今朝、ぼんやりとカレンダーを眺めたりすると、『父の日』と明記され、
齢ばかり重ねた67歳の私は、微苦笑したりした。
私の父は、私の小学2年の時の1953〈昭和28〉年の春に病死され、
家内の父は、私のサラリーマン定年退職の直前の2004〈平成16〉年の秋に他界された上、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、もとより孫もいなく、
私の家族は、『父の日』に無縁となっている。
私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか民間会社に中途入社できたのは1970(昭和45)年の春であった。
その後、新設されたレコード会社に移籍の辞令を受けて、
まもなく私は本社のコンピュータ専任音として、音楽業界のあるレコード会社で奮闘していた。
私は音楽業界、そしてコンピュータ業界、専門知識も加味されていたので、
時代の先端の風の中にいる、とこの当時は大いに勘違いしして高揚しながら、ときおり女性との交際もしていた。
幾たびか恋愛を重ねたりし、失恋の方が多かったのは、無念ながら事実であった。
こうした状況を見ていた母から、
『あなた交際するのは良いけれど・・素人のお嬢さんには最後の責任がありますからねぇ』
と私の言動に釘(くぎ)を差されたりしていた。
この当時の風潮として女性と最後の一線を越えたならば、
もとより男性は責任の基で結婚する、という暗黙の社会であった。
このような風潮を鈍(にぶ)い私でも感じ取り、血気盛んな私は風俗店にも行ったりして、
性欲を発散したりしていた。
私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。
この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。
こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、やがて翌年の1976(昭和51)年の春に結婚した。
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を始めた。
私はこの当時システム改定などで多忙で孤軍奮闘したりしていたが、
家内は中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。
こうした中で、愛(いと)しき新妻に私は毎晩のように性愛を重ねて、
仲良し恋しを深めたりしていた。
そして少し狭い2DK賃貸マンションであったので、
子供ができて、這(は)いずりまわった時は狭いなぁ、
と私は思いながら、マンションか一戸建てを考えなければ、と次期の住まいを私たち夫婦は検討した。
結果的には、私の生家の近くの空き地に一戸建てを構えたのは1978(昭和53)年の春であった。
そして子供部屋の2室も設計に配慮したりし、
私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりし、多額な住宅ローンとなったりした。
こうした一年が過ぎた頃、父の妹のひとりの叔母が体調を崩して入院していたので、
私の幼年期に何かと私の面倒をみてくれたりしていたので、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた。
私は叔母にお見舞いの言葉を述べたりした後、
『あなたたち・・結婚して4年目なのに・・子供に恵まれないの・・
XXX(私の名前)は5歳の時・・「おたふく」になったせいかしら・・』
と叔母は私に言った。
私は帰宅する時、確か3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。
しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。
そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。
まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。
私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された後、
この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。
私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもやく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。
私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。
そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。
このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。
そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。
このようなこと後年に私は教えられたことを思い浮かべたりしたが、
5歳の頃の『おたふく風邪』などは、この当時は生死にかかわらくなかったせいか、
私は母、小母たちからも教えてもらった記憶がないのである。
この後、私は医学の本で《睾丸などに生殖機能に後遺症が残る》と学び、
私は恥ずかしいので、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
そして診断の結果としては、精液の全般は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。
帰宅後、私は家内に包隠すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。
このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
昨今、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
ここ10数年、少子高齢化が社会の難題となり、
私は社会に対して、子供をさずかり、子供を育てる重責の一面を果たしていないことを思い浮かべ、、
ときおり後ろめたさを感じたりする時もある。
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齢ばかり重ねた67歳の私は、微苦笑したりした。
私の父は、私の小学2年の時の1953〈昭和28〉年の春に病死され、
家内の父は、私のサラリーマン定年退職の直前の2004〈平成16〉年の秋に他界された上、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、もとより孫もいなく、
私の家族は、『父の日』に無縁となっている。
私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか民間会社に中途入社できたのは1970(昭和45)年の春であった。
その後、新設されたレコード会社に移籍の辞令を受けて、
まもなく私は本社のコンピュータ専任音として、音楽業界のあるレコード会社で奮闘していた。
私は音楽業界、そしてコンピュータ業界、専門知識も加味されていたので、
時代の先端の風の中にいる、とこの当時は大いに勘違いしして高揚しながら、ときおり女性との交際もしていた。
幾たびか恋愛を重ねたりし、失恋の方が多かったのは、無念ながら事実であった。
こうした状況を見ていた母から、
『あなた交際するのは良いけれど・・素人のお嬢さんには最後の責任がありますからねぇ』
と私の言動に釘(くぎ)を差されたりしていた。
この当時の風潮として女性と最後の一線を越えたならば、
もとより男性は責任の基で結婚する、という暗黙の社会であった。
このような風潮を鈍(にぶ)い私でも感じ取り、血気盛んな私は風俗店にも行ったりして、
性欲を発散したりしていた。
私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。
この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。
こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、やがて翌年の1976(昭和51)年の春に結婚した。
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を始めた。
私はこの当時システム改定などで多忙で孤軍奮闘したりしていたが、
家内は中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。
こうした中で、愛(いと)しき新妻に私は毎晩のように性愛を重ねて、
仲良し恋しを深めたりしていた。
そして少し狭い2DK賃貸マンションであったので、
子供ができて、這(は)いずりまわった時は狭いなぁ、
と私は思いながら、マンションか一戸建てを考えなければ、と次期の住まいを私たち夫婦は検討した。
結果的には、私の生家の近くの空き地に一戸建てを構えたのは1978(昭和53)年の春であった。
そして子供部屋の2室も設計に配慮したりし、
私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりし、多額な住宅ローンとなったりした。
こうした一年が過ぎた頃、父の妹のひとりの叔母が体調を崩して入院していたので、
私の幼年期に何かと私の面倒をみてくれたりしていたので、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた。
私は叔母にお見舞いの言葉を述べたりした後、
『あなたたち・・結婚して4年目なのに・・子供に恵まれないの・・
XXX(私の名前)は5歳の時・・「おたふく」になったせいかしら・・』
と叔母は私に言った。
私は帰宅する時、確か3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。
しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。
そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。
まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。
私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された後、
この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。
私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもやく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。
私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。
そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。
このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。
そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。
このようなこと後年に私は教えられたことを思い浮かべたりしたが、
5歳の頃の『おたふく風邪』などは、この当時は生死にかかわらくなかったせいか、
私は母、小母たちからも教えてもらった記憶がないのである。
この後、私は医学の本で《睾丸などに生殖機能に後遺症が残る》と学び、
私は恥ずかしいので、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
そして診断の結果としては、精液の全般は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。
帰宅後、私は家内に包隠すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。
このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
昨今、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
ここ10数年、少子高齢化が社会の難題となり、
私は社会に対して、子供をさずかり、子供を育てる重責の一面を果たしていないことを思い浮かべ、、
ときおり後ろめたさを感じたりする時もある。
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