私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
私は小学生の時、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。
この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。
このような心情が60年過ぎた私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。
後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。
この『浜辺の歌』の歌は、私は圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の中で、ときおり『浜辺の歌』を唄ったりしている。
私が初めて海を観たのは、小学6年の夏、
独りで江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、呆然としながら長らく見つめたりした。
定年退職した直後、私は肩書きを失くした名刺となり、寂しさもあり、
やむなく里彦からヒントを得て、調布の里っ子、と付記した名刺を持ち歩き、
ときたま恥ずかしげに手渡したりしていた。
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祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
私は小学生の時、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。
この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。
このような心情が60年過ぎた私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。
後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。
この『浜辺の歌』の歌は、私は圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の中で、ときおり『浜辺の歌』を唄ったりしている。
私が初めて海を観たのは、小学6年の夏、
独りで江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、呆然としながら長らく見つめたりした。
定年退職した直後、私は肩書きを失くした名刺となり、寂しさもあり、
やむなく里彦からヒントを得て、調布の里っ子、と付記した名刺を持ち歩き、
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