夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『父の日』を迎えたが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、寂しい日となり・・。

2012-06-17 13:00:08 | 定年後の思い
今朝、ぼんやりとカレンダーを眺めたりすると、『父の日』と明記され、
齢ばかり重ねた67歳の私は、微苦笑したりした。

私の父は、私の小学2年の時の1953〈昭和28〉年の春に病死され、
家内の父は、私のサラリーマン定年退職の直前の2004〈平成16〉年の秋に他界された上、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、もとより孫もいなく、
私の家族は、『父の日』に無縁となっている。


私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。


そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか民間会社に中途入社できたのは1970(昭和45)年の春であった。
その後、新設されたレコード会社に移籍の辞令を受けて、
まもなく私は本社のコンピュータ専任音として、音楽業界のあるレコード会社で奮闘していた。

私は音楽業界、そしてコンピュータ業界、専門知識も加味されていたので、
時代の先端の風の中にいる、とこの当時は大いに勘違いしして高揚しながら、ときおり女性との交際もしていた。
幾たびか恋愛を重ねたりし、失恋の方が多かったのは、無念ながら事実であった。

こうした状況を見ていた母から、
『あなた交際するのは良いけれど・・素人のお嬢さんには最後の責任がありますからねぇ』
と私の言動に釘(くぎ)を差されたりしていた。

この当時の風潮として女性と最後の一線を越えたならば、
もとより男性は責任の基で結婚する、という暗黙の社会であった。

このような風潮を鈍(にぶ)い私でも感じ取り、血気盛んな私は風俗店にも行ったりして、
性欲を発散したりしていた。


私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、やがて翌年の1976(昭和51)年の春に結婚した。

千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を始めた。
私はこの当時システム改定などで多忙で孤軍奮闘したりしていたが、
家内は中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。

こうした中で、愛(いと)しき新妻に私は毎晩のように性愛を重ねて、
仲良し恋しを深めたりしていた。

そして少し狭い2DK賃貸マンションであったので、
子供ができて、這(は)いずりまわった時は狭いなぁ、
と私は思いながら、マンションか一戸建てを考えなければ、と次期の住まいを私たち夫婦は検討した。

結果的には、私の生家の近くの空き地に一戸建てを構えたのは1978(昭和53)年の春であった。
そして子供部屋の2室も設計に配慮したりし、
私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりし、多額な住宅ローンとなったりした。


こうした一年が過ぎた頃、父の妹のひとりの叔母が体調を崩して入院していたので、
私の幼年期に何かと私の面倒をみてくれたりしていたので、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた。
私は叔母にお見舞いの言葉を述べたりした後、
『あなたたち・・結婚して4年目なのに・・子供に恵まれないの・・
XXX(私の名前)は5歳の時・・「おたふく」になったせいかしら・・』
と叔母は私に言った。

私は帰宅する時、確か3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。

しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。

私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された後、
この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもやく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。


このようなこと後年に私は教えられたことを思い浮かべたりしたが、
5歳の頃の『おたふく風邪』などは、この当時は生死にかかわらくなかったせいか、
私は母、小母たちからも教えてもらった記憶がないのである。

この後、私は医学の本で《睾丸などに生殖機能に後遺症が残る》と学び、
私は恥ずかしいので、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
そして診断の結果としては、精液の全般は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。

昨今、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
ここ10数年、少子高齢化が社会の難題となり、
私は社会に対して、子供をさずかり、子供を育てる重責の一面を果たしていないことを思い浮かべ、、
ときおり後ろめたさを感じたりする時もある。

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小雨降る情景を眺めたりすると、ときには『傘かしげ』のささやかな思い馳せて・・。

2012-06-16 07:58:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む身であるが、
今朝どんよりとした曇り空で迎え、小庭の淡き緑色、或いは深緑色に染められた樹木を眺めたりしていた。
7時過ぎに、たわわな葉に雨脚の音を聴こえると、小雨が降りだしてきた・・。

私は小雨を眺めながら、日中は雨降る一日になるのかしら、
とぼんやりと見つめたりした。

私は雨が降ると、少し長め傘を持ち、大きく広げて差したりしている。
雨降りしきる中、少し風が吹いても、自身の身体はもとより、
手持ちのバックなどが濡れるのが嫌いで、少し重いが長めの傘を愛用している。


2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
年に数回、友人と懇親会と称して、都心の居酒屋に行ったりしているが、
6年前の晩秋の夜の6時過ぎ、たまたま雨が降っていて、都心の込み合ったビル街の歩道を歩いたりした。

前方から三人の若い女性が、やはり傘を差し、道幅いっぱいのように思えたので、
私は右側に寄り、傘を傾(かし)げながらすれ違ったのであるが、
若き女性のひとりが悠然と傘を立てながら、私とすれ違ったので、
私の左側が少し雨粒で濡れたりした・・。


4年前の梅雨の時節、昼下りの雨降る中、住宅街の脇道を歩いていたら、
前方から70歳前後のご婦人が傘を差しながら歩いてきたので、
私は、傘を傾げて立ち止まった。

そして、ご婦人は私とすれ違う少し前に、傘を傾けて、
私とすれ違う時、
『ありがとう・・ございました・・助かりますわ・・』
と会釈しながら、私に言った。


私の現役サラリーマンの時代、確か私が45歳の頃であったので、
20数年前の梅雨の季節だった・・。

私は六本木に所在している会社を退社した後、
自宅の最寄駅の『成城学園前』のタクシー乗り場に並び、
夜の11時過ぎ、雨の降る中、傘を差した・・。

私の前に20人ぐらい並んでいて、1番後方だった。
しばらくすると、私の後方に5、6人の人影を感じた。
私は左手にアタシュ・ケースを提げて、
スーツのズホンが濡れないように、傘を深く差していた。

後方から、
『おじさま・・かしら?・・』
と声がした。

私は振り返ると、若い女性のツーピース姿を見た。
『XXちゃんか・・しばらく・・』
と私は言った。

遠い親戚の娘さんだった。

私はこの娘を私の立っている場所の前に譲り、
『ずいぶん・・遅いんだね・・』
と私は言った。

そして雨のしずくが水色のツーピースに掛からない程度に、傘かしげにした後、少し間隔を開けた・・。

『おじさま・・知らなかった・・
私、今年から銀行にお勤め・・』
とこの娘は私に言った。

『大学に行ったのは聞いていたけど・・
そう・・社会人の一年生か・・何かと大変でしょう・・』
と私は言った。

『思ったより楽しいけれど・・勤務時間が長くて・・
今日もこんな時間になって・・』
と微苦笑しながら、私に言った。

『おじさんの所もね・・金融関係と違うけれど・・
何かと忙しいょ・・』
と私は言った。

雨がしきりに降っていた。

まもなく並びの列の先頭となり、
タクシーにこの娘が乗り込む寸前、
『おじさま・・お先に・・ありがとう・・』
と笑顔を浮かべながら私に言った。

私は走り去るタクシーの尾灯を見送った。


このような傘かしげのささやかな思いが、三つばかり思いだされ、
小雨降る情景を眺めたりした。

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元オウムの高橋克也容疑者は、この3日より『人間狩り』だった、と不謹慎ながら思い・・。

2012-06-15 15:00:41 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
いつものように午前中のひととき買物を終えて帰宅した時、
1995(平成7)年3月に起きた地下鉄サリン事件で、
殺人と殺人未遂容疑で特別手配されていたオウム真理教の高橋克也容疑者(54歳)が、
本日の11時過ぎに逮捕された、とテレビのニュースで報じられ、私は安堵した。

もとより1995(平成7)年3月に起きた地下鉄サリン事件は、
地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、
乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。

日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であると共に、
1994(平成6)年に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、
大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、
全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた、と報じられた。

私はこの当時、民間会社に勤めていたが、たまたま同僚のひとりが地下鉄に同乗して、
サリンに被災し、病院に入院した後、まもなく私は同僚から状況を聞き、
多くの国民が平穏な日常生活を過ごす中、卑劣きわる悪質な無差別テロに怒り心頭した。

こうした心情の私であるが、今月3日には元オウムの菊地直子容疑者(40歳)が殺人容疑などで逮捕された後、
残りの高橋容疑者は、一連のオウム事件で、最後の特別手配として、
警察は公開捜査をしながら、ローラー作戦で多くの警察官などを動員した上、
そしてマスコミ、国民などに逐次、状況を公開してきた・・。

私もニュースを視聴しながら、どこに潜伏しているの、と思ったりしながら、
不謹慎ながら高橋克也容疑者は、『人間狩り』のような対象者になった、
と感じたりした・・。

戦国時代に於いて、戦いに敗れた後、敗走の身となりながら、
勝者の軍勢に追われながら、賞金のご褒美をもらえる多くの兵士、地域の住民から追われ、
たえず独り身で潜伏しながら逃げ惑う・・
このような『人間狩り』を高橋容疑者に対して思い重ねてしまったのである。

高橋容疑者は逃亡して17年、そして特に菊地直子容疑者が逮捕された3日より、
今回の逮捕されるまでの13日間は、まぎれない『人間狩り』であった、
と私は不謹慎ながら思ったりした。

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『強盗致傷被告懲役30年判決』を知り、余りにも軽すぎる判決に茫然として・・。

2012-06-14 14:49:18 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、
35ページの【地域】面の中央部分に小さく掲載され、ひとつの記事に茫然とした。

無断であるが転記させて頂く。
《・・
新宿や豊島区で昨年8月~9月、4人の女性に乱暴し、重傷を負わせたなどとして、
強姦致傷罪などに問われていた会社員・加藤恒平(33歳)の裁判員裁判で、
東京地裁は13日、求刑通り懲役30年の判決を言い渡した。

伊藤雅人・裁判長は「粘着テープを用意するなど計画的な犯行で、
被害者の痛みも正しく理解していない。
有期刑の上限で処罰するのはやむえない」と述べた。
(略)
・・》

私はこの犯行を初めて知ったのであるが、犯行された当人は粘着テープなどを用意した上で、
2か月の間に4人の女性に乱暴し、重傷を負わせた罪、と理解した。

そして民法か刑法か分からない私であるが、こうした犯行は《有期刑の上限》30年と知り、
余りに軽すぎる判決、と茫然とした。

私は法律にも疎(うと)い身であり、もとよりは日本は法治国家であるが、
少なくともここ10数年の悪質犯行、そして判決をテレビのニュース、新聞記事などで知るたびに、
私は犯行した人に対して、温情主義の国民性なのか、
余りにも軽い判決に私は驚き、同じような犯行の防止策にはならない、と私は憂(うれ)いている。

今回の卑劣で悪質な犯行は、もとより被害を受けられた当人のふみにじられた無念さ、
そして被害を受けられた当人、ご家族の心のつらさ、いつまでも蘇る心の重さなどの心情を想像すれば、
私は、死刑に処するべき、と瞬時に思ったりした。

この後、単細胞の私は感情まま判断するは私の欠点なので、
冷静になった後、少し理性的に考えたりした・・。

たとえば、古きイスラムの世界では、万引き、盗難などをした場合、
利き腕を切り落とす、と何かの本で読んでいたので、私はひとつの提案を思い浮かべたのである・・。

昨今の悪質な性犯罪者に対して、前提として裁判の前の警察の取り調べの時、
オチンチンをベンチかバーベルかで挟んで、処罰する。
少なくともこのくらいをしなければ、改心しないであろう・・。

しかしなから人権に何かと敏感な国民の多くは容認しないだろう、と私は思ったりした。


そして人は誰しも誤りがあると考えたりし、
仏教の世界には歴然と『慈悲』の心があり、キリスト教の世界には『許し』があるので、
単に死刑に処する提案より、恩赦なしの無期懲役が妥当と私は確信を深めたりした。

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この梅雨の時節、天上の気候の神々はどのように采配されるの、と私は空を見上げたり・・。

2012-06-13 14:38:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

このような生活をしたりしていると、特にこの梅雨の時節は、何かと天気情報が気になり、
朝のひとときNHKのテレビのニュースの後の天気情報に注視しながら視聴したりしている。

古来より、梅雨の時節は、雨の降ることの少ない『空(から)梅雨』、
ジメジメと小雨が降りしきる『陰性梅雨』、或いは極端に大雨が降り、後は快晴が多い『陽性梅雨』があるが、
文明が躍動するように発達してきたここ百年でも、天上の気候の神々の采配にゆだねられている・・。


私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅み地域は、
平年6月10日前後に『梅雨入り』となり、学童たちが夏休みに入る直前の7月20日前後に、
『梅雨明け』となるのが、平年の習わしとなっている。

今年は9日の土曜日に『梅雨入り』になり、雨の降りしきる一日となり、
朝の6時は17度、昼下がりに18度、夕方の6時は18度となり、
ほぼ横並びの気温となり、少し寒いじゃないの、と感じたりした。

前日の8日の金曜日は、初夏のような陽気の27度の中、半袖シャツで買物、散策もしたりしたので、
結果的には梅雨の前の晴れ間の一日であった。

10日の日曜日は朝の6時は17度、昼下がりは26度、夕暮れの6時は22度となり、
晴れ時々曇りとなり、夜の7時過ぎに小雨が降ったりした。

11日の月曜日は朝の6時は17度、昼下がりは23度、夕方の6時は21度で、
曇りの一日となったりした。

そして昨日の12日は、朝の6時は16度、昼下がり17度、夕方の6時は17度となり、
4月中旬のような気温の一日となり、どんよりとした曇り空から昼前から小雨が降りしきる日となった。
私は夏の半袖スポーツシャツ、長ズボンから、スリーシーズンの長袖スポーツシャツ、長ズボンに着替えて、
どうしてなのょ、と空を見上げたりした。


このような梅雨の始まりの中、私は買物をしたりすると、
多くの品を購入する時、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
我が家は自動車もないので、買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりするので、
何かと雨は困るのである。
少ない買物品の時は、左手に傘を差して、右手にスーパーの袋を提げて歩いたりしてきた。

その後、近くの遊歩道を散策したりすると、
小雨の中、傘を差しながら紫陽花(アジサイ)、花菖蒲(ハナショウブ)、杜若(カキツバタ)などを鑑賞してきたが、
やはり本音を発露すれば、雨上がりの曇り空が最適と感じたりした。

そして帰宅すれば、読書に最適かしらと思い、買い求めた本を読んだりしてきた。

こうしたふしだらな時を過ごしたりしてきたが、特に農家、果樹園の方たちには、
天候に左右されることの多い作物なので、切実な梅雨の時を過ごされる、と思ったりしている。

私の幼年期は、祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していたので、
この梅雨の時節の農作物の育ちの状況を、春先から労苦を重ねてきた祖父や父の切実な願いを見ていたのを、
幼児の私でも少しながら覚えている。

このようなことを思い馳せると、天上の気候の神々はどのように采配されるの解らないが、
どうか平年並みの梅雨の季節で過ごせますように、と祈願したりしている。

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6月17日の日曜日は『父の日』、少なくとも感謝を込めて、ねぎらいの言葉を秘かに願い

2012-06-12 10:58:20 | 時事【社会】
ここ2週間くらい、新聞の折込チラシの中で、デパート、スーパーなどの多くは、
来る17日の日曜日の『父の日』に際して、贈り物の商品が掲載されている。

昨日も私はあるデパートのチラシを見たりした。
《 Father’s Day
     頼もしい、その背中へ。ありがとうの想いとともに。》
と大きく明記されて、お洒落なニットタイ、高級なポールペン、麻生地の「甚平」、
涼しそうなアロハシャツなどの商品が掲載されていて、
私は思わず微笑みながら見たりした。

私の父は、私の小学2年の時の1953〈昭和28〉年の春に病死され、
家内の父は、私のサラリーマン定年退職の直前の2004〈平成16〉年の秋に他界された上、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、もとより孫もいなく、
私の家族は、『父の日』に無縁となっている。

このような事情で、私としては父親の資格もなく、語る資格もないが、
何かしら父親が存命している、ご愛息(あいそく)・ご愛嬢(あいじょう)に、
秘かにお願いをしたいことがある・・。


子供の立場として、男子たる場合は幾つになっても『母親』を何かと慕(した)い、感謝し、
『父親』は何かと二の次になることが多いと思われる。

特に成人した頃からは、父親が現役で奮闘している場合は、
息子は何かとライバル視する傾向が多く、素直な父と息子の親子の心情のふるまいや会話ができなく、
やがて父が高齢者になり、しぐさが衰えたり、或いは死去されて、
初めて父親が家庭を守る為に、孤軍奮闘してきた長年の言動に気付き、
遅ればせながら父の軌跡に感銘を覚えることが多いと思われる。

女の子の場合も『母親』を日頃から何かとまといつきながら重視しがちであり、
父親からすれば、自身の愛(いと)しき妻よりも、遥かにご自分の娘がこの世界で一番可愛い、
と私の多くの知人から聞いている。

こうした心情、情念もさることながら、
未成年、成人した子供を問わず、たとえプレゼントする品がなくとも、
『お父さんのお陰で・・』
と何かしら感謝の言葉を父親に労(ねぎら)いの一言を切に願っている。

私は叶(かな)うことの出来ない夢として、私が高校生であったならは、
『父上さまのお陰で・・高校生活が楽しく過ごせています・・
不束(ふつつか)な息子でありますが、しばらくはご面倒の程をよろしくお願い致します。
父上さまもお身体を程ほどにご自愛下さい。』
と父親の前で正座して、感謝の言葉を重ねる、と夢想している。


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小雨舞ふ梅雨の時節、齢ばかり重ねた私は、読書が最良の友となり・・。

2012-06-11 16:59:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。

昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をしたりした。
そして2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保管している。


私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。


そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータり専門学校で一年ばかり学び、
何とか民間会社に中途入社して、35年近く勤め、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。

定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
殆ど購入する意欲まで至らくなったりことである。
やむなく居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。

そして特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読している。

この梅雨の時節を迎えている昨今、特に小雨降る時などは読書に最適かしらと思い、
微笑みながら活字中毒のひとりとなっている。
そして散策すれば、紫陽花(アジサイ)、花菖蒲(ハナショウブ)、杜若(カキツバタ)にめぐり逢えば、
齢ばかり重ねた私としては、この世の最上のひとときと思いながら過ごしている。

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梅雨の時節なのに、どうして『水無月』なの、せんなきことを思い浮かべて・・。

2012-06-10 16:10:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者2年生の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

今朝、家内と共に朝食を頂き、まもなく家内は新聞に添付されてスーパーのチラシを見た後、
『駅前に買い物に行きましょう』
と私に言った。

何かしら私の夏用の下着、靴下とか洗剤関係が廉(やす)いらしく、
布団のシーツ、雑貨品などを買い求めらしく、私を誘った、と解った。

『はい! 突然だけど・・行きましょう!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないくらいkの明るく大きな声で応じた。
年金生活の中、何かと家事の大半は家内をしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせないと私は確信しているのである。

その後、私たち夫婦は家を出て、川沿いの遊歩道を20分ぐらい歩いた先の駅前のスーパー2店をめざした。
私は多くの品を購入する時、我が家は自動車もないので、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、夏の帽子を深くかぶり颯爽と歩いた。
家内は私より数歩先で日傘を差して、歩いた。

そして駅前のスーパーで私は最寄りのスーパーの前で、家内と別れて、
本屋に向った。

30分ぐらいで私が購入した本は、総合月刊雑誌の『文藝春秋』7月号、
そして高峰秀子・著作の『忍ばずの女』(中公文庫)、新田次郎・著作の『小説に書けなかった自伝』(新調文庫)、
浦西和彦・編集の『「酒」と作家たち』(中公文庫)の文庫本の三冊であった。

この後の私は、駅前の広場にある大きな欅(けやき)の周囲にある片隅みのベンチに座った。
緑陰で風吹くに中、家内を待ちわびていると、
昨日に『梅雨入り』が公表されたが、確か6月は『水無月(みなづき)』と旧暦では称していたが、
雨降りことが多いのに、どうしてなのかしら、と思い浮かべたりした・・。

昨今、物覚えが悪くなったと苦笑したりし、
確か年金生活を始めた頃に、学んだことがあったよなぁ、と思いはせたりした。
そして周辺に人がいないことを確認して、煙草を喫い始めて、まもなくして、
《・・「みなづき」の「な」は、もともとは「の」をあらわす用語であり、
つまり「水の月」という意味・・》
知識人の藤野邦夫さんから、教示されたことを思いだしたのである。

こうしたことを私は思いだしながら、せんなきことに齢を重ねるたびに思い浮かべることが多くなり、
私は苦笑したりした。

その後まもなくして、家内の姿を見かけ、大きな手提げ品を持っていたので、
私は近寄った。

『もう一軒・・今度は食糧品を』
と家内は微笑みながら私に言った。

『食糧品かょ・・はい! 行きましょう!』
と買い求めた本を早く帰宅して読みたいと思っていた私は、
少しためらった後、明るく大きな声で応じた。

結果として、私たち夫婦が帰宅したのは午後2時であった。

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『アメリカ西海岸に青森の桟橋が漂着した』と私は知り、思わず黙祷をして・・。

2012-06-09 10:07:46 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の朝、いつものように読売新聞を読んでいた時、ひとつのニュースに注視させられた・・。

36ページの【社会】面の下段に、小さく掲載した記事であった。
無断であるが、転記させて頂く。
《・・
      米西海岸 青森の桟橋漂着

【ロスアンゼルス=西嶋太郎】
米西海岸オレゴン近郊の浜辺に、東日本大震災の津波で流された大きな浮桟橋が漂着し、
地元の人々を驚かせている。

同州の当局者によると、桟橋が発見されたのは5日、
長さ約20メートル、横幅約6メートル、高さ約2メートルの一部コンクリート製。
付属していたプレートなどから青森県が所有し、
同県三沢市の三沢漁港から流された四つの浮桟橋のひとつであることが判明した。
(略)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私はこの記事を読み終わった後、庭のテラスに下り立ち、
青森県と思われる方角に向い、黙祷を重ねた・・。

こうした私の奥底には、昨年の2011年4月14日の読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて。
『 津波で漂流するがれき、1年後にハワイ到達・・』と学び、
無力な私は、国民のひとりとして、たまらない心情となった。

この記事を無断ながら転載させて頂くと、
《・・
東日本大震災の巨大津波で、海に押し流された家屋やタイヤなどのがれきが、
1年後にハワイ諸島に漂着することが、
米ハワイ大学を拠点とする日米共同研究機関、国際太平洋研究センターの予測でわかった。

海流や過去に設置した観測用ブイの動きなどをもとにコンピューターで予測した。

その結果、がれきは太平洋北西部に広がった後、
東へ進み、一部がハワイ諸島の海岸に打ち上げられることが判明。

2014年3月には、カナダ・バンクーバー付近から米西海岸に漂着する。
大半はカリフォルニア沖の海流に乗って向きを変え、2016年春ごろ、再びハワイ周辺に達するという。

同センターは「ハワイには来年より5年後の方が、多くのがれきが流れ着くだろう」と分析している。
(2011年4月14日11時09分 読売新聞)
    ・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

この記事を読んだ後の私は、心情を綴っている、
私は海のことも無知で、もとより海流のことも、恥ずかしながら知らない身である。

今回、東日本大震災の巨大津波で、この地にお住まいの人たちの家屋、日常に愛用された品、
そして自動車、漁船などが、海に押し流され、
残骸となって、太平洋上に漂流し、やがて1年を過ぎた頃に、一部がハワイ諸島に漂着する。

そして、一部は2014年3月に、カナダ・バンクーバー付近から米西海岸に漂着する。
或いは、大半はカリフォルニア沖の海流に乗って向きを変え、2016年春ごろ、再びハワイ周辺に達するという。

このようなことを私は初めて学んだが、何かしらやりきれない心情となった・・。

今回の巨大津波で、この地にお住まいの人たちの家屋、日常に愛用された品、
それぞれのひとつ一つの品には、もとより愛着と愛惜のある思いでの品々・・
あたかもお住まいの人たちの魂(たましい)の一部が漂流し、
さらけ出されたようで、いたたまれなく、たまらない心情となったりした。

そして幾年も漂流し、一部は海岸に打ち上げられたり、
或いは海上をさまようように2016年の春頃に、ハワイ周辺に達する・・。

こうした品の数々に、私は叶(かな)うことができれば、
3月11日の東日本大震災の巨大津波の発生後、
せめて喪中の終る四十九日を過ぎた頃までに、海上から深い海底に沈み、安らかにお休み下さい、
とご冥福を重ねながら、切望をしたりしている。


このような心情を発露していたが、多くの方が行方不明で遺体も見つからないまま、
今日に至っているご家族の前には、私としては言葉もなく、ひたすらご冥福を祈るほかにはないが、
今回のアメリカ西海岸に青森の桟橋が漂着したニュースを知り、
太平洋の海上をさまようように一年三が月漂流して、何とかアメリカの西海岸オレゴン近郊の浜辺に漂着した現実に、
私は住んだこともない青森県の三沢市の向かい、思わず黙祷をさせられたのである。

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『梅雨入り』前の快晴の中、体力も衰えた私でも、庭の手入れに孤軍奮戦して・・。

2012-06-08 18:00:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、天気情報を見ていたら、明日の8日の金曜日は曇りの一日となり
明後日の9日の土曜日は雨の一日となり、その後の一週間は11日の月曜日の曇り時々晴れ以外は、
晴れマークがないのである。

私の住む世田谷区と狛江市に接近した調布市の片隅みの地域は、
平年6月10日前後に『梅雨入り』となり、学童たちが夏休みに入る直前の7月20日前後に、
『梅雨明け』となるのが、平年の習わしとなっている。

こうしたことを思い馳せると、9日の土曜日の頃から『梅雨入り』になるのかしら、
と思ったりした。

そして私は『梅雨入り』前の明日の8日の金曜日に曇り空の中、庭の手入れにしょうと決意した。
このような事を私は家内に伝え、
私も衣料整理の続きをしますけれど、お互いにがんばりましょうね、
と家内は微笑みながら、昨今ともすれば何かと体力の衰えてぼやいている私に言った。

今朝、深夜まで読書していた私は、6時半過ぎに起床したが、
雲が3つぐらいぽっかりと浮かんだ快晴の青空となり、
雲の日が予測されたのに、どうしてなの、
と私は空を見上げながら、天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

その後、家内と共に朝食を頂いた後、新聞の朝刊を一時間ばかり読んだりしていた。
小庭を眺めると、陽射しは燦々と照らし、確か30度近い最高気温ぐらいだし、
熱中症も怖いし、庭の手入れをどうしょうか、と私はためらったりした・・。

そして、前向きな実行こそ何よりだ、とサラリーマンの現役時代のことを思い浮かべて、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、
帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
庭の手入れを始めたのは9時過ぎであった。

そして剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内は和室で衣料整理をしていたが、居間の近くに来て、
『モミジの樹・・短めに剪定して下さいね』
と家の中から、私に言った。

『はい! 了解しました』
と私は若き自衛隊の諸兄に負けないくらいで大声で返事をしたりした。
定年後に年金生活を始めた私は、長らく専業主婦をしている家内を我が家の専守防衛長官と思っている。
私は日常の買物担当と家内の茶坊主、ときおり庭の手入れをするぐらいであり、
家内の方が圧倒的に家事が多いのであり、返事ぐらいは明るく明瞭にしている。

その後、私はモミジの樹などを剪定した後、草むしりをした。

私は何よりも暑さに苦手なひとりであり、燦々と照りつける中、草むしりをしていると汗は流れ、
樹の下のもぐり、はいつくばって草を取ったりすると、泥まみれになったりした。
そして昼食を時間も忘れて、孤軍奮闘した。

我が家の小庭は、垣根は常緑樹、庭は四季のうつろいを明晰に変貌する落葉樹を10数本があり、
草花は茶花を中心に植えている。
今の時節は、梅雨の時節の主役の数枚の上葉が白く染められた半夏生(ハンゲショウ)の群生であり、
或いはピンクのたわわな花穂で芳(かぐわ)しい香りの唐糸草(カライトソウ)、
そして群生させた稲穂に近い小判草(コバンソウ)である。

小判草はイネ科の草花で、毎年、3月の下旬頃に芽を出して、稲のような容姿で成長し、
5月頃から葉先が小さな小判のような花穂となる。
そして、今の時節は小麦色に染めら、風もないのに揺れたりしている。
水田の稲が実を重たげに見せている状況と同じで、
背丈30センチ前後の小判草は、けなげな容姿となっている。

そして茶花だけだと少し寂しいので、アメリカ芙蓉(フヨウ)を群生させている。
初夏のなれば、白と淡いピンクの複輪で底紅した大輪の花が10数輪咲く。

こうした中でも、玄関庭には、紫色の小花の露草(ツユクサ)は庭の片隅に群生していたり、
底紅で花びらは淡紅色した高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)がまもなく数多く咲き、
夏の終りの頃から淡き紅色の可憐な秋海棠(シュウカイドウ)、
そして純白の小花の玉すだれ(タマスダレ)が咲いたりする。


草むしりした清々しい後の黒土に、このような草花が咲くのが、
私の理想であるが、この時節は草は繁るのが早く、草むしりに忙しいが、
なまけもの私はさぼってしまうことが多いのである。

こうしたこともあり、今しなくていつするのよ、と思いながら泥だらけ汗まみれで奮戦して、
ある程度は小奇麗になって、疲れ果てて、終りにしょう、
と私は決意したのが3時過ぎであった。

そして風呂に入った後、けだるい身体で、居間から主庭を眺めたりし、
高齢者2年生の私としては、『梅雨入り』前の庭の手入れとしては、
この程度かしら、と微苦笑を重ねたりした。

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高齢者の私でも、ときには家内のボディ・ガード兼荷物持ちで、お供をして・・。

2012-06-07 16:56:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者2年生の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

平素の我が家の買い物は、私が定年退職後に年金生活を始め、自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパーなどに出かけて孤軍奮闘している。

昨夕、家内から、明日はホームセンターに買い物に行きませんか、
と私は告げられた。

私の住む地域は調布市の片隅みで、世田谷区と狛江市に隣接した処であり、
自宅から15分ばかり歩けば、大きなホームセンターがあり、
何か衣料の整理ケースなどが必要となったのである。

今朝、こうした思いで日中は家内と共に買い物と思っていたが、
朝の8時半過ぎに、突然に台所の水道の蛇口が少し水漏れするので、
蛇口のゴム製のパッキンが老化していたので、予備のパッキンを私たちは修理した。

買い物に行く前なのに、どうしてなのょ、と思いながら、私は小庭の外れにある水道管の基盤装置で、
我が家の水道管を閉めたり、開けたりした。
家内は台所の水道の蛇口に立って、蛇口の開け閉めをしたりして、
予備用のパンキンが巧く水漏れもなく合致したので、修理は成功した。

私は予備のパッキンで巧く修理が出来なかった場合は、
ホームセンターで蛇口の周辺部品を含めて、購入することも配慮したので、
幸いに予備のパッキンで正常となり、良かったょ、と私は家内に言ったりした。


定年後の私は年金生活を始めたが、ここ数年、
家内は日常雑貨品などを買い求める時は、高齢者2年生の私に、
ボディ・ガード兼お供、正確には荷物持ちかしらと思いながら、月に一度ぐらい、
私に声をかけることが多くなっている。

私としても現役時代の緊張感から解放されて、身過ぎ世過ぎの年金生活の身であり、
昨今はご近所の奥様の数人と立ち話をしていた時、
あなたは演歌歌手の吉幾三〈よし・いくぞう〉さんに似てるわ、
と言われたりしたので、
思い出しながら、吉幾三さんの兄貴分のような容姿であるので、
ボディ・ガードとして、迫力あるかしら、と苦笑したりした。

予期せぬ台所の水道の蛇口の修理を終えた私たち夫婦は、
予定通り、ホームセンターに2時間はかり買い物をして、
数多くの品となったので、有料の配送を依頼した。

そして帰宅しょうと私は思っていたが、
ときには駅前のイタリアン料理を食べたいわ、
と家内は私を誘惑するのであった。

日頃何かと家内にお世話になっている私としては、
『行きましょう・・俺もたまには本格的なイタリアンを食べたかったところだょ』
と調子者の私は応(おう)じた。

そして私たちは駅前まで15分ばかり歩き、年に4回ぐらい利用しているイタリア料理店で、
ランチ・セットに二品ばかり加えて頂き、ここ数年はメタボ予備軍となっている私はワインを吞まず、
やむなく食後にコーヒーを飲んだりしていると、
家内は含み笑いをしたりしていた。

この家内の含み笑いの根源は、
あなたは定年の60歳まで、人一倍お酒を吞みましたので、せめて退職後は休肝日が必要だわ、
と定年後の私に家内は言ったりしていたのであった。

この後、私たちは駅前より10分歩き、自宅の最寄のスーパーの前で、
家内はせっかくだから買い物して帰りましょう、
と私に宣言して、30分ばかり買い物して、手ぶらでボディ・ガード兼お供だった私は、
やはり荷物持ちとなり、
私たちは帰宅したのが午後3時過ぎであった。

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霧雨の中、傘を差して紫陽花(アジサイ)の花に心を寄せれば・・。

2012-06-06 11:19:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝は雨が降り、小庭の樹木の枝葉がしっとりと濡れ、ときおり風が吹き、枝葉が揺れている。

この時節は私は独りで付近の遊歩道、公園を散策して、
紫陽花(アジサイ)、菖蒲(アヤメ)、花菖蒲(ハナショウブ)、
そして川辺に咲く杜若(カキツバタ)の花の色合いを誉(ほ)めたりして、
過ごすことが多い。

私の住む世田谷区と狛江市に接近した調布市の片隅みの地域は、
平年6月10日前後に『梅雨入り』となり、学童たちが夏休みに入る直前の7月20日前後に、
『梅雨明け』となるのが、平年の習わしとなっている。

こうした習性なので、ぼんやりとまもなく『梅雨入り』になるのかしら、
と思ったりした。

過ぎし日の3日、霧雨が降りしきる中、独りで付近の遊歩道を傘を差しながら歩いていた・・。
そして小公園の外れに群生した紫陽花(アジサイ)の花に思わす見惚(みと)れ、足を止めた。

青色の飾り花は大きい咲いたりしている中、
少し白色、中には薄紫色に変貌した色合いを見たりすると『ガクアジサイ』かしら、
と感じたりした。
この『ガクアジサイ』は、白色から紫色に変化し、私は魅せられて50数年過ぎている。

20代の血気盛んな頃の私は、女性と手を握ったりして恋愛もしたが、
失恋の方が多く、どうしてなの、と女心の多彩なことも解らなかった青年であったりした。
こうした時など、うつろう花色の『ガクアジサイ』を眺めたりすると苦笑したりした。

或いは新婚まもない時、付近の公園を新妻と散策して、カメラで新妻を撮ったりしていると、
薄紫色とか白色のブラウスが良く似合う、と私は秘かに喜び、そして新妻に言ったりした。

このようなことを思い馳せたりし、小雨降りしきる小庭を眺めたりした。

そして午後になれば、霧雨が雨上がりとなると思われるが、
小雨に煙る中、ひとりでただずんで、そっと心を寄せるのも贅沢なひとときと思ったりしている。

私は齢を重ねるたびに人出の多い著名な菖蒲園、アジサイ寺などは、
ゆったりと静寂の中で鑑賞することはできないので苦手となっている。
そして付近を散策して、偶然に紫陽花(アジサイ)、花菖蒲(ハナショウブ)、杜若(カキツバタ)にめぐり遇(あ)えば、
思わず心を寄せられ、過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、確かな美を享受している。

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『青い眼の人形』の歌、幼年期の私は限りなく誤解して、解釈し・・。

2012-06-05 15:02:58 | 音 楽
私が1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
たまたま詩人、童謡の作詞家と名高い野口雨情(のぐち・うじょう)氏の遺(の)された作品を読んだりした。

そして大正時代の後期に『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』
『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などの童謡の名作品を読んだりした後、
特に『青い眼の人形』に関して、私の幼年期に聴いたりしていたが、
私は限りなく誤解して、解釈していたと気付き、思わず赤面した下を向いたりした。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から一キロぐらい歩いた先に駅があり、その付近に小学校があり、
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学した。

こうした中で、翌年の頃に、生家のラジオから、『青い眼の人形』の歌も盛んに流れて、
幼年ながら鮮明に心に残った。

日本の著作権保護期間が過ぎたと思われるが、名作『青い眼の人形』を転記させて頂く。

♪青い眼をした お人形(にんぎょ)は
 アメリカ生まれの セルロイド

 日本の港へ ついたとき
 一杯(いっぱい)涙を うかべてた
 「わたしは言葉が わからない
 迷子(まいご)になったら なんとしょう」

 やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ
 仲よく遊んで やっとくれ
 仲よく遊んで やっとくれ

【『青い眼の人形』 作詞・野口雨情、作曲・本居長世 】

この歌を聴いて、まもなくした後、小学2年生の私はいつものように小学校に通学し、
下校の時に付近にある甲州街道に行った。

この当時の1952〈昭和27〉年の頃は、ときおり自動車、トラックが走るぐらいであったので、
幼年の私としては、物珍しい自動車を見たりしていた。
こうした中で、たまたま進駐軍のジープが府中にある基地から都心に向けて走ってきた。

先頭のジープには、四人の兵士が乗り、後部座席の二人の兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
そして大きな自動車が続き、最後のジープも兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
いずれの三台もスピードを上げて、疾走した・・。

こうした情景を見惚れていた私は、この時に『青い眼の人形』の歌が甦(よみがえ)り、
日本を占領した進駐軍であるが、日本人に対し、アメリカ人と仲良くしてほしい、
と敗戦後に作られ宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのである。

『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と私は心の中で屈折の多い多感な幼年であったりして思ってしまった・・。


日本は1945〈昭和20〉年8月15日に、世界第二次大戦のひとつの太平洋戦争に敗退した。
そして日本の戦争のの終結に際して、
ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の連合国最高司令官総司令部が配置され、
「連合国軍」の名の下で、多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。

そして、こうした占領軍は、日本の国民の多くは進駐軍と呼び、ひたすら恐れ慄(おのの)き
その後の1952(昭和27)年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効されるまで、
続いたのである。

こうした進駐軍の圧政下、日本人の大人はもとより子供まで感じとっていた社会風潮の時代であった。
このような状況下であったので、幼年の私でも、
『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と何かと感じ取ることが多かった・・。


後年、1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
野口雨情の『青い眼の人形』を調べた時、1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表と知り、
私は動顚してしまった。

大正リべリズムの下、「国際愛を歌った」と野口雨情は語っていて、
野口雨情は、キューピーから思いついたのは、青い眼の人形であり、
アメリカ生まれのセルロイドは、キューピー人形のことである、と学んだりした。

そして、おもちゃのキューピー人形、青い眼の人形は、
アメリカから親善使節として、日本の子ども達にたくさん送られてきたが、第二次大戦により焼かれる運命を迎えた、
と知ったりした。

人は誰しも誤りがある、と古来より伝えられているが、
幼年期の私は『青い眼の人形』の歌は、敗戦後に作られ進駐軍の宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのは、
もとより大きな誤りで、遥か以前の1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表した作品であり、
初めて気付き、無知ほど怖いものは無い、と大いに反省させられながら、赤面して下を向いたりした。


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たかが『あんぱん』されど『あんぱん』、齢ばかり重ねた私でも、こよなく愛食して・・。

2012-06-04 15:16:27 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、私は年金生活を始めて以来、自主的に平素の買物担当となり、
殆ど毎日、最寄りのスーパーとか駅前のスーパー、専門店に行ったりしている。

本日もいつものように私が買物を行く前に、家内がスーパーのチラシにサインペンで、
必要な品を赤丸の印を付けている。

この赤丸の印が付いた品は必須の購入する品で、これ以外は私が店内で魅せられた品を買い求めてくるのが、
我が家の暗黙のルールとなっている。

私は最寄りのスーパーに行って、チラシの赤丸の印された品を探し求めて、
スーパーの指定籠(かご)に入れた後、なぜかしらパンのコーナーに寄り、菓子パン棚で、
あんぱんの二種類を入れたのである。

帰宅後、私は台所で洗い物をしている家内に、買い物したすべてを手渡したりした。

その後、まもなくして家内は、
『あなた・・こしあん、つぷあんのあんぱん・・好きねぇ』
と微苦笑しながら、私に言ったりした。

本日は早朝から晴れ渡り、快晴の日中を迎えているので、
家内は入梅前に、衣替えの整理に最適だと思いながら、朝の10時過ぎから押し入れにある衣装ケースなどを
孤軍奮闘している。

こうした状況を見て買い物に出かけた私は、
昼食はかまってくれない、と思いながら私はあんぱんのふたつを買い求めたのである。

そして、私は煎茶を淹れた後、このあんぱんを食べたりした。
あるメーカーの品の袋の明記された文面を私は読んだりした・・。

《・・
 こしあんぱん
    絹のような舌触りの
    なめらかなこしあんを
    しっとりして生地で
    やさしく丁寧に包みました。

  つぶあんぱん
    すっきりとした甘さの
    粒あんをしっとりした
    生地でやさしく丁寧に
    包みました。
・・》
このように明記された文面を読みながら、この世で贅沢な食べ物のひとつかしら、
と私は微笑みながら頂いたのである・・。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から一キロぐらい歩いた先に駅があり、その付近に小学校がある。
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学して、
確か3年生の頃だったと思われる。

小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私たち学童は、鉛筆、ノート、ゴム消し、下敷きなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。

『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッツ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。

この当時の私の実家は、農家だったので、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。

父は私が小学2年の3学期に病死され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、我家は没落しはじめた。

このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、とおぼろげに脳裏に残っている。

私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が、頻繁に購入しているのを見かけたりしていた。

やむなく私は誘惑に負けて、
母親に懇願して、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。

翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したりした。

その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を1957〈昭和32〉年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。
この中の多彩な菓子パンのひとつに、私は手軽に甘味が味わえる『あんぱん』に圧倒的に魅せられ、
『こっぺパン』にさよならして、『あんぱん』を食べたりした。

その後の青年時期、社会人のサラリーマンの多忙時期、
私は冷酷にも『あんぱん』に見向きもしなかった・・。


2004〈平成16〉年の秋、中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職となり、
この直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと決意したりした。

我が家の朝食は、白米のご飯、ワカメの味噌汁、
そして季節に寄り、春菊のゴマ和え、カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚・・
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』が心身の波長に合い頂いている。

このような状況が多いが、夕食は別格として、昼食はその日に応じて食べたりしている。
お蕎麦(そば)、うどん、スパゲティなどを頂いたりしている。

或いは私は食パンにマーガリンを付ただけで、
家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、二枚ばかり食べたりし、
お互いにコーヒーを飲みながら頂いている。

こうした中で、ときおり家内は少し高価なお好みの菓子パンを食べたりしているが、
私は『あんぱん』を頂き、遠い幼年期、少年期の思いも重ねて、
遥かな美味しさを増した『あんぱん』を、この世で贅沢な食べ物のひとつだ、と確信を深めながら頂いている。


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つたない私、頭だけは大きく帽子の選定に困惑を重ねて、早や40年・・。

2012-06-03 12:23:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
身長は170センチ、体重は少しウォーキングをさぼって75キロとなっている。
そして肌着の下着の上下もLサイズを愛用しているが、
つたない知識しかないのに、何故かしら頭だけは大きく、帽子を選定する時などに困惑を重ねている。

私が若き35歳の頃、夏季休暇の時のひととき、小庭の草むしりをする時は、
熱中症を避けるために、帽子を被ったりした。
この時の被った帽子は、駅前のスーパーの紳士用品売り場で帽子を探したが、
S、M、Lサイズは多くあるが、私が欲しかったのは59.5センチのLLサイズぐらいの大きさであった。

やむなく婦人帽のお洒落な麦藁風の帽子を買い求めて、
夏の熱い時期に愛用したり、
或いは農家の小父さんに愛されている麦藁帽子の大きなサイズにめぐり逢えた時、
購入して、庭の草むしりをする被ったりしてきた。

確か1983(昭和58)年頃、中曽根首相の時、
日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化し、アメリカの貿易赤字が増加した事に対処するために、
日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけ、
この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」と私はテレビのニュースで知った。

そして私はアメリカの商品・・と考えた時、アメリカ人が愛惜を秘めているテンガロン・ハットだ、
アメリカ人の多くは身長は大きいと思われ、帽子も大きいに違いない、と確信した。
そして私は家内を誘って、都心のデパートに行き、一番大きなサイズを買い求めた・・。
日米親善だょねぇ、と心で呟きながら、少し高価なテンガロン・ハットを購入したが、
アメリカ製であるが59.5センチのLLサイズぐらいであった。

私は髪の毛のヘアースタイルは、多くのビジネスマンに準拠した7.3に分けているが、
この59.5センチのLLサイズ帽子を被っていると、髪の毛が寝てしまい、
結果としてヘアー・スタイルが乱れてしまうのである。

このように都心の外出用には使えなく、旅行先の温泉滞在でハイキングの時、
自宅の付近の散策に愛用する範囲に限られてしまうのである。


2010〈平成22〉の時、家内は京都の『祇園祭』を観て見たいわ、と言ったので、
私たち夫婦は7月15日から17日の2泊3日に行った。
この時は、さすがに古都千年の街並みであったので、
旅立つ一週間前にデパートに行き、家内のワンピースと帽子、そして私の半袖の半袖のシャツ、夏靴を買い求めた。
この時に偶然に帽子コーナーで、62.5センチの4Lの大きな帽子にめぐり逢えたのである。
この大きさであったら、髪の毛も乱れず、ゆったりと被れるので私は微笑んだりした。

そして福沢諭吉のお札を二枚支払って買い求めることができた。
その後、新聞の通販で昨年の秋に、私は4Lの大きな帽子が掲載されていたので、
購入したが、やはりデパートで購入した7割ぐらいの価格であった。

私は年金生活の身であり、少しケチな性分が身に付いてきたので、
紳士の帽子はS、M、Lサイズは多くあり、格安から高級品まで多彩にあるので、
どうして私は頭だけは大きいの、と困惑を重ねて早や40年が過ぎている。

昨今の私は、都心とか旅行にはデパートで買い求めた4Lサイズの帽子、
日常生活の買物、散策などは通販で購入した4Lサイズの帽子、
小庭の庭の手入れの場合は、スーパーの洋品専門コーナーで6年前に買い求めた2Lサイズの帽子、
そして冬の厳寒の旅先には、山岳専門店で10年前に買い求めた大きな帽子を被り、
微苦笑している。

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