第6章
徳富蘆花の『みみずのたはこと』の前章の中於いて、
千歳村粕谷に住む子供たちを、
【・・
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、
栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
・・】
このように綴っていた。
徳富蘆花がこの地に住まわれ、『みみずのたはこと』に関しては、
明治の後期、大正時代であるが、
私の幼年期の昭和30年までは、同じような状況であった。
私は6歳ぐらいから、折りたたみできるナイフをポケットに入れ、
初秋の頃から栗の樹の下に行き、落ちた栗いがらを見つけて、
運動靴ではさみ、そしてクリの実を取りだした。
そして、ズボンで少しこすった後、ナイフを取り出し、渋皮を削り、
少し固い実をかじっていた。
幼児の4歳ぐらいは、裸足で宅地を駈けずり回ったりし、
木クズ、クギなどが足に刺さったり、足か手にケガをした時は、
母か叔母に赤チンを少し塗ってもらい、この後も駈けずり回っていた。
この当時、私の住む神代村入間は、昨今のように小児科などはなく、
風邪、腹痛などの場合は、ひどくなった場合に限り、
巡回で定期に来宅される富山の薬屋さんの置き薬である家庭薬を
母か叔母が取りだして、私は呑んだりしていた。
徳富蘆花はこの当時の千歳村粕谷の肴(サカナ)事情について、
【・・
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
・・】
私の幼年期の昭和29年頃までは、
がっしりした自転車で大きな荷台に木箱を幾重にも積み上げた魚屋さんが、
巡回販売で来宅していた。
生魚はイワシ、ニシン、アジ、サンマ、カツオなど木箱の氷のかけらから取り出したり、
或いは干し物はイワシ、アジが多かったのが、記憶に残っている。
刺身に関しては、日常は皆無であった。
冠婚葬祭の折、仕出し屋さんから、マグロ、イカ等の刺身を人数分だけ小鉢に入れ、
それぞれ座敷で祖父、父たちが頂いたり、或いは出したりしていた。
そして、この時は必ず折り詰めがあり、焼いた鯛、海老などが付いていた。
祖父が招待されて帰宅した時は、
この折り詰めの焼いた鯛を祖父から進められて、よく食べた記憶が
今でも鮮明に残っている。
このような事情なので、サザエなどの貝類はめずらしく、
お互いに海岸のある付近に出かけた時、一軒に数個のお土産としては貴重で、
喜ばれたりしていた時代であった。
徳富蘆花が住まわれた明治後期から大正の初めの変貌する状況を、
都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。
そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を消え掛かり、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にし、
養蚕(ようさん)用に桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、
と氏は綴られている。
こうした中で、『みみずのたはこと』の『故人に』終わりの頃に、
【・・
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
・・】
と氏は大正元年12月に記している。
あの当時は確かに京王線の笹塚~調布が開通したのは、大正2年であったので、
この千歳村は今では『蘆花公園』、『千歳烏山』の両駅に当り、
腺、駅の施設の土木工事、線路の設置工事などで、
聴こえたと思われる。
この当時の都心への交通便は主幹として、甲州街道だけであり、
リヤカー、人力車、馬車、牛車、そして徒歩が多い国道と想像したりしている。
そして、電車が開通されれば、人の行き交いも増し、
駅周辺はもとより、この地域も大きく変貌しはじめた、
と私は想像を重ねたりした。
《つづく》
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徳富蘆花の『みみずのたはこと』の前章の中於いて、
千歳村粕谷に住む子供たちを、
【・・
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、
栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
・・】
このように綴っていた。
徳富蘆花がこの地に住まわれ、『みみずのたはこと』に関しては、
明治の後期、大正時代であるが、
私の幼年期の昭和30年までは、同じような状況であった。
私は6歳ぐらいから、折りたたみできるナイフをポケットに入れ、
初秋の頃から栗の樹の下に行き、落ちた栗いがらを見つけて、
運動靴ではさみ、そしてクリの実を取りだした。
そして、ズボンで少しこすった後、ナイフを取り出し、渋皮を削り、
少し固い実をかじっていた。
幼児の4歳ぐらいは、裸足で宅地を駈けずり回ったりし、
木クズ、クギなどが足に刺さったり、足か手にケガをした時は、
母か叔母に赤チンを少し塗ってもらい、この後も駈けずり回っていた。
この当時、私の住む神代村入間は、昨今のように小児科などはなく、
風邪、腹痛などの場合は、ひどくなった場合に限り、
巡回で定期に来宅される富山の薬屋さんの置き薬である家庭薬を
母か叔母が取りだして、私は呑んだりしていた。
徳富蘆花はこの当時の千歳村粕谷の肴(サカナ)事情について、
【・・
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
・・】
私の幼年期の昭和29年頃までは、
がっしりした自転車で大きな荷台に木箱を幾重にも積み上げた魚屋さんが、
巡回販売で来宅していた。
生魚はイワシ、ニシン、アジ、サンマ、カツオなど木箱の氷のかけらから取り出したり、
或いは干し物はイワシ、アジが多かったのが、記憶に残っている。
刺身に関しては、日常は皆無であった。
冠婚葬祭の折、仕出し屋さんから、マグロ、イカ等の刺身を人数分だけ小鉢に入れ、
それぞれ座敷で祖父、父たちが頂いたり、或いは出したりしていた。
そして、この時は必ず折り詰めがあり、焼いた鯛、海老などが付いていた。
祖父が招待されて帰宅した時は、
この折り詰めの焼いた鯛を祖父から進められて、よく食べた記憶が
今でも鮮明に残っている。
このような事情なので、サザエなどの貝類はめずらしく、
お互いに海岸のある付近に出かけた時、一軒に数個のお土産としては貴重で、
喜ばれたりしていた時代であった。
徳富蘆花が住まわれた明治後期から大正の初めの変貌する状況を、
都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。
そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を消え掛かり、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にし、
養蚕(ようさん)用に桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、
と氏は綴られている。
こうした中で、『みみずのたはこと』の『故人に』終わりの頃に、
【・・
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
・・】
と氏は大正元年12月に記している。
あの当時は確かに京王線の笹塚~調布が開通したのは、大正2年であったので、
この千歳村は今では『蘆花公園』、『千歳烏山』の両駅に当り、
腺、駅の施設の土木工事、線路の設置工事などで、
聴こえたと思われる。
この当時の都心への交通便は主幹として、甲州街道だけであり、
リヤカー、人力車、馬車、牛車、そして徒歩が多い国道と想像したりしている。
そして、電車が開通されれば、人の行き交いも増し、
駅周辺はもとより、この地域も大きく変貌しはじめた、
と私は想像を重ねたりした。
《つづく》
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