昨日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
思わず私は、そうですよね、と共感させられながら、読了後に感銘を受けた記事が掲載していた。
9面の【文化】面の週間定例の『本よみうり堂』があるが、
この中に月次の定例記事の『空想書店』があり、
今回は慶応義塾大学の阿川尚之(あがわ・なおゆき)教授が寄稿されていた。
氏は数多くの作家の解説文も綴られ、私も多く読みながら幾たびか感銘を受けた優れて文を書かれる方で、
もとより氏の父上は作家・阿川弘之さんで、妹君はエッセイストの阿川佐和子さんである。
氏は港から観える船を見ることが好きらしく、
こうした地点で書店を開くことを空想していることなどを綴っている。
この後、
《・・
けれども店主が一番大事にしているのは、船や船旅を描いた小説や詩集である。
優れた作家は文章のみで、生き生きと船を描く。
文章を読めば船が好きであるとわかる。
(略)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
この後は、過ぎし時代に船が隆盛した時代に思いを重ねて、愛惜を綴っている。
そして恒例の推薦作品の『店主の一冊』として、
氏は北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を選定し、
《船に乗って海に出たい。外国に行きたい。
少年の私にそう思わせた本。
潮騒と風の唸(うね)り、溶岩のうねりのような湧き立つ波頭。これが海だ。》
と記している。
私は読みながら、作家・北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を思いだしながら、
文章だけて確固たる情景、心理描写などを的確に表現させていた作品、と改めて感じたのである。
そして紀行作家・宮脇俊三さんが中央公論社の編集時代に、
北 杜夫さんが作家としての地位を確立する前に、幾たびか勧誘して『どくとるマンボウ航海記』を書かせたことは、
読書好きな人たちでも、今や伝説となっている。
そして宮脇俊三さんは、後年に『ザ・文章設計』第14号で1988〈昭和63)年6月に、
『文章と写真と』と題して綴られている。
《・・
「若い精神科医が水産庁の調査船に乗って、アフリカ沖からヨーロッパのほうへ行っている。
筆のたつ人らしい。小説も書いている」
という情報が入ってきた。昭和34年の春のことだった。
当時の私は出版社に勤めていた。
そして、外国旅行は高嶺の花の時代だった。
その「小説も書く若い精神科医」が帰国するのを待ちかまえて、私は航海記の執筆を依頼した。
その際、旅行中のたくさんの写真も見せていただいた。
珍しいものばかりだった。
写真もふんだんに入れた本にしょう、と私は思った。
半年ほどで原稿が完成した。
その出来ばえは期待をはるかに上回っていた。
眼を見はるほど自由闊達で伸びやかな、若い心が躍動するような文章にはユーモアさえ溢れていた。
その文章に魅了された私は、すっかり満足し、写真を挿入することなど念頭から消えてしまった。
翌年の春、写真なしの外国旅行記という当時としては珍しい本が出版された。
が、文章の魅力が読者をとらえ、たちまちベストセラーになった。
北 杜夫・著『どくとるマンボウ航海記』である。
編集者として思わぬ幸運に調子づいた私は、「世界の旅」全10巻というシリーズを企画した。
既刊の外国旅行記を地域別に集めるというシリーズである。
写真も各ページごとに挿入することにした。
旅行記には写真は欠かせないのが編集の常道であった。
第一回の配本は目玉商品として『どくとるマンボウ航海記』を収めた。
こんどは写真が何十枚も本文に割って入った。
ところが、刷り上がった見本に眼を通しているうちに、私は愕然とした。
写真不要、いな邪魔! せっかくの文章の魅力を減殺さえしているのである。
『世界の旅』シリーズに写真を挿入しょうとの編集方針がまちがっていたとは思わない。
しかし、他の収録作品の著者にたいしては失礼にあたるが、
第一級の紀行文には写真など無用にして無縁なのだ。
そういえば、内田百の『阿房列車』に写真はいらない。
『おくのほそ道』に写真を入れたらナンセンスだろう。
文章とは写真などとは次元のちがうところで成立する精神の作用なのだ。
と深く思い知らされた私は現在の職業は「旅行作家」。
すでに20冊もの本を出させていただいたが、写真入りの本は、やむえぬ事情により1冊を除けば他にはない。
文章の作用は写真なんぞ遠く及ばない、という私の心意気なのである。
(略)
・・》
注)著者の原文より、あえて改行を多くした。
私は中小業の民間会社を35年近く勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。
私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。
古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。
そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。
私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。
しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。
このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。
しかし拙〈つたな〉い投稿文でも、その時の心情を素直に綴れば、幾年か過ぎた後、
のちの想いになることは確かだ、と思い原則として日々投稿文を認(したた)めている。
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思わず私は、そうですよね、と共感させられながら、読了後に感銘を受けた記事が掲載していた。
9面の【文化】面の週間定例の『本よみうり堂』があるが、
この中に月次の定例記事の『空想書店』があり、
今回は慶応義塾大学の阿川尚之(あがわ・なおゆき)教授が寄稿されていた。
氏は数多くの作家の解説文も綴られ、私も多く読みながら幾たびか感銘を受けた優れて文を書かれる方で、
もとより氏の父上は作家・阿川弘之さんで、妹君はエッセイストの阿川佐和子さんである。
氏は港から観える船を見ることが好きらしく、
こうした地点で書店を開くことを空想していることなどを綴っている。
この後、
《・・
けれども店主が一番大事にしているのは、船や船旅を描いた小説や詩集である。
優れた作家は文章のみで、生き生きと船を描く。
文章を読めば船が好きであるとわかる。
(略)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
この後は、過ぎし時代に船が隆盛した時代に思いを重ねて、愛惜を綴っている。
そして恒例の推薦作品の『店主の一冊』として、
氏は北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を選定し、
《船に乗って海に出たい。外国に行きたい。
少年の私にそう思わせた本。
潮騒と風の唸(うね)り、溶岩のうねりのような湧き立つ波頭。これが海だ。》
と記している。
私は読みながら、作家・北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を思いだしながら、
文章だけて確固たる情景、心理描写などを的確に表現させていた作品、と改めて感じたのである。
そして紀行作家・宮脇俊三さんが中央公論社の編集時代に、
北 杜夫さんが作家としての地位を確立する前に、幾たびか勧誘して『どくとるマンボウ航海記』を書かせたことは、
読書好きな人たちでも、今や伝説となっている。
そして宮脇俊三さんは、後年に『ザ・文章設計』第14号で1988〈昭和63)年6月に、
『文章と写真と』と題して綴られている。
《・・
「若い精神科医が水産庁の調査船に乗って、アフリカ沖からヨーロッパのほうへ行っている。
筆のたつ人らしい。小説も書いている」
という情報が入ってきた。昭和34年の春のことだった。
当時の私は出版社に勤めていた。
そして、外国旅行は高嶺の花の時代だった。
その「小説も書く若い精神科医」が帰国するのを待ちかまえて、私は航海記の執筆を依頼した。
その際、旅行中のたくさんの写真も見せていただいた。
珍しいものばかりだった。
写真もふんだんに入れた本にしょう、と私は思った。
半年ほどで原稿が完成した。
その出来ばえは期待をはるかに上回っていた。
眼を見はるほど自由闊達で伸びやかな、若い心が躍動するような文章にはユーモアさえ溢れていた。
その文章に魅了された私は、すっかり満足し、写真を挿入することなど念頭から消えてしまった。
翌年の春、写真なしの外国旅行記という当時としては珍しい本が出版された。
が、文章の魅力が読者をとらえ、たちまちベストセラーになった。
北 杜夫・著『どくとるマンボウ航海記』である。
編集者として思わぬ幸運に調子づいた私は、「世界の旅」全10巻というシリーズを企画した。
既刊の外国旅行記を地域別に集めるというシリーズである。
写真も各ページごとに挿入することにした。
旅行記には写真は欠かせないのが編集の常道であった。
第一回の配本は目玉商品として『どくとるマンボウ航海記』を収めた。
こんどは写真が何十枚も本文に割って入った。
ところが、刷り上がった見本に眼を通しているうちに、私は愕然とした。
写真不要、いな邪魔! せっかくの文章の魅力を減殺さえしているのである。
『世界の旅』シリーズに写真を挿入しょうとの編集方針がまちがっていたとは思わない。
しかし、他の収録作品の著者にたいしては失礼にあたるが、
第一級の紀行文には写真など無用にして無縁なのだ。
そういえば、内田百の『阿房列車』に写真はいらない。
『おくのほそ道』に写真を入れたらナンセンスだろう。
文章とは写真などとは次元のちがうところで成立する精神の作用なのだ。
と深く思い知らされた私は現在の職業は「旅行作家」。
すでに20冊もの本を出させていただいたが、写真入りの本は、やむえぬ事情により1冊を除けば他にはない。
文章の作用は写真なんぞ遠く及ばない、という私の心意気なのである。
(略)
・・》
注)著者の原文より、あえて改行を多くした。
私は中小業の民間会社を35年近く勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。
私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。
古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。
そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。
私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。
しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。
このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。
しかし拙〈つたな〉い投稿文でも、その時の心情を素直に綴れば、幾年か過ぎた後、
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