私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなかったので、たった2人だけの家庭で、
古惚けた一軒屋に住んでいる。
夕暮れに、門扉の近くにある郵便受け入れ箱に、
日本年金機構から2通の折込封書のある葉書が郵送され、何かしらと思いながら、私は開いた。
左側には、『国民年金・厚生年金保険 年金額改定通知書』と題され、
平成23年4月分からの年金額が改定された明細書であった。
右側には、、『年金振込通知書』であり、
毎回振込みの2か月分の『年金支払額』などが明記されていた。
この後、私はあるファイルを取り出して、前年の『年金振込通知書』を見て、
昨年の新聞のニュースで知った通り、
やはり支給額はわずかに減った、と苦笑したりした。
あとの一通は家内の分であり、私より5歳齢下の家内も年金受給者で、
我が家は夫婦共々年金の身となり、2人で一人前の気持ちで過ごしている。
私は東京オリンピツクが開催された1964年に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりして映画・文学青年の真似事をした。
ある年、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
ある知人のご尽力もあり、この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、
中途入社できたのは、1970年の春であった。
この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられて、
本社に30年ばかり務めた後、音楽業界のリストラ旋風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004年の晩秋であった。
このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たちとは、
遥かに遠いつたない身なので、年収はもとより退職金も程ほどに少なく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と微苦笑している。
定年退職後、私は念願の年金生活を始めて、
日常は買物、散策などの時、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしているので、一日が終るのが早い、と溜息をついたりすることが多い。
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
我が家は年金生活なので、原則として年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。
年金生活を始めて、私たち夫婦は幾たびか国内旅行に行ったりしたが、
知床半島を観光船で早朝クルーズで岬で日の出を迎える団体周遊プランに魅せられて、
私たち夫婦は久々に団体周遊プランに参加した・・。
道央、道東の知床を周遊し、3日目の昼下り、
阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。
私たち夫婦は団体周遊旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。
この時も年配のご主人と湖畔の喫煙場で、
私は話し合っていた・・。
『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に云った。
『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時だった・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。
私は改めて、このご主人から、
60代は人生の黄金期と学んだのである。
このようなことを私は思い馳せながら、
私たち夫婦は、お互いに歯の治療ぐらいで、入院する程の大病にすることなく、
7年目の年金生活を過ごしている。
ときおり家内は、
『働くなくても・・こうして生活を過ごせるのだから・・』
と微笑みながら、私に云ったりしている。
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私たち夫婦は子どもに恵まれなかったので、たった2人だけの家庭で、
古惚けた一軒屋に住んでいる。
夕暮れに、門扉の近くにある郵便受け入れ箱に、
日本年金機構から2通の折込封書のある葉書が郵送され、何かしらと思いながら、私は開いた。
左側には、『国民年金・厚生年金保険 年金額改定通知書』と題され、
平成23年4月分からの年金額が改定された明細書であった。
右側には、、『年金振込通知書』であり、
毎回振込みの2か月分の『年金支払額』などが明記されていた。
この後、私はあるファイルを取り出して、前年の『年金振込通知書』を見て、
昨年の新聞のニュースで知った通り、
やはり支給額はわずかに減った、と苦笑したりした。
あとの一通は家内の分であり、私より5歳齢下の家内も年金受給者で、
我が家は夫婦共々年金の身となり、2人で一人前の気持ちで過ごしている。
私は東京オリンピツクが開催された1964年に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりして映画・文学青年の真似事をした。
ある年、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
ある知人のご尽力もあり、この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、
中途入社できたのは、1970年の春であった。
この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられて、
本社に30年ばかり務めた後、音楽業界のリストラ旋風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004年の晩秋であった。
このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たちとは、
遥かに遠いつたない身なので、年収はもとより退職金も程ほどに少なく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と微苦笑している。
定年退職後、私は念願の年金生活を始めて、
日常は買物、散策などの時、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしているので、一日が終るのが早い、と溜息をついたりすることが多い。
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
我が家は年金生活なので、原則として年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。
年金生活を始めて、私たち夫婦は幾たびか国内旅行に行ったりしたが、
知床半島を観光船で早朝クルーズで岬で日の出を迎える団体周遊プランに魅せられて、
私たち夫婦は久々に団体周遊プランに参加した・・。
道央、道東の知床を周遊し、3日目の昼下り、
阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。
私たち夫婦は団体周遊旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。
この時も年配のご主人と湖畔の喫煙場で、
私は話し合っていた・・。
『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に云った。
『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時だった・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。
私は改めて、このご主人から、
60代は人生の黄金期と学んだのである。
このようなことを私は思い馳せながら、
私たち夫婦は、お互いに歯の治療ぐらいで、入院する程の大病にすることなく、
7年目の年金生活を過ごしている。
ときおり家内は、
『働くなくても・・こうして生活を過ごせるのだから・・』
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