夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

曽野綾子さんの心の思いを拝読し、歴然と程度の差があるが、私のブログの思いと同じかしら、と思い・・。

2012-05-28 15:26:47 | 定年後の思い
私たち夫婦は、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、
過ぎし5月21日より4泊5日の温泉滞在旅行をした。

私は齢ばかり重ねた67歳の身であるが、こうした滞在旅行の時は、
読書をするのが快適と思い、今回は三冊の本を持参した。

曽野綾子・著作の『生活の中の愛国心』(河出書房新社)の新書本、
そして曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場~』(新潮社)の単行本、
再読したく書庫から抜き出した城山三郎、平岩外四・共著作の『人生に二度読む本』(講談社文庫)であった。

私はある中小業の民間会社に35年近く勤務し、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。
そして読書好きな私は、退職後は塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読している。

たまたま今回の旅先で持参した三冊から、多々教示された。

そして宿泊先の網代(あじろ)温泉の『湯の宿 平鶴(ひらつる)』で朝食前のひととき、
私はロビーの近くで、当館で置いてある『毎日新聞』、『産経新聞』、『静岡新聞』の朝刊を読むのが、
習性のようになったりしていた。

たまたま25日の朝も、『産経新聞』の朝刊を手にしたら、
一面の左上に、作家・曽野綾子さんの『小さな親切 大きなお世話』と題された寄稿文が掲載されていた。
見出しには《 会えなかった恩人たち 》と明記され、
敬愛している作家のひとりなので、私は精読した・・。

曽野綾子さんは海外邦人宣教者活動援助後援会のNGO組織の代表を長らくされていることは、
数多くのご著作から私は学んできたが、
今回40年間続けられた代表を辞任され、
これに伴い、《ささやかな感謝会》をされた、と記していた。

この後に綴られた寄稿文は、圧倒的に感銘を受けた・・。
そして私は持参している手帳に書き留めたりし、無断であるが、転記させて頂く。

《・・
(略)
この最後の機会に、私の中には初期から数十年来の支援者で、
ついぞ顔を会わせたことのない何人かのお顔を今度こそ見られるだろう、
という淡い期待があった。

世間は生活に余裕のある幸福な人が、苦しい人を助けると信じている。
しかし私の体験では、長年の支援者の多くは、悲しみを知っている人たちであった。
私はその一部を打ち明けてもらう光栄に与(あずか)り、
人生とは悲しみこそが基本の感情であり、
そこから出発する人には、芳香が漂うのを知った。

このような人たちの一部は、しかし今度も会にもやはり出席してくれず、
ただ温かい言葉を送ってきた。

人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、
と私は思った。

私はここ数年、いつ死ぬか分からないのだから、
以前から心にかかっていた人たちと、無理てせない機会で、
会っておくようにしょうと心に決めていたのだが、
それは浅はかな人生の計算だということもわかった。

深い感謝は、時には恋のような思いでもあったが、
恋もやはり会わないでおいた方がいい場合が多い。

人生ですべてをやり遂げて、会うべき人にも会って死のうだということは、
思い上がりもいいところで、人は誰もが多くの思いを残して死んでいいのだ。
むしろそれが普通なのである。
私は強情だったが、運命には従順でありたいと願っていた。

愛というものは、二人がお互いに見つめあうことではない。
同じ目標を見つめあうことだ、と昔教わったが、
ついに現世で視線を合わせることもなかった支援者たちと私は、
図(はか)らずも同じものを見つめる位置に立って、人生を生きたに違いがない。
・・》

私は拝読した後、功利を問わない無償の奉仕活動をされる人たちに、
ひたすら敬服するひとりである。
その上、さりげなくこうした活動に共鳴して、支援金を提供して、
更に顔を会わることない人の心に、圧倒的に感銘させられた・・。

こうした思いの中で、私が瞬時に共鳴させられたことは、
《・・人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、と私は思った。》
と一節である。

もとより功利を問わない無償の奉仕活動をされた上、支援金を提供され、更に顔を会わることない人たちとは、
歴然として程度の差があるが、私のブログの思いと同じかしら、と思ったりした。


私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

定年退職後のまもない時に、ブログの世界を知り、ほぼ毎日投稿してきた。
私の幼少時代から年金生活の今日まで綴っているが、
何かと身過ぎ世過ぎの年金生活で、日頃感じこと思索していることなどをあふれる思いを
心の発露として投稿してきた。
こうしたことは生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。

私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

こうしたことは筆力のない無名な私は、卑怯であるが匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら『夢逢人』と命名し発信を重ねている。

このように思いを重ねて、私は苦笑している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  最終章  旅の終りは地元の健在な方とお逢いし

2012-05-28 09:17:57 | 
『湯の宿 平鶴』で滞在中、外出しなかった私たちは、
最終日の前日の早朝、私は日の出の光景を撮る為に、浴衣姿でロビーの近くにあるサンダルをお借りして、
宿の近くの海沿いの防波堤が整備された遊歩道を歩いたりした。

そして立ち止まり、日の出前であったが、わずかな潮風を受けながら、
彼方の網代湾の突端の灯台に焦点を合わせて、デジカメで3枚ばかり撮ったりしていた。

この後、ぼんやりと網代湾の情景を見たりしていると、前方の遊歩道から、ひとりの老人が歩いてきた・・。
小柄な男性で水色のチエック模様のお洒落なワイシャツ、グレーの長ズボン、ウォーキング・シュースで、
颯爽と私の方に近寄ってきた。

私のデジカメを見ながら、
『日の出の写真を撮られるんでしたら・・
前方の灯台の近くからの方が・・良い景観となりますょ』
と老人は私に言ったりした。

『おはようございます・・教えて下さいまして有難うございます』
と私は老人に向った感謝の言葉を重ねた。

そして私たちは網代湾の海面を眺めたりしながら、
私は初めて網代に来たことなどを言葉にすると、
このお方は昭和6年生まれで、この地で65歳まで漁師をされていたことなどを、
さりげなく教えてくれた。

私は《伊豆網代温泉 観光ナビ 公式サイト》で、
《・・
網代の港は昔から漁業が盛んでした。
また、大風が吹くと、荒波をさけるため近くにいる船が避難をする港としても有名です。
網代港は、その昔、網を入れる漁夫の漁場でしたが、
後に漁が盛んになるにつれて、港の入江に漁夫の小屋ができはじめ家も増えました。
そして、やがて網を入れる場所である網代の名が、こうした漁家や小屋の建つ村の名になったと言われています。

網代港は伊豆東海岸随一の天然の良港で、
「京大阪に江戸網代」といわれ、諸国の廻船でにぎわっていました。

江戸に幕府がおかれると物資は江戸を中心に運ばれるようになりました。
九州・四国・大阪・堺・名古屋方面からも千石船のような大型帆船、中型の帆船の廻船、小型の押送船が網代港に入港しました。

江戸への海路の要衝として、順風に帆を上げれば約10時間、
朝5時に発てば午後3時頃には、江戸に到着する地の利を得た港でした。
風の力で航行する帆船は良い風向になるまで、何日も港に碇泊していました。
このため港には廻船宿が設けられてにぎわうようになりました。

また、滞在中に船荷を売る時はその斡旋の口銭の収入も入りました。
更に航海中に台風などのシケに会った船の積荷米は濡米となり上納できませんでした。
そこでこの米は「濡米」として村役人を通じて入札され、田のない網代の人は安い米を買うことができました。
このように港の商人、船宿も多く、網代港は江戸時代にすこぶる活気にみちた港町となりました。
・・》
このようなことを学んだことを言ったりした。

『今はご覧になられたように・・少し活気がなくなりましたが・・』
と老人は私に言ったりした。

『私が東京オリンピツクが開催された昭和39年の頃・・
ある小説家の随筆で・・小田原の海辺の相模湾で・・寒ブリが30ぐらい獲れた・・
と読んだことがありますが・・』
と私は老人に言った。

『昨今は日本海の北陸地方の氷見地域で寒ブリは有名であるが・・
私が血気盛んな昭和30年代は・・この網代の相模湾でも・・
艪(ろ)を懸命に漕(こ)いで・・たくさんの寒ブリが・獲れたたんですよ』
と老人は微苦笑をしながら私に教えてくれた。

この後、私たちは5分ぐらい立ち話をして、私たちは別れた・・。
そして老人の後ろ姿を私は見送りながら、たしかに足取りにしっかりして、
とても私より13歳齢上の方と思えず、若き頃の艪(ろ)で漕(こ)いだ漁船に乗られた方は、
鍛え方が違うと私は感心させられたりした。


日中のひととき、私たちは部屋の窓辺に近い椅子に座り、
下方の寄せて返す波打ち際を見たり、浜辺となった所に幾重かの岩を眺めたり、
海上越しに多賀の街並み、そして上方の里山の樹木を眺めたりした。

この地は観光客でにぎわう熱海と伊東の中間にあるので、静寂でのどかな街並みであり、
働いて下さる現役世代の方が日常生活に疲れた時、やすらぎのある最適な癒(いや)しの処であり、
都心からはたった二時間ばかりで来られる処である。
私たちの退職後の年金生活の身でも、のんびりとゆったりと過ごせる処てあった・・。

たまたま滞在した宿は、海に浮かぶ露天風呂の景観も良し、磯料理の数々も美味で、
そして部屋からの景観は圧倒的に魅せられたのである。
このような意味合いの言葉を私たちは交わし、
冬の時期も来て見たいわ、と家内は言ったりしていた。

25日の金曜日、4泊した『湯の宿 平鶴』を辞した後、
帰路はJRの伊東線の『網代』駅に向い、その後は車窓からは里山の樹木越しに網代の街並み、
そして多賀の街並みが観え、やがて熱海の大きな街並みが観えた。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする