第2章
私の読書歴は遅ればせながら高校時代からで、新潮文庫を中核に濫読していた。
私は東京オリンピックが開催された後に、
確か中央公論社が創業80周年を記念して出版した『日本の文学』の全80巻を次兄が購入していたので、
明治から昭和の時代までの作品が選定されたのを殆ど読んだりしていた。
そして、当然のことながら徳冨蘆花の小説『不如帰』は収録されていたが、
あとの作品は忘れてしまったが、
日本文学に関しては、この『日本の文学』が基盤となり、
この中で魅せられた作家から、単行本、文庫本を買い求めたり、
月刊文芸誌の『新潮』、『文学界』、『群像』を読んだりしていた。
このような状態であったので、私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。
そして私は、何かないかしらと思いながら、
書棚から一冊の本を取り出したのである・・。
『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)であり、昭和43年1月下旬に買い求めた文学辞典である。
そして、昨日の徳冨蘆花の軌跡を読みながら、
驚いたり、ため息をしたのである。
無念ながら私には徳冨蘆花氏に関して、殆ど無知であり、
この辞書に執筆された文芸評論家・荒 正人の解説文にすがり、転載させて頂く。
【徳富蘆花(とくとみ ろか)
明治元(1868)年10月25日~昭和2(1927)年9月18日
小説家。
本名・徳富健次郎。
肥後・葦北郡水俣に生まれた。
徳富猪一郎(蘇峰)の弟。
徳富家は、水俣の郷士で惣庄屋(そうしょうや)兼代官であった。
父・一敬は、明治維新の後、
白川県(のちに熊本県)七等出仕となったが、辞任してからは、
政治、産業、教育に従い、大正3年まで存命していた。
(略)
蘆花は、熊本・本山小で優秀な成績を示していたが、
ジェーンズ大尉が基礎を築いた熊本洋学校に入学した。
明治9年の『熊本神風連の乱』を家内より覗き見した。
明治11年6月、兄・猪一郎に伴われて、京都・同志社に入学し、新島 襄に認められた。
やがて文学書に親しんだ。
明治13年6月、同志社を去り、熊本に帰った。
明治14年、母・久子に連れなれて教会に通い、また、小説なども創りはじめた。
明治15年、兄・猪一郎の経営する大江義塾に移った。
この頃・父・一敬へ反逆した。
父への反感は、生涯を通じて激しく、のちに、父の死に際しては、
葬儀におもむかったばかりか、赤飯をたいて祝った。
蘆花は、兄・猪一郎に対しては、死の床に至るまで、負け犬の立場に、
自分を於き、みずから苦しみぬいた。
蘆花は、妻・あいにも劣等感をいたいたが、これはやがて消え去った。
『新春』(大正7年・刊行)には、
蘆花が幼年時代に母・久子に悪戯をしようと試み、
叱られたことが、罪の意識の根源になっていることを回想している。
蘆花は、疵松だと思いこんだ。
劣等感も、兄からの抑圧だけが原因でなく、
みずから蒔いた種子にほかならぬと考えていた。
母・久子は、受洗した。
蘆花もキリスト教に近づいた。
明治18年、熊本のメソジスト教会で、受洗し、
今治におもむいて伝道をはじめた。
父から独立したかったのである。
明治19年、同志社に復学し、新島 襄の義姪・山本久栄と恋愛したが、
周囲から反対され、夢遊病者のように鹿児島に走った。
その間の事情は、『黒い眼と茶色の目』(大正3年・刊行)に告白されている。
明治21年2月、放浪も終わり、熊本英学校の教師となった。
蘆花の青春の嵐は、この時やっと落ちついたらしい。
つぎに、下積みの生活が始まる。
明治22年5月、上京して、兄・蘇峰の経営する民友社で、
校正係になり、翻訳その他雑文を書いた。
『如温(ジョン)・武雷士(ブライド)』や『理査士(リチヤルド)・格士電(コブデン)』(明治22年・刊行)などを、
民友社から刊行した。
民友社からは、『国民之友』、『国民新聞』、『家庭雑誌』などが刊行されていたので、
蘆花はいろんな文章を書いていた。
下積みの生活は、10年も続いていた。
キリスト教の信仰は次第にさめたが、
トルストイやゲーテに興味を覚えるようになった。
『ヴィルヘルム・マイスター』を読んだ時など、感激の余り三晩も眠れなかった。
この時期に、『グラッドストーン伝』(明治25・刊行)、
『近世欧米 歴史之片影』』(明治26・刊行)のほか、
『水郷の夢』』(明治23・刊行)、『百合の花』(明治26・刊行)、
『碓氷の紅葉』(明治26・刊行、のちに、『両毛の秋』)を書いた。
これは、蘆花の自然詩人としての一面を示している。
・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
徳富蘆花の幼年期から青年時代まで、そして作家としての下積み時代の軌跡であるが、
この時代に於いては平民より遥かに恵まれた家柄で育ち、
この人なりに複雑に苦悶しながらも成人を迎え、
やがて確固たる創作者の道へとたどるのである。
しかし、当人が暗黙に伝承される茶道、華道、歌舞伎などの世界と違い、
もとより創作者はみずから独創性ある作品を提示しなければならない世界であり、
この後の徳富蘆花も苦難の軌跡が待っている。
《つづく》
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私の読書歴は遅ればせながら高校時代からで、新潮文庫を中核に濫読していた。
私は東京オリンピックが開催された後に、
確か中央公論社が創業80周年を記念して出版した『日本の文学』の全80巻を次兄が購入していたので、
明治から昭和の時代までの作品が選定されたのを殆ど読んだりしていた。
そして、当然のことながら徳冨蘆花の小説『不如帰』は収録されていたが、
あとの作品は忘れてしまったが、
日本文学に関しては、この『日本の文学』が基盤となり、
この中で魅せられた作家から、単行本、文庫本を買い求めたり、
月刊文芸誌の『新潮』、『文学界』、『群像』を読んだりしていた。
このような状態であったので、私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。
そして私は、何かないかしらと思いながら、
書棚から一冊の本を取り出したのである・・。
『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)であり、昭和43年1月下旬に買い求めた文学辞典である。
そして、昨日の徳冨蘆花の軌跡を読みながら、
驚いたり、ため息をしたのである。
無念ながら私には徳冨蘆花氏に関して、殆ど無知であり、
この辞書に執筆された文芸評論家・荒 正人の解説文にすがり、転載させて頂く。
【徳富蘆花(とくとみ ろか)
明治元(1868)年10月25日~昭和2(1927)年9月18日
小説家。
本名・徳富健次郎。
肥後・葦北郡水俣に生まれた。
徳富猪一郎(蘇峰)の弟。
徳富家は、水俣の郷士で惣庄屋(そうしょうや)兼代官であった。
父・一敬は、明治維新の後、
白川県(のちに熊本県)七等出仕となったが、辞任してからは、
政治、産業、教育に従い、大正3年まで存命していた。
(略)
蘆花は、熊本・本山小で優秀な成績を示していたが、
ジェーンズ大尉が基礎を築いた熊本洋学校に入学した。
明治9年の『熊本神風連の乱』を家内より覗き見した。
明治11年6月、兄・猪一郎に伴われて、京都・同志社に入学し、新島 襄に認められた。
やがて文学書に親しんだ。
明治13年6月、同志社を去り、熊本に帰った。
明治14年、母・久子に連れなれて教会に通い、また、小説なども創りはじめた。
明治15年、兄・猪一郎の経営する大江義塾に移った。
この頃・父・一敬へ反逆した。
父への反感は、生涯を通じて激しく、のちに、父の死に際しては、
葬儀におもむかったばかりか、赤飯をたいて祝った。
蘆花は、兄・猪一郎に対しては、死の床に至るまで、負け犬の立場に、
自分を於き、みずから苦しみぬいた。
蘆花は、妻・あいにも劣等感をいたいたが、これはやがて消え去った。
『新春』(大正7年・刊行)には、
蘆花が幼年時代に母・久子に悪戯をしようと試み、
叱られたことが、罪の意識の根源になっていることを回想している。
蘆花は、疵松だと思いこんだ。
劣等感も、兄からの抑圧だけが原因でなく、
みずから蒔いた種子にほかならぬと考えていた。
母・久子は、受洗した。
蘆花もキリスト教に近づいた。
明治18年、熊本のメソジスト教会で、受洗し、
今治におもむいて伝道をはじめた。
父から独立したかったのである。
明治19年、同志社に復学し、新島 襄の義姪・山本久栄と恋愛したが、
周囲から反対され、夢遊病者のように鹿児島に走った。
その間の事情は、『黒い眼と茶色の目』(大正3年・刊行)に告白されている。
明治21年2月、放浪も終わり、熊本英学校の教師となった。
蘆花の青春の嵐は、この時やっと落ちついたらしい。
つぎに、下積みの生活が始まる。
明治22年5月、上京して、兄・蘇峰の経営する民友社で、
校正係になり、翻訳その他雑文を書いた。
『如温(ジョン)・武雷士(ブライド)』や『理査士(リチヤルド)・格士電(コブデン)』(明治22年・刊行)などを、
民友社から刊行した。
民友社からは、『国民之友』、『国民新聞』、『家庭雑誌』などが刊行されていたので、
蘆花はいろんな文章を書いていた。
下積みの生活は、10年も続いていた。
キリスト教の信仰は次第にさめたが、
トルストイやゲーテに興味を覚えるようになった。
『ヴィルヘルム・マイスター』を読んだ時など、感激の余り三晩も眠れなかった。
この時期に、『グラッドストーン伝』(明治25・刊行)、
『近世欧米 歴史之片影』』(明治26・刊行)のほか、
『水郷の夢』』(明治23・刊行)、『百合の花』(明治26・刊行)、
『碓氷の紅葉』(明治26・刊行、のちに、『両毛の秋』)を書いた。
これは、蘆花の自然詩人としての一面を示している。
・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
徳富蘆花の幼年期から青年時代まで、そして作家としての下積み時代の軌跡であるが、
この時代に於いては平民より遥かに恵まれた家柄で育ち、
この人なりに複雑に苦悶しながらも成人を迎え、
やがて確固たる創作者の道へとたどるのである。
しかし、当人が暗黙に伝承される茶道、華道、歌舞伎などの世界と違い、
もとより創作者はみずから独創性ある作品を提示しなければならない世界であり、
この後の徳富蘆花も苦難の軌跡が待っている。
《つづく》
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