私たち夫婦は、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、
過ぎし5月21日より4泊5日の温泉滞在旅行をした。
私は齢ばかり重ねた67歳の身であるが、こうした滞在旅行の時は、
読書をするのが快適と思い、今回は三冊の本を持参した。
曽野綾子・著作の『生活の中の愛国心』(河出書房新社)の新書本、
そして曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場~』(新潮社)の単行本、
再読したく書庫から抜き出した城山三郎、平岩外四・共著作の『人生に二度読む本』(講談社文庫)であった。
私はある中小業の民間会社に35年近く勤務し、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。
そして読書好きな私は、退職後は塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読している。
たまたま今回の旅先で持参した三冊から、多々教示された。
そして宿泊先の網代(あじろ)温泉の『湯の宿 平鶴(ひらつる)』で朝食前のひととき、
私はロビーの近くで、当館で置いてある『毎日新聞』、『産経新聞』、『静岡新聞』の朝刊を読むのが、
習性のようになったりしていた。
たまたま25日の朝も、『産経新聞』の朝刊を手にしたら、
一面の左上に、作家・曽野綾子さんの『小さな親切 大きなお世話』と題された寄稿文が掲載されていた。
見出しには《 会えなかった恩人たち 》と明記され、
敬愛している作家のひとりなので、私は精読した・・。
曽野綾子さんは海外邦人宣教者活動援助後援会のNGO組織の代表を長らくされていることは、
数多くのご著作から私は学んできたが、
今回40年間続けられた代表を辞任され、
これに伴い、《ささやかな感謝会》をされた、と記していた。
この後に綴られた寄稿文は、圧倒的に感銘を受けた・・。
そして私は持参している手帳に書き留めたりし、無断であるが、転記させて頂く。
《・・
(略)
この最後の機会に、私の中には初期から数十年来の支援者で、
ついぞ顔を会わせたことのない何人かのお顔を今度こそ見られるだろう、
という淡い期待があった。
世間は生活に余裕のある幸福な人が、苦しい人を助けると信じている。
しかし私の体験では、長年の支援者の多くは、悲しみを知っている人たちであった。
私はその一部を打ち明けてもらう光栄に与(あずか)り、
人生とは悲しみこそが基本の感情であり、
そこから出発する人には、芳香が漂うのを知った。
このような人たちの一部は、しかし今度も会にもやはり出席してくれず、
ただ温かい言葉を送ってきた。
人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、
と私は思った。
私はここ数年、いつ死ぬか分からないのだから、
以前から心にかかっていた人たちと、無理てせない機会で、
会っておくようにしょうと心に決めていたのだが、
それは浅はかな人生の計算だということもわかった。
深い感謝は、時には恋のような思いでもあったが、
恋もやはり会わないでおいた方がいい場合が多い。
人生ですべてをやり遂げて、会うべき人にも会って死のうだということは、
思い上がりもいいところで、人は誰もが多くの思いを残して死んでいいのだ。
むしろそれが普通なのである。
私は強情だったが、運命には従順でありたいと願っていた。
愛というものは、二人がお互いに見つめあうことではない。
同じ目標を見つめあうことだ、と昔教わったが、
ついに現世で視線を合わせることもなかった支援者たちと私は、
図(はか)らずも同じものを見つめる位置に立って、人生を生きたに違いがない。
・・》
私は拝読した後、功利を問わない無償の奉仕活動をされる人たちに、
ひたすら敬服するひとりである。
その上、さりげなくこうした活動に共鳴して、支援金を提供して、
更に顔を会わることない人の心に、圧倒的に感銘させられた・・。
こうした思いの中で、私が瞬時に共鳴させられたことは、
《・・人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、と私は思った。》
と一節である。
もとより功利を問わない無償の奉仕活動をされた上、支援金を提供され、更に顔を会わることない人たちとは、
歴然として程度の差があるが、私のブログの思いと同じかしら、と思ったりした。
私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。
定年退職後のまもない時に、ブログの世界を知り、ほぼ毎日投稿してきた。
私の幼少時代から年金生活の今日まで綴っているが、
何かと身過ぎ世過ぎの年金生活で、日頃感じこと思索していることなどをあふれる思いを
心の発露として投稿してきた。
こうしたことは生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。
私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。
こうしたことは筆力のない無名な私は、卑怯であるが匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。
小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら『夢逢人』と命名し発信を重ねている。
このように思いを重ねて、私は苦笑している。
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過ぎし5月21日より4泊5日の温泉滞在旅行をした。
私は齢ばかり重ねた67歳の身であるが、こうした滞在旅行の時は、
読書をするのが快適と思い、今回は三冊の本を持参した。
曽野綾子・著作の『生活の中の愛国心』(河出書房新社)の新書本、
そして曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場~』(新潮社)の単行本、
再読したく書庫から抜き出した城山三郎、平岩外四・共著作の『人生に二度読む本』(講談社文庫)であった。
私はある中小業の民間会社に35年近く勤務し、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。
そして読書好きな私は、退職後は塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読している。
たまたま今回の旅先で持参した三冊から、多々教示された。
そして宿泊先の網代(あじろ)温泉の『湯の宿 平鶴(ひらつる)』で朝食前のひととき、
私はロビーの近くで、当館で置いてある『毎日新聞』、『産経新聞』、『静岡新聞』の朝刊を読むのが、
習性のようになったりしていた。
たまたま25日の朝も、『産経新聞』の朝刊を手にしたら、
一面の左上に、作家・曽野綾子さんの『小さな親切 大きなお世話』と題された寄稿文が掲載されていた。
見出しには《 会えなかった恩人たち 》と明記され、
敬愛している作家のひとりなので、私は精読した・・。
曽野綾子さんは海外邦人宣教者活動援助後援会のNGO組織の代表を長らくされていることは、
数多くのご著作から私は学んできたが、
今回40年間続けられた代表を辞任され、
これに伴い、《ささやかな感謝会》をされた、と記していた。
この後に綴られた寄稿文は、圧倒的に感銘を受けた・・。
そして私は持参している手帳に書き留めたりし、無断であるが、転記させて頂く。
《・・
(略)
この最後の機会に、私の中には初期から数十年来の支援者で、
ついぞ顔を会わせたことのない何人かのお顔を今度こそ見られるだろう、
という淡い期待があった。
世間は生活に余裕のある幸福な人が、苦しい人を助けると信じている。
しかし私の体験では、長年の支援者の多くは、悲しみを知っている人たちであった。
私はその一部を打ち明けてもらう光栄に与(あずか)り、
人生とは悲しみこそが基本の感情であり、
そこから出発する人には、芳香が漂うのを知った。
このような人たちの一部は、しかし今度も会にもやはり出席してくれず、
ただ温かい言葉を送ってきた。
人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、
と私は思った。
私はここ数年、いつ死ぬか分からないのだから、
以前から心にかかっていた人たちと、無理てせない機会で、
会っておくようにしょうと心に決めていたのだが、
それは浅はかな人生の計算だということもわかった。
深い感謝は、時には恋のような思いでもあったが、
恋もやはり会わないでおいた方がいい場合が多い。
人生ですべてをやり遂げて、会うべき人にも会って死のうだということは、
思い上がりもいいところで、人は誰もが多くの思いを残して死んでいいのだ。
むしろそれが普通なのである。
私は強情だったが、運命には従順でありたいと願っていた。
愛というものは、二人がお互いに見つめあうことではない。
同じ目標を見つめあうことだ、と昔教わったが、
ついに現世で視線を合わせることもなかった支援者たちと私は、
図(はか)らずも同じものを見つめる位置に立って、人生を生きたに違いがない。
・・》
私は拝読した後、功利を問わない無償の奉仕活動をされる人たちに、
ひたすら敬服するひとりである。
その上、さりげなくこうした活動に共鳴して、支援金を提供して、
更に顔を会わることない人の心に、圧倒的に感銘させられた・・。
こうした思いの中で、私が瞬時に共鳴させられたことは、
《・・人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、と私は思った。》
と一節である。
もとより功利を問わない無償の奉仕活動をされた上、支援金を提供され、更に顔を会わることない人たちとは、
歴然として程度の差があるが、私のブログの思いと同じかしら、と思ったりした。
私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。
定年退職後のまもない時に、ブログの世界を知り、ほぼ毎日投稿してきた。
私の幼少時代から年金生活の今日まで綴っているが、
何かと身過ぎ世過ぎの年金生活で、日頃感じこと思索していることなどをあふれる思いを
心の発露として投稿してきた。
こうしたことは生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。
私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。
こうしたことは筆力のない無名な私は、卑怯であるが匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。
小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら『夢逢人』と命名し発信を重ねている。
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