夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには都心のホテルで、懐かしき恩師と同期生、と談笑を重ねて・・。

2014-03-15 15:30:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
農家の児として、この地域で1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
地元の小・中学を卒業するまでの間、何かと都心にあこがれて、ときおり行ったりした。

やがて都心の高校に入学したのは1960年(昭和35年)4月であり、
これ以来、青春期、青年期、自己格闘しながら都心から数多く学び、
長きサラリーマンの時代も都心の赤坂、六本木、渋谷などで苦楽を共にして奮戦してきた・・。

そして2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

このような拙(つたな)い歩んできたが、年金生活を丸9年半が過ぎている今、
都心に対し齢を重ねるたびに興味がなくなっている。
          

昨日、品川の駅前にある『品川プンリスホテル』に、過ぎ去り年の1969年〈昭和44年〉4月に、
コンピューターの専門学校に入学して、この同期会が初めて開催されることとなり、私は向った・・。

私は指定時間に間に合うように自宅の近くに走行している路線バスで、
最寄りの駅のひとつの小田急線の『成城学園前』駅前に行き、
そして小田急線で『新宿』駅に到着した後、
山手線に乗り換えて『品川』駅で下り立ったのは午前11時過ぎであった。

そして駅前に聳え立つ『品川プンリスホテル』のメインタワーにあるロビーを目指して、
人出の多い中、昨年の秋以来だ、と思いながら歩いたりした。

そして私たち幹事の集合時間より、45分前であったので、
私は独りで2階にあるコーヒーラウンジで紅茶を飲んだりした・・。
          

昨年の初夏、専門学校のひとりの講師から電話を頂き、
私たち同期生の幾人かの、その後の歩みを私は知ったりした。

その後に有志で懇親会を開こうとなり、やがて私たち生徒の中で、
優れた機敏能力のある女性を中核に、私たち3人の男性が賛同し、
今回、クラス会のような同期会を初めて開催しょうとして、
私たちは幾たびか打ち合わせを重ねてきた・・。
          
      
私は少し昔、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

やむえなくサラリーマンになる為に、あてどない心情の時、
たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

そして私は購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも苦手な私は、
無念ながら理解出来ない方が多く、ただ漠然として、
これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。
          
         
この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょう、と不純な動機で、
石原慎太郎さんが名誉学院長されているある専門学校が新設されたコンピューター学科のソフトコースに、
1969年〈昭和44年〉4月に入学した。
          

確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であったが、
まもなく代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。

やがて1970年〈昭和45年〉3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業して、
それぞれ企業に就職して行った・・。

その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。
          

もとより45年近い歳月が流れる中、就職して結婚されて、社会の第一線から退職され、
私のように69歳で年金生活、若い方でも63歳となっているので、
お孫さんにも恵まれている方も多いと思われる世代となっている。

そして日本の各地で住まわれて、日々を生活されている。

このようなことを改めてぼんやりと私は思い馳せたりした。
          

やがて私は38階にある食事処のフロアーに行った。
改めてここから見下ろす都心の展望が良く、
その上にフロアーのホテルのスタッフも丁重な言動に好感を増したりした。

この食事処のフロアーは、『味街道 五十三次』と称されて、
かっての東海道の宿泊所名で数多くの個室もあり、
この中の一室を私たちの同期会は午後一時より二時間ばかり予約していたが、
午前12時より午後の3時半まで、借用させて下さった。

やがて15分前に恩師のふたり、そして私たち同期生16名が揃い、
卒業してから初めての44年ぶりの同期会が開催された・・。

そして開会の言葉の後に、私たちの同期の女性ふたりが早く亡くなわれたので、
黙祷して哀悼をささげたりした。

この後、開会の挨拶は、私は最年長の為か、
私たちは花の第一期生・・と言ったりした後、私は劣等生のXXです、
などと数分挨拶をし、笑いを誘ったりした。

そして恩師をおふたりに挨拶をして頂き、乾杯の後、
飲み放題のアルコールを各自飲みながら、指定の会席料理を頂いたりした・・。

こうした中で、女性の中には秋田、山形、沖縄県にお住まいの方もいて、
遠望から参集して下さり、お互いに思いでいっぱいの心の披露を語って下さったりした。

或いは人生の半ばで不遇な出来事に遭遇されたり、
それぞれのお方の人生における苦楽を発露されたりした・・。

このように語り尽くせないこともあり、時間を延長させて頂き、
午後の4時に散会とした。


この後、お時間のある方は・・と2階のコーヒーラウンジで、
コーヒーか紅茶を飲みながら、私たち10数名は1時間半ばかり談笑したりした。

やがて遠方の方たちは宿泊するので、私は退散として帰宅したのは、午後7時過ぎであった。
          

このような昨日の出来事をぼんやりしと思い浮かべて、何かと都心に苦手な私でも、
ときには都心のホテルで、懐かしき恩師、そして同期生と談笑するのも良かった、
とそれぞれお方の顔立ち、しぐさを思い重ねたりしている。

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過ぎ去った日々に、自分に優(やさ)しく甘くなれる、69歳の私は微苦笑したりし・・。

2014-03-14 07:41:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
敗残者のようなことも幾たびか体験してきた。
そして残された人生は、せめて少しばかり自由な時を・・、と念願しながら定年直後から年金生活をしてきた。

私は今年の9月に誕生日を迎えると60代を卒業して、古希と称される70歳になり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となる。
                     

私は定年した直後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
         

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主ぐらいはしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸9年半が過ぎている。
          
          
そして時折、庭の手入れをし、特に雑木が多く、季節の移ろいを的確に表現してくれるので、
時節のうつろいを改めて教示され、深めたりしている。
          

或いは地元の小・中学時代や都心の高校時代の友人たちと居酒屋など逢ったり、
男性の場合は、お互いに呼び捨てしているが、女性からはXXクンなどと私は呼ばれている。

そして私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から、数多く旅を重ねたりしているが、
定年後は旅程の制約から解放されて、5泊6日前後で観光ホテルに滞在し、
周辺を歩いたりして遊学している。
          

このような年金生活を重ねてきたが、ときおり自身の投稿文を読み返し、
あの時はあのようなことを感じて過ごしてきたんだ、と微苦笑したりすることもある。

私は定年退職後の一ヶ月後から投稿文を重ねてきたので、
その時の思いが素直に熱く綴っていて、自分ながら微笑ましく思ったりする時もある。

しかしながら大半は綴りの幼さもあり、ときおり赤面したりしている。

こうして過ぎ去った日々の投稿文を読むと、
自分に優(やさ)しく甘くなれるのに、我ながら驚いたりしている・・。

思い馳せれば年金生活を始めてまもない2004年(平成16年)11月に、
不安を少し秘めながら過ごしていた時、確か総合月刊誌の『文藝春秋』の最新号の中で、
日本酒に詳しい研究家の太田和彦さんの寄稿文が掲載されていた。

《・・人はある年齢になると、新しさより古さを尊ぶようになる。
それは自分が生きてきた人生を肯定したいからだ。・・》

こうした一節を心の片隅に残っていたが、この当時の頃は、そうかしら・・と漠然と感じたりした。
そして9年半過ぎた今は、つたない半生を歩んできた私でも、確かにそうですよねぇ、
と私は微苦笑したりしている。

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まもなく卒業式の時節、69歳の私でも、『仰げば尊し』の歌を愛惜を重ねて・・。

2014-03-13 12:00:50 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の69歳の身であるが、
朝食後に家内は台所で、ラジオを聴きながら皿洗いなどをしていた。

私は居間で新聞を読んだりしていたが、ラジオから、『仰げば尊し』の歌が流れて、
まもなく学童、学生の卒業式の時節になった、と教えられたりした。

やがて私は遥か昔の私が中学校の卒業式が思いだされた・・。

1960年(昭和35年)の3月の当時は、校内の講堂で、
確か後輩の1年、2年製がほぼ全員が『蛍の光』を合唱し唄った後、
私たち卒業生は恩師、後輩達の御礼を込めて、『仰げば尊し』を唄ったと思ったりしている。
                    

私は1957年(昭和32年)年3月に地元の公立小学校を卒業して、
やはり地元の公立中学校に4月に入学したが、相変わらず劣等生のひとりであった。

長兄は地元の公立小学校を卒業して、国立の中学に入学して、
地元の公立小学校から、国立の中学に入学できたのは創設60年の中で初めてだ、と周囲から讃(たた)えられていた。

次兄にしても学業は優秀で、地元の公立中学校に通ったが、
私が中学一年の時は、三年生で、私は何かと《・・あいつの弟・・》と注視されることが多かったが、
お兄さんは成績も良く言動も周囲から褒(ほ)められたいるのに・・、
と私の担任の先生を困らせたりしていたことが多かったのである。


私は中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた・・。
レフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の判断がのろいのである。

私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのであるが、やがて私は野球には向いていないと断念し、
中学2年を迎える寸前に、退学してしまった。

そして小学4年生の頃から、独りで映画館に通って映画を鑑賞してきたので、
映画少年が再び続き、何故かしら前の席に座り、ときおり好みの映画を鑑賞したりしていた。
          

私が中学2年生だった1959年(昭和34年)の頃、
いつものように同級生の仲良しグループのひとりの悪友と下校した帰り道で、
たまたま女の子の話となった。

私は悪友の間柄だったので、クラスで好きな同級生の女の子のことを、
『俺・・XXさんのことが好きだょ・・』
と私は悪友に云った、と記憶している。

悪友が秘かに笑いを浮かべながら、
『お前・・そいつに云ったの・・どこまで進んでいるの・・』
と追い討ちをかけてきた。

『俺は・・XXさんに・・何にも云えてないよ・・』
と私は悪友に云った。

『駄目だなぁ・・俺なんか・・XX知っているだろう・・』
と悪友が、やはりクラスで活発な同級生の女の子の名前を明言した。

『あいつの家に云ったら・・たまたまあいつしかいなくて・・
あいつの部屋で話したりしている途中・・おっぱいが少し見えたので・・
俺はムラムラとして服を脱がしてしまって・・あいつ抵抗しなかったから・・はめちゃたよ・・』

『本当かょ・・』
と私は心の中で動顚し、あの活発な女の子が抵抗もしないで身体を許して、
こいつと性交までするなんて、信じられない、と私の方がドキドキした。


或いは私は三年生になると悪友たちと、下校の時に3回ばかり、好奇心の誘惑に負けて、
タバコを吸ったりした。

やがて私たちの行動が発覚して、私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『あなたの合格した高校・・言動に厳しいから・・
タバコなんて吸ったら・・退学ですって・・ご自分を粗末にするのはよしなさい』
と私は担任の先生から叱咤されたりした。
          

そして私は1960年(昭和35年)の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に云った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は云った。

私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
こうした根底には兄達、妹達もメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。

帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から云われたのだけれど・・
眼が悪いので・・メガネを掛けなさい・・と云われたの・・』
と私は云った。

父は私が小学2年に司教されていたので、母は外に働いていたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきたのである。

結果として、高校の入学から、私は生まれて初めて、メガネを掛けたのである。

そして宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、
こんなに視えるのかょ、と私は驚き、ため息をした・・。
          

そして私たちは卒業式を迎えて、
私は長兄、次兄のまったく関係のない都心の私立高校に入学することになっていたので、
早く中学校から出て、心気巻き直しのような心情で式にのぞんでいた。

http://www.youtube.com/watch?v=qqBqghm8oB4
☆Youtube《『仰げば尊し』 作詞、作曲・不詳、唄・コロンビア合唱団 》☆

この後の謝恩会で、担任の女の先生と逢った時、
『XXくん・・のびのびと高校生活に望んで下さいね・・そしてタバコ何かの悪戯ダメょ』
と先生は私に云われたりした。

『私も地元の学校から、初めて都心の高校に通いますので・・恥ずかしくないように頑張ります・・
先生には大変ご心配をお掛けしまして・・』
とこのような意味合いの言葉を重ねたのである。


余談であるが、やがて私は1960〈昭和35年〉4月に、都心の私立高校に入学し、
生まれて初めて授業の楽しさを実感させられ、成績も初めて上位に達した。
やがて高校の卒業式の帰路、私たち仲良しの3人は、ある繁華街の外れある寿司屋に入店した。

そして私たちはビールを吞み、寿司を食べたりした。
この間、私はタバコを3年ぶりかしら、と思いながら吸ったりし、何かしら解放感を深めたりしたのは、
私が18歳の1963〈昭和38年〉3月であった。

やがて私が40歳の時に民間会社の中小業に勤めて奮戦していた頃、
私にとっては甥っ子に当る妹の子供が中学を卒業した頃に、たまたま逢った時、
『叔父さんさぁ・・僕たちは卒業式の後、仲良しグループで呑み会をしたょ』
と聞き、最近の中学生は卒業式が終われば呑み会かょ・・時代が違うなぁ、
私は微苦笑したことが想いだしている。

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ブログの投稿文に写真を掲載してきた私、スマホの写真マナー違反を学び、赤面して・・。

2014-03-12 15:17:45 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業の会社に35年近く勤めて2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
まもなく本屋の書物からブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、早や9年半が過ぎている。

こうした中で、諸兄諸姉の皆様の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ7年ぐらい前の頃からは、殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもあった。
          

こうした一昨年の10月下旬の時、私たち夫婦は、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、周辺を散策した。
そして旅から帰宅した後、いつものように文章だけの散文のような投稿文を重ねた・・。

まもなく私の投稿文を読んで下さったひとりの女性からコメントを頂いた。
《・・それにしてもお写真がないのが、とても残念・・》
この女性はブログ上で、少なくとも3年に及び心の交流を重ねたひとりの方で、
私は美麗な女性と想像を深めながら、何よりも心清らかな奥方であった・・。
          

やがて私は、喚起させられて、『いま覚えなくて・・いつになったら覚えるのょ』、
と自身を叱咤激励しながら、ブログ上で写真を掲載をすることを決意した。

まもなく『文化の日』の翌日の4日に於いて、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞(こ)う人もいなく、
いろいろと彷徨(さまよ)いながら、これ以降のブログに写真を添付して、今日に至っている。
                                       
こうした中、私はコンパクトのデジカメを首廻りからネクタイのように前に提げて、
散策をする時の情景を撮ったり、或いは自宅から近い遊歩道、小公園、神社などを撮ったり、
恥ずかしながら自宅の小庭まで掲載したりし、何かと外出する時にデシカメを持参する習慣となってしまい、
当人の私でも変貌に微苦笑している。
或いは私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行に於いても、数多く撮ったりしてきた。

もとより私のブログは、写真の主体の『写真』ブログの範疇ではなく、
『随筆』そしてシニア系の『日記』に所属し、その日のあふれた思いを散文のように投稿文を綴り、
無念ながら筆力が乏しいので、写真は付属品のイラスト絵柄のような代わりとして添付している。
          
   

本日の朝、たまたまネットの【YAHOO! JAPAN】の『雑誌』コーナーを開き、
この中のひとつに《 スマホで気軽に写真撮影……マナー違反に気をつけて 》
と見出しがあり、恥ずかしながら携帯電話、そしてスマホも使えない私でも、
どのようなことなのょ、と思いながらクリックしてしまった。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140312-14031200-nhktextv-life
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
       <==『NHK出版』<==『スマホで気軽に写真撮影……マナー違反に気をつけて』☆

《・・◎撮影していい場所かどうかを事前に確認しよう
    私有地で許可を得ずに撮影するのは禁物。
    お店に陳列されている商品を無断で撮影することも避けましょう。
    レストランで注文した料理を撮りたい場合も、店の人の許可を得てから撮影しましょう。

   ◎知らない人をうつしてしまわないように周囲にも配慮して撮影しよう
    撮影を始める前に、被写体の近くに人がいないかを確認しましょう。
    たとえフレームに入っていなくても、カメラを向けられた人の気分を害するおそれがあります。
    また、撮影に夢中になって、通行人など近くにいる人の邪魔になっていないかどうかも確認しましょう。・・》

こうしたスマホの写真撮影のマナーを学んだりしたが、
私がデジカメで平素の日常生活、或いは旅先で数多く取ってきたが、やはりスマホと同一の撮影のマナーだ、
と瞬時に実感させられた。

そして果たして私はデジカメでマナー違反をしてきたか、と思い馳せると、
確かにあった、と思いだしたりすると、赤面して、うなだれた・・。


過ぎし2月2日より15日まで札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに、
私たち夫婦は滞在した。

こうした中で、定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を遊学してきた。

たまたま6日の時は、『さっぽろ雪まつり』が開催中であったので、
私たちは確か15年ぶりに観たりした。

大通会場で市民、観光客の多い中、札幌市内の小学低学年の児童を数多く見かけたりした。、

そして私は社会見学の授業の一環かしら、と思いながら、
それぞれの防寒着の背中に『XX小』を明記した標示の布地を付けて、
列を作って歩いたり、ふたりで談笑しながら歩いたり、雪像を真剣に見学したり、
或いは眩(まぶ)しげに雪像を視たりしている情景に、私は好感をしていた・・。

私はこうした児童の情景に好感が増して、デジカメで撮ってしまいたい衝動になったが、
ここ10数年、特にプライバシー侵害の問題もあるので、断念した。

この後、何かしら大きな雪像の前で、多くの園児と思われる幼い児が、
記念写真に伴い、それぞれ微笑んだりしている情景を見かけて、
防寒着も圧倒的に愛らしく、何よりもそれぞれの表情に魅了させられて、
少しばかりプライバシー侵害を配慮しながらも、こっそりと撮ってしまった・・。
          

この後、やはりプライバシー侵害もあり、反省をしたりした。

やがて雪まつりの会場の片隅に、ひとつの状景を見て、
これだったら問題がない、と私は微笑みながら撮ったりした。
         
こうした園児が幼いなりに創意を秘めたペンギン雪像、可愛いよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


そして後日の12日に、市内の中心街を私たち夫婦が散策していると、
場所名は忘れてしまったが、雪だるまを見かけて、私は撮ったりした。
         
性格もよさそうな雪だるまの表情に、作られた人に、誰からも愛される雪だるまだょ、と私は誉めたりした。

この後、荘厳な赤レンガの歴史を秘めた『北海道庁旧本庁舎』を初めて訪れたが、
由緒ある正門から入門すると、雪だるまが歓迎して下さるようにあった。
          
この雪だるまは、少し疲れ果てたのか少し斜めになっていた。

私は冬晴れで雪が溶けだして、基礎の部分が少し溶けて、雪だるまが少し斜めになってしまった、
と感じたりした。

この後、由緒ある『北海道庁旧本庁舎』であるので、
訪れる方には、緊張をほぐす為に、あえて最初からユーモア心で少し斜めの雪だるまを作られた、
と思い改めたりした・・。

いずれにしても、雪だるまは誰しも人生の苦楽を秘めて、哀歓の日常を過ごされる中、
多くの方を和(なご)ます容姿であり、
この冬の時節として私は見かけるたびに、微笑みを重ねてしまうのである。


このようなことも旅先であったので、やはり多くの園児を撮ったことは、
大変いけないことだ、と大いに反省して赤めている。

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東日本巨大地震から3年、無力な私は哀悼を秘めながら、黙祷を重ねて・・。

2014-03-11 11:28:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
洗面した後、主庭のテラスに下り立ったのは、朝の7時半過ぎであった。

そして襟を正して、北の東北地方の岩手県、宮城県、そして福島県の方面に向かい、
手を合わせながら長らく黙祷した・・。

もとより2011年(平成23年)3月11日のこの日、
観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、岩手県、宮城県、福島県などの太平洋の沿岸に、
大津波が発生して壊滅的な大惨事となった。

その上、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の諸国まで注視された。
そして私は恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、畜産、水産、 農地、牧草地、森林、水の汚染などに
影響をもたらした。

こうした中、 私はテレビでNHKのニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに心を震わせながら、
この世にこのような大惨事があってよいのか、と動顚したりした・・。

この間、大惨事の被大災した地域で、亡くなわれるた方が日ごとに増え、
私はただ呆然としながら、犠牲者の多数に悲しみに、ときおり黙祷をしたりしてきた。
そして特に、行方不明となられた方、せめてご遺体だけは、ご遺族のお手元に、と思ったりしてきた。
          

このような思いで、無力な私でも、その後の日常は、
テレビでNHKのニュースを視聴したり、読売新聞を読んだりして、
この大惨事に関して、本を買い求めて、読んだりしてきた。

この年の6月下旬に、ノンフィクション作家の佐野眞一(さの・しんいち)氏の著作『津波と原発』(講談社)、
武田邦彦(たけだ・くにひこ)氏の著作『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』(産経新聞出版)
9月中旬に、作家・曽野綾子(その・あやこ)氏の著作『揺れる大地に立って ~東日本大震災の個人的な記録~』〈扶桑社)
この三冊の単行本を精読した。

そして一年過ぎる前、『文藝春秋』の3月臨時増刊号として、
『3.11から一年 100人の作家の言葉』を購読したりしてきた。

この間、月刊総合雑誌の『文藝春秋』は、定期購読していたり、
特集に関心があった時、月刊総合雑誌の『中央公論』、『新潮45』などを買い求めたり、
藤原正彦(ふじわら・まさひこ)氏・著作『管見妄語 始末に困る人』(新潮社)、
佐野眞一〈さの・しんいち〉氏の・著作『劇薬時評 ~テレビで読み解くニッポンの了見~』(筑摩書房)、
もとより時事批評文も掲載されているので、多々教示されてきた。

東日本震災と福島原発には、無力な私でも動顚しながら、
心の片隅みに深い痛手が、今でも残ったりしている。

そして佐野眞一〈さの・しんいち〉氏の『劇薬時評 ~テレビで読み解くニッポンの了見~』(筑摩書房)の中の一節を引用すれば、
《 津波と放射能洪水は、従来の常識をすべて押し流した 》
と教示され、確かにそうですよねぇ、と深く同意させられた。

こうした生活を過ごしてきた私は、この世に安全などはない、と改めて実感させられたりした。

このようなことを心の片隅に秘めながら、過ごしてきた。
          

この後、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりした中で、
《・・東日本大震災による死者は、12都道県で計1万5884人。行方不明者は2633人に上る。
仮設住宅や借り上げ住宅などで暮らす避難者は26万人余りで、
うち原発事故に伴う福島の避難指示区域では約8万人が避難生活を強いられている。・・》

こうした余りにも過酷な現実を改めて学び、齢ばかり重ねた私は、想像を重ねると、
涙を浮かべたりして、うなだれたりしている。

尚、私もこのサイトに東日本震災と福島原発に関して、
無学なりに数多く投稿してきたが、重複をさける為に省略する。

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69歳の私、殆ど毎日ひたすら自宅周辺を散策するのは、認知症を回避したく・・。

2014-03-10 15:27:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

そして現役サラリーマン時代の時は、更に利便性の良い『成城学園前』駅を最寄駅と活用し、
年金生活の今でも、都心に買物に行く時、或いは国内旅行に行ったりする時は活用している。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
          

このような地域でも、私の自宅周辺は住宅が密集しているが、数分歩けば、
野川が流れ、この両岸には遊歩道があり、小公園もあり、住宅地としては緑が豊かである。
          

このような辺鄙な処に住み、私の生家に近くあり、
この地域に結婚前後の5年を除き、早や63年が過ぎている・・。

私は2004年(平成16年)の秋に定年した直後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
       

私はこれまでの60代の9年半の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、認知症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしている。

そしてせめて私が75歳、家内が70歳を迎えるまで、五体満足で生かして頂きたいと切望するが、
しかしこればかりは天上の神々の采配に寄ることである。
          

今朝、澄み切った青空が拡がり、ぼんやりと最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅周辺で、
買物に行こうと、思ったりした。

やがて10時半過ぎに私は自宅を出て、あれぇ雲が七つぐらい出てきた、
と微苦笑しながら歩いたりした。
          

この後、小学校の下校時に歩いた旧街道を10分ばかり歩くと、
音楽専門学校の桐朋学園仙川キャンパスの脇道に出た。
          

そして校門のひとつから、早咲きの桜かしら、と思いながら、撮らせ貰ったりした。
          
しかし今年は30何年ぶりの寒い冬だったので、莟〈つぼみ〉であった。
やがて一週間過ぎれば開花するだろう、と微笑んだりした。

そして商店街を抜け、駅ビル内の本屋で、3冊ばかり買い求めた後、
家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』で、
フランスパンとケーキのような菓子パンを購入した後、
帰路に向った。

この周辺も関東大震災で焼失した東京の下町一帯にあった寺院が、
この地帯に移転して数多くある。
          
そしてある寺院には山門の前に、格言が掲げられたりしている。
          

          
私は足を止めて、精読すると、私は齢ばかり重ね、つたない身だ、と実感させられた。

やがて私は自宅に向かい、長い坂を下っていると、ひとつのことを思い馳せたりした。


私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。

もとより高齢者の方は齢を重ねれば、認知症とも称される痴呆症、寝たきりなどの確立は増すし、
私自身は衰えた体力で日常生活のふるまいの中で、確かな言葉を発言しているうちに、
いつの日にかポックリと死ねたらと念願している。

まして自身が意識なく植物人間のようになって、
生き続けるぐらい当人はもとより、家族の人たちまでが不幸であると思っている。

そして私は寝たきりになった場合は、三ヶ月過ぎたら、
意識のあるうちに自裁する、と決意しているひとりである。

このような私自身の人生の中の健康に対する思い、そして死生観の思考があるが、
昨今の会社時代の懇親会などで、
こうした思いを少し上の先輩の方、同僚たちに一部を発言すると、
困惑する方、或いは嫌な顔をされる方が多く、
私は世間からかけ離れているのかしら、と思ったりしてきた・・。
                                    
このような私なりの深い思い根底にあったが、
偶然に2010年8月下旬の頃に、帯津良一(おびつ・りょういち)氏の雑誌での発言が、
新聞の出版広告で偶然に読み、
この雑誌が女性専用誌の『婦人公論』と知り、私は買い求めて精読した。

この医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)氏の発言された概要を記載させて頂く。
《・・(略)
私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」
と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、
さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。
          

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのはせいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、
どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」
という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。
(略)・・》

このような秘伝を、この後に6つばかり披露して下さったのである。
          
そして私は、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、深く感じて、
これ以降、氏に注視して、信愛を重ねている。

このようなことを思い重ねて坂道の歩道を下り、やがて自宅が視えたりした。

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老後の保険、何かと思い込みの激しい69歳の私、改めて復習すれば・・。

2014-03-09 16:20:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎ去り年の2004年(平成16年)の秋に、中小業の民間会社のサラリーマンを定年退職する6年前の頃、
業界はリストラ烈風となり、定年する5年前に無念ながら『出向』と会社より辞令された。

そしてこの時に、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合い、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで老後の歳月を過ごすので、
結果としては残された人生はお互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたした。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたのである。
          

そして私たち夫婦は、雑木の多い小庭のある中で、古惚けた一軒屋に住み、
お互いに厚生年金、そしてわずかな厚生基金の年金を頂き、生活の基盤とし、
共通趣味の国内旅行、予期していなかった耐久品、或いは冠婚葬祭などは、程々の貯金を取り崩して生活している。

定年退職後の年金生活を始めた直後、私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした時、銀行の方から、『一時払い終身保険』を勧誘させられたりした。
しかし10年間の運用利回りが良いと言われても、長期に及び資金が固定されてしまうので、
魅力は感じることなく、対象外とした。

この直後、支店長から3分の2はある投資信託で高い金利、
残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、
と勧誘するように助言されたりした。

しかし私たちは、もとより金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、安全な国債などしたのである。

もとより私は小心者のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

そして、貯金関係は殆ど国債の元本保証プラスわずかな金利、そして定期貯金を選定したのである。

国債が絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は日本が滅びる時である・・
その時は私たちの生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。
          

こうした中で、保険関係をすべて見直して、
現役時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。

やがて私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

そして2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は言われたりした、と家内の帰宅後に私は教えられた。

この後、少しばかりのんびりとした私は、
現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

或いは遠い親戚の叔父さんが3度ばかり入退院されて、たまたま私は、
《・・70歳未満の場合は、年収が約210万~790万円の一般所得者は、
一か月当たりの自己負担の上限を8万100円・・》
と教えられ、何かと思い込みの激しい私は、そうなんだ、と教示させられたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。
         
そして、私は解約の手続きを開始したのである。
          
私たち夫婦は、年金生活を7年過ぎた頃であった。
家内は、年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあればと思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。


その後、私が秘かに季節ごとに逢える恋人のように購読している季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)を
2012年(平成24年)10月下旬に、駅前の本屋で買い求めたりした。
       
たまたま《 老後のお金 》の特集であり、
表紙の右上には《 今すくに出来る65歳からの賢いお金の使い方 》と明記されていたので、
何かと小心者の私にとってびったりの内容だ、と思いながら精読し、多々教示された。

そして経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、やはり高齢者にとっては預貯金が肝要である、と思ったりした。
         

このような保険に関しだけは、
一昨日の7日に『年金生活の我が家、保険の見直しをした中、『ちょこっと共済』に微笑み・・。』と題して、
このサイトに投稿した。

昨日、麗(うるわ)しき女性で何よりもお心の清らかな人より、
《・・70歳未満の場合は、年収が約210万~790万円の一般所得者は、
一か月当たりの自己負担の上限を8万100円・・》についてコメントを頂いたりした。

やがて私は、厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を見たり、
この後に、『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)を再読したりして、
何かと思い込みの激しく、ときおり勘違いの多い私は、違っていたょ・・間違いだったょ、
と赤面したりした・・。
          

今回、『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)の特集の《 老後のお金 》の特集の中のひとつ、
《保険編》に付いて、ライフネット生命保険代表取締役副社長・岩瀬大輔(いわせ・だいすけ)氏の寄稿文を
無断ながら要約させて頂く。
             

《・・現役から退いた高齢者には原則として『生命保険』は必要はない・・
長年加入してきた『生命保険』がある場合は解約して、その資金を老後間の生活費に充当すべきた。

「自分の身に起きる確率の高い事象」については、保険では貯蓄等の資産形成によって準備されるべきものである。
老後の生活費は必ず必要になることが分かっているお金てある。
「偶然の事故に備えて大勢が少しつづお金を出し合う仕組み」である保険には適さない。

老後の生活に入ってからの死亡や病気は「発生確率が低い事象」ではない。
誰しも老いたら体は弱くなり、病気にも罹(かか)りやすくなる。
保険数理的には十分に起こり得る事態なのであるから、
しっかりと現実と向き合って備えるべきの事柄である。

老後の生活において私たちにふりかかる死亡・病気等の事象に対しては、
原則として保険ではなく貯蓄による現貯金で対応すると考えるべきである。

追加の収入がなかなか見込めない老後の生活においては、いかに自由になる資金を確保するかが大切である。
人生の最終ステージに入った後は、もっとも憂慮すべき「万が一」のリスクは、
死亡や病気ではなく、悲しいことだが想定以上に長生きしてしまうこととも言えるかも知れない。

このような観点からも、『生命保険』の入り方はついては慎重に検討されたい。
          

『生命保険』は「何に備えるか」という観点から、大きく三つに分けることができる。
◎死亡による所得喪失(死亡保障)
◎病気による医療費支出(医療保障)
◎長生きのための費用(生存保障)

死亡による所得喪失に備える保障は、定年退職してからは働いていないわけだから、
失うべき「所得」がそもそも無い。
子供たちはもう独立しているから、経済的に困る家族もいない。

世帯主が亡くなっても、残された配偶者に年金が支給され続ける。
老後の生活は、これまで形成してきた資産と、年金に頼ることになる。
従って、老後の生活において死亡保障は不要と考えるべきだ。
          

医療保障は貯蓄で対応。
高齢者になれば医療費の自己負担金額はさほど大きくない。
公的医療保険は70歳以上の高齢者であれば、自己負担一割で医療は受けられる。

その上、高額医療費制度によって、高齢者は自己負担額は限定されている。
70歳以上であれば、外来の場合、毎月の上限額は1万2000円となっている。
(現役並みに課税所得がある人は、4万4400円)

このような理由から、「いざという時に医療費に回せる貯蓄が数百万円あれば、
民間医療保険は必要はない」。

このように公的医療保険が手厚い理由は、民間保険と異なる三つの性格を持っている。
◎公的医療保険は持病があるか否やによって保険加入を拒まれることはないし、
 保険料が高くなることもない。
 健康な人がその分も負担しているので、健康リスクの移転が行われている。

◎社会保険料は所得比例となっているが、給与が高い人が病気になる確率が高い訳ではなく、
 所得の再分配も行われている。

◎高齢者の公的保険は、実際には現役世代からの「仕送り」によって、
 大半が賄われているので、世代間の所得移転がある。

もとより財政が逼迫する中、医療費の抑制を目的として、今後の高齢者についても
自己負担額の増加が求められる可能性がある。
それでもなお、高齢者の医療と年金をある程度、保障することは現代国家の中核の責務である。
          

生存保障・介護保険は入るべきか。
老後でもっとも心配なのが、介護の費用・・
「要介護」の手前の「要支援」、或いは重度の「要介護」の実態分布を明確にした後、
その上に民間の『介護保険』が説明されている。

そして老後資金の中から、80歳を超えて長生きした時の介護資金として、
500~1000万円程度は介護資金として織り込んでおくか、
まさにそれぞれの人の「保険観」によって決まることになろう。


もっとも、以上は現状の介護保険制度が前提としている。
財政が逼迫する中、今後は制度が見直しされることも充分ありえる。
その場合は、公的保険も民間保険も共に、給付条件等を見直される可能性がある。

この場合でも確実に頼りになるのは現金だろう。
手元にある程度自由になる現預金を確保しておくことが不可欠だ。・・》
          

このように私は岩瀬大輔氏の寄稿文から、多々教示を受けて、
程ほどの現預金だけしかない我が家は、公的の国民健康保険、介護保険を頼りに、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約し、現預金の目減りを程ほどに抑えてきたことが、
正解だったかしら、と私は微苦笑している。

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東京郊外で小雪が舞い降ると、ときには単細胞の私は『なごり雪』の歌を唄い・・。

2014-03-08 13:53:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69の身であるが、
昨日、いつものように平素の買物担当者の私は、スーパーに行ったりしたが、
少し寒いじゃないの、と思いながら往還したりした。

何かしら天上の気候の神々の采配に寄り、冬将軍が来週の火曜日まで居座り、
各地では平年より寒く、日本沿いの街は雪と風に遭遇している、
と私はテレビのニュースで視聴したりしてきた。

女の子の祝賀会の『桃の節句』も終えた今、どうしてなのょ、と私は空を見上げたりした。

そして午後の2時過ぎに、私は居間でぼんやりと本を読んでいたら、
『貴方・・雪が降って来たわ』
と家内は私に教えてくれた。

私は窓辺から小庭を見ると、確かに霙(みぞれ)でなく、小雪が舞い降っている。
そして私は、今頃に雪かょ、と思いながら、小庭にあるテラスに下り立った。

白梅、紅梅の満開の中、小雪が降り、数分眺めたりしていると、何かと単細胞の私は
『なごり雪』の歌をかぼそい声で唄ってしまった・・。
          

もとより『なごり雪』の歌は、過ぎ去り年の1974年(昭和49年)の当時、
この前後、時代を旋風させた南こうせつ、伊勢正三、山田パンダの三氏による『かぐや姫』の4枚目のアルバム『三階建の詩』の中で、
『22才の別れ』と共に今日でも名曲として、多くの音楽ファンから親しまれている。

そして『なごり雪』は、伊勢正三氏が作詞・作曲した歌、としても多くの方に知られている。

私はこの当時、たまたま音楽業界のあるレコード会社に勤め、
音楽に直接携わる制作ではなく、裏方の管理畑で奮戦していた。

そして『かぐや姫』、イルカさんの専属契約されたレコード会社とは無縁であるが、
風の噂として、かぐや姫の所属していた『ユイ音楽工房』の中に、
不遇なイルカさんに、この当時の『ユイ音楽工房』の後藤由多加・社長が強力に斡旋して、
やがてイルカさんは、ためらいながら唄いだした、と私は聞いたりしていた。

その後、イルカさんは、歌唱力もある上、説得力や表現力も優(すぐ)れ、
イルカさんの代表曲と知られているのは周知の事実でもある。
http://www.youtube.com/watch?v=4IT_ZHGsQXw
☆Youtube《『なごり雪』 作詞、作曲・伊勢正三、唄・イルカ》☆

私は体力の衰えた男性であるので、もとよりイルカさんのように唄えないが、
作詞・作曲された伊勢正三氏も唄われた、と知っていたので、
せめて真似事のように、かぼそい声ながら唄ったりした。

やがて、私の音痴に近い唄声の為か、小雪が止んだ・・。

その後、午後3時半過ぎに再び小雪が降りだして、
やむなく私は心の中で唄ったりした。

やがて30分過ぎると、小雪は止み、地面には積雪も残らず、春先の名残り雪のひとときであった。
そして天候は急激に回復して、夕暮れ5時には青空となり、
天候のめまぐるしい午後に、私は苦笑したりした。

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年金生活の我が家、保険の見直しをした中、『ちょこっと共済』に微笑み・・。

2014-03-07 15:05:39 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが。、
中小業の民間会社に35年近く奮闘し、2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
その直後から年金生活をしているので、9年生となっている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたのである。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

年金生活を始めてまもなく時、保険関係をすべて見直して、
現役時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。

やがて私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

その後、私が秘かに季節ごとに逢える恋人のように購読している季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)を
2012年(平成24年)10月下旬に、駅前の本屋で買い求めたりした。
          

たまたま《 老後のお金 》の特集であり、
表紙の右上には《 今すくに出来る65歳からの賢いお金の使い方 》と明記されていたので、
何かと小心者の私にとってびったりの内容だ、と思いながら精読し、多々教示された。

そして経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、やはり高齢者にとっては預貯金が肝要である、と思ったりした。


こうした思いの根底には、この前年の2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は言われたりした、と家内の帰宅後に私は教えられた。

この後、少しばかりのんびりとした私は、
現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

70歳未満の場合は、年収が約210万~790万円の一般所得者は、
一か月当たりの自己負担の上限を8万100円としている。
《訂正・たとえば100万円の医療総額の場合は、標準として実質の自己負担額は87430円
  2014年3月8日午後8時 》

こうした明確な条件であったら、我が家としては、
『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。
         

そして、私は解約の手続きを開始したのである。

私たち夫婦は、年金生活を7年過ぎた頃であった。
家内は、年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあればと思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。


こうした中、年金生活を始めた翌年に、
東京都の住民である私は、わずかな掛け捨てで、交通災害保険を知り、加入した。

何かしら 『ちょこっと共済』と称された可愛らしい名称で、
自動車、電車、船舶、航空機などの交通機関で、万一交通事故に遭われた時、
わずかであるが保証される保険である。
              

年金生活後から平素の買物を自主的に専任者となった私は、本日スーパーに買物をする前に、
最寄の 銀行に立ち寄り、今年の平成26年の『ちょこっと共済』の掛け捨ての保険、
私と家内のふたり分2000円を支払い、手続きを完了させた。
          

最初に加入した当時の私の記憶に寄れば、
《 みんなで一緒。ちょこっとサイズのたしかな安心
                 小さな交通事故もカバーします! 》
と明示されて、
たとえばひとり年額1000円の保険料で
不幸にして最悪の死亡となった場合は、300万円の見舞金が受け取れる保険である。

私は定年退職後は、反射神経が鈍(にぶ)くなった感じ、その上に小心者の為、
万一、交通事故で人さまに傷つけたりして被害者はもとより、加害者の私でも心身の傷を深く残すので、
自動車の運転免許証の更新時に破棄して、自動車の運転を断念したひとりである。

こうした中で、私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
路線バス、私鉄沿線などの公共交通機関に恵まれた処であるが、
何よりも歩くことが健康の源〈みなもと〉であると確信している私は、
買物、散策などは路線バスにも乗らず、歩いたりしている。

そして駅までの15分前後の道のりも、冠婚葬祭、旅行などの時以外は、
バスなどに頼らず、ひたすら歩いたりしてきている。

家内も64歳となった今、栄養剤のビタミンなどの薬に頼らず歩くことが何よりだわ、
と遅ればせながら一昨年から目覚めて、私たち夫婦は遊歩道、大通りの歩道を歩いたりしている。

しかしながら年金生活を私が始めた当時、大通りの歩道を自転車で疾走する下校時の学生、
買物の主婦など、中には携帯電話を話したり、見たりする方たちがいて、
何かと前方を不注意の方も見かけたりした。

或いは、我が家の近くの大通り、そして住宅街でも、
特に高齢者の方が覚束ない自動車を運転される方たちを見かけたりしてきた。

こうした状況を見かけて危惧してきた私は、万一、交通事故に事故に遭遇した時の用心として、
この後に、『ちょこっと共済』加入した。
          

そして、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつなので、
旅行先で万一交通事故に巻き込まれた時のことを配慮したりした。

私たち夫婦は、それぞれが毎年1000円ほどの掛け捨て保険をして、
確かに若き時代よりも、身体は衰え、少しボケてきたと感じる時もあり、
外出の時のお守り代わりに加入して、早や9年を迎えている。

この間、『ちょこっと共済』のお守りの効力の為か、
幸いにして私たち夫婦は交通事故に遭遇しないで、無事に今日に至っている。

尚、この『ちょこっと共済』は、それぞれの都道府県別の自治体で、
運営管理されている、と私は保険に詳しい友人から教えられたりしている。

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過ぎし年に私はサラリーマン出向時代、立場の弱き人々から多々を学び・・。

2014-03-06 16:43:31 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳であるが、
民間会社の中小業のサラリーマンを35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に卒業した身である。

ときおりサラりーマン現役時代を振り返る時、どの方でも体験されたと思われるが、
それぞれの方の人生軌跡に於いて、その時、それなりに決定的な決断が差し迫られることがあり、
そしてその方のご自身のその後の人生に、大きく影響させられる時点もある。

私の場合は、サラリーマン最後の5年間が出向となったが、
この出向が提示されて決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。
          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだりした後、
この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、何とか中途入社出来たのは、
1970年(昭和45年)の4月であった。

そして配属された音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、
まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

こうした中で1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。

こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
私は1970年(昭和45年)の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。

そして激動の1998年(平成10年)の前後、先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

このような情況の中、やがて私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》と思いがあった。

もとより周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、出向とは予測もしていなかったのが本音であった・・。
          

私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外として感じたので、
つたない私でも屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。

そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、
或いは製造先からの入荷などもあり、保管などの業務管理を行っていた。

私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、大きな倉庫が3棟あり、
こうした中で音楽商品の棚が立ち並び、およそ15000ぐらいの種類の商品があった。

そしてセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

それまでの私は、30年近く本社勤めであったので、
各部門間で男性正社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。
          

やがて私は若手の契約社員、アルバイト、そして女性パート人達と業務上の打ち合わせ、親睦会、
そして現場での立ち話したり、管理部門として立場で、社内の事情を把握するにつれて、
意外と賃金を含め冷遇されていると解かってきた。

そして物流現場で多くの人達に効率よく動いて頂く為に、上に立つ方に様々なタイプがあることを知った。
短絡的に云えば、あたりは柔らかく指示するタイプ、或いは威圧的に形で指示するタイプであった。

私のそれぞれの若手の男性の10名、そして女性のパートの120名前後のお方に性格を知る必要があると思い、
ともかく私なりに脳裏に刻み、 多くのお方のその人なりの長所と短所を覚えた。

私は出向の身分で、ある面の責務は物流会社にゆだねられることもあった為か、
あたりは柔らかく接することができ、たとえばミスなど気付いた場合、
その当人の性格を加味し、人前を避けて注意したりした。

もとより再発防止が目的であるので、威圧的に行っても当人が傷つく場合が多いので、
これは私の性格からして避けたのである。
そして物流センターの現場では、出来る限り笑顔で大きな声で接していた。

そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私がが30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりした。

こうした中、私の出向元のレコード会社では、出向先の物流会社に対して、物流コストの削減を要請され、
結果として若手男性の契約社員、アルバイト、そして女性のパートお方達の時間給の削減、そして解雇が行われた。
私は内面心の板ばさみとなり、労苦の多い時期でもあった。
          

やがて私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に、何とか定年退職を迎えられたのである。

まもなく出向先の物流会社で私の歓送会を開催して頂き、
女性のパート方達から花束、贈呈品、そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを見た時、
涙があふれそうになり困ったのは事実である。

私は現場で立場の弱い人達から、限りなく多くの心の勉強をさせて頂いた。
指示する立場であれ、傲慢さをなくし謙虚な言動がいかに大切なのかを、
改めてこの人たちから多々学んだのである。

私は殆どレコード会社の本社で情報畑、管理畑で30年、その後の5年は物流会社に出向で、
サラリーマン生活を終えたのであるが、
今でもこの物流会社で出向したことは確かな心の節度として、かけがえのない貴重な財産と思っている。
          

そして、私は出向身分であったので、何とかリストラ烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

されど私の心の片隅には、最期には出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
結果的には幸運の星と思ったりしている。
          

余談であるが、出向元のレコード会社の有志が、退職後まもない時、
私の為に歓送会を開いてくれた。

その席のひとりのお方は、すでに早期退職優遇制度でお辞めになった二歳ばかり齢上の人であるが、
散会後に私のそばに近づいて、
『実は・・俺に物流会社の出向先の話がアンタより先にあったの・・
俺の前に確かひとりいた・・いずれも断わったので・・
人事の取締役・・やむえずアンタにお願いしたと思うよ・・ 悪かったけどねぇ・・』
と二歳ばかり齢上の人から私は初めて実情を知ったのである。

この後、私は過ぎ去った5年の出向期間を思い浮かべたりし、
《結果して・・俺は第3の男かょ・・》と心の中で、呟(つぶや)いたりした。

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この世に、果たして一円玉、五円玉は必要かしら、と齢ばかり重ねた私は妄想して・・。

2014-03-05 13:32:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
過ぎ去る10日前の頃、門扉の近くにある郵便受け入れ箱を見ると、
3通ぱかりの輸送された中、ひとつのチラシが入っていたので、居間に戻った後、見たりした。
             
そして『通常はがき』が現在の50円から4月1日より52円になることを知ったりした。

しかしながら我が家は、ここ数10年『通常はがき』は利用するのは、年に一度あるかないかであり、
ネットの電子メール、或いは電話連絡で用件は完了している。

こうした中で、新年のご挨拶として、年賀状の葉書を年に一度、郵便局で50通前後買い求めているが、
わずか2円アップで、2,500円が2,600円になるのか、と微苦笑したりした。

そして年金生活の我が家は、預貯金などは程ほどであるが、一円玉、五円玉だけは数多くある。


私は民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は料理、洗濯、掃除などがあり、
私の現役時代は小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。
           
               
殆ど毎日のように家内からの依頼品をスーパー、専門店などに行ったりしているが、
買い物を精算すると、殆ど10円玉、5円玉、1円玉のおつりがあり、
私の財布から、やがてはあふれてきた。

私はレジの込み合っている中で、齢ばかり重ねた私でも日本男児のひとりとして、
恥ずかしながら10円玉、5円玉、1円玉で支払うことが出来なかったのである。

帰宅後、私の困惑した表情を察した家内は、私にひとつの貯金箱を私に渡してくれた。

確か18年前の頃、家内が郵便局で頂いた郵便ポストの形をした赤いプラステックの貯金箱がある。
                    
          ☆平素は居間の片隅みあるが、今回は記念撮影で特別に移動させた☆

これ以来、私は買い物を終えた後、財布から10円玉、5円玉、1円玉を取りだして、
この赤いプラステックの箱に入れたりした。


私は散策したりする時、ときおり自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求める時、
できる限る財布の中にある10円玉を使うことが多くなっている。

或いは買物を終えた後、近くの神社、お寺を参拝したりすると、
お財布にある5円玉、1円玉、そして百円玉ひとつをお賽銭箱に入れたりしている。

しかしながら買物する機会が多いためか、
やがて可愛らしい箱の中が満杯となった時、銀行に入金すると5000円前後が多く、
私はパソコン用のプリンターの用紙、インクの購入費にしたりしてきた。
          

このように私は過ごしてきたが、来たる4月1日より、
時の政府が『社会保障の財源を確保し、財政再建を図る』と命題に基づいて、
消費税が5%より3%アップの8%が実施される。

少しボケた私は、商品を買い求める時、消費税8%込みの価格にして下されば計算も解り易い。
そして価格設定に際して、切り捨てか切り上げか解らないが、
10円単位のすれば、更に良し、と強く願ったりしている。

私は常日頃、果たして世の中に5円玉、1円玉は必要かと妄想することもある。
しかしながら、たとえば金利ひとつ取っても、国はもとより、多くの人に影響大の難問となるので、
やむえないかしら、と苦笑しているひとりである。

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私のブログ投稿文、通信簿44歳と採点され、69歳の私は微苦笑して・・。

2014-03-04 15:11:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
中小業の民間会社を35年近く奮闘して定年退職を2004年(平成16年)の秋に迎え、
まもなくブログの世界を知り、色々のブログ・サイトに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の新春に加入した。

この後、他のブログ・サイトに夢中になり、二度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿し、
ブログ歴は9年生となっている。
          
先ほど、【gooラボ】のサービスのひとつとして、
『ブログ通信簿サービス』があり、こっそりと受験をした・・。
          
この『ブログ通信簿サービス』の『ブログ通信簿』は、
《 このブログ通信簿は、あなたのブログを分析し、通信簿を作成するサービスです。
  早速、あなたのブログのURLを入力して通信簿を作成してみましょう。 》

そして、この前提条件としては、
《 通信簿は最新記事10件から分析されるため、内容により結果は変わります。
  本サービスは、ブログを楽しくご利用いただくための試みであり、
  ブログや作者個人を評価するものではありません。 》

このように明記されたので、私はブログURLを入力した・・。

そして、下記のように『私のブログ通信簿』が表示された・・。
                                

私は小学・中学生の時は、学業の通信簿は『2』と『3』の多い劣等生だったので、
このような結果になったのかしら、と微苦笑したりした・・。

そして何よりも驚いたのは、【ブログ性別とブログ年齢】・・採点の私の結果・・性別の『不詳』はともなく、
『44歳』と診断されたことである。

この直後、44歳かょ、と我ながら驚ろきながら、苦笑した・・。

私は投稿文には殆ど69歳と明記しているが、ご近所の奥様たちの多くから、
貴方はお歳よりお若いわぁ、とおだてられる社交辞令の言葉を受けて、
単細胞の私は体力は衰えても常日頃ひと回り若い57歳前後かしら、
と自惚(うぬぼ)れたりすることもある。

しかしながら《過去最新記事10件から分析される》の規定があるので、
やはり世間の苦労も足りないと痛感することもあるが、
投稿内容、そして感性が若いかしら、と微苦笑したりした。
          

私は年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴っているが、今回の評価に戸惑ったりている。
                     

☆【主張度】・・・採点の私の結果・・『1』
《 主張度は、ブログにどれだけ自分の意見や感情などを書き込んだかによって決まります。
  「5」が最もこのような傾向が強いことを表します。》

私の投稿文はここ2年ぐらいは、少し抑制して綴ったのかしら、と苦笑した・・。
私はは政治、経済などで、余りにも心の節度が欠落した言動を新聞で読んだり、
或いはテレビのニュースを視聴した時、休火山が爆発したかのように投稿したこともあった。

たとえば過ぎし民主党の鳩山政権の時は、園児のような言動、
管政権の時は高校の生徒会のような言動、
と辛辣に投稿したことがあったが、糠(ぬか)に釘(くぎ)のような結果となり、
時間の浪費と思い、その後は政治の話題を減少させたので、こうしたことが影響しているのかしら、
と苦笑したりした。


☆【気楽度】・・・採点の私の結果・・『1』
《 気楽度は、ブログの中にある、ポジティブな表現とネガティブな表現との比率によって決まります。
 例えば、「楽しい」などポジティブな内容がたくさん書かれている場合は「5」になります。》
 
私は真摯に綴り、ときには楽しく投稿文を認(したた)めているが、
たまたまこのようなことが反映された、と微苦笑したりした。

しかしながら私の根底には、平素の日常生活の実態は、齢ばかり重ねた私でも、
中年以上の女性のしぐさ、表情、そして言葉が何よりも「ときめく」ので、
ご近所の奥様たちとの私のさわやかな会話を綴れば、少なくとも『4』以上は自信ある、
と秘かに思ったりしている。
          

☆【マメ度】・・・採点の私の結果・・『4』
《 マメ度は、ブログの更新頻度によって、判定されます。更新頻度が高くなると「5」になります。》

日に少なくとも1通は投稿し、駄文が多く恥ずかしい限りであるが、単純に反映されただけ、
と実感を深めたりした。

☆【影響度】・・・採点の私の結果・・『2』
《 影響度は、あなたのブログがどの程度引用されたかを統計処理して算出されます。最高が「5」です。 》

私は幾つになっても人生の不勉強で、ときおり反省することもあるが、
何よりも確固たるテーマで文章修行を重ねて、心の深淵まで表現しなさい、と解釈し、
うなだれたりしている。


☆☆【通信欄】
《 主張度、気楽度、マメ度、影響度から総合的に判断しています。
  また、「話題」や「目指すべき職業」も文書の内容から推定しています。 》

私の採点の私の結果は、
『あなたは「保健委員」タイプです。
良いリーダーを見つけてブレインになりましょう。

もっと自分の意見を言っても、ものごとの良い面にも目を向けましょう。
随筆家を目指しましょう』
このように明記された。
          

私は「保健委員」タイプと採点されて、大いに戸惑ったりした・・。

遠い昔の50数年前の高校時代に於いては、恥ずかしながら風紀委員に選出され、
ある一時時期に、副校長か教頭の先生と共に、毎朝校門の脇に立ち、
登校してくる同級生などの服装をチエックする立場であった。

しかし、私が可愛いと思った女子生徒の表情、しぐさに見惚(みと)れることが多かったので、
もとより風紀委員としては失格だった、苦い体験もあったりした。

          
定年退職後の年金生活の今としては、年に数回ぐらいは、
心の深淵まで表現した投稿文を書きたい、と思ったりしているが、
怠(なま)け者で、何かとぐうだらな生活を過ごしている私は、随筆家は遥かに遠い世界である。

今回、たわむれに『ブログ通信簿』に挑戦したが、
このような採点、診断結果を授与したが、
たかがブログ、されどブログ、海のように深い世界であると思いながら、微苦笑している。

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過ぎし若き31歳の時、生まれて初めてお義兄(にい)さん、と私は呼ばれ・・。

2014-03-03 14:57:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。

私の妹は1969年〈昭和44年〉の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年〈昭和50年〉の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。

その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。
          

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、妹の2人がいる。
こうした中で私は兄2人、妹が2人でサンドイッチのように育てられた。

そして私たち兄妹は、お互いに名前の『・・ちゃん』付で呼び合うことが多く、
たとえば私が次兄を呼ぶ場合は、・・ちゃん・・ねぇ、と呼んだり、
或いは妹のひとりが私を呼ぶ場合も、・・ちゃん、と私は呼ばれたりしていた。
          

こうした中で、家内となる実家に私は結納後もしばしば訪ねた。
家内は両親の元で長女であり、妹の次女、弟の長男のいる5人家族であった。

家内の両親は、私をXXさん、と名前で呼ばれていた。
次女の方は、あらぁ、いらしゃませ、と挨拶をされる程度であった。

やがて私たちは結婚し、新婚旅行からの新居となる賃貸マションに帰宅した時、
家内の母と次女が待っていてくれて、
それなりの懇親会とした・・。

私が和室に居る時、
台所にいる家内の母が、
『これから、お義兄(にい)さん・・と呼ぶのよ・・』
と次女に小声で云っているが聴こえた。

そして和室に私たち4人がビールを呑みながら、
私は新婚旅行の失敗談などを話しかけていた時、
『お義兄(にい)さん・・それは大変でしたね・・』
と次女から突然に云われ、私は戸惑ったりした。

私は考えれば長女と結婚したのであるから、
三男坊の私さえ、義長兄となったので、当然の結果であるが、
何かしらくすぐったいような心持となったのである。
          
これ以来、私は家内の実家で逢ったり、冠婚葬祭、外で逢ったりした時など義長兄として、
少し責務を感じながら、ささやかに遠慮、配慮などの気配りで、
言葉を交わしたりしてふるまってきたので、
お互いに38年近く、今でも良好な関係が続いている。

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三浦朱門・著作『妻への詫び状』、古希を迎える男性の必読書だ、と私は微苦笑して・・。

2014-03-02 16:43:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日に続き本日も霧雨が降り続き、先程ぼんやりと本棚の数多くの本を眺めた後、
一冊の本を抜き出して、再読したりした。

私は今年の9月の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となり、
心身溌剌と過ごしてきた60代にお別れとなり、
この9年半過ごしてきた年金生活の中、ひたすら享受してきたので、
もとより愛惜を深めているが、無念ながら半年過ぎれば60代は卒業して、70代となる。

私が本棚からひとつの本を取りだし、再読したのは、
三浦朱門・著作『妻への詫び状 老いれば頑固に生きるがいい~』(光文社)である。

この本を遅ればせながら、私は初めて読んだのは2012年(平成12年)5月に、
越後湯沢温泉に3泊4日で滞在した観光ホテルの中であった。
          

私は前年の2011年(平成23年)6月、三浦朱門(みうら・しゅもん)氏の、
この当時の最新作のエッセイ『老年のぜいたく』(青萠堂)を本屋で偶然に見かけ、購読した・・。

私は三浦朱門氏の作品は殆ど読んでいなく、
ただ『第三の新人』グループの作家のひとりであることは認識していた。

もとより1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)ま頃にかけて文壇に登場した純文学の新人小説家を、
第一次戦後派作家・第二次戦後派作家に続く世代として、『第三の新人』と評論家・山本健吉が命名された。

そして小島信夫(1915年、生まれ)、島尾敏雄(1917年)、小沼丹(1918年)、近藤啓太郎(1920年)、
安岡章太郎(1920年)、阿川弘之(1920年)、庄野潤三(1921年)、遠藤周作(1923年)、
吉行淳之介(1924年)、三浦朱門(1926年)、曽野綾子(1931年)等の作家がいる。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事を4年ばかりした時、
『第三の新人』の作家としては、特に阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、各氏の作品に圧倒的に魅了させられ、
精読したひとりである。

映画・文学青年の真似事を挫折し、これ以降サラリーマンを35年ばかり務めている間も、
この3氏などの作品は愛読者として読んだりしてきた。

確か三浦朱門氏の作品に関しては、筑摩書房が日本文学のシリーズとして、
『筑摩現代文学大系』の81巻に於いて、三浦朱門、三浦哲郎、立原正秋の三氏が収録され、
確か1980年(昭和55年)の当時に私は読んだ記憶がある。

そして三浦朱門、曽野綾子、遠藤周作の三氏に寄る『まず微笑』(PHP文庫、1988年)を最近読んだりしたが、
この作品集の原題は『愛のあけぼの』(読売新聞社、1976年)と記載されている。

ここ10年ぐらいは、氏のエッセイを月刊総合雑誌の『文藝春秋』、
季刊雑誌『文藝春秋SPECIAL』などで読んだりしている。

このように私は、三浦朱門氏の小説、エッセイは、わずかに読んだ程度である。


『老年のぜいたく』の本書は氏の優(すぐ)れたユーモアを根底に、
氏のこれまでの人生の軌跡をくまなく発露され、
そしてこの当時氏の85歳の心情を綴られたエッセイである。
          
タイトルに掲げられた『老年のぜいたく』は、
《・・ゼイタクというのは、物と人を思うさまに使える、といったことでなく、
日常生活の生き方、つまり一切の行動の行き方、つまり一切の行動が自由であり、
一瞬、一瞬を充足して生きることができる、といったことであろう。

老人にはそんな生活が期待できるであろうか。

できる。・・》
注)本書の11ページ。原文にあえて改行を多くした。

このような命題を掲げて、具体的な言動を余すところなく発露される。


私は圧倒的に魅せられた箇所は、
《・・結婚生活を主とする第二の人生の領域が、第一の人生のそれを圧倒するに及んで、
結婚は第二の人生の中心になる。
その意味で配偶者は生涯の伴侶なのである。

結婚相手の容姿や性愛は、結婚生活の包み紙でしかなく、すぐに棄てられるのだ。
包み紙を問題にして離婚する人は気の毒というより仕方がない。・・》
注)本書の21ページ。原文にあえて改行を多くした。

特にこの中のたった一行、
《 結婚相手の容姿や性愛は、結婚生活の包み紙でしかなく、すぐに棄てられるのだ。》
この当時の私は66歳の身であったが、5分ばかり心の中でどよめき、うなったりして、
人生のまぎれない哲学である。

こうしたことを初めとして、数多く紹介したいが、後は本書をお読み願いたい。

そして本書は大人の諸兄諸姉にお読み頂きたく、特に40歳以上の方たちには、たとえ睡眠時間を削ってでも、
これからの確かな人生の教科書のひとつ、と私は確信を深めたりしてきた。



そして氏の『老年のぜいたく』に感銘を受けた私は、観光ホテルの館内にある数多くの本の中から、
氏の著作『妻への詫び状 老いれば頑固に生きるがいい~』(光文社)を遅ればせながら、
私は読んだりした。
          
本書の初めに、下記の文に瞬時に魅了されて、読み耽(ふけ)ってしまった・・。
《・・私は、平成7年の1月12日で69歳になり、70歳への坂を一日一日、登っています。
70は「古希稀(まれ)なり」というように、世界のの歴史からいっても、十分にじじいです。

70年間の生涯で、何が悔いがあるかというと、女性です。・・》
注)本書の9ページ。原文にあえて改行を多くした。

この本の各章の題目を読んだだけでも、瞬時に魅せられる。
たとえぱ《
理想の女性と分相応な女
70にしても見果てぬ夢
子供の「汚物」は女房の分身
女は自分を頑固だと絶対に認めない
夫がもてたのを一緒に喜んでくれる妻は理想の妻
妻の殺し文句》など44章に私は圧倒的に教示され、感銘を受けたひとりである。

詳細の内容は著作権もあり、本書を読んで頂きたく、
何よりもは古希を迎える男性に読んで頂きたいなぁ、と私は深く思ったりしたいる。

そして私は昨年の夏に、氏の最新エッセイの『老年の見識 ~大切なことは、自分らしく生きることから』(海竜社)を、
          
買い求めて、ときおり正座をして読んだりしてきた。

尚、三浦朱門氏は小説を公表されながら大学教授をされた後、
文化庁長官も歴任し、この後に芸術院の院長をされているお方で、
奥様は作家の曽野綾子(その・あやこ)さんで、おしどり夫婦として長く世間の一部の方たちに知られている。

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3月は落葉樹は芽吹き、やがて桜花が観られる季節だ、と東京郊外に住む私は・・。

2014-03-01 14:23:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり.
朝ぼんやりと、2月の『如月(きさらぎ)』のカレンダーに愛惜を秘めながら別れを告げ、
新たな『弥生(やよい)』の3月のカレンダーを眺め、
お待ちしていました、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

古来より2月は梅の花が咲き、3月は桃、やがて桜の花が咲いてきたので、
『桜月(さくらづき)』、『桃色(ももづき)』と称せられ、春の訪(おとず)れに、
数多くの人々は共有しながら悦(よろこ)び感じて過ごす時節である。

しかしながら私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域では、
昨年の12月頃から平年より寒く、2月には稀な大雪が降り、私は大いに戸惑ったりした。

我が家の小庭にある白梅(ハクバイ)は2月下旬の始めに満開となり、
          
そして一週間遅れて紅梅(コウバイ)が、遅れてご免なさい、と恥じらうように七分咲きになったりしてきた。


こうした思いで過ごしてきた私は、3月の時節は我が家の近くの遊歩道を歩き、
ときには小公園に寄ったりすれば、
毎年のように桃、やがて桜の花にめぐり逢え、私は小躍(こおど)りしながら歩いたりし、
3月の散策は少年のように悦び勇(いさ)んで歩き廻っている・・。

こうした中で、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は芽吹き、
          
幼年期に農家の児として育った私は、見惚(みと)れながらも何よりも愛惜を深めながら、
今年もしなやかに過ごしなさい、と天上の両親、祖父などに励まされる季節となっている。

もとより3月を迎えれば、初旬には日本中の女の子をそれぞれのご家庭で慶(よろこ)び祝う『桃の節句』、
下旬の初めには新たなる旅立つの園児は『卒園式』、学童、学生は『卒業式』などが祝賀され、
こうした中で働いて下さる新たなる社会人の諸兄諸姉が不安と希望を秘めてスタートされる時節でもある。

そして社会の中核である働いて下さる諸兄諸姉も、再就職や人事異動などで、
新たなる職場に配属され、戸惑いながらも意欲充分な志(こころざし)で、勤務される時期でもある。

私はこうした時節は、定年後に年金生活を過ごし10年生になった今、
それぞれの人々の人生の門出に、微笑ましく感じて過ごしている。


このような3月は、天上の気候の神々のきまぐれな采配により、
『春に三日の晴れなし』と古人からの伝えがあり、春の暖かな青空の快晴の日が長く続くことはなく、
少年や少女の多感の心情のように、天候は定まらないことに、齢ばかり重ねた私でも戸惑う時節でもある。

しかしながら私は、数多くの落葉樹は芽吹き、やがて桜花が観られる季節なので、
          
私は自宅付近の住宅路、遊歩道、或いは公園などを喜びながら歩き廻り、
見惚(みと)れる季節である。

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