私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
毎年6月23日は、起床し洗面した後、玄関庭に下り立ち、
襟を正して沖縄に向かって黙祷を毎年している。
私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受けたので、
敗戦となった翌年の8月15日からは、ほぼ一年前になり、
戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら、少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』は認識している。
恥ずかしいことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をし、
まもなく中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』を読み、
沖縄について深く学んだのである。
もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
何よりも戦時中、日本本土のの防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。
そして私は原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
尚、敗戦後の日本の平和が続いているのは、
国際の主要国の怜悧な国益に基づいて、悪夢のようなことであるが、
核抑止を中核とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか今日を迎えている事実も、確かなことであると思考している。
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襟を正して沖縄に向かって黙祷を毎年している。
私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受けたので、
敗戦となった翌年の8月15日からは、ほぼ一年前になり、
戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら、少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』は認識している。
恥ずかしいことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をし、
まもなく中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』を読み、
沖縄について深く学んだのである。
もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
何よりも戦時中、日本本土のの防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。
そして私は原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
尚、敗戦後の日本の平和が続いているのは、
国際の主要国の怜悧な国益に基づいて、悪夢のようなことであるが、
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