夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

粉雪舞う天人峡温泉《5》【2013.12.5.~12.8.】最終章 初冬の天人峡温泉に別れを告げて

2013-12-10 14:14:36 | 
          最終章 初冬の天人峡温泉に別れを告げて

私たち夫婦は、天人峡温泉の中のひとつの『天人閣』に初めて3泊4日間を滞在し、
8日の早朝の6時過ぎに、大浴場に身をゆだねて身体を温めた後、隣接されている露天風呂に行き、
粉雪舞う情景に見惚れたりしていた・・。

そして早くも旅の最終日となり、今回の旅路は雪の中を一時間半ばかり散策した程度であったが、
館内からも小雪の降りしきる情景を眺めたりした・・。

そして私たち夫婦は、国内旅行が共通趣味のひとつであるが、
何かと雪が舞い降る冬の旅を幾たびも重ねて、ひたすら宿泊地の周辺などを散策したりしてきた。

こうした私の根底には、幼年期の頃からだった、と思い馳せたりして微苦笑をした。
          

私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

こうした中で私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、ときには薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受し、現在に至っている。

このように私たち夫婦は、なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、
冬の時節になると家内を誘って、北に旅をしてしまうことが多いのである。
          

今回のフリープランに参加した私たち一行は、9時50分に集合して、
宿泊した『天人閣』のご厚意で、旭川空港まで送迎バスを出してくれた。
そして館内のスタッフがロビーから各自の旅行スーツケースを運んで下さったり、
私たち一行は、バスに乗り込むたけの気楽さで、私は恐縮したりした。
          
やがてバスは積雪20センタぐらいの忠別川沿いの道を下り、
私たち一行は滞在中の思いでをそれぞれ秘めて、初冬の天人峡に別れを告げた。
          

そして旭川空港の館内で、サンタクロースの飾り、モミの大きな樹のクリスマス・ツリーを私たち夫婦は眺め、
          
まもなくクリスマス、そして年末が近づいてきていることを教示されたりし、
指定された羽田空港行きの航空便を出発ロビーで待機したりした。
                            《終わり》

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粉雪舞う天人峡温泉《4》【2013.12.5.~12.8.】第三章 『天人閣』の館内は我は遊楽の時なり

2013-12-10 07:47:52 | 
          第三章 『天人閣』我は遊楽の時なり

私たち夫婦は、天人峡温泉の中のひとつの『天人閣』に初めて3泊4日間を滞在した。
家内は旅立つ前にネットで『天人閣』検索し、コメントされた方の内容まで調べる習性があり、
部屋が寒い、と悪評価を気にしていた。

しかしながら私たちが指定された部屋は、旅費の直接振り込み金額は格安だったが、
想定していた部屋からは、見晴らしも良く、暖房装置も瞬時に効力があり、
私たちは快適に過ごせたりした。
          
その上、洋風の部屋であったならば、もとよりツイン形式のベットを想定していたが、
3つベットが常設されて折、これだったら好きな所で、寝たり、読書もできる、
と私は微笑んだりした。
          
そして滞在中、窓際にある椅子に座り、本を読んだり、ときには窓越しから観える景観を眺め、
或いは売店で買い求めた地酒の『国士無双』を呑んだりして、家内と談笑したりした。

この地酒の『国士無双』は、以前に北海道を旅をしていた時、『男山』と共に愛飲してきたが、
今回の最初の夕食時に於いて、北海道地酒利き酒セットと称された3種類が、
『大雪の蔵』を含めて可愛らしいガラスのぐい呑みで《呑み比べ》できる企画が実行されていた。

私は65歳まで呑兵衛の児であったので、三杯呑み終えても一合ぐらいで、
微笑みながら呑んだりした。
そして私は何かと自身にも家内、知人にも甘いが、せめて酒は辛口好みであったので、
『国士無双』に瞬時に波長が合い、この滞在している中、煎茶と共に友とした。

そして好きな時に源泉掛け流しの大浴場で湯に心も身もあずけたり、
或いは露天風呂からは小雪が舞う情景を眺めたり、
もとより旅先は非日常の世界でありながらも、至福の時が倍加されて過ごしたりした。
            

館内のロビーも適度な広さで、窓際は川沿いの景観も良く、
私はロビーに設置してある北海道新聞を幾たびか読んだりした。
          
そして片隅には、大雪山の伏流水が飲める常時設置があり、
私は風呂上りの時、愛飲させて頂いたりした。
          
そしてエレベータの近くに可愛い若き女性像があり、
私は微笑みながら、幾たびか見惚(みと)れたりしていた。
          

或いはエレベータに乗ると、壁際に敬愛する大町桂月さんの遺文に、
確かにそうですよねぇ、と教示させられたりした。
          

                                  《つづく》
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