東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
家内の父が2004(平成16)年の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。
ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。
我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。
こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節(おせち)料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。
過ぎし23日から家内は大掃除で孤軍奮闘し、私は庭の手入れをする程度であり、
その後に年末年始の買物で、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり、お互いに奮戦し、
28日の朝から『お正月飾り』を始めた・・。
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家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、
和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりした。
そして昨日の29日の夕方に家内の母が予定通り来宅され、私達3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴をし、
互いに談笑を重ねたりした。
今朝、私は近くの神社、寺院を訪れ、まもなく到来する新年の初詣の前であったので、
人影もない静寂の中を歩いたした・・。
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
住宅が密集している中、心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。
たまたま本日の午前中、暖かな冬の陽射しが射す中、
霞嶺神社、明照院を訪ねてみょう、と思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。
この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60)年に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26〉年の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。
霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
小高い丘が聳えるようになり、
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
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私は教えられてきた。
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。
先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。
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お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となったりした。
やがて旧家毎の門で停車し、青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。
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今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。
やがて私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
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そして霞嶺神社の石段を下ると、明照院が観えた。
石段を下りて、振り返ると、霞嶺神社と明照院の仲良しの境界となっている。
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明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
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このように何かとお世話になった明照院に別れを告げて、石段を下りた。
この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
何よりもやすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。
この後、自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道を一時間ばかり散策して、帰宅した。
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私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
家内の父が2004(平成16)年の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。
ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。
我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。
こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節(おせち)料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。
過ぎし23日から家内は大掃除で孤軍奮闘し、私は庭の手入れをする程度であり、
その後に年末年始の買物で、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり、お互いに奮戦し、
28日の朝から『お正月飾り』を始めた・・。
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家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、
和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりした。
そして昨日の29日の夕方に家内の母が予定通り来宅され、私達3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴をし、
互いに談笑を重ねたりした。
今朝、私は近くの神社、寺院を訪れ、まもなく到来する新年の初詣の前であったので、
人影もない静寂の中を歩いたした・・。
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
住宅が密集している中、心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。
たまたま本日の午前中、暖かな冬の陽射しが射す中、
霞嶺神社、明照院を訪ねてみょう、と思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。
この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60)年に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26〉年の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。
霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
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小高い丘が聳えるようになり、
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陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
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私は教えられてきた。
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周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。
先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。
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お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となったりした。
やがて旧家毎の門で停車し、青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。
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今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。
やがて私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
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そして霞嶺神社の石段を下ると、明照院が観えた。
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石段を下りて、振り返ると、霞嶺神社と明照院の仲良しの境界となっている。
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明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
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そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
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私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
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この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
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この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
何よりもやすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。
この後、自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道を一時間ばかり散策して、帰宅した。
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