宿泊している『湯の宿 平鶴』の朝食は8時、そして夕食は夕暮れの6時であった。
この地の今頃は、日の出が4時半過ぎで、日の入りは夕食を頂いている最中(さなか)の6時半過ぎで、
私たちは何かと食事時間に合わせるように滞在の期間を過ごした。
殆ど日の出前に起床し、ぼんやりと朝焼けの情景を窓辺に近くにある椅子に座りながら、見たりした。
左側の外れに里山が海岸に接して、大きな樹木に定期便のように小鳥が飛来し、鳴き声が聴こえ、
下方に干潮の時は波打ち際から20メートルぐらいの浜辺となり、
そして浜辺となった所に幾重かの岩が群島のように見えたりした。
その後に満潮の波時は、浜辺が海水で消え去り、寄せては返す波間となり、
岩の群島に波が押し寄せて砕け散っていた・・。
前方の500メートルぐらい先には、海上越しに多賀の街並み、かすかに海岸沿いの道路が観え、
そして上方の里山の中腹の樹木の中、ときおり伊東線の電車が観えたりした。
里山の頂上までには森の中に、わずかながら人家が点在していた。
海上には、ときおり漁船が観えたりした。
そして前方の少し右側の海辺の近くには、大きなリゾートマンションのような建物が三軒あり、
目を右側に動かせば赤根崎にある建物が観え、その先には赤根崎を通して大きな熱海の市街がかすかに観えたりした。
右側の遥か彼方には、真鶴半島も観えたりした。
こうした情景を私たちは見たりし、部屋の窓辺の近くに寄せては返す波を見惚(みと)れて眺めたりした。
まじかに海岸の横から眺めていたので、
改めて干潮に現れた浜辺、或いは満潮の波が押し寄せる無限なような波間となっていた。
食事処は大きな100畳ぐらいの一室で、海辺にせり出すような180度の広い展望となり、
こうした中で、ゆったりと座卓が配置され、
磯料理の刺身、焼き物、煮ものを中核に美味しく頂いた。
そして最後の夕食の時に、
『あわびの踊り焼き・・長年旅を重ねてきたけれど、四日毎晩頂くのは初めてだょ』
と私は家内に微笑みながら小声で言ったりした。
日中の大半は、着いた日には街並みを散策した以外、窓辺から観える情景に見惚れながら、
過ごした異例の滞在となった。
彼方に見える赤根崎にある建物を見たりすると私は家内に、
思い馳せるように言葉をかけた・・。
確か1983(昭和58)年の夏、私が勤めている会社が、
管理体制の総合見直しのひとつとして、コンピュータ処理の委託を廃止し、
自社で開発、運営を首脳陣から命じられた私は、
この後、一年間は死ぬ物狂いで奮闘し、何とか1984(昭和59)年の初夏、
軌道に乗せたが運営上に課題を残していた。
こうした中で、夏季休暇を迎えていた・・。
私は前日に月末の定期処理を終らせようとしていたが、ハードディスクの容量不足を避ける為に、
やむなく磁気テープで置き換えて処理をしていたが、
夜の8時でも終らないのである。
この当時のハードディスク装置は、中小業からすれば甚(はなは)だ高価で、
程ほど増設して貰ったが、これ以上は見送ったりしていた時であった。
この後、私はビルの外壁の非常階段の踊り場で煙草を喫ったりしていた。
六本木のこのビルの8階からは、防衛庁(現在はミッドタウン)の灯りは暗くなり、非常灯が光を帯び、
彼方の明治神宮球場で花火が盛大に揚げられ、夜空を彩っていたので、私は苦笑した。
結果として、深夜の3時過ぎに私は退社し、タクシーで帰宅した。
そして、夏季休暇も半分程しか取れなかったので、
近場の熱海の外れにある赤根崎のリゾート・ホテルに2泊3日で予約していた。
そして数時間ばかり寝て起きたのであるが、
徹夜になったり、深夜まで・・連日の過酷な勤務時間が続いたいたので、
朦朧としていた。
そして10時過ぎに、私たち夫婦は自宅を出て、新宿駅に行った。
この後、寿司屋でビールを呑みながら、寿司を頂き、昼食代わりとし、
新宿駅より小田原駅まで特急のロマンスカーで乗り、
JRの小田原駅から下田行きの『踊り子』に乗り、熱海駅で下車した後、
宿泊地の赤根崎リゾートホテルにタクシーで向った。
この当時の赤根崎リゾートホテルとは、現代はリゾートマンションに大きく変貌したが、
外観は余り変らないと思われる。
この当時は、ホテルの建物の前にゆったりとした庭園があり、
その先は海上を一望できる景観が良い処であった。
そして利用される方は、家族連れで来て、主人は付近のゴルフ場でプレーをし、
若き奥様たちは、幼い子供に海辺の児童プールと海辺を楽しんだり、
若き男女はホテルに隣接したプールでゆっくりと過ごせる方が多いかしら、と私は感じたりした。
そしてロビーなども広く、レストランも数々あり、
食事をしながら、ゆったりと海上の景観も良く、
私たち夫婦はビールを呑みながら、イタリアンとかフランス料理を頂いたりした。
こうした間の2日目の時、私は休暇前は睡眠不足であったので、よく寝ていた。
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、
支配人から家内が誘われ、私も末席としてお供した。
家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。
結婚して、3年後に家を建てた時、
多額な借入となったが、若さの心の勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。
私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と共に、礼金も重なる暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
そして無知な私でも、この茶室の掛け軸、花入、茶花も簡素で、
素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたのである。
茶室から庭園に出で、家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。
庭園は夏の光を受けていたが、
外れにある松林の中に入ると、海上からの風が吹き、肌には心地よかった。
古人の利休が、花は野にあるように、という明言は私なりに知っていたが、
私はこの時以来、人生信条として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしている。
このように赤根崎に滞在した夏の旅は、私にとっては今でも心の片隅に鮮明に残っている。
こうした思いで話題にしたり、その前に下田の郊外の弓ヶ浜を訪れた話や、
或いは家内の両親と伊豆高原の海岸沿いの遊歩道を歩いた後に伊東の観光ホテルに宿泊した思いで話し、
私は思い重ねるように家内と語り合ったりした・・。
こうした時を過ごしたり、館内の売店で日本酒を買い求めて、
窓辺の近くにある椅子に座り、情景を観ながら吞んだりした。
或いは館内の自動販売機から、ビールを購入して吞んだりし、持参の本を読んだり、
露天風呂が恋しくなり、浴室に向ったりした。
《つづく》
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この地の今頃は、日の出が4時半過ぎで、日の入りは夕食を頂いている最中(さなか)の6時半過ぎで、
私たちは何かと食事時間に合わせるように滞在の期間を過ごした。
殆ど日の出前に起床し、ぼんやりと朝焼けの情景を窓辺に近くにある椅子に座りながら、見たりした。
左側の外れに里山が海岸に接して、大きな樹木に定期便のように小鳥が飛来し、鳴き声が聴こえ、
下方に干潮の時は波打ち際から20メートルぐらいの浜辺となり、
そして浜辺となった所に幾重かの岩が群島のように見えたりした。
その後に満潮の波時は、浜辺が海水で消え去り、寄せては返す波間となり、
岩の群島に波が押し寄せて砕け散っていた・・。
前方の500メートルぐらい先には、海上越しに多賀の街並み、かすかに海岸沿いの道路が観え、
そして上方の里山の中腹の樹木の中、ときおり伊東線の電車が観えたりした。
里山の頂上までには森の中に、わずかながら人家が点在していた。
海上には、ときおり漁船が観えたりした。
そして前方の少し右側の海辺の近くには、大きなリゾートマンションのような建物が三軒あり、
目を右側に動かせば赤根崎にある建物が観え、その先には赤根崎を通して大きな熱海の市街がかすかに観えたりした。
右側の遥か彼方には、真鶴半島も観えたりした。
こうした情景を私たちは見たりし、部屋の窓辺の近くに寄せては返す波を見惚(みと)れて眺めたりした。
まじかに海岸の横から眺めていたので、
改めて干潮に現れた浜辺、或いは満潮の波が押し寄せる無限なような波間となっていた。
食事処は大きな100畳ぐらいの一室で、海辺にせり出すような180度の広い展望となり、
こうした中で、ゆったりと座卓が配置され、
磯料理の刺身、焼き物、煮ものを中核に美味しく頂いた。
そして最後の夕食の時に、
『あわびの踊り焼き・・長年旅を重ねてきたけれど、四日毎晩頂くのは初めてだょ』
と私は家内に微笑みながら小声で言ったりした。
日中の大半は、着いた日には街並みを散策した以外、窓辺から観える情景に見惚れながら、
過ごした異例の滞在となった。
彼方に見える赤根崎にある建物を見たりすると私は家内に、
思い馳せるように言葉をかけた・・。
確か1983(昭和58)年の夏、私が勤めている会社が、
管理体制の総合見直しのひとつとして、コンピュータ処理の委託を廃止し、
自社で開発、運営を首脳陣から命じられた私は、
この後、一年間は死ぬ物狂いで奮闘し、何とか1984(昭和59)年の初夏、
軌道に乗せたが運営上に課題を残していた。
こうした中で、夏季休暇を迎えていた・・。
私は前日に月末の定期処理を終らせようとしていたが、ハードディスクの容量不足を避ける為に、
やむなく磁気テープで置き換えて処理をしていたが、
夜の8時でも終らないのである。
この当時のハードディスク装置は、中小業からすれば甚(はなは)だ高価で、
程ほど増設して貰ったが、これ以上は見送ったりしていた時であった。
この後、私はビルの外壁の非常階段の踊り場で煙草を喫ったりしていた。
六本木のこのビルの8階からは、防衛庁(現在はミッドタウン)の灯りは暗くなり、非常灯が光を帯び、
彼方の明治神宮球場で花火が盛大に揚げられ、夜空を彩っていたので、私は苦笑した。
結果として、深夜の3時過ぎに私は退社し、タクシーで帰宅した。
そして、夏季休暇も半分程しか取れなかったので、
近場の熱海の外れにある赤根崎のリゾート・ホテルに2泊3日で予約していた。
そして数時間ばかり寝て起きたのであるが、
徹夜になったり、深夜まで・・連日の過酷な勤務時間が続いたいたので、
朦朧としていた。
そして10時過ぎに、私たち夫婦は自宅を出て、新宿駅に行った。
この後、寿司屋でビールを呑みながら、寿司を頂き、昼食代わりとし、
新宿駅より小田原駅まで特急のロマンスカーで乗り、
JRの小田原駅から下田行きの『踊り子』に乗り、熱海駅で下車した後、
宿泊地の赤根崎リゾートホテルにタクシーで向った。
この当時の赤根崎リゾートホテルとは、現代はリゾートマンションに大きく変貌したが、
外観は余り変らないと思われる。
この当時は、ホテルの建物の前にゆったりとした庭園があり、
その先は海上を一望できる景観が良い処であった。
そして利用される方は、家族連れで来て、主人は付近のゴルフ場でプレーをし、
若き奥様たちは、幼い子供に海辺の児童プールと海辺を楽しんだり、
若き男女はホテルに隣接したプールでゆっくりと過ごせる方が多いかしら、と私は感じたりした。
そしてロビーなども広く、レストランも数々あり、
食事をしながら、ゆったりと海上の景観も良く、
私たち夫婦はビールを呑みながら、イタリアンとかフランス料理を頂いたりした。
こうした間の2日目の時、私は休暇前は睡眠不足であったので、よく寝ていた。
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、
支配人から家内が誘われ、私も末席としてお供した。
家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。
結婚して、3年後に家を建てた時、
多額な借入となったが、若さの心の勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。
私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と共に、礼金も重なる暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
そして無知な私でも、この茶室の掛け軸、花入、茶花も簡素で、
素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたのである。
茶室から庭園に出で、家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。
庭園は夏の光を受けていたが、
外れにある松林の中に入ると、海上からの風が吹き、肌には心地よかった。
古人の利休が、花は野にあるように、という明言は私なりに知っていたが、
私はこの時以来、人生信条として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしている。
このように赤根崎に滞在した夏の旅は、私にとっては今でも心の片隅に鮮明に残っている。
こうした思いで話題にしたり、その前に下田の郊外の弓ヶ浜を訪れた話や、
或いは家内の両親と伊豆高原の海岸沿いの遊歩道を歩いた後に伊東の観光ホテルに宿泊した思いで話し、
私は思い重ねるように家内と語り合ったりした・・。
こうした時を過ごしたり、館内の売店で日本酒を買い求めて、
窓辺の近くにある椅子に座り、情景を観ながら吞んだりした。
或いは館内の自動販売機から、ビールを購入して吞んだりし、持参の本を読んだり、
露天風呂が恋しくなり、浴室に向ったりした。
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