夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《6》

2009-05-29 17:39:52 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
        第6章

徳富蘆花の『みみずのたはこと』の前章の中於いて、
千歳村粕谷に住む子供たちを、
【・・
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、
栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
・・】

このように綴っていた。

徳富蘆花がこの地に住まわれ、『みみずのたはこと』に関しては、
明治の後期、大正時代であるが、
私の幼年期の昭和30年までは、同じような状況であった。

私は6歳ぐらいから、折りたたみできるナイフをポケットに入れ、
初秋の頃から栗の樹の下に行き、落ちた栗いがらを見つけて、
運動靴ではさみ、そしてクリの実を取りだした。
そして、ズボンで少しこすった後、ナイフを取り出し、渋皮を削り、
少し固い実をかじっていた。

幼児の4歳ぐらいは、裸足で宅地を駈けずり回ったりし、
木クズ、クギなどが足に刺さったり、足か手にケガをした時は、
母か叔母に赤チンを少し塗ってもらい、この後も駈けずり回っていた。

この当時、私の住む神代村入間は、昨今のように小児科などはなく、
風邪、腹痛などの場合は、ひどくなった場合に限り、
巡回で定期に来宅される富山の薬屋さんの置き薬である家庭薬を
母か叔母が取りだして、私は呑んだりしていた。


徳富蘆花はこの当時の千歳村粕谷の肴(サカナ)事情について、
【・・
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
・・】

私の幼年期の昭和29年頃までは、
がっしりした自転車で大きな荷台に木箱を幾重にも積み上げた魚屋さんが、
巡回販売で来宅していた。
生魚はイワシ、ニシン、アジ、サンマ、カツオなど木箱の氷のかけらから取り出したり、
或いは干し物はイワシ、アジが多かったのが、記憶に残っている。

刺身に関しては、日常は皆無であった。
冠婚葬祭の折、仕出し屋さんから、マグロ、イカ等の刺身を人数分だけ小鉢に入れ、
それぞれ座敷で祖父、父たちが頂いたり、或いは出したりしていた。
そして、この時は必ず折り詰めがあり、焼いた鯛、海老などが付いていた。

祖父が招待されて帰宅した時は、
この折り詰めの焼いた鯛を祖父から進められて、よく食べた記憶が
今でも鮮明に残っている。

このような事情なので、サザエなどの貝類はめずらしく、
お互いに海岸のある付近に出かけた時、一軒に数個のお土産としては貴重で、
喜ばれたりしていた時代であった。


徳富蘆花が住まわれた明治後期から大正の初めの変貌する状況を、
都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。

そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を消え掛かり、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にし、
養蚕(ようさん)用に桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、
と氏は綴られている。

こうした中で、『みみずのたはこと』の『故人に』終わりの頃に、
【・・
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
・・】
と氏は大正元年12月に記している。


あの当時は確かに京王線の笹塚~調布が開通したのは、大正2年であったので、
この千歳村は今では『蘆花公園』、『千歳烏山』の両駅に当り、
腺、駅の施設の土木工事、線路の設置工事などで、
聴こえたと思われる。

この当時の都心への交通便は主幹として、甲州街道だけであり、
リヤカー、人力車、馬車、牛車、そして徒歩が多い国道と想像したりしている。
そして、電車が開通されれば、人の行き交いも増し、
駅周辺はもとより、この地域も大きく変貌しはじめた、
と私は想像を重ねたりした。

                           《つづく》




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雨降る朝、思わず『城ヶ島の雨』を心の中で唄えば・・♪

2009-05-29 09:32:50 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝6時過ぎに玄関庭の軒下で、
過日に庭の手入れをしたので、小雨降る中の樹木を眺め、少しは小奇麗になり、
清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。

しかし、雨が昨日の朝の6時過ぎから降り続けているので、
本格的な梅雨前の一時時期の長雨である走り梅雨と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と云うも本音である。

♪雨はふるふる
 城が島の磯(いそ)に
 利休鼠(りきゅうねずみ)の
 雨がふる

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


と私は心の中で唄っていたのである。

♪雨は真珠か
 夜明けの霧か
 それともわたしの
 忍び泣き

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。

私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。

以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
【・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。

のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。

大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・】

こうしたことを思い浮かべると、

♪舟はゆくゆく
 通り矢のはなを
 濡(ぬ)れて帆あげた
 ぬしの舟

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。

この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。

そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。


私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
【・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・

(略)

白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・】
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。


私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。

そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。

♪雨はふるふる
 日はうす曇る
 舟はゆくゆく
 帆がかすむ

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを1時間ばかり思ったりした。



♪【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞、唄・藤山一郎 】
http://www.youtube.com/watch?v=K7uGnSNXXYw



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