夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

加藤登紀子さんの『知床旅情』の名曲誕生の背景、改めて私は学び、やがて黙祷をして・・。

2022-04-29 16:02:26 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
過ぎし23日、北海道・知床半島沖で観光遊覧船が浸水し、
やがて26人が死亡・行方不明になった事故、テレビのニュースで知り、
動顛してしまった・・。

私は年金生活の中で、2度ばかり、知床半島の観光クルーズ船に乗船した体験もあり、
たまたま私は、現役サラリーマン時代はレコード会社に勤めていたこともあり、
知人とか書物などで、加藤登紀子さんの『知床旅情』の名曲誕生の背景を知ったりしてきたが、
今回、改めて学びたく、記事を精読してしまった・・。

この記事は、【 日刊ゲンダイデジタル 】に於いて、4月28日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。



《・・「水温は2℃か3℃、ほんとにどんなに冷たかったでしょう」
加藤登紀子(78歳)は、知床での観光船遭難事故について
「亡くなった方へご冥福を」とSNSで取り上げ、こんな思いをつづった。

知床半島は、オホーツク海の南端に突出し、厳しい自然環境で知られる。

 
■「事故の正しい解明が必要です」


「でも海から見る知床半島は、本当に素晴らしくて、
この観光プランが、この事故の後、
中止されてしまうようなことにならないように、と願っています。

そのためにも、事故の正しい解明が必要です。
知床の皆さん、頑張って下さい。遠くから見守っています」


加藤登紀子の歌う「知床旅情」は、1970年に発売され、
約140万枚もの大ヒットとなった名曲。

今で言うご当地ソングで、知床の知名度を全国区に押し上げた。

構成作家のチャッピー加藤氏が言う。

「もともとは、今は亡き森繁久弥さんが、
戸川幸夫さんの小説『オホーツク老人』に感銘を受け、
知床を舞台にした映画『地の涯に生きるもの』(1960年公開)製作を決め、
その撮影で当地ロケに参加した時に、作詞、作曲したものでした。

当時の知床周辺は、現在のように道路も整備されていなかったので、
まさに“地の涯”とも言うべき秘境だったそうです」


名曲誕生の背景には、こんな秘話も。
「撮影の前年、天候急変によって漁船が、羅臼沖で沈み、
89人もの犠牲者が出る海難事故があったのです。

その事故も、森繁さんが森繁プロダクションの第1作として、
この映画をつくる大きな動機になったのだとか。

実は映画には、事故も織り込まれていて、
森繁さん演じる老人は、息子が事故の犠牲になり、泣き叫ぶシーンがあるのです」
(チャッピー加藤氏)


エキストラとして、当地の人たち200人ほども出演。
中には本当の遭難者の遺族も多数いて、撮影が終わっても、泣き声がやまなかったという。

長期ロケだったこともあって、撮影隊も地元の人も、いつしか家族同然に。
やがてロケが終わり羅臼町を発つ際、
森繁は滞在していた旅館の前に張り紙し、ギターを片手に語りだした。

張りだした紙には「知床旅情」の原曲となる「さらばラウスよ」という曲の歌詞。


「森繁さんは、町民たちに口伝えで、一節ずつ歌唱指導し、
最後に大合唱して別れたそうです。

曲は『オホーツクの舟歌』というタイトルで映画主題歌となり、1962年の紅白でも披露。
『知床旅情』として広まっていきました。

加藤登紀子さんは、学生運動のころ、
のちに夫となる藤本敏夫さんとの初デートで、この曲を耳にします。

別れの際に、藤本さんが歌ってくれたのだとか。
めぐりめぐって、歌い継がれているんですね」(チャッピー加藤氏)


自然の雄大さと猛威の前に人間は無力である。・・》


今回、加藤登紀子さんの『知床旅情』の名曲誕生の背景、
私は若き20代の前半、映画青年の真似事をしていた時に、
今回の森繁久彌さんに関する事を学び、感銘させられたりしてきた・・。

やがて加藤登紀子さんの『知床旅情』の歌に際して、
もとより事前に森繁久彌さんの快諾を得て、レコードの録音ができた、
と知人から私は教えられてきた。

そして、記事を読みながら改めて私は学び、多々教示されたりした。

やがて無力な私は、今回の事故で、亡くなわれた多くの御方に、
ご冥福をお祈りします・・と心の中で呟(つぶや)き、そして黙祷をしたりした・・。



私が知床半島の観光クルーズ船に、初めて乗船したのは、
定年退職した翌年の2005年5月下旬、ある大手の旅行会社が企画した、
《・・知床のオホーツク海を観光船で三時間半ばかり、早朝の洋上から太陽が昇る・・》、
こうしたフレーズに惹かれて、団体観光周遊の3泊4日に私たち夫婦は参加した。

・・(略)・・層雲峡に向かう道路は、石狩川の流れに沿うようにあった。
芽吹きの終り、黄緑の葉を拡げ始めた落葉樹を里山を彩り、
中には芽吹きはじめた樹木もところどころにあり、
道路沿いに蕗(ふき)と雪解けの流れの処にときたま水芭蕉が散見できた。


   第四章  山桜と辛夷(こぶし)の中を・・。

層雲峡のホテルに泊まり、早朝、水の流れる音で目覚めた・・。

ホテルの窓から前方に、石狩川の雪解けの水量が豊かで、急速に流れていた。

層雲峡から石北峠に差し掛かると、
雪が残っていて、冬は雪深い処だ、と教えてくれた。

峠道を越えると、あたり一面風景が変わった。
道の路肩から切通しの丘は、芽吹き始めた淡い黄色の葉の落葉樹の中で、
辛夷の白い花と山桜が咲いていた。

遅い春が一気に陽射しを受けて咲いているのを観ると、私は慰めを頂いたように心が昂ぶった・・。

網走を抜け、芝桜の名所を観た後、知床半島の付け根にあるウトロ温泉に泊まる。

明日の早朝クルーズは、3時に出航するので、
2時30分にホテルのロビーに集合、とのことで我々観光団体は、
お互い苦笑し、顔を見詰めて、頑張りましょう、と目線を交し合った。

部屋の窓辺より夕陽が差し込んで、ホテルの庭園越しに知床の森林を見詰めた。
落葉樹は所々にやっと芽吹き始めていた。
淡い黄色の若葉を眺めながら、売店で買い求めた地酒を呑み始めた・・。

箱には、『超辛口 知床熊ころり』と書いてあった。
その横に、知床の原生林の美しい緑の香りと大自然の清冽な伏流水を仕込水として醸した気品のある
キリッとした北海道らしい美味しいお酒です、と綴られていた。

淡麗吟醸というお酒が数多くあるが、私には殆んどあわない。
純米酒の辛口を日頃飲んでいるせいか、上品過ぎて個性がなく、しっくりしなかったためである。

この熊ころりは、一杯口に寄せて、含んだが、私なり合格点だった。

家内がお風呂に行っていて、こうして陽だまりの中、知床の樹林を眺め、至福の一時を過せた。

家内が戻り、この熊ころりを勧めた。
ぐい呑みを手渡すと、
『ピリッと辛いですけど、奥行きがあるようですね・・』と言った。

私はお酒の味が解ってきた家内に満足した。

いずれにしろ、明日は早朝からのクルーズがあるので、夕食前の呑みすぎはやめる事にした。



   第五章  知床半島、早朝クルーズ・・。

5月29日(日)、早朝3時ウトロ港を出航する為に、
宿泊先の『知床プリンスホテル風なみ季』のロビーに2時30分に集合した。

船内に入ると、暗い防波堤の横にある小道を
船員と現地のネイチャー・ガイドに案内されて、続々と人影の歩く姿が見えた。
私共と同様に、300名前後の人々が船内に入ってくる。

この観光船『おーろら』は、4月の下旬より10月下旬まで、
知床半島のオホーツク海を日中に於いて定期観光として運航している。
冬季は、網走で流氷観光砕氷船として運航している。

私共が乗るのは、特別企画として、洋上で太陽が昇るサンライズ・クルーズである。

薄暗いオホーツク海は、船上のサンデッキに立っていると、
寒く風が強く、髪の毛をなびかせた。
女性のロングヘアーの方も、防寒着で身を固め、髪をなびかせていた・・。

対岸の知床半島の薄明るくなった沿岸を見つめた。
切り立った断崖とつづら折りに続いている奇岩が見えた。
そして、ところどころ山なみの雪解け水をたたえた滝が勢いよく水量を海に落としていた。

山頂の山なみは、万年雪をいだいた羅臼岳、硫黄岳と続き、空には月が残っていた。

明るくなった時、岬に近い知床岳のはずれの低いところから、日の出の光線が見えた。
洋上の寒さの中で、陽光に暖かさを感じるのは、一面厳粛な思いである。

しばらくすると、早朝の陽の中を、知床半島の先端の知床岬を観光船は、ゆったりと回航した。

そして加藤登紀子の『知床旅情』が船内から流れてきた。

 ♪知床の岬に はまなすの咲くころ
    思い出しておくれ 俺たちの事を
  飲んで騒いで 丘にのぼれば
    はるかクナシリに 白夜は明ける

日常にこの歌を聴いているが、こうした現地のはずれで聴く歌は、胸が熱くなる・・。

洋上から万年雪をいだいた知床岳がそびえており、陽の下で山なみの容姿が見えて、
厳粛な思いにしたった。

こうして3時間45分の早朝クルーズは終った。 (略)

このように17年前の初めての知床観光クリーズに関して、記載していた。




私が定年退職時の直前に家内の父は病死され、独り住まいの家内の母を私たち夫婦は誘い、
たびたび3人で温泉滞在旅行に行ったりしていた時であった・・。

こうした中で、家内の母が、家内に
『元気なうちに・・北海道に行って見たいわ・・』
の一言で今回の旅行となった。

こうした中、家内の母は76歳の高齢者の身であり、初めて飛行機に乗るので果たして・・
と思ったりしている。

そして家内の母の要望を聞いたりして、我が家の最寄の旅行会社に依頼して、
私達3人は、2006年の10月中旬、
7泊8日で道央、道東を周遊したコースを遊学した・・。

(略)
     第4章  『知床~それは命の営み』

夜明け前の3時過ぎに目覚め、
ウトロ漁港とその前方に拡がるオホーツク海を観た・・。

標題を掲げたのは、斜里町商工観光課が命題した『知床~世界遺産~』の豪華な小誌の中から、
拝借した言葉である。

宿泊しているホテルの館内で頂いたものである。

私は知床に関しては、殆ど無知である。

斜里町から海岸沿いの国道をウトロに向かうと、
玄関代わりのオシンコシンの滝が迎えてくれる。
ウトロには秋、冬、春に来ているが、私の心の想いは流氷の時節が深く残っている。

・・

家内達は漁港周辺を散策するので、
私は『知床自然センター』の周辺を散策することにした。

この館内の映像展示館で『知床の四季』を観た。
解説に寄れば、映像を超えたダイナビジョンが誘う、大自然の世界、と綴られていたが、
まさに遂力のある映像から知床の大半が集約されている名画、
と感動を受けたりした。

その後、『乙女の涙』と称される海岸の滝までの遊歩道を散策した。
樹林の中のゆるやかな坂道を下ると、あたり一面平地となり遥か彼方に知床の連山が観られる一帯であった。

のどかな晴れ間の中、こうした光景の中で散策ができるのは、贅沢のひとつと感じたりした。

帰路、ウトロの街中で、ホッケを遅い昼食代わりにした。
このホッケは、私の好きな魚のひとつであるが、
都心で頂くのは小ぶりが多い。

私の友人の一人に小樽出身がいるが、
都心の居酒屋で、この小ぶりのホッケを私が食べていたら、
こんなのホッケじゃない、
と言われたりしたこともある。

私は本物のホッケをクラシック・ビールでほめ、
友人の顔を思い浮かべたりした。

ホテルの敷地の一角に足湯があったので、部屋に戻ると、浴衣に着替え、
足湯にのんびり浸かっていると、
こんな贅沢な昼下がりのひとときを過ごしてもよいかしら、
と思ったりした。

まもなく家内達が散策から戻る姿を見かけた。



   第5章  されど、知床観光航路

20日(金)は知床の硫黄山航路コースの観光船に乗船後、知床峠を通り、ウラス、標津、摩周湖、硫黄山、
そして阿寒湖までのJALライナーのバス観光周遊の移動の旅である。

前日の朝、港から沖まで晴れ渡って折、
家内達に、明日のお天気は悪いから今日の日中に観光船に乗った方が良い、と私は言い、
私は『知床自然センター』に出かけた。

『乙女の涙』までの散策の途中で、道連れになった人達と話している時、
観光船が風と波で欠航になった、と教えて貰った。

この人達は、九州の方達で、団体観光のグループで、道東観光めぐりをしている一部の人であった。

『こんなに・・良いお天気なのに・・欠航とは・・
何のために・・この道東めぐりに参加したか・・意味がないわ・・』
と50代のご婦人が私に言ったりしていた。

『そうですよね・・観光船の方達に・・こんな良いお天気・・
何時・・周航するの・・言ってみたいですね・・』
と私は軽口を言った。

この観光船は、これだけ魅了させる景観を秘めている。

私達夫婦は、昨年の5月、知床岬まで早朝クルーズがある団体観光周遊に参加したことがある。



20日の朝は、どりよりとした曇り空であった。
昨日のお天気を配慮すると、欠航かしら、と思いながら、朝の7時過ぎにフロントに問い合わせた。

『おかあさん・・こんな天気でも・・観光船に乗れるって・・』
と私は家内の母に言った。

そして家内は
『良かったわ・・おかあさん・・雨女・・返上よ』
と言ったりした。

家内達は動物好きなのであるが、
ここ数年に動物園などに行ったりすると、雨まじりのお天気が多かったのである。

私からしてみれば、家内の母は初めて北海道の思い出に観光船は欠かせないひとつであるので、
何とかと思いが叶えたらという気持ちであった。

硫黄山航路コースの乗船後、どんよりとした曇り空で、ときおり小雨が降ったりした。
オホーツクの波の打ち寄せる海岸の景観は、飽きることのない光景であった。

家内の母の微笑んだ顔立ちを見ると、この旅行は良い思い出になると私は感じ、
安堵したりした。 (略)



このような知床半島の観光クルーズ船に乗船してきたので、
今回の悲惨な事故に、無力な私としては、ただ北の空に向かい、黙祷している。

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