夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『仕事納め』、過ぎし年の私のささやかな想いを馳せたりして・・。

2013-12-27 11:57:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを眺めると、『官公庁の御用納め』と明記されていたので、
多くの民間会社もこれに準拠して『仕事納め』になる、と微笑んだりしたのである。

そして私は、民間の中小業に35年ばかり勤めた体験があったので、
ここ10数年、たえず短期に成果を問われる民間のサラリーマン諸兄諸姉に、
今年も大変な年でしたねぇ、
と働いて下さる諸兄諸姉の健闘に感謝の言葉を心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

この後、ぼんやりと私の現役時代の『仕事納め』のことを思い浮かべたりしたが、
私の心の片隅に残っていることを思い重ねたりたりした・・。
          

私の現役時代の多くの時は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社の本社に勤めていたが、
この当時は、官公庁の御用納めの翌日か当日に年内最後の業務となり、納会をした。

御用納めの該当日に、私は同僚たちと昼食の為に食事処に行った時、
所在地が六本木の四丁目の交差点に近い場所だったので、
この当時は近くに防衛庁(現在は『東京ミッドタウン』)があり、
この方たちが少し赤い顔して、テープルを一角を占領していた。

『官公庁はいいよなぁ・・午前中で終りかょ・・』
と同僚のひとりが呟(つぶや)いたりして、私たちは苦笑したりしていた。

会社の年内の最終日は、夜の6時に業務完了時なると、
本社で1番大きな会議室で立食のパーティ形式となった・・。
          

私が若き27歳の頃は、勤めていた会社がヒット曲に恵まれた『仕事納め』の時は、
やはり大きな会議室で本社一同の社員が結集する中、
総務部の依頼で、餅つきの関係の業者が来社され、『餅つき』大会が開催され、
邦楽の責任者が、杵(きね)を掲げて、そして臼(うす)の蒸されたもち米を搗(つ)いたり、
その後、若手の有志の邦楽の担当者たちが、
杵(きね)を持ち上げて臼(うす)の中のもち米を搗(つ)いたりした。

そして私たちは、日本酒、ビールを呑みながら、それぞれに拍手喝采をしたり、
お互いに健闘を讃えながら高揚感が増して、幸福なひとときを共有したりしていた。

こうした時の私は、日頃に業務に接する人達とは、
歓送迎会、居酒屋での『呑みニケーション』をしているので、
このグループは避けて、他部門の方達と話し合ったりした。
          
或いはヒット曲に恵まれない年の『仕事納め』の時は、
早々と立食のパーティを終わり、『来年は頑張ろうねぇ・・』とお互い言い合ったりして、
この後、有志50名ぐらい最寄りの居酒屋で二次会、
その後は勇士20名前後て洋風の居酒屋で三次会を開催し、
遠方のお住まいの方もいるので、終電の一時間前に散会したりした。
          

こうした中で、1983年(昭和58年)の時は、私は情報畑で社内のシステム開発に悪戦苦闘し、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘していた年であった・・。

そして土曜日の休日に会社に独り出勤し、
システム開発・運営までのスケジュール概要の進度状況をチエックしていたりしていた。

ある日、気分転換にひとつとして、自席から離れて会議室に移動して、
前方の首都高速道路で、渋谷から赤坂方面に走り数多くの車を視たり、
遠い彼方に東京タワーを眺めたりしていた。
やがて会議室の片面のステレオケットの横に置いてあったレコートの見本盤をセットし、
自動販売機のコーヒーを飲みながら、聴いたりしていた・・。

そして演歌のような要素を秘めブルースの基調が流れ、
ハスキーな歌声で圧倒的な歌唱力で唄い上げた歌に、私の心は叩きのめされたように、
心の中で膨張するように占領され、世にいわれている鳥肌がたった・・。

そして曲が終ると、ジャケットを見て、内藤やす子の『悲しい色やね』であった。
          
この当時、この歌手に一昨年に他社から移籍し、程ほどのヒットを私が勤めていた会社から4枚ぐらいだして、
この見本盤のアルバムは『I Miss You~愛のつづれ織り~』と題され、 
この当時としは、世の中でヒットされた原曲を編成され、カバーした稀なカバー・アルバムであり、
この中のひとつ歌が上田正樹さんの原曲の『悲しい色やね』(1982年)であった。

たまたま偶然に聴き、瞬時に圧倒的に惚れた私は、この後、私はこのアルバムを買い求め、
自宅で何百回もこの曲を聴きながら、心身励まされたりした。
そして、この曲を私は、人に会うたびに絶賛し、
『XXさんが・・ブルースが好きだったとは知らなかったょ』
と洋楽の編成の方に言われたりしていた。
          
やがて1984年(昭和59年)の半ば、新システムは何とか軌道にのり、
この年の暮れの『仕事納め』の社員の立食のパーティを行っている時、
たまたま内藤やす子さんがマネジャーに付き添われて、参列された。

そして偶然に 内藤やす子さんが私に近づいてきたので、
平素は何かと奥手の癖に、ときおり悪目立ちがり屋の私は、
『貴女の・・『悲しい色やね』に励まされて・・私のシステム開発が・・何とか軌道にのりました・・』
と私はビールを呑みながら、内藤やす子さんに言ったりした。

『嬉しいわ・・』
と内藤やす子さんは驚いた表情を浮かべた後、
周囲の社員の方達に大声で、
『この方が、あたしの『悲しい色やね』のお陰で・・担当されているお仕事・・
上手(うま)く行ったですって・・』
と言ったのであった・・。

この直後、傍にいたマネジャーは、私に握手を求めてきた。

そして、内藤やす子さんも私に握手を求めてきて、
あたり一帯、先輩、同僚、後輩達の拍手で盛り上がった・・。

私は少し高揚しながら恥ずかしげに、内藤やす子さんの手を握った・・。
          
このようなささやかな『仕事納め』の時を思いだしながら、
あの時はあんなことがあったよねぇ、と私は微苦笑を重ねたりしている。

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