夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『八十八夜に新茶を手摘み』の情景を知り、やがて私の幼年期の生家の茶摘に思いを馳せ・・。

2012-05-03 11:14:28 | 定年後の思い
私は昨夕、ネットで何かと愛用している読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
たまたま【新おとな】を開いたら、ひとつの美麗な写真の一葉に瞬時に魅せられて見つめたりした。

http://www.yomiuri.co.jp/otona/naturallife/08/kyoto/20120502-OYT8T00506.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==【新おとな】<== 《 八十八夜に新茶を手摘み…宇治市 》☆

この情景を見ながら、私はこの記事を読んだりした。

そして私は1日は、『八十八夜』だったんだぁ、と教えられながら、
改めて若き女性たちが茶畑で、茜(あかね)だすきで、
姉さんかぶりをし、お茶を摘む情景の一葉の写真に、
素敵だよねぇ、と見惚(みと)れたりした・・。

昨今のテレビで映し出される若きアイドルスターとかタレントより、
少なくとも百倍は美麗だなぁ、と齢ばかり重ねた67歳の私でも確信を深めたりした。

そして単細胞の私は、思わず小さな声でかぼそく鼻歌を唄ったりした・・。

♪夏も近づく八十八夜、
 野にも山にも若葉が茂る
 「あれに見えるは茶摘じゃないか。
 あかねだすきに菅(すげ)の笠。」

【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

そして、古来より、立春から八十八日を過ぎると、
お茶の新芽を摘(つ)むとされてきたのを改めて思いながら、
遠い昔の私の幼年期が思いだされた・・。

私の生家は程ほど広い田畑を祖父と父が中核となり、小作人だった人の手助けを借りて農業をし、
茶畑もあったりしたので、何かしら、こうしたお茶を摘む情景などを見たりすると、
それなりの深い愛惜感につつまれるのである・・。

私は煎茶をこよなく愛するひとりであり、30代前後に引っ越すたびに、
或いはここ10年、駅前のお茶屋さん、最寄りのスーパーなどで、
気に入っていた煎茶が製造中止となったりすると、
今度の新たな煎茶が私のお好みの範疇にめぐりあえますよう、と念じたりしていた。

私は甘みも大切であるが、何より少し苦味、そして渋みの深い煎茶が好きである。

早朝に目覚めた後にぼんやりと頂いたり、そして日中も褒めながらも頂き、
夕食の時に、ときおり純米酒の辛口かビールを呑んだりした後、
夜のひとときも美味しく、煎茶は日常の友として欠かせないのである。

そして、ときおり幼年期を想いだすこともある。


遠い昔、1951(昭和26)年の私は小学校に入学した時である。

祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた旧家のどの農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた時代の頃である。

私の生家は母屋、蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。


5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった人々の支援も借りたりしていた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらったりした。

新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年で愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。


私は幼児の頃、長兄、次兄に続き生を受けた三男坊の身であったが、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、
祖父は無念と思いながらも、祖父の名から一字を私の名前に命名してくれた。
その後の私は、何となくいじけていたので、いたずらもして、父からよく怒られた。

祖父からは、私を不憫と思ったらしく可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。

私が小学二年の時に父に死去され後、まもなく翌年に祖父も亡くなり、
肝要な農作業のノウハウと労力も減退したので、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少し、
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。

私は、成人してから、煎茶を淹れる時、
ときたま祖父を想いだされる・・。
そして、煎茶を淹れる時は、真心(まごころ)を込めて早や45年ばかり過ぎている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする