夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が家の玄関庭にある、紫紅色の花咲く高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)は・・。

2011-06-25 23:14:38 | 定年後の思い
午前中のひととき、私は玄関の軒下に下り立ち、
たわわに莟(つぼみ)を付けている高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)の樹を眺めて、
微苦笑したりしている。

たった1本の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)があるが、
私は梅雨の時節の終る頃から、50日前後、紫紅色の花が彩(いろど)ってくれる。

私は初夏から真夏に咲く花の中で、特に木槿(ムクゲ)には魅了させられている。
私の住む周辺は、底紅で花びらは紫紅色した高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)、
もうひとつは底紅であるが、花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が多い。

独断と偏見が許されるならば、
高砂木槿の紫紅色は洋室、ホテルなどのロビーに相応しく、
宗旦木槿の純白の色合いは和室に相応しい、と確信を深めている。

どちらも茶花に愛用される花のひとつであるが、
私は独りたたずんで、毎年この時節で心を慰めてくれる花のひとつである。


我家では木槿(ムクゲ)をいずれ植えようして、20数年過ぎた時、
2007年の夏に、鳥羽の滞在型の団体観光ツアーの旅の帰路、
道の駅のドライブ・インの売店の外れで、偶然に木槿(ムクゲ)の幼い樹を見かけたのである。

簡素なビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、
花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は200円程度であったと記憶している。

そして売店の販売員のお方に
『宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)は、ありませんか?・・』
と尋ねたのであるが、
花に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
妥協して購入したのが、高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)であった。

帰宅後、地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終わりの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして毎年成長して、昨年の2010年には、
樹高は2メートルを超えて、100輪ぐらい花を咲かせ、私は悦んだのである。


私はここ20数年、樹木・花木・草花は、
陽差しと雨、そして土で成長しなさい、と身勝手な主(あるじ)の私であるが、
この高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)は、孤軍奮闘し期待に応(こた)え、勢い良く成長してくれた。

私は木槿(ムクゲ)に関して、底紅で、花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)に、
気品ある美を感じて魅了されているが、
缶ビール1本に満たない価格で、成長している高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)がいじらしく、
最近は愛着を深めたりしている。


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齢ばかり重ねた私が『パソコン迷子』となった時の思い、恥ずかしながら告白すれば・・。

2011-06-25 17:24:11 | 定年後の思い
確か2007年1月下旬の頃、小川有里さんの著作の『定年オヤジのしつけ方』の本で、
定年退職後の男性が、心が定まらない日々を過ごし、迷子のような状況を『定年迷子』と命名されたのを、
私は微苦笑したりしていた。

幸いに私は2004年の秋に定年退職した時は、その後の年金生活の生きがいを
定年の5年前の頃から、明確な指針を決めていたので、『定年迷子』には無縁であった。

しかし、私の年金生活のひとつとしてパソコンを愛用した生活をしていたので、
突然にバソコンが故障したので、修理依頼をしている間のパソコンのない空白の日々、
或いはやむなく買い改めたりする空白の日々、
まるで『パソコン迷子』のような体験をしたことがあった・・。

こうした日々、私は戸惑いながら過ごし、恥ずかしながらこの時の心情を綴る。


一昨年の2009年、6月3日の朝、いつものように私はパソコンの電源を入れた後、
主庭のテラスに下り立ち、煙草を喫いながら、何を綴ろうかと、
このサイトの投稿文を考えたりしていた・・。

居間にあるパソコンを置いている机に戻ったら、
電源ランプは点(つ)いているが、液晶の画面は黒く、おかしいなぁ、
と思いながら、強制遮断した後、再度立ち上げた。

パソコンはマイクロソフトのパソコン用基本ソフト(OS)の『ウィンドウズ XP』であるが、
スタート画面は表示された後、いつものようにネットで、
地元の『天気情報』を眺めていたら、画面が黒くなったので、
止む得ず立ち上げ直して、
ネットで『富士通サービスアシスタント』に於いて、
『ハードウェアの診断』で画面をチェックをしたが、異常は無し、と表示されたが、
しばらくすると画面が黒くなった。

この後、私は富士通のサポートセンターに電話で問い合わせをした結果、
液晶のバックライトが異常、と教示されたのである。

私は液晶画面系を修理するために、
このパソコンを購入したパソコン専門量販店に修理を依頼したが、
一週間から二週間は要する、と回答されて、
私は困惑したのである・・。

私は2004年の秋に定年退職後まもなくして、ブログの世界を知り、
その日の思い、思索していることなどを心の発露として、
国内旅行などで外出しない限り、あふれる思いをほぼ毎日綴り、投稿をしてきたので、
修理の終わるまでの期間をどうように過ごすか、漠然と考えたりしたのである。

我が家は、無念ながらパソコンはたった一台しかなく、
その上に携帯電話は私達夫婦は使えず所有していないので、
ネット喫茶まで出かけて投稿する元気はなく、
私がパソコンを買い改めるのは、Windowsの次期のOSの『7』が発売され、
専門誌より格段の飛躍の評価が認定された後に、しばらくしてから購入する予定であったからである。

私はこのサイトにほぼ毎日に投稿してきたので、心身の波長の狂いはもとより、
何より突然に予告もなく投稿を中断するのは、いつも読んで下さっている方に心苦しくもあった。


6月17日の午前中のひととき、
液晶画面の要(かなめ)であるLCDパネルが交換されたパソコンが配達された後、
こうして、私は二週間ぶりに修理を終えたパソコンに私はキーインしながら、
少し感覚に違和感もありながら綴ったりしている。

この間の投稿を中断したこの二週間の過ごした思いを発露する。


私はパソコン専門量販店に修理を依頼し、一週間から二週間は要する、
と回答されたので、国内旅行などで自宅不在をしない限り、
毎日5時間前後はパソコンに触れている定年後の日常生活を過ごしているので困惑したのである。

私はネットで地元の天気情報、読売新聞、日経新聞のサイトのニュースを読んだりし、
興味のあるニュースをビジネス情報誌として名高いダイヤモンド社のサイトを深く読んだりしている。

このサイトは経済、時事はもとより政治、軍事、社会などの実態、変貌を
その分野で優れた専門家のお方が執筆されているので、
私は多々教示されている。

この後、私は自身のサイトの投稿文を思案し、綴ったりし投稿した後、
私が気になるお方の投稿文を拝読したりしている。
そして、そのお方の日常生活の思い、思考されていることなどを学んでいる。

このような時間を過ごすと、少なくとも5時間前後は要している。

私は買物、散策はほぼ毎日し、読書などで大半の生活をしているが、
パソコンのない机を目の前にぼんやりと椅子に座り、
しばらくして机の引き出し、脇机の書類を整理したりした。


翌日、玄関庭、主庭の草むしりに専念していた時、
私が愛用しているパソコンを購入した時が蘇(よみが)り、微苦笑したのである。
この時の心情は、このサイトの2006年9月29日~30日に於いて、
【 されど、パソコン・・♪ 】と題して投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
9月の中旬、パソコンの電源がときたま突然に落ちることがあった。

22日(金)に購入元のパソコン量販店のクリニック科に問い合わせをした後、
修理点検を依頼したが、来宅は26日(火)となった。

このブログをはじめ、パソコンの使用は23日(土)の午後より、一切取り止める事とした。

翌日より、最悪のケースを思って、最新のパソコン状況を確認するために、
パソコン量販店に行き、見たりした。

26日(火)に量販店のクリニック科に来宅して貰い、パソコンの実態を調べて貰った結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、部品の交換の話となる。

部品代の概算を訊(き)くと、10万円を超えるので、結局は新製品の購入とした。

ディスクトップ、ノート型は、新調した場合のケースで昨夜まで悩んだが、
安定性と操作性を配慮し、従来通りのディスクトップとした。

問題として、壊れかけたパソコンのハードディスクのデータ救済であった。

結果として、強制的に出来うる限り、新機種に移行して貰い、
新機種のパソコンは本日の午前中に自宅に着き、
色々と再設定させるために、先ほどまで時間が掛かったりしている。

操作が覚束ない状態で、このブログを綴りはじめている・・。

私はこのブログを綴り始めたのは、一昨年の11月の下旬からであるが、
旅行などで投稿できない場合は、事前に綴って折、
今回のようにパソコン本体の故障は初めてであった。

いつもお読み頂いているお方には、この間は申し訳なく、しょげていたのが本音である。


私が綴っているパソコンは、昨日到着した富士通のディスクトップである。

ディスプレイは最近流行の20.1型のワイド画面であり、
CPU、メモリ、ハードディスクもある程度最強版となっている。

この一週間前に愛用していた機種は、やはり富士通のディスクトップのタワー型であった。
2001年(平成13年)の秋、定年退職時が2004年(平成16年)秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

この頃の時代は、液晶ディスプレイが普及し始めたであったが、
迷ったりしたが安定性を配慮し、19型のフルフラットCRTとした。
ドライブもCD-R/RWとDVD-RAM/Rの2ドライブ、
そしてフロッピー・ディスクも備えたタワー型であったので、
ある程度10年前後は大丈夫かしら、と思ったりしていた。

プリンターも新調し、机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

それまで使用していたのは、富士通のノートパソコンを使用していた。
1998年(平成10年)の夏に会社と自宅で使うので購入し、それ相応に使い込んでいたが、
下取りとしてこのノートパソコンを手放した。

昨日、最新の富士通のカタログに、
【本製品には、有寿命部品(LCD、HDD等)が含まれています。
有寿命部品の交換の時期の目安は使用頻度や使用環境等に異なりますが、
一日8時間のご使用で約5年です】
と明示されていたのを読んだりして、苦笑いをしたりした。

何よりWEBの環境がここ10年進化し、ハード、ソフト・メーカーが連動し、飛躍してきたが、
世界の誰が今日の状況を予測できたのが私は問いかけている。

多分、どのお方の予測出来なかった、と思ったりしている。

各分野の専門担当の方達が、時代を先取りしたそれぞれの思考の結晶が、
今日のWEB環境と思ったりしている。

・・】


このように投稿していたが、愛用しているパソコンは3年弱であるが、
液晶画面のLCDは、一日8時間のご使用で約5年です、と思い浮かべ、
少し早いじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりしたのである。


私はパソコン専門量販店に修理を6月3日に依頼した翌日は、
日中の7時間ばかり玄関庭、主庭の草むしりに専念した。


5日の金曜日は、小雨の降る一日であり、
私は身体も疲れた為、読書の一日となった。

私が中断していた塩野七生・著の『ローマ人の物語 第32巻~第34巻 ~混迷する帝国~』(新潮文庫)を読んだ後、
作家・新田次郎氏の奥様である藤原てい・著の『旅路』(中公文庫)、
そして元総理の小渕恵三氏を描いた佐野眞一・著の『凡宰伝』(文春文庫)、
五冊ばかり文庫本を精読しながら、15時間を過ごしたのである。


6日の土曜日は、午前中は小雨、午後に曇りとなり、
昼下がりから快晴となった。
私は居間で、映画を観ようと思い、ビデオ・DVDを収容している三つのラックより、
映画の作品を選定した。
パソコンのない日常の不安げな心情を反映した為か、
『ザ・ロック』(1996年)、そして『グラディエーター』(2000年)を観賞した。


7日の日曜日は、初夏のような暑さの中、スーパーを2店ばかり廻り買物を済ませた後、
作務衣の軽装に着替え、居間のソファーに座り、
『レッド・オクトーバーを追え!』(1990年)、そして『アンチャタッブル』(1987年)を観賞した。
いずれもショーン・コネリーが主演しているが、
前日に観た『ザ・ロック』(1996年)のショーン・コネリーの余韻である。
私は男優としては、ロバート・デ・ニーロと共にショーン・コネリーを敬愛しているひとりである。
そしてショーン・コネリーの作品は20数本を観た限りであるが、
この『アンチャタッブル』(1987年)の助演が最も好感している。


8日の日曜日は、深夜のひととき、
WBのテレビ用の作品で『FALL SAFE 未知への飛行』(2002年)を観賞。
アメリカの核を積載した戦闘機部隊が誤ってソ連の首都に核爆撃するまでの過程を描き、
この間にモスクワまでの飛行への間、アメリカ大統領とソ連首相との電話会議を重ねながらも、
モスクワに核投下の結果、謝罪としてアメリカ大統領は自国の首都ワシントンに、
核を投下させる冷厳なドラマである。

この作品は、CBS放送で放映したのを改めて、再編集したと思われが、
テレビ用の作品としては優作である。


8日の日中は曇り空の一日であったが、
佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)を再読する。
この単行本は、昨年の初夏に於いて読んでいたが、旅行も重なり、
中断しながら読んだので、こうしたパソコンの不在の折、
一心に読む決意で再読したのである。

夜のひととき、『夢伝説・世界の主役たち ション・コネリー』を視聴する。
この作品はNHK衛星放送で2000年8月27日で放映された番組で、
私は魅了される番組でも収録する癖があるので、
たぶん三回目と思われるが、ション・コネリー自身のしぐさ、メッセージを聴きたく観賞したのである。


9日の火曜日は快晴となり、最寄駅のひとつ喜多見の本屋『BOOKS GORO』に行く。
川沿いの遊歩道を散策したのであったが、
樹木の新緑は深緑に染められ中、下草や草花を眺め、この時節の移ろいを甘受した。

講談社MOOKと称せられた『現代プレミア』という雑誌の中で、
『ノンフィクションと教養』を購入する。
この本を買い求めに本屋に来たのであったが、
この本の置いてある付近に季刊雑誌の『文藝春秋 SPECIAL』があり、
今回は《 映画が人生を教えてくれた 》と副題が明記されていたので、
心の中で小躍りしながら買い求めたのである。

そして、店内の一角にパソコン系の棚に行き、
ひとつの雑誌を買い求めたのである。
『日経ベストPC+デジタル 2009年夏号』であり、
パソコンを主体に関連デジタル機種を優しく解説してくれる雑誌であり、
私はバソコン環境に混迷した時に、購入する雑誌である。

今回はパソコンが修理中なので、次期に購入する時の基礎資料と思い、
帰宅後、読んだりしたが、いったいどこまで進化するの、
と思いながら、ため息をついたりしたのである。


10日の水曜日は曇り空の中、散髪屋(理髪店)に寄った後、
2店ばかりスーパーで買物をして、帰宅の途中でコンビニで月刊雑誌の『文藝春秋』を買い求めて帰宅。

午後の大半は、昨日の大半の続きとして、
『ノンフィクションと教養』、そして『文藝春秋 SPECIAL ~映画が人生を教えてくれた~』を読んだり、
今月号の『文藝春秋』もあり、楽しげな優先度でもあった。

夜のひととき、ビデオ棚から『ガンジー』(1982年)を取り出して観賞。
そして、深夜の一時過ぎに、ガンジーが存在していた頃のインド史を読む。
歴史学者のA.L.サッチャー著作で、大谷堅志郎・訳に寄る
『燃え続けた20世紀 第二巻~殺戮の世界史~』(詳伝社黄金文庫)であり、
この中の第5章『インドの目覚め』、第15章『流血の印パ分裂』を読み、
改めてガンジーの時代のインド大陸の混迷を教示されたのである。


11日の木曜日は雨の降る朝であったが、午後より快晴となった。
私は買い求めた雑誌を読んだりしていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『壬生義士伝』(2003年)を観賞した後、
プロレスのビデオを取り出したのである。

『決闘! 巌流島 ~究極の格闘技伝説』と題されたアントニオ猪木VSマサ斉藤の戦いのドキュメント・ビデオである。
私は1970年代は、ときおりプロレスのテレビ観戦をしたことがあったが、
その後、私はプロレスを視聴しなくなったが、風の便りとして、
1987年秋にデスマッチとして、この戦いを聞いたりしていた。
後年、この血戦のビデオを知り、購入したのである。
私は齢を重ねても男の子のひとりであるので、3年に一回ぐらいは、観てしまうのである。


12日の金曜日は快晴となり、いつものように買物を終えた後は、
雑誌を読みふけっていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)を観賞する。
恥ずかしながら初めて観る映画であったが、期待が大きかった為か、
佳作と感じた程度であった。


13日の土曜日は快晴となり、買物を終えた後は、
書棚から一冊の文庫本を取り出した。
宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)であり、
西暦184年の『黄巾の乱』~三国時代、この後は唐の長き七百年の統治、
そして滅亡まで描いた本書である。
私は中国史はうつろ覚えであるので、少しつづ教示を受けたのである。

夜のひととき、習慣となってしまったが、
ビデオ棚より『ジャイアンツ』(1956年)を観賞する。
この作品は、テキサスの20世紀の初めより、1950年頃までを描いた作品である。
私は中学生の初め、渋谷の二流の映画館に於いて、
満員で立見となったが、ジェームス・ディーンが扮した役柄の男に惚れ込んだのである。

牧童の男は卑屈になったり、ときには横柄となったりし、やがて財を築くが、
いじけた内面があり、最後は破滅になる、
こうした男に魅せられたのである。

この作品も私は3年に一回ぐらいは観賞している。


14日の日曜日は、日中の大半は宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)を読む。
そして、夜はビデオ棚より『追想』(1956年)を観賞する。
イングリット・バークマンが扮するアナスタシアが、
ヘレン・ヘイズが扮した大皇妃との初対面のシーンが観たくて、
私は10数回ぐらいは観賞している。
それにしてもアメリカ映画界は、女優バークマンを復帰させるには、
最適な役柄を提供できる力を秘めた時代でもあった、
といつも感心させられる作品である。


15日の月曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー』(1972年)を観賞した後、
『ゴットファーザー PARTⅡ』(1975年)を観る。


16日の火曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー PARTⅢ』(1991年)を観賞した後、
『プラトーン』(1986年)を観る。


このようパソコンは不在となった14泊15日間となった折、
ふしだらな生活を過ごしてきたのである。

定年後の旅行で最長は、沖縄本島の8泊9日であったが、
それにしても17日の水曜日に修理済みのパソコンを受領した時、
長かったというのは本音である。

何より最初の数日間は、予告もなく突然に投稿せず、
お読み頂いている方たちも、申し訳ない心情であった・・。


パソコンのない日常生活の自身のふるまいを改めて知ったりしたが、
残された人生で私は散文を綴り、自身を高めていくのが本来の生き方なので、
やはり長きにわたり投稿文を綴らないと、確実に筆力は衰える、
と実感して戸惑っている。

                          
このように私は、パソコンの空白の日々を過ごしたのである。
こうした体験があったので、今回たまたまバソコンを買い改めたのであるが、
従来のパソコンは下取りもせず、あくまで新たなるバソコンが故障したりした場合、
修理の期間に予備機として活躍するかしら、と微苦笑したりしている。


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『小笠原諸島 世界自然遺産に決定』、私たち夫婦も父島の旅路をして、限りなく心に残る思いは・・。【下】

2011-06-25 01:30:53 | 旅のあれこれ
     第4章  小笠原ビジターセンター

ホテルで一晩過ごしたので、船中泊の疲れも取れたので、
街中を見たり、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』を見よう、と私達は出かけたのである。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所の前に、
村営バスの『扇浦海岸』のバス停があり、10時45分過ぎに乗車した。

そして街中の中核の『村役場前』で11時に下車した後、観光協会に行き、
http://www.geocities.jp/tabiasi/ogasawara.html
☆ 小笠原諸島父島滞在記念証 ☆

頂こうとしたが、無念ながら観光協会は中止となり、船待合所で発行できます、
と教えて貰い、私達は苦笑した。

そして私達は、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』に入館し、
展示室を見たりし、クジラの生態などを学んだりした。

この後、ビデオの観賞室に於いて、
『父島の昭和50年頃と最近の状景の対比』で、時代と共に人々の営みの変貌を拝見しのが、鮮烈な感動を受けたりした。

『南硫黄島』は戦前戦後も全くの無人島に学術調査隊の記録であり、
無垢な無人島の動植物の生態を多く学んだのである。
そして北硫黄島は戦前のひと頃に人が住んだ影響で、ネズミが生息し動植物に影響を与えた状況も教示された。

そして最後に『硫黄島』の現状の記録を拝見したが、
もとより日米の激戦地の結果として数多くの慰霊の塔、碑が映し出され、
この背景に大平京子さんが淡々と唄う『マイリディ・ボイン・アイランド?』が哀切きわまる唄声に深く感銘し、
あやゆく涙が流れそうになった感きわまる名作であった。

このように私達は、三作品を拝見した後、
街中で私達はおにぎりを昼食代わりに買い求めて、付近の大神山公園にある、
わずかに高い休憩所で微風を受けながら、煎茶を飲み、頂いたのである。

そして私は、前方は大村海岸の情景を眺めたりし、硫黄島と父島の戦争時期、
その後の変貌などに思いを馳せたりしたのである。



        第5章  それぞれ魅力を秘めた『ホエール・ウォッチング』

今回の旅行で家内の念願である『ホエール・ウォッチング』なので、
2月27日、3月2日、そして3月4日と3回に及び一日ツアーに加入した。
いずれもこの時節は、ザドウクジラが父島の周辺で子育ち期間で、親子の遊泳するのが多い、と知られている。

私達は数多くの『ホエール・ウォッチング』の遊覧船によるツアーがあるが、
下記の三種類の遊覧船ツアーを利用した。


2月27日
http://pinkdolphin.p1.bindsite.jp/index.html
☆ ピンクドルフィン号 ☆

今回の私達のようなツアー参加者は20名前後であり、
朝の9時に青灯台を前方に見える岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてピンクドルフィン号は疾走した・・。

私達は船長のクジラ発見の合図で洋上を見つめ、ザトウクジラを見るたびに、歓声をあげたりした。
南下にある南島に寄る予定であったが、波高しに伴い、父島の北部にある兄島に進路を変更とし、
この島に上陸して昼食を頂いたりした。

その後、この兄島の海中公園で魚群を観賞した後は、再びザトウクジラの姿を追い求めて、
私達はイルカの群れ共にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は船首のそば、ときおり船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の3時15分で、上陸した後、付近の大神山公園の休憩所で、
ひと息ついた時、私の顔が日に焼けた、と家内は笑い転げていた。


3月2日
http://www.d7.dion.ne.jp/~chichitx/
☆ 小笠原観光(旧・父島タクシー)  ドリーム号III ☆

今回の私達のようなツアー参加者は20名前後であり、
朝の9時に遊覧船が多い岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてドリーム号Ⅲは疾走した・・。
出航前に船長の自己紹介、女性スタッフの紹介、女性スタッフに寄る概要説明があり、
さわやかな笑顔の船長、女性スタッフに私は瞬時好感をしたのである。

今回のツアーの7名ぐらいは、一眼レフに超望遠レンズの高価な撮影器具でザトウクジラを写しており、
リピータの方かしらと私は微笑んだりした。

船長、女性スタッフのクジラ発見の合図で、私達一同は洋上を見つめ、ザトウクジラを見るたびに、歓声をあげたりした。
この後、ドリーム号Ⅲは南下し南島に接岸し、私達一同は未知の南島に上陸した。
この南島の秘めたる魅力については後述する。

南島を離陸後、父島の小港海岸を目の前にしたところで停船し、私は昼食とした。
その後も船長のザトウクジラの姿を徹底的に追い求める熱意で、
私達一同は予期した以上にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は相変わらず船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は午前中は船首のそば、午後は船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の3時40分で、家内は十二分にザトウクジラを観られたわ、
と満足していた。


3月4日
http://www.interq.or.jp/blue/papaya/tour-information.html
☆ パパヤ MissPAPAYA ☆

今回の私達のようなツアー参加者は30名前後であり、
朝の9時に遊覧船が多い岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてMissPAPAYAは疾走した・・。

出航前に船長の紹介、女性スタッフに寄る概要説明があり、
数多くの女性スタッフが配置され、大型高速船に相応しく、コーヒー、紅茶などのサーピスを受けたりした。

今回のツアーの15名ぐらいは、洋中を潜水や遊泳するシュノーケリングをされる方も折、
私達が宿泊したホテルで知り合った若い女性も加わっているので、
私達夫婦はマリン・スポーツに苦手な身であったが、何かと興味を持ちながら、
シュノーケリングされる多くの方を眺めたりしていた。

肝要のザトウクジラに関しては、船長、女性スタッフのクジラ発見の合図で、
私達一同は歓声を上げながら見つめたりしていた。

そして南島に接岸は、大型高速船なので小船に乗りついて上陸した。

南島を離陸後、父島の小港海岸を目の前にしたところで停船し、私は昼食とした。
その後も船長のサービスなのかザトウクジラの姿を追い求めて、
父島の西岸を遥か北部から南部、西の彼方まで疾走して下さる、
私達一同は予期した以上にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は相変わらず船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の4時45分で、家内は十二分にザトウクジラを観られたわ、
と満足していた。


このように私達夫婦は、『ホエール・ウォッチング』ツアーに三回ばかり乗船し、
私は長ズボン、長袖のシャツを少し腕まくりしていたが、顔と手、手首まで日焼けをしたのである。
家内は万全の対応策をしていたが、手袋をしていなかったので、手だけ日焼けをし、
私達は微苦笑をしたのである。

もとより家内は、『ホエール・ウォッチング』を観る為に今回の旅行を立案したので、
十二分に観賞でき、満足している。

私の本音といえば、最初から数回ザトウクジラを観た時、迫力あるねぇ、と歓声をあげ、
この後は、ザトウクジラか、と感じたぐらいであるが、
洋上からの島、海岸などの景観は深く魅了されたのである。

そして各船長のひたむきなサービス精神、そして各スタッフの健気な言動に、
海に無知な私でも感動させられたのである。



        第6章  南米チリの巨大地震:津波発生に伴い父島の人々も避難となり

2月28日の朝、私はシーサイド・ホテルの『ホライズン』で早朝に目覚めた。
昨日、私達夫婦は初めて『ホエール・ウォッチング』の遊覧船に日中の大半を乗り、
少し疲れを感じていたので、のんびりと日中は過ごそうとしていた。

薄日の射す穏やかな海の色合いを眺めた後、
私はNHKのニュースを視聴しょうと、部屋に戻りテレビをぼんやりと見たりしていた。

そして、南米のチリで巨大地震が発生し、この周辺一帯は甚大な災害を受けた、と知ったのである。
この後、日本の海岸にも津波が押し寄せる、と報じていた。

私はチリの震災に遭われた方は、大変にお気の毒で被害が少なければよいが、
と思いながら家内と話したりしていた。

レストランで朝食を頂いた後、4人グループの男性とロビーで談笑し、
本日の父島の二見港の午後2時発の船便で明日の午後3時半に東京・竹芝桟橋に下船した後、
東京の赤坂にあるホテルで1泊した後、お住まいの愛媛県に帰られる、
と聞いたりした。

私達夫婦は、ここ2日ばかり4人グループのひとりの方と談笑を重ねてきたので、
まもなくお別れだなぁ、と名残り欲しく感じたりしていたのである。

そして、女性のふたり連れの方とは、挨拶をする程度に話したり、
あとは30歳前後のビジネスマン風と男性と目礼をする程度であったが、
閑散期のホテルの客は、私達夫婦を含めても9人だけであった。
いずも私達夫婦以外は、本日の船便で帰京されるので、少し寂しくなる感じていたのである・・。


まもなく9時35分過ぎに、村役場のアナウンスがホテル前の拡声器から聴こえ、
『浜辺にいる方は、高台に避難して下さい』
と津波警報が報じられたのである。

この後、11時過ぎにホテルからは、
ホテルから荷物を全て持ち、避難場所に退避する準備をして下さい、
と連絡があり、私達夫婦は3階の部屋で海面からは少なくとも17メートル以上あるから、
手持ちバックだけにしょう、と話し合ったりした。

まもなくホテルの方が、私達一同をホテルから付近の避難場所の『扇浦 交流センター』に自動車で誘導して下さった。

『扇浦 交流センター』の入り口に入り、退避人名表に記載した後、
扇浦地区にお住まい方、私達のような外来者、そして警察官の3人、村役場の職員か青年支援者で、
総数50名前後であり、時刻は12時過ぎであった。

私達夫婦は、津波などを含めても避難のは初めての体験であり、
戸惑いながらも、街中の避難場所は小・中学校の体育館などの大多数よりも、
この豪壮なログ・ハウスの『扇浦 交流センター』が水の確保、トイレだけでも配慮した場合、
少人数でよかったかしら、と思えたのである。

まもなくホテルのご好意により、私達の客一同はお弁当とペットボトルの煎茶を頂き、
昼食とした。

この後、村役場の公報が、
津波の第一波は、午後一時は10センチが観測されました、報じられていた。

そして、午後2時過ぎに津波の第二波は、午後2時は20センチ、
午後3時過ぎに津波の第三波は、午後3時は30センチ、と報じられていた。

この間、船舶への注意報がされて、午後2時発の東京・竹芝桟橋行きの『おがさわら丸』も順延となり、
停泊していた二見港の岸壁から二見湾の中核に移動され、停止していた。


私達夫婦は何時になったならば避難の解除が発令されるか、と思ったりしたが、
私達よりも本日乗船する予定の方たち、村民の方たちの方が遥かに心配される立場であるので、
私は無言のまま『扇浦 交流センター』の外で煙草を喫ったりしていた。

そして時折、交流センターの広間のテーブルに解除を待ちわびている地元の人たちのひとりが、
50年前のチリ地震に伴う父島での津波の災害、台風時の災害などを話されていたのを聞いたりしていた。

夕暮れの6時頃に、災害救助用の食料品が置かれて、
私は生まれて初めて『災害救助用 クラッカー』をひとつ頂いた。
この袋には、88グラム(26枚入)、納入年月:平成20年8月、賞味期限:平成25年8月と明記されて折、
私は口に含み、そして噛み砕いたが、味の薄く、やはり保存食だ、と苦笑したのである。

この後、私は疲れを感じ、部屋の角にある災害救助用の毛布が残っていたので、
一枚を床に敷いて、私のフィールド・ジャケットを身体にかけて、横たわった。
そして、ホテルからのご好意の夕食のお弁当を頂いたりしていた。

夜の8時が過ぎた頃、避難解除が発令されて、私達一同は解放されたというのが実感であった。

ホテルの方が私達夫婦をホテル前まで、
別の車で本日に乗船する4人グループ、女性のふたり、そして30歳前後のビジネスマン風と男性を送迎して下さることとなり、
私達夫婦は『扇浦 交流センター』の駐車場で慌ただしく別れを告げた。


私達はホテルの部屋に戻りと、ときおりベランダから夜景の二見港の『おがさわら丸』を注視していた。
『おがさわら丸』が出航する時は、父島と並んだ母島より『ははじま丸』が連絡して折、
平常時には母島港10時30分発で父島に12時40分に入港した後、父島発14時の『おがさわら丸』に人々は合流して、
一路『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を翌日の午後3時半に着岸するのが定例であった。

このような状態であるので、母島が津波警報の解除が父島と同様に行われていたとしても、
『ははじま丸』が母島港を夜の9時に出航しても父島に入港できるのは夜の11時過ぎであり、
この後の『おがさわら丸』が出航できるのは夜の12時過ぎとなるのである。
このような思いで、父島の二見港の夜景を見つめていたのである。

しかし11時少し前に過ぎ『ははじま丸』らしき船は見えず、私は疲れを感じて、
部屋に戻り、ベットにもぐり寝込んでしまった・・。

翌日、ホテルの方の風の噂によれば、未明時に『おがさわら丸』が出航でき、
東京の竹芝桟橋に接岸できるのは翌日の深夜であり、この時間帯になると公共の交通機関はなく、
結果的には二晩船中で過ごされる、と聴いたりした。

そしてNHKのニュースで津波の実態報告によれば、
小笠原の父島は、昨日の午後4時21分に42センチが観測されました、と報じていた。



        第7章  ホテルの客は私達夫婦だけとなり

2月28日の津波の襲来で避難した翌日の3月1日、
滞在しているシーサイド・ホテルの『ホライズン』のレストランで朝食を頂いたが、
私達夫婦以外の客はいなく、少し戸惑いを感じたりした。

私達は国内旅行が共通の趣味であり、新婚時代から四季折々各地を旅行してきたが、
リゾート・ホテル、シティ・ホテル、ビジネス・ホテル、観光ホテル、旅館、民宿などを宿泊してきたが、
私達夫婦だけの宿泊客となったのは初めての体験であった。


このことは小笠原諸島の『父島』、『母島』の交通の便が大きく左右されているのが、
主因と思われる。
この『父島』にしても、東京の竹芝桟橋と父島の二見港を小笠原海運に寄る『おがさわら丸』の客船が、
定期航路として随一あるだけである。

http://www.ogasawarakaiun.co.jp/
☆ 小笠原海運 ホーム・ページ ☆

定期船が運航するのは、年末年始、5月の連休、7月下旬~8月中旬の夏季期間を除けば、
6日毎のサイクルで順行する。

たとえば3月8日(月曜日)の午前10時に『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を出航した場合、
翌日の9日(火曜日)の午前11時半に父島の二見港に入港する。
そして10日(水曜日)、11日(木曜日)は停泊し、
12日(金曜日)の午後2時に父島の二見港を出港し、
翌日の13日(土曜日)の午後3時半に東京の竹芝桟橋に入港する。

このようなパターンであると、9日(火曜日)の午後より12日(金曜日)の午前中まで、
島内で滞在することとなり、自在に周遊できる。

数多くの旅行客は、船中泊の2泊、島内で3泊の5泊6日の日程が多く、
父島にしても『おがさわら丸』が停泊していない期間は旅行客は大幅に減少するのである。
私達のような退職後のリタイアした60、70代の人たち、
或いはマリン・スポーツなどで熱意ある人たちのリピータの一部が、
この間に滞在しているのが多く見られたのである。


このような状況なので、シーズン・オフの今、たまたまホテル『ホライズン』さえも、
私達夫婦だけとなってしまったのである。
そして、2月28日(日曜日)の夜から3月3日(水曜日)の『おがさわら丸』が入港するまで、
私達夫婦はたった一組の客となり、レストランで朝食、夕食を頂いても、何かと落ち着かないのが本音である。


        第8章  父島の内陸を散策すれば

3月1日の午前中は、昨日の2月28日の津波の襲来で避難しりしたせいが疲れを覚え、
ホテル内でのんびりと私達夫婦は過ごしたが、
『父島 ガイドマップ』を見たりしていた。

そして、初心者向けの『森・山歩き』のツアーで島内の森を散策しょう、と私達はツアー先に連絡した。
島内は『おがさわら丸』が昨夜の未明に出航した後、観光客は閑散とした状況なので、
何とか連絡が取れて、特別に施行して下さる方に依頼したのである。

http://www.e-ogasawara.com/activity/shima.html
☆ ボニンブルーシマ ☆

私達の滞在しているホテルに自動車で12時半過ぎに来て下さり、
体力の衰えた夫婦のやさしい森の散策を、と私は40歳前後の方に依頼したりしたのであるが、
三言ばかり話し合っているうちに、私達はこのガイドのお方に魅了されてしまったのである。

そして父島の最北部にある三日月山の展望台より180度は超える広い海原を眺めたのである。
家内はガイドさんの指導で、双眼鏡を眺めながら、クジラが観えるわ、
と歓声を上げたりしていた。

この後、山道を走破し、長崎展望台、初寝展望台から切立った崖を眺めたり、父島の東岸の洋上を観たり、
いずれも道路から数百メートルを歩いた見晴らし良い展望台からの美景であった。
この間、壮大な国立天文台VERAの小笠原観測局を観たりし、
この後は旧海軍の食料の防空壕、施設跡を歩き廻り、西岸の穏やかなコペペ海岸にたたずんだりした。

そして落陽の光景を観たい、と私達の要望で、ガイドさんは、
二見湾に射しこむ夕陽を境浦、そして三日月山の展望台に戻り、洋上に壮麗な夕陽から落陽の光景を長らく見つめたのである。

そして夜のとばりになり、ガイドさんは私達の滞在しているホテルまで送迎して下さり、
私は初めて父島の秘めたる情景に心は充たされたのである。



        第9章  峻久な時を秘めたる無垢な南島

私は『ホエールウォッチング』の2回目の3月2日で、父島の西岸の彼方に南島に上陸したと記載したが、
たまたまこの日は、『おがさわら丸』が父島の二見港がなく、観光客は少ない日となっていた。

そして私が未知の南島に上陸したのであるが、優しい女性ガイドの説明を受けながら、
私達一行の10名のほかは人影も見当たらず、歩き出したのであるが、
私は島の無垢な情景の数々に圧倒されたのである。

小笠原村観光協会の解説文の言葉をお借りすれば、
《・・
この南島は都の天然記念物に指定され、また、新東京百景の1つに選ばれた石灰岩でできた小笠原随一の景勝地。
世界的にも珍しい沈水カルスト地形の島でまぶしいほどの白い砂浜、
エメラルドグリーンの扇池、そして青く澄み切った空がとても美しい。
手つかずの自然以外何もない、別世界の時が流れているこの空間へ
・・》

大半の観光地の美麗な写真、解説には、一番良い時節にプロの方が撮る景観を掲載していることが、
殆どであるが、今回の南島の光景はまぎれなくこの写真以上に美しいのである。


しかしながら、私はこの後3月4日の三度目の『ホエールウォッチング』の時も南島を訪れたのであるが、
数多くの観光船のグループの人たちが上陸されて折、私は途中で断念した。
この秘めたる無垢な情景は、できうる限り少人数で歩き、
それぞれが心の留められれば、心の片隅に深く残る、と確かに教えられたのである。



        第10章  ふたたびホテルは活気となり

相変わらずホテルの客は私達夫婦だけで、朝食を終えた後、
散歩かわりに歩いて一キロ程近くにある『亜熱帯農業センター』に出かけたのである。

ゆるい登り道路の脇の歩道を歩き、少し汗をかいた頃に到着したのであるが、
人影もなく、桜の花、亜熱帯の植物を観賞したが、数多くの花の咲く時節の谷間であり、静寂な情景であった。

一時半ばかりセンター内を散策した後、ホテルの前にあるバス停の『扇浦海岸』までの下り道を歩き、
この後は村営バスで街の中心街に出たのである。

そして家内は、昼食は緬類を食べてたい、というので、素朴に食堂風の店に入った。
店内の一昔の看板が展示するように数多く見られた。
私は家内に懐かしい看板だね、と云いながら、その当時の思いで話をしたりした。
私はチキンのガーリック味を頂きながら、ビールの大瓶を2本を呑んだりした。
店を辞する時、『波食波食(ぱくぱく)』と店の看板があり、私は思わず微笑んだりした。

そして街中を歩き、家内は長袖のスポーティなシャツを買い求めたりした後、
私達は村営バスに乗り、ホテルに戻ったのは午後2時前であった。

そしてバルコニーで二見湾の情景を眺め、煙草を喫っていると、
『おがさわら丸』がゆったりと二見港に入港してきた。

『おがさわら丸』の定時入港は午前11時半であるが、
過日の津波により少なくとも10時間以上遅れて出航したので、
少しは挽回して4時間遅れの午後3時半に入港したのである。


そしてこの船に乗船してきた一部の人たちが、
ホテルの宿泊者となり、70歳前後の女性の4人グループ、50歳前半のご夫婦の二組、
70代のご夫妻、30代のご夫妻、そして女性の30代前半が宿泊者と加わり、
私達夫婦を含めて15名となり、
私達はレストランで隣席の人たちと穏やかに談笑したり、或いはロビー等で話したりしたのである。



        第11章  夜の浜辺、里の情景は

私達はホテルのベランダからは、夜のひととき前方の扇浦海岸、二見湾、
そして彼方に観える二見港の船舶の灯り、大村の街灯りを眺めたりしていた。

観光のひとつとして『ナイト・ツアー』があり、浜辺、里山の情景を観せてくれるのを知っていたので、
日中に観る情景とはまったく変貌すると思われるので、私達夫婦は3月3日の夜にツアーに参加した。

この日は『おがさわる丸』に入港したので、若い20歳前後の女性3人とグループとなり、
ガイドさんの導きに観賞したのである。

私達は暗い小浜海岸で特有のの蟹(カニ)を観たり、
付近の大きな樹木の実が、たとえ川に流れようとしても、やがて岸辺の地に根付く、
たくまし樹木を眺めたりした。

そして、たまたま午前中に訪れた亜熱帯農業センターで、
この小笠原諸島に住むコウモリの生態を見つめ、椰子の花などを食べている状況を見るができたのである。

その後、幻のキノコを観るために山沿いのせせらぎに行ったのであるが、
湿度と温度の微妙な環境を要求されるキノコであるので、
無念ながら拝見できなかったのである。

私は蟹、コオモリに余り興味がなく、家内は喜んでいたが、
独り夜空の星の方に魅了されていたが、曇り空で余り観えなかったのである。
そして雲間に恥ずかしげに隠れてしまった数多くの星に、
どうして内気なの、と私は恨めしげにわずかな星を眺めていたのである。

ホテルに戻り自動車の中で、ツアーのさなか若い女性3人の歓声、ため息、話し声、そしてしぐさに、
カニ、コウモリより遥かに学んだことを思いだし、
独りで微苦笑していたのである。



       第12章  そよ風を海辺の休憩所で受けながら

3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。

私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。

10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。

そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。


思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。

そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。

26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。

27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。

そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。

3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。

2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。

3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。

4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。


このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。

前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。

この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。



       第12章  『おがさわら丸』父島・二見港の出航の光景は

6日の朝食後、午後2時に出航する『おがさわら丸』に乗船する為、
ホテルの方が船客待合所に私達の大きめの旅行バックを届けて下さるので、
チエック・アウト後は私達は身軽に村営バスに乗り、二見港から近くにある『小笠原ビスターセンター』に行った。

そして過日、感銘を受けたビデオを3作品を観賞した後、
付近の大神山公園の東屋風の休憩所で、昼食として煎茶を飲みながら、お弁当を頂いたりした。

そして船客待合所に行き、数多くのいる人々中、予約券の指定乗船券を本券に代え、
券の右側にある乗船名簿欄に記載したりした。
そして、確約した午後1時15分過ぎに、ホテルの方が所定場所に私達の旅行バックを届けて下さり、
私達はホテルの方に滞在中に何かとお世話になった意味合いのお礼を云ったりした。

この後、ホテルのお方から、私達にそれぞれ真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を頂き、
私達は大きめの旅行バックを持ちながら乗船し、指定されたBデツキ・フロアーの『特一等』の一部屋に入室した後、
船室と船べりの間のデッキに行ったが、
岸壁に面した右舷は私達と同様な船客で鈴なりになり、上階のAデツキでも同じように船客で満ちていた。

下方に見える船客待合所の前の岸壁に面した広場は、数多くの観光関連の村人、滞在されている観光客が折、
中央には太鼓を打ち響かせる青年がいて、活気ある歓送の宴となっていた・・。
私達の船客は少なくとも600名ぐらい折、お互いに思いを残しながら、手を振ったり、大きな声で感謝の言葉を張りあげていた。


そして『おがさわら丸』はドラの音を鳴らすと、船は岸壁を静かに離れはじめた・・。
乗船した私達も見送りに来て頂いた下方に見える人々に手を振り、
ホテルのお方も見えて、私達夫婦は手を大きく振ったしていた。

私はこの後、華やかな真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を岸壁に向かい、
お世話になりました、と心に呟(つぶや)きながら投げたのである・・。

そして盛大な歓送をして頂き、岸壁から50メートル以上離れたので、
船室に戻ろうとしていた時、『おがさわら丸』の右舷の数10メートル離れた周辺に観光船が少なくとも30隻以上が見え、
私達の乗船している『おがさわら丸』に並列するように小さな波間を疾走してきたのである。

それぞれの観光船は船長をはじめ、男性、女性スタッフ、滞在客も乗り、大きく手を振っていた。
そして、この中の一隻は後部に太鼓を響かせ、
最上部の狭い観覧席でひとりの青年が逆立ちをして、両足を開き『V』サインをしばらくの間し、
私達乗客600名ぐらいの殆どは、盛大な拍手と歓声を上げたりしたのである・・。

二見湾の中央付近になっても、それぞれの色彩を帯びた観光船は波間を疾走し、
私達が『ホエール・ウォッチング』に利用させて頂いた『ピンクドルフィン号』、『ドリーム号III』、『MissPAPAYA』の三隻も観え、
思わず私は大きく手を振り、そして遊覧船のスタッフも盛大な手を振りあげていた・・。

この後、二見湾から外洋に出る前に、それぞれの遊覧船のスタッフが海に飛び込み、やがて海上から手を振っていた時、
私は涙を流していたことに気付いたのである。

『おがさわら丸』は外洋に出て、速度を上げ、私は潮風を顔に受けながら、過ぎ去っていく二見湾、そして父島を眺めていた。



       最終章  『おがさわら丸』を下船後、都心を過ぎ、そして我が家に

7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。

私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。

家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。

私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。

定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。

このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。

冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。

そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。


私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。


                                 《終り》
・・】

このように私たち夫婦は、東京都の一部である都心から遥か彼方の小笠原諸島の父島の旅をしてきたが、
これまで日本にある幾たびか島めぐりの旅を重ねてきた私共は、
小笠原諸島の父島は、限りなく素朴さの秘めたまぎれない美しい島であった。


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『小笠原諸島 世界自然遺産に決定』、私たち夫婦も父島の旅路をして、限りなく心に残る思いは・・。【上】

2011-06-25 01:06:22 | 旅のあれこれ
私は先ほど、【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 小笠原 世界自然遺産に決定 》
と見出しを見て、微笑みながらクリックした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110624-00000136-mai-soci
☆【YAHOO! JAPAN】
     <== 【毎日新聞】《 <世界遺産>小笠原諸島、自然遺産に登録決定 ユネスコ 》☆


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨夜、私たち夫婦は、昨夕のテレビ・ニュースで、
今回、世界自然遺産の候補として、小笠原諸島が有力である、と知った。


私たち夫婦は、たまたま小笠原諸島の父島に、
昨年の2010年2月24日から3月7日に旅をしてきたので、
この時の思いも多々あり、このニュースを視聴しながら、いろいろと話し合ったりした。


私は一昨年の秋に、家内が海上にクジラが遊泳する情景を観たい、と念願していたので、
昨年の2010(平成22)年の2月24日から3月7日の11泊12日間で、
小笠原諸島のひとつの父島に私達夫婦は旅行をした。

私達夫婦は国内旅行は共通の趣味であるが、一昨年の2009(平成21)年の晩秋、
海外旅行は苦手であるので、クジラを観るのは小笠原諸島にしょうとした上で、
最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思ったのである。

そしてこの間に私は、小笠原諸島の父島などについて、
【YAHOO! JAPAN】の『地図』情報に於いて、検索したのであるが、
東京から南下し、遥か彼方の1000キロぐらいの時点に、父島があることがわかったのである。

この遥か西方には、同じような緯度で沖縄本島にあり、少しばかり驚いたりした。
そして、小笠原諸島は父島のある父島列島、母島のある母島列島をはじめ、
東方には日本の最東端の南鳥島、南下にはかの戦争で過酷な激戦地となった硫黄島のある硫黄列島、
西南方には日本の最南端として有名な沖ノ島が海上にある。

もとより小笠原諸島の父島は、同じような緯度にある沖縄本島とは、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、人口の最も多い父島さえ、
東京都小笠原村と明示されている。
このような状況下などで、交通の利便性は、
沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であるが、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸するのである。


2月24日から3月7日の11泊12日間であったが、
都心より南下すること1000キロの客船の航路だけが交通手段であり、25時間半の船中泊を得て、
はじめて小笠原の父島に入港できる稀な旅路となったのである。
そして、この定期船はトップ・シーズン以外は、6日サイクルで運行されるので、
遥かなる南の島と私は称したりしていたのである。

船旅で往復路にそれぞれ1泊し、現地のリゾートホテルに9泊をしたが、
この間に感じたり、深く心に残ったことは、このサイトに於いて、
【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。】と題して、14回に及び投稿した。

投稿を重ねていると、書ききれなかった心残りにあり、思い浮かべながら記載する。

新聞に関しては、定期船の運航サイクルの関係で、
東京・竹芝桟橋を出航の直前に、最新数日分の同乗させるので、
私の見た限りでは父島の現地のスーパーは入港した分だけが並ばれていた。
週刊誌も最新号がわずかにあり、本屋は見当たらなかったのである。

そしてガソリン・スタンドは一軒、タクシーも一台を滞在期間中に見かけただけで、
村営バスが公共交通機関となっていた。

何よりも村人の多くは、携帯電話は業務用には見かけたが、
これ以外は街中で携帯電話で私用されている状景は私として皆無であった。


このような状景を見たり、現地の圧倒的な風光明媚な数多くの景観を観たりすると、
もとより東京都に所属し南下したひとつの島であるが、
まぎれなく夢の島であり、ドリーム・アイランドと私は称したのである。

そして、旅路の時、宿泊したホテルのスタッフの方のひとりに、
ホテルから港まで、たびたび送迎をして下さった時の言葉を重ねた中のひとつを思いだしたりしたのである。

小笠原の父島は、同じような緯度にある沖縄本島あるが、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、
交通の利便性は、沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であり、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸する。

父島も空港が検討されてきたと知ったが、
空港ができた場合は、少なくとも現在の10倍の観光客は訪れ、島の経済は確かに向上するが、
沖縄本島のリソート地で観光客のにぎわう状況を見れば、
まぎれなくドリーム・アイランドの美麗な情景はまたたくまに失くなる。

父島は客船で25時間半に乗船して、はじめて訪れることのできる稀な島であるので、
数多くの美麗な情景、何よりも素朴な人たちのしぐさ、言葉、さりげない笑顔がある、
と私は確信しながら、ホテルのスタッフの方に云ったりしたのである。


私はこうした思いがあるので、たとえ世界自然遺産登録されなくとも、
まぎれなくドリーム・アイランドは、島民のひたむきな努力で存在するのである。

そして、都市で時間に追われ、たえず多忙な勤務を続け、生活する数多くの人たちを思い、
いつの日にか小笠原諸島の父島、母島に訪れて、
過ぎ去る時も忘れるかのようなドリーム・アイランドで心身を癒(いや)しませんか、
と年金生活の私さえ深く感じたりしたのである。

このような私なりの深い思いがあり、今回は異例であるが、
【 光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。】と題した投稿文を編集して、
再掲載をする。


【・・
    光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。【2010.2.24.~3.7.】


        序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の65歳の身であるが、
私達夫婦は国内旅行が共通趣味であるが、未知の小笠原諸島の『父島』に訪ねることは、
昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云ったことが起因であった。

色々と調べた結果、海外には苦手な私達は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知り、
旅行会社の『ナショナルランド』に船の予約と宿泊先の確保を依頼した。

http://www.n-l.co.jp/
☆ ナショナルランド ホームページ  ☆

宿泊先の選定は静寂で景観の良いところは確保できたのであるが、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、
結果として『特一等客室』が確約ができたのは、旅立つ前の二週間前であった。

このようなかたちで、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。



        第1章  都心から1000キロ南下する『おがさわら丸』

私達夫婦は『おがさわら丸』に乗船する為に東京港の竹芝桟橋に到着したのは、
出航時10時の2時間半前であった。
私達は竹芝客船ターミナル内の食事処でコーヒーを飲みながら、
一番長い旅行となったので、大きな旅行バックをふたつに微苦笑をしたりした。

この時節の東京の郊外より10度ばかり高い遥かなる南下の『父島』であり、
衣服に戸惑いながら、準備してきたのである。
東京の郊外の5月中旬の頃を想定してきたが、
『ホエール・ウォッチング』の観光船の時は風を受けて寒いと聞いたりしていたので、
私達の旅行で初めて旅行バックがふたつとなったのである。

『おがさわら丸』出航時の30分前に指定された船室に旅行バックを置いた後、
ツインベットを中核とした洋風の中で畳一畳ばかりが和室風となり、小机が配置されいた。

http://www.ogasawarakaiun.co.jp/
☆『おがさわら丸』 ホームページ ☆

定刻の午前10時に出航した『おがさわら丸』は明日の午前11時半『父島』の二見港に着岸するまで、
都心から南下する1000キロばかりの25時間半の船旅が始まった。

私達は船室の大きな窓から、彼方の伊豆七島の『大島』を右舷で観ようとしたが、遥か彼方で展望できず、
私は畳一畳ばかり和室風の小机に純米酒とおつまみを置き、
座布団の上で胡坐(あぐら)をかいて、呑み始めた。

その後、ときおりベットでまどろんだり、或いは喫煙室に行き、煙草を喫いながら窓辺から海上を眺めたりた。

深夜、家内から星が綺麗、と云われ、
家内のベットのまじかな窓辺から、私は散りばめられ数多くの星の輝きを見惚(みと)れたのである。

朝の7時過ぎにレストランでサバを焼いたのを主食として私は大盛りのご飯を頂いた後、
サンデッキで風に吹かれながら海上を眺めたりした。
その後、イルカと海鳥の多いと称せられている聟島(ケータ・ジマ)が、まもなく左舷に観えます、と船内放送が聴こえ、
私はぼんやりと小笠原の最北部の聟島列島に『おがさわら丸』が近づいてきたことを知り、
ほっとしながらも海上の聟島列島の景観をゆったりと眺めたりした。


定刻どおり11時半に『父島』の玄関口である二見港に接岸し、私達は下船後、
燦燦と照りつける陽射しの中、船客待合所の前で宿泊先のホテルの明記された手持ち看板に行き、
ホテルの方に旅行バックをお願いした後、
近くの食事処の『ホライズン・ドリーム』の前で12時45分にホテルの方が送迎して下さる、ということになった。

私達は『ホライズン・ドリーム』の2階にあるイタリアンの創作料理店に入り、昼食とした。
私は島魚のカルパッチョ風の料理を頂きながら、ビールを二杯ばかり呑みながら、
南国の二見港の情景を眺めたり、停泊している『おがさわら丸』を眺めたりし、
やっと念願の父島についたねぇ、と私は家内に微笑みながら話したりした。



        第2章  海辺のリゾートホテル『ホライズン』

私達は昼食を終えた後、一階のケーキ、パン、お弁当、お土産の売り場の店先の木のベンチにいると、
ホテルの方の送迎車が数分後に来て下さり、私達は乗り込んだ。

『父島』の玄関口である二見港の船客待合所の前にある大通りを過ぎ、そして街並みを過ぎると、
ゆるやか丘陵、トンネルをふたつばかり通り過ぎた後、忽然と広く広がる静寂な浜辺のある海岸が観え、
ホテルに着きました、と送迎車のホテルの方から告げられ、
私達は小さなホテルの美景に見惚れた。

チエックイン後、私達は三階の部屋に通され、私は椅子に座りながら、ホテルの案内書を開いたりしていた。
そしてホテルの概要を読んだ時、私は思わず微笑んだのである・・。


小笠原諸島は、東京から南へ950~1300Kmの太平洋上に点在する30余りの島から成り立っています。
人が住んでいるのは、父島と母島だけで、中心となっている父島の緯度は沖縄やフロリダとほぼ同じで、
年平均23度という暖かさです。

世界でも有数の美しい海が広がり、熱帯植物が茂る常夏の島で、”最後の楽園”といわれています。

当ホテルは、父島二見湾のほぼ中央の扇浦に位置し、海岸を目の前にして、シーサイド・ホテル。

小笠原に初めての本格的なホテルとして、1993年2月11日にオープン。
部屋数は14部屋、すべてがツイン仕立てで、
広々としたロビーに、海が見えるレストラン。

小さな島の小さなホテル


このように明記されて折、特に私は最後にある《小さな島の小さなホテル》に魅せられたのである。

部屋の前にあるベランダからは、扇浦の白色の砂浜、打ち寄せる波、
海の色合いは青い色、薄い蒼い色、蒼い色、そして濃い蒼い色と四色の色合いを織り成して海原が続き、
右側の前方には二見港の桟橋、街並みが観え、
前方の彼方に切立った小山の上に三日月山の展望台のあるウェザー・ステーションが聳(そび)えていた。

私が若い女性であったならば、『凄い・・綺麗だわ・・』と歓声を上げると思われるが、
私は家内に、『まぎれない美しい景観だね・・』と云ったりしていた。

http://www.mmjp.or.jp/hotel-horizon/
☆『ホテル ホライズン』ホームページ ☆

この後、私達は扇浦の浜辺を歩いたり、付近の周辺を散策したりした。

尚、このホテルの部屋に備えられている浴室は、一新されて折、
洗い場のある優美なバスになっている。



        第3章  扇浦海岸の周辺を散策すれば

ホテルの目前にある扇浦海岸を散策しょう、と私達は出かけたのであるが、
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
ときより風はそよ風となり、長イスに座っていても、見飽きない情景であった。

私達は扇浦海岸の砂浜を歩き、ときおり家内は打ち寄せる波の処を歩き廻ったりした。

この後、海岸の外れのゆるい丘の南国に相応しい雑木林を歩いた後、
下り道の一角に納戸小屋が見え、ひとりのお齢を召した女性から、私達は話しかけられたのである・・。

まもなく90歳になる女性は、太平洋戦争前は硫黄島でご夫婦で農業をされて、
強制退避させられて、八丈島で移住して農業をされた後、
この父島が日本に返還された1968(昭和43)年に移住されて農業をする為に、
この地を買い求めて住まわれている。
この間、ご主人を失くされ、今は独り住まいとして、硫黄島の強制撤去による土地補償代もあり、
こうして暮らしを立てて生活をされている、と微笑しながら、
私達に話されたのである。

歴史に翻弄されながら、健気に生活されている女性に、
大変な時代を過ごされまして、と私は云いながら思わず頭(こうべ)をたれたりしたのであった。


この後、私達はホテルの近くにある『小笠原神社』を参拝したり、
『開拓小笠原之碑』、『無人島発見之碑』を見たりした後、
休憩所の道路際にある『小花作助之碑』の功績文を読んだりしたのであった。

ホテルの部屋でぼんやりとしていると、
午後5時に村役場からの時報代わりに、『椰子の実』のメロディが静かに鳴った。


私はこの夜、遅ればせながら父島の歴史を改めて学んだりした。
江戸時代の1670年に於いて、紀州の蜜柑(ミカン)船が『母島』に漂着して、
『八丈島』経由で伊豆『下田』に生還し、
島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された・・、
このような事柄に私は興味をいだいたりしたのである。

もとより母島はスペイン人が発見したという説、
19世紀に欧米の捕鯨船が父島に寄港したり、その後はハワイ人が入植したこともあるが、
学べば学ぶほど興味はつきないのである。

そして私はベランダで煙草を喫いながら、散りばめられた幾10かの星を眺めたりした。


                                   《つづく》


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