)り、
サラリーマンの身に転じた。
28年前頃、東京の郊外にわずか百坪の敷地のある住居を構え、
若さの勢いで茶室も付けてしまい、悪戦苦闘しながら住宅ローンを返済してきた。
サラリーマンの生活をしている中、
都会の垢に染まり、利便性に囲まれ、甘受している身となった。
定年退職後の今、単なるあこがれだけては、心身無理である。
私のような小心者は、今ある庭の樹木を手入れをし、
著作者の住まわれている森に思いを馳(は)せるのが、
私の拙(つたな)い実力に相応しい生活かしらと苦笑している。
・・】
このように投稿していたのである。
私は東京郊外の調布市の外れに住み、世田谷区と狛江市に隣接して地域の関係で、
電話に関しては、世田谷区の管轄下となっている。
そして小田急線と京王線の間にあり、いずれも最寄駅まで15分前後の徒歩の距離である。
私共の夫婦は、自動車を所有するつもりがないので、
私は平素は駅前までは散歩がわりに歩くが、
都心に出たりする時は、殆どバスと電車を利用し、
止む得ず急ぎの用事とか冠婚葬祭などの場合はタクシーを使うこともある。
いずれにしてもバスと電車を利用しても、
自宅から都心の新宿、青山、六本木、渋谷、東京駅には、ほぼ1時間で行ける。
私の住んでいる地域は、住宅街であり、この外れに私の家がある。
そして落葉樹の多い樹木につつまれた庭を眺め、
築後30年過ぎた古惚けた家に住み、私達夫婦は子供に恵まれなかったので、
ふたりだけの生活している。
このような今の現状の上、私は齢を重ねるたびに体力も衰え、
今のようにスーパーなどで買物、病院、そして本屋が近くにないと、
何かしら不便と感じ、郊外の利便性に甘受しているのである。
しかしながら私の幼年期は農家の児として育ったので、
起伏の少ない田畑、あぜ道、湧き水、そして竹林、雑木林などに、
限りなく愛惜しながら心を寄せている。
こうした時、ときおり家内と国内旅行をして、
里村の情景を眺めながら、あぜ道、農道、村道を歩いたりし、
しばらく見惚(みと)れたり、ときには涙を浮かべることもある。
そして、齢を重ね体力も、気力も衰えた今、
里山に住むという夢のようなあこがれの住まいと現実とは違う、
と思いを知らされたりしている。
a href="http://www.blogmura.com/">
