☆--------------------------------------☆
おことわり
私は一昨年の2010年1月10日に於いて、上記の文をこのサイトに投稿したが、
昨今、殆ど毎日のように数10の方たちにお読み頂くことがあるので、
古き投稿文に対して少し驚きながら悦んでいる。
異例であるが、今回は再掲載し、改めて多くのお方にお読み頂きたく、あえて再掲載をする。
再掲載に伴い、少しの訂正、大幅に加筆をした。
☆--------------------------------------☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。
作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)の書評文であった。
無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。
《・・
「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。
古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。
ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。
ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。
日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。
しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。
誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆【みすず書房 公式ホームページ】<== 荒川洋治・著作 『文学の門』 ☆
齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)の両氏であった。
この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
水上勉(みなかみ・つとむ)、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)、
城山三郎(しろやま・さぶろう)、松本清張(まつもと・せいちょう)、山口瞳(やまぐち・ひとみ)、
向田邦子(むこうだ・くにこ)、宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)、倉本聡(くらもと・そう)、
浅田次郎(あさだ・じろう)の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが特に多かった。
そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生(しおの・ななお)、佐野真一(さの・しんいち)、藤原正彦(ふじわら・まさひこ)、
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)、曽野綾子(その・あやこ)、各氏の作品に深く魅了され、精読している。
このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。
定年後の今でも言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。
私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を重ね、
旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。
もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などと違い、編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。
私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多い。
文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力を頼りに、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。
こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。
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おことわり
私は一昨年の2010年1月10日に於いて、上記の文をこのサイトに投稿したが、
昨今、殆ど毎日のように数10の方たちにお読み頂くことがあるので、
古き投稿文に対して少し驚きながら悦んでいる。
異例であるが、今回は再掲載し、改めて多くのお方にお読み頂きたく、あえて再掲載をする。
再掲載に伴い、少しの訂正、大幅に加筆をした。
☆--------------------------------------☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。
作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)の書評文であった。
無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。
《・・
「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。
古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。
ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。
ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。
日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。
しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。
誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆【みすず書房 公式ホームページ】<== 荒川洋治・著作 『文学の門』 ☆
齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)の両氏であった。
この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
水上勉(みなかみ・つとむ)、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)、
城山三郎(しろやま・さぶろう)、松本清張(まつもと・せいちょう)、山口瞳(やまぐち・ひとみ)、
向田邦子(むこうだ・くにこ)、宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)、倉本聡(くらもと・そう)、
浅田次郎(あさだ・じろう)の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが特に多かった。
そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生(しおの・ななお)、佐野真一(さの・しんいち)、藤原正彦(ふじわら・まさひこ)、
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)、曽野綾子(その・あやこ)、各氏の作品に深く魅了され、精読している。
このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。
定年後の今でも言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。
私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を重ね、
旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。
もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などと違い、編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。
私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多い。
文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力を頼りに、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。
こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。
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作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』再掲して頂き有難いです。
「日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。」
たしかにそうですね!
私も言葉を軽々に使ってしまうことが多々あります。
もう少し吟味しなければいけないと反省しました。