蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

花を呼ぶ

2022年03月20日 | 季節の便り・花篇

 6日前、いきなり25度の夏日が、強引に初夏を手繰り込んだ。そして今日、2ヶ月も走り戻って13度の肌寒い早春の風が身も心も縮こまらせる。こんな激しい気候変動に易々とついていけるほどタフではない。何となく不調が続いて、掛かり付けの病院に駆け込んで点滴を受ける羽目になった。毎年繰り返す季節の変わり目の変調ではあるのだが、今年はあまりにも早過ぎる。

 コロナ、オミクロン、ロシア、プーチン、習近平、金正恩―――拒否反応を起こす言葉が日ごと増えていく。加えて、自然災害の殆どの原因が人災と思うと、この国は勿論、人類の行く末にも絶望的な暗雲が見えてしまう。戦後のどん底から築き上げてきた人生だから、一層戦(いくさ)に対する忌避感は強い。戦をゲームとしてしか知らない世代が、本物の戦争をどう受け止めていくのか、予想するすべを知らない。ニュースが始まると、チャンネルを変えることが多くなった。目を背けてはいけないとわかっていても、なすすべを持たない身には、実に重い日々が続く。

 乱調子ながら、季節が走っていく。一昨日、全国に先駆けて桜開花を宣言した福岡だが、我が住まいに近い児童公園は、まだ数輪が綻んだばかりである。御笠川沿いの桜並木にも、まだソメイヨシノの華やかな染まりはない。
 たどたどしく切れ切れに鳴いていた石穴稲荷のウグイスが、ようやく見事な囀りを聴かせ始めた。鳥居脇の叢に立っていた土筆も、そろそろスギナ林に替わりつつある。沈丁花が咲き、庭にムスカリが立ち、ハナニラが六光星の花を並べ始めた。キブシも黄金色の藤棚の様相を見せ、ユキヤナギが溢れるように枝垂れる。花が花を呼ぶ季節である。

 春の彼岸を迎えた。休日の、しかも連休は車を出さないという高齢ドライバーの我が家のルールを破って、菩提寺のお参りに出掛けた。福岡県の「感染再拡大防止対策期間」はまだ続いているし、それほどの混雑はないだろうという判断だった。感染者の減少速度が鈍い。この小さな大宰府でさえ、第5次では一桁だったのに、今回は多い日は60人を超え、少なくても30人ほどの感染が続いている。少ないとはいうものの、亡くなる人は殆んどが70歳以上の高齢者である。わが身と思えば、気持ちが萎縮するのは仕方あるまい。
 
 往路は混雑なく走った。しかし、下り車線は予想外の混雑である。自粛の気配は全く感じられないような車の列が続いていた。

 納骨堂に新しい位牌があった。昨秋亡くなった兄の位牌が、電話連絡を受けた住職により院号が与えられ、位牌が祀られていた。三十五日も四十九日も過ぎたの>に、お骨はまだ広島の嫂が手放さないでいる。この納骨堂は兄が管理し、まだ元気な頃に位牌も広島に持って行った。兄の息子が後を引き継ぐことになっている。だから、我が家に仏壇はない。
 母方の叔父叔母の納骨堂を長い間我が家でお守りをしてきたお返しに、親族が絶え永代供養をしてお寺に返す際、住職がその納骨堂の名義を無償で私に替えてくれた。男の子がいないから、分家として一代限りの納骨堂である。我が家の二人の三回忌が過ぎたら、永代供養してお寺に返すよう、娘に言い残してある。
 生き物は死ねば大地に帰る。形あるものは残す必要はない。残された人の記憶の中に生きてさえいればそれでいい。やがて、それも失われていくだろう。それでいいのだと思う。だから、三回忌以上の忌を重ねる必要はないと思っている。法事だけは仏教徒という、日本人は変な人種である。

 都市高速に乗って半ば過ぎたところで、渋滞が始まった。しかし、完全に停まることはないから、横浜の娘に言わせると、「こんなの、渋滞と言わない!」と。しかし、通常なら30分で帰る道が1時間半かかると、太宰府原住民的に言うと、「これは、渋滞である!」。

 3年放置していたイトラッキョウの鉢が、髭根でいっぱいになってしまった。髭根を切ってほぐし、2鉢を4鉢に株分けして秋の花時に備えた。八朔の根方にも、油粕と骨粉のお礼肥を施す時期である。縮こまった我が身もほぐしながら、少しずつ季節を追っかけることにしよう。
 ハナニラ(花韮)の花言葉に、「悲しい別れ」、「耐える愛」とある。そう、春は別れの季節でもあるのだ。
                     (2022年3月:写真:六光星のハナニラ)

青空の錦糸卵

2022年02月28日 | 季節の便り・花篇

 「もう、そんな季節なんだ!」

 抜けるような青空だった。数日前の酷寒が嘘のように、今日は一気に3月中旬の陽気という。今朝は氷点下0.2度、そして午後2時の今、温度計は16度を示している。この16度を超える温度差に、老骨は軋むばかりである。
 1年前の今日、2年前の昨日と、手帳を繰るたびに、年々落ちていく体力、衰えていく行動力を思い知らされる。昨年末から、何となく不調が続き、例年になく寒さが肌に沁みるようになった。この温度で、何で!?と自分を叱咤しながら、気が付いたらもう2月が去ろうとしていた。逃げる2月が、今年の長い長い酷寒を詫びるように、一気にひと月近く季節を呼び寄せて走り去って行く。
 日脚は間違いなく長くなり、暗闇で詣でていた石穴稲荷のお狐様も、もう早暁の明るさの中でキリっと見詰め返してくる。1年300日は歩こうと、秘かに自分に強いてきた。今年6冊目の「太宰府市歩こう会」の一枚50ポイントの集印手帳が、残り30ポイントを切った。好調不調、気温と共に体調も乱高下した1年だったが、何とかその誓いを全う出来そうである。

 玄関前の石段と石畳、玄関や裏口や庭先への上がり框、廊下、トイレ、浴室など、我が家の内外に11本の手摺が付いた。カミさんも私も、年齢的に時たま足元がおぼつかなくなることがある。加齢に逆らって気持ちだけ若ぶっていても、身体は容赦なく老いの坂を下っていく。
 長女の迅速な(半ば強制的な)行動で、ひと月前に介護保険の「要支援」(カミさんは2,私は1)の認定を受け、何とバレンタインデーに専門業者が訪れて、我が家はアッという間に手摺だらけになった。陋屋「蟋蟀庵」を「手摺庵」と改名したくなるほど、必要なところに手摺がある。おまけに、ベッドからの起き上がり補助手摺まで、レンタルで借りることになった。娘が「転ばぬ先の杖!」と強調する。
 しかし、この安心感は何だろう!?特に、深い浴槽を出入りする度に感じていた不安が、2本の手摺で嘘のように消えた。紛れもなく、「転ばぬ先の杖」の存在感だった。

 坐骨神経痛で整形外科通いのカミさんを送った序でに、ずっと気になっていた写真を撮りに車を走らせた。観世音寺の駐車場に車を停め、県道沿いの道を戒壇院、学校院跡と辿り、大宰府展示館前を過ぎて、大宰府政庁跡に出た。南門跡の東側に、早春の頃から訪ねる一本の木がある。錦糸卵のような花を青空に広げて、今年もシナノマンサクが春を謳っていた。
 ネットで確かめる―――支那万作。別名キンロウバイ(金楼梅)、英名Chinese witch hazel、開花期は1~3月。他の花木に先駆けて「まず咲く」ことを語源とするマンサクよりも、さらに早く咲く。前年の枯葉を枝に残したまま越冬し、その状態で開花することから、花が葉の陰に隠れていることも多い。
 黄色いリボン状の花弁が四方へ広がり、その付け根にある萼は紅色になる。厳冬期に咲く花には甘い香りがあり、ひと足早い春の訪れを告げる。花の後には乾いた果実ができ、熟すと自然に裂ける。
 葉の展開は花後で、葉の直径は8~15センチほど。マンサク同様に左右非対称だが、より大きい。枝から互い違いに生じ、葉の両面、若い枝には綿毛があるが、葉の裏は特に毛が多い。秋には綺麗に黄葉する―――

 花言葉は、『呪文』『魔力』『霊感』『不思議な力』『神秘』『ひらめき』、どの言葉をどう読むか、人それぞれであっていい。私は、『神秘』を選ぼう。早春のまだ冷たい木枯らしの中で、錦糸卵のような花が群れ咲く姿は、不思議な惹きつける魅力を持っている。

 2012年12月、左肩腱板断裂の修復手術を受け、1~2月の厳冬期を病室で過ごした。足腰は何ともないから、朝夕のリハビリ以外の時間を持て余していた。時折外出の許可を得て、左腕を三角巾で吊ったままコートを羽織って散策に出た。冬枯れの政庁跡で、真っ青な冬空に向かっていっぱいの花を拡げるシナノマンサクは、病院暮らしに倦んだ身に、何よりもの慰めだった。
 時に、「市民の森」(「春の森」、「秋の森」)まで足を伸ばし、近づく春の気配を探した。過ぎ去った10年の豊かな日々に思いを馳せながら、少し元気をもらって帰路に着いた。

 高齢者を貪ろうとするオミクロン株の脅威、狂気に駆られた独裁者のウクライナへの侵略、一つ間違えば人類滅亡へのリスクさえある。「滅びの笛」を不気味に聴く日々は、一向に治まる気配がない。
                      (2022年2月:写真:シナノマンサク)

記憶と忘却

2022年01月29日 | つれづれに

 読書しながら、ふと使われた言葉の語源が知りたくなる--たまに、そんな作家に巡り合うと、読むことを忘れて辞書を引まくるくことになる。そんな言葉を幾つも集めて、例月の読書会で遊んだ。
 胡乱(うろん)? 正体の怪しく疑わしいこと。【語源】胡乱は室町時代に禅宗を通して日本に入った言葉で、「胡(う)」「乱(ろん)」ともに唐音である。 モンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族「匈奴(きょうど)」を「胡(えびす)」と言い、また胡 (えびす) が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。
 ぎこちない? 動作や話し方などが滑らかでない。【語源】「キ」牙や「コチ」骨の呉音に形容詞をつくる接尾語「ナシ」が付いた語で、「(ゴツゴツしていて)骨のようだ」という意味から「不作法だ」という意味になったと思われる。
 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)?とても慌てていること、または非常にうろたえること」【語源】《周章》も《狼狽》もあわてるという意味がある。《周章》の「周」は「歩き回ること」を意味する。一方、「周章」の「章」は、「目立つ」という意味がある。すなわち「周章」は「目立ちながら歩き回る」様子を表し、ここから「ひどく慌てふためくこと」という意味が生まれたとされる。《狼狽>は「予想外の出来事にどうしたらよいかわからず、取り乱す様子」を表す言葉。「狼狽」は伝説の動物にある。「狼」も「狽」もどちらも狼の一種の伝説の動物。狼は前足が長くて後ろ足が短い生き物で、それに対して狽は前足が短くて後ろ足が短く、この二つの動物は対で行動するとされる。二匹そろってやっと歩けるため、もし片一方が離れるとたちまちバランスを崩して倒れてしまう。このことから「狼狽」が「(うまくいかずに)慌てふためくこと」という意味となったといわれている。

 二(に)の足(あし)を踏む、 虎落笛(もがりぶえ)、畢竟(ひっきょう)、あたら (惜・可惜)、逼塞(ひっそく)と、辞書と首っ引きが続いて、それなりに楽しんだ。この歳になっても、新しい言葉を覚えるのは嬉しい。

 しかし、ふと思う。昔々に覚えたことは忘れていないのに、昨日のことが思い出せないことがあるのは何故だろう?テレビを観ていて、俳優や女優の名前がなかなか出てこないのは何故だろう?カミさんとの会話も、次第に「アレ、ソレ、、コレ」で通じ、主語のない会話になりつつあるのは何故だろう?―――答えはわかっている。そう、「加齢!!」医者の決め言葉も「お歳ですから――」そういわれると、それ以上返す言葉がない。

 子供の頃、叔母が落語の「寿限無」に負けない長い名前を教えてくれた。それが、70年以上経っても忘れないのだ。
 「てきてきのてきすろんぼうそうりんぼう、そらそうたかにゅうどう、ちゃわんちゃべすけすっけらこう、ぎちぎちのあけすけもけすけ、てびらかのぱらりすっぽんたんざえもん」
 意味不明のまま覚えてしまった。「平家物語」の書き出し、「三国志」の「出師の表」、「奥の細道」、「南総里見八犬伝」――中学生の頃まで、貪るように読み、覚えようとした。アオバアリガタハネカクシという虫の名前や、トリステアリルアミロフェニルトリメチルアンモニウムスルホメチラートという化学薬品の名前など、とにかく長いものを「覚えること」が楽しい時期だった。

 「思い出すとは忘るるか 思いださずや忘れねば」という閑吟集(16世紀初めに、世捨て人によって詠まれての歌謡集)の歌、多分中学校の担任から教えてもらったこの歌も忘れていない。「私のことを思い出すということは、今まで私のことを忘れていたということですか。忘れていないのならば思い出す必要はありません」という、ちょっと小理屈めいた歌だが、恋の歌の返しと思えば、それなりに楽しい。

 「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」昭和27年(1952年)から放送されたラジオドラマ・菊田一夫の「君の名は」の冒頭のナレーションである。銭湯を空にしたという伝説的なドラマだった。

 「リチャード・キンブル。職業・医師。正しかるべき正義も時として盲いることがある。 彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。 孤独と絶望の逃亡生活が始まる。 髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら・・・現在を、今夜を、そして明日を生きるために」1960年代に放送されたアメリカのテレビドラマ「逃亡者」の冒頭ナレーションである。

 別に思い出しても何ということはないのだが、昨日の晩飯を思い出そうとしていたら、こんな昔々の記憶の方が先に出てきてしまった。加齢、恐るべし‼(呵々!)そして、カミさんと私に「要支援」認定の通知が来た。加齢の重みが、ズシンと来た。

 燃え盛る燎原の火のごとく、感染のスピードを緩めないコロナに立ち向かうことさえ、忘れてしまいたい日々である。3回目のワクチンの通知が来た。早速ネットで予約し、カミさんは2月1日、副反応に対応出来るよう、私は日をずらして2月10日を押さえた。「ファイザー」→「ファイザー」→「モデルナ」の交互接種になるが、今は、とにかく早く3回目の接種を終えることを優先しようと決めた。

 何故だか、今年は姦しいヒヨドリに襲われない庭のマンリョウの実が、夕日を浴びて赤々と輝いていた。
                       (2022年1月:写真:マンリョウ)

他山の石

2022年01月18日 | 季節の便り・花篇

 何事もなく、一日が明けた。当然のことながら、今日も昨日の続きでしかなく、いつもの通り起き抜けのストレッチを終えて、まだ明けやらぬ早朝ウォーキングに出た。気温も、昨日より3度ほど高く5度、皮手袋を突き刺す冷気もない朝だった。西の空には、まん丸い有明の月が雲の群れに追われて山蔭に逃げようといていた。
 石穴稲荷に詣でたのは6時20分、北面したゆるい傾斜に並ぶこの戸建て団地は、石穴の杜から朝日が昇るのは、9時過ぎである。南に低い冬の日差しは、昼前から夕方まで隣の2階建てのアパートに遮られ、我が家の庭は日陰になってしまう。洗濯物の乾きも悪く、一日晴天でも最後は部屋干しで仕上げることになる。

 83歳の誕生日を迎えた。いつの頃からだろう?親の年齢を超えることが、最後の親孝行と思い込むようになった。
 父は、昭和58年(1983年)7月14日に74歳で逝った。前日まで元気に庭いじりをしていたのに、老人性喘息で呼吸に基礎疾患を抱えていた父は、朝になって呼吸困難を訴え、明け方に救急車を呼んだ。その後、意識は戻らないものの、小康状態が続き、私は新会社設立を前に、組合幹部との協議を重ねるために出社した。昼過ぎに急変の知らせを受け、組合長に断って病院に駆けつけた。そのまま意識不明が続いたが、なんとか夜は越せそうだという医師の話を信じ、カミさんだけを残して帰宅した。再び危篤の知らせが届いたのは、帰り着いた直後のことだった。死に目には会えずに、カミさんだけが看取った。
 その後9年気ままに生きた母は、平成4年(1992年)7月22日に82歳で彼岸に渡った。最後の3年ほどは認知が出て、カミさんが介護に明け暮れた。今のような介護保険も制度もない時代だったから、負担は全てカミさんに来た。沖縄出張中の朝、ホテルで母危篤の電話を受けた。予定を切り上げて飛行機に飛び乗ったが、熊本上空を降下していた時刻に、父と同じくカミさんだけに看取られて母は息を引き取った。
 昨年、私はその年に届き、今日ようやく母の歳を越えたことになる。これで子としての親孝行の責任を果たし、ある意味、これからが本当の「余生」かも知れない。

 穏やかで豊かな日々を楽しむはずの余生が、いまコロナに翻弄されている。コロナ籠りは心身を少しずつ蝕んでいく。動きが鈍くなり、加齢が足腰を弱めていく。最近、階段や風呂場で不安を感じるようになった。カミさんは夜中に足がつって悲鳴を上げて目覚めたり、しゃがみ込んだら何かに掴まらないと立ち上がるのが困難になった。
 私も、左足人工股関節置換手術や左肩腱板断裂手術で、左手で重いものを持つことを避けるようになった。追い打ちを掛けるように、右腕から肩背中の帯状疱疹後神経痛が3年以上改善せず、右手も頼りにならなくなった。
 娘が見かねて年末に帰省、包括支援センターに相談し、早速ケマ・ネージャーが事情聴取に来て、介護保険の「要支援者」の申請を勧められた。家内外8か所の手摺工事の見積もりに専門業者が派遣され、市役所に申請書を出しに行き、年明けに市の調査員が審査に訪れ――事態が急展開し始めた。
 余生は、ただ待っていて与えられるものではないことを実感した年末年始だった。

 春の使者・蝋梅が咲いたが、まだまだ春の訪れは遠い。花言葉、「慈しみ」「ゆかしさ」。スーパーのレジや駅などで、モンスターみたいに店員や駅員をいじめている年寄り(ジジイが多い!)を見るたびに、蝋梅の花言葉に恥じない余生を生きたいと切実に思う。もって、「他山の石」としよう!

                         (2022年1月:写真:蝋梅)

せせらぎ、木漏れ日、冬木立

2021年12月23日 | つれづれに

 冬至が明けた翌朝、2.2度の寒風が早朝ウォーキングの手をかじかませた。皮手袋を通して、シミシミと冷気が浸み込んでくる。有明の月が残る空はまだ明けやらず、ペンライトで足元を照らしながら、いつものコースを歩き、息弾ませて石穴稲荷の門前に手を合わせた。一日の息災を願い、お狐様が咥えた巻物を指でスリスリして、また坂道を下っていく。

 母が、「冬至が過ぎると米一粒ずつ日が長くなる」といつも言っていた。その母が逝った歳を、あとひと月足らずで超える。よくもまあ、この歳まで生きてきたと、無量の感がある。
 「一陽来復」――去っていた陽の気が、再び帰ってくる――易(陰陽思想)に由来する言葉が、今年ほど待たれたことはない。「冬が終わって春が来る」という解釈にはまだ実感がないが、「悪いことが暫く続いた後に、良いことが起こる」という解釈にしがみつきたい思いがある。コロナ禍のオミクロン株が不気味に蠢き始めた師走、祈る思いで「一陽来復」という言葉にしがみついている。

 早朝のストレッチとウォーキングを欠かさないものの、コロナ籠りで足腰の弱りへの不安がある。それを払拭したくて、今年最後の「野うさぎの広場」散策に出掛けた。
 暖かい冬晴れの午後になった。この後に、今冬最大のクリスマス大寒波が迫っている。大宰府の26日、最高気温3度、最低気温氷点下1度、27日には氷点下2度の予報が出ている。「一陽来復」には、まだまだ程遠い年の瀬である。

 猛暑と長雨に苛まれて体調定まらず、半年以上の御無沙汰だった。九州国立博物館への89段の階段を上り、脇を抜けて四阿沿いの散策路を辿った。イノシシの狼藉が、もう住宅地の傍まで迫っていた。道路一本隔てるだけという野性とのせめぎ合いに、どこか喜んでいる自分がいる。もちろん、私は野性の味方!

 仄暗い杉木立の下草は綺麗に刈り取られ、浸み出る水が小さなせせらぎを聴かせてくれた。風もなく、打ち合う竹林も音を潜め、時折キュルキュルと鳴く小鳥の声だけの静寂だった。イノシシ除け(実は、若い恋人たちの木立の中のふれあいの邪魔をしないための接近警告の)カウベルをリンリンと鳴らしながら、100段余りの急勾配の階段を登り詰める。

 登り上がった車道から、寒椿の真っ赤な花を見ながら左に折れて山道に入った。「野うさぎの広場」への散策路は、冬枯れの下に枯れ枝や落ち葉、イノシシの狼藉、ペットボトルや空き缶で荒れ果てていた。散らばっていたマイ・ストックの枝3本を元の場所に立てかけて、さらに山道を辿る。久し振りの山歩きだから、今日は念のためにLEKIのストックを伸ばして持参している。
 時折、鮮やかな色を残したムラサキシキブや、真っ赤なヤブコウジが迎えてくれた。春、小さな握り拳を振り上げていた羊歯が、大きく育って山道に覆い被さっていた。

 息が上がることもなく、足がよろけることもなく、無事に「野うさぎの広場」に辿り着いた。冬木立から広場に落ちる木漏れ日は、限りなく優しかった。マイ・チェアと定めている切り株に腰を下ろし、カフェラテのミニボトルで喉を潤した。かすかな風が包み込むように過ぎて、肌を湿らせていた汗の火照りを冷ましていく。ヤシャブシの棘々の実は、今年も健在だった。時に、イノシシや野うさぎを見掛けるこの広場が、私の一番お気に入りの秘密基地である。
 何度この広場で豊かな時を重ねたことだろう!時にはシートを敷いて横たわり、眩しい木漏れ日を閉じた瞼の裏に温めたり、コンビニお握りを頬張ったりもした。3か月半後、春の日差しを浴びて、この広場は一面青いハルリンドウで覆われる。

 「せせらぎ」、「木漏れ日」、「冬木立」―――好きな言葉を三つ集めて木立に寄りかかりながら、自分なりの今年の「納め」とした。
 納めきれないことの多い一年だが、未練を断ちながら今年のブログも「書き納め」にしよう。
                     (2021年12月:写真:「野うさぎの広場」への散策路)

冬日和

2021年12月11日 | つれづれに

 「これ、お宅用です。唾つけといてください。味わうのは来年、暮れに収穫して届けます」。枝もたわわに下がる巨大な晩白柚を指差しながら、ご主人が笑いかけてくる。
 春には、大変な数の白い花を付けていた。これが全部実ったら、枝が折れてしまいそうな数だった。猛暑と長雨という異常な季節を重ねて自然摘果が激しく、最終的に残った貴重な8個の一つを、我が家用に分けていただくことになった。
 瑞々しい実に加えて、皮で作るマーマレードは美味しく、ロスに住む次女が「料理に使うから送って!」と、毎年首を長くして待っている。

 今年も、残すところ3週間になった。
 「ジャガイモ掘りしましょう」とY農園の奥様から誘われたこの日、午前中の雲も消え、師走を忘れさせるような雲一つない快晴の午後となった。いつも通り、淹れたての珈琲を魔法瓶に詰めて車を出した。
 先日奥様に振舞った珈琲が全く香りを失い、恥をかいた。コロナで訪れる人も減り、買って2ヶ月以上過ぎた豆は無残だった。行きつけの喫茶店「蘭館」に走った。「香りは焙煎してからせいぜい1か月ですから、少しずつ買われた方がいいですよ」と勧められ、いつものモカ・バニーマタルを半分の100グラム求めた。3か月前から8%ほど値上がりしていた。「輸送コスト上がっているし、モカは紛争地帯の産ですから、もっと品薄になって値段も上がり、貴重品になるかもしれません」
 15年ほど前に絶妙な酸味と苦みのこの豆に巡り合ってから、多分7割ほど高くなっている。アラビア半島内陸・標高2000メートルのバニーマタル地方の段々畑で採れるモカ珈琲であり、アラビア語で「雨の子孫たち」を意味するという。

 師走というのに眩しいほどの日差しが降り注ぎ、持ってきたコートもジャンパーも車の中に置き、さらに羽織っていたセーターも脱いで畑に蹲った。モンシロチョウや蜂が黄色い菜花に舞い遊び、早くもホトケノザがあちこちに群れ咲いている。300坪のこの畑は、既に早春の佇まいだった。

 掘り上げた「デジマ」という品種のジャガイモは圧巻だった。ご夫妻が鍬で掘り上げた土の中から、カミさんと私はただ拾い上げるだけである。真っ白な肌は美しく、大きいものは拳大もある。ひと畝掘り上げるのに15分もかからなかった。9月の初めに植えた2キロの種芋が、3つの籠に大中小と仕分けされて溢れるほどの収穫である。
 土が乾くまでが、楽しい珈琲タイムになった。

 ジャガイモ、蕪、春菊、ホウレンソウ、菜花、レタス、サツマイモ、菊芋――太っ腹な奥様からのお土産がどんどん増えていく。地区公民館の要職にあるご主人は、途中から下校時間の子供たちの見守りの為に、青パトの巡回に出掛けられた。

 豊かな夕飯になった。ご飯を半分にして、大きなジャガイモを一個ずつジャガバタにする。濡れたキッチンペーパーで包み、さらにサランラップでくるんで、600Wの電子レンジでおよそ10分、ほくほくのジャガバターを主食にした。いただいたホウレンソウと春菊の胡麻汚し、採りたての柔らかい蕪の味噌汁など、畑の実り溢れる夕飯だった。
 この日、大宰府の気温は18.3度、県下2番目の暖かさだった。

 「紅白歌合戦」の顔ぶれに、もうついていけない。次第に遠くなる昭和を偲びながら、残る3週間の年の瀬を過ごすことになる。来るべき年に、きっといいことがあると信じながら、新たな命が芽ぐむ春を待ち続けよう。
                       (2021年12月:写真:畑の収穫)

主婦のハレの日

2021年11月27日 | つれづれに

 「質問:この前3人で電車で天神に出たのは、いつ、どんな用事でしたっけ?」久しぶりに天神に出ることになった。この前、いつ乗ったのか思い出せない。この2年、街に出るのは博多座の芝居がらみだけで、いつもマイカーで都市高を走って20分、川端の博多リバレインの地下駐車場に停めるのが常だった。
 かすかに残る記憶を頼りに、一緒に乗ったYさんの奥さんにLINEで尋ねた。
 「明日、久しぶりでソラリアに行きます。何ヶ月振りかなと思って」
 「こんばんは、この前電車で出掛けたのは、2月の博多座行きが雪模様だったからです」
 そうだった!あの日は大雪注意報が出ていて、帰りの車が走れなくなるかもしれないという不安があって、電車にしたのだった。

 9か月振りの電車は意外に混んでいた。西鉄五条まで徒歩10分、ひと駅で二日市から急行に乗り換えて何とか座り、天神まで17分。時間的には近場であるのに、コロナ籠りで大宰府原人化した身には、心理的に天神は遠い街になってしまった。毎日、ラッシュの人混みに揉まれて通勤していた昔が、嘘に思われる。
 車内の殆どの乗客が、黙々とスマホの画面を覗き込んでいる異様な雰囲気に、ますます電車が嫌いになった。たまに――本当にたまに本を読んでいる若者がいるとホッとする。昔は、多くの乗客が文庫本を開いていたり、新聞を縦折して読んでいたのに――それが当たり前だった昭和は、もう遥かに遠くなった。
 高校生のカップルが、吊革に掴まらずに器用にバランスを取りながらお喋りに興じている。そこに昔の自分がいた。私の右隣のオヤジは、座席に荷物を置いたまま寝たふりをしている。お陰で窮屈になったシートに肩をすぼめて揺られながら、昔もこんな中年がいたなと、それまでもが懐かしい。

 猛威を振るったコロナが小康状態となり、緊急事態宣言も消えた。もちろん、これで終わる筈もなく、いずれ次の波がやってくるだろう。束の間の平穏な日々に、少しまとめて贅沢しようと決めた。船小屋温泉「樋口軒」の特別室、原鶴温泉「六峰館」の檜露天風呂付準特別室、と温泉巡りを重ね飽食の限りを尽くした。もう一つ、佐賀県唐津市「いろは島国民宿舎」の「伊勢海老・蟹尽くし」は、体調整わず断念したが、その代りに見付けた今年最後の贅沢が、「福岡応援グルメチケット」、和牛と福岡の食材を使った食事の企画だった。税込み5000円のチケットを買えば、7000円相当のメニューが選べるというものである。
 西鉄グラドホテルとソラリア西鉄ホテルの9つの店舗から自由に選べる。カミさんは「鉄板焼き!」と即断。リタイアして21年、亭主が365日家にいて、3食食わせなければならないのは、結構シンドイものだろう。たまには外食したり、温泉に旅して賄いから解放されるのは、貴重なハレの日なのだ。いわれるままにソラリア17階の鉄板焼「Asagi」に予約を入れた
 料理しなくていい!後片付けもなし!!最近は、後片付けは私の役目。だから、主婦のハレの日は主夫のハレの日でもある(笑)目の前の鉄板で焼いてもらう幸せ!!チケット2枚のスペシャルコースのつもりだった。しかし、メニューを見て考えてしまう。
玄海魚介類のマリネ糸島ベビーリーフ添え、フォアグラの明石焼き風博多万能ねぎを使った出し汁で、スズキのパン粉焼き赤ワインソース、博多和牛サーロインステーキ(80g)、ご飯または高菜ピラフ(赤だし、香の物付き)デザート、珈琲。
 加齢によって食べる量が細くなった身には余る。諦めてチケット1枚の、グルメランチコースにした。本日のオードブル(スズキ)、季節のスープ(ニンジン)、魚介類の鉄板焼き(鯛とホタテの貝柱)、黒毛和牛のサーロイン・ポワレ(60g)パン、デザート(ブラマンジュ)、珈琲。
 満腹だった。味も量も正しい選択だった。スパークリングワインのワンドリンクも付いて、もてなしも心地良かった。12時の予約だったのに、鉄板を囲む客は3組5人、まだまだ客は帰ってきてない。

 「折角来たんだから、デパート覗きたい!」というカミさんを残し、一人電車に乗った。2時の急行発車まで、あと2分。3年半振りにホームを走った。天神南口から乗るには、エスカレーターがないから階段を幾段も上がり、ホームのずっと先の方に停まった電車まで延々と歩くことになる。人口股関節置換手術後、「走る、跳び上がる、飛び下りる」を禁じていた。医師も、出来れば避けた方がいいという。20メートルほどの距離を恐る恐る走りながら、平和台陸上競技場を疾駆していた頃の自分が、無性に恋しかった。

 寒波の中休みの、汗ばむほどの小春日だった。

 このブログを書き終わった夕べ、南アメリカで新たに拡大を始めた変異株が、「オミクロン株」と名付けられ、世界中が騒然となった。暗雲垂れ込める師走まで、あと3日。
                     (2021年11月:写真:本日のオードブル)

「避密の旅」――帰らざる「日常」

2021年11月17日 | 季節の便り・旅篇

 忘我の淵に沈みこんで、夜の眠りはいつまでも訪れなかった。部屋に付いた檜風呂から、かけ流しの湯音がかすかに耳元に転がってくる。ひと時、ふた時、輾転反側する中に夜が更けていった。左手首を捻ると、反応して腕時計に光が灯り、浮かび上がった時刻は午前1時を過ぎていた。

 6月30日、福岡県が「避密の旅」観光キャンペーンを発表した。コロナで打撃を受けた県内の観光業を支援するため、県民に限り5割引きの宿泊券と旅行券を売り出すというものだった。1泊当たり最大5千円、日帰り3千円の割引となる。わかりやすく言えば、1万円買えば、2万円のクーポンが来るということだった。早速、帰省していた長女に手伝ってもらいながら、スマホでリストにある旅行社に申し込もうとしたが、すでに大手は全て売り切れ、ようやく農協のJA筑紫旅行センターで2万5千円を払い込むことが出来た。折り返しスマホに、5万円のクーポンが表示された。利用期間は7月12日から12月31日までである。
 ところが、直後に福岡県にも緊急事態宣言が出た。解禁になったのは、10月20日だった。2ヶ月14日間先延ばしになり、2月14日、バレンタインデーまで有効という。

 解禁を待って、船小屋温泉に走った。旅行も、クルーズも、温泉も、外食も、この2年近く殆ど我慢して自粛してきた。せめて、県民の特権を使い、日ごろの鬱憤を晴らそうと、二つの温泉旅館の特別室で贅沢することにした。
 船小屋温泉――凝った料理は美味しかったが、バリアフリーを無視した大理石のつるつるの階段や、ぬるい湯に落胆。矢部川を渡る白鷺の群舞を楽しんだだけで終わった。

 立冬を過ぎて10日、寒波の後の小春日に、原鶴温泉を目指した。古い「サンパチロク」と親しまれる386号線を避けて、田園の中の裏道を、大宰府市から筑紫野市、筑前町から朝倉路へと南下する。時たま路傍に見る紅葉は彩り悪く、既に多くが枯葉色だった。
 リニューアルして2年、バリアフリーを施した「ほどあいの宿」と謳う筑後川沿いの宿が、今夜の贅沢だった。4階の準特別室「夕月」、半露天檜風呂付客室は、8畳のツインベッドに8畳のリビングルームが付き、1泊一人2万8千6百円。1万以下の宿を探していた2年前が嘘に思えるほど、今回は贅を尽くした。
 同じ狙いと思われる高齢家族が多い日だった。露天風呂を覗いたが、すでに先客が4人ほど浸かっており、引き返して部屋の半露天檜風呂で足を伸ばすことにた。吐口から注ぐ湯音に、1時間のドライブの緊張がほぐれていく。ベッドと部屋付き露天風呂、この組み合わせを知ると、もう病みつきになる年代である。
 「雅」と謳う料理も、申し分なかった。鮑の刺身を食べたのは、もう20年振りだろうか。赤のグラスワインを添えて、下を向けないほど飽食の限りを尽くした。
 2度目の露天風呂に温まってベッドに入ったが、喪われた「日常」の数々を思い浮かべ偲ぶうちに、我を忘れ、眠りを忘れた。

 コロナが急速に鎮まっている。日常回帰への様々な試みが始まっているが、もうあの「日常」が帰ってくることは決してないだろう。次の波は必ずやってくる。コロナと共に生きることが、新たな「日常」になる。マスクが、下着と同じように人前では決して脱げない、そんな「日常」――。
 かつて、カナディアン・ロッキーを二日がかりで南下し、古城のようなバンフ・スプリングス・ホテルに泊まって、近くの『帰らざる河』(River of No Return)のロケ地の河を見た。マリリン・モンローとロバート・ミッチャムが演じた1954年のアメリカの西部劇である。「No Return  No Return♪」と繰り返すフレーズが耳に蘇る。

 翌朝、寝起きと朝食後、計4度の露天風呂三昧を満喫して、10時に宿を出た。チェックアウトのあと、「お気をつけてお帰り下さい」と書かれたキャンディーを渡される。こんな、さりげない心遣いが嬉しい。
 50キロ足らずの近場である。まっ直ぐ帰れば、昼前に帰り着いてしまう。「そうだ、K子ちゃんに頼まれた梅干を買いに行こう」とカミさんが言う。K子ちゃんとは、カミさんの小学校と高校の同窓生で、生涯歌うことを生き甲斐とする、市井の声楽家である。

 果物の郷・杷木から、天領・日田を抜けて、30分足らずで大分県の梅の郷・大山町の「木の花ガルテン」に着き、紅葉の下に車を停めた。平日で、此処も客は少なく、買い物を済ませ、日田ICから大分道に乗って、13時過ぎに「避密の旅」を終えた。
 結局、我が家の庭の紅葉が一番綺麗だった。

 師走が、もうそこまで近付いていた。
                 (2021年11月:写真:「木の花ガルテン」の紅葉)

秋、落ちて

2021年11月07日 | つれづれに

 妹の三回忌を二日後に控えて、兄が逝った。享年84歳、私とは1年半の歳の差だった。町内に住む兄の親友が、もう一人の親友の参議に電話し、高校の同期の柔道仲間に知らせるよう頼んだところ「もう、みんな死んで居らん!」と返事が返ってきたという。84歳とは、そういう歳なのだ。74歳で彼岸に渡った父だったが、その後一人で10年生きた母が逝ったのも83歳だった。私だけが生き残って、馬齢を重ねている。

 大雨の後、猛暑が続いた秋だった。寒暖乱高下する気候に翻弄され、体調が狂った。暫く辛抱したが捗々しくなく、掛かり付けの病院に駆け込んだ。症例を話したら、「それ、自律神経!」と即答、薬を調剤され、点滴を受けた。納得である。
 爽快な秋晴れが、ようやく還ってきた。例年なら、高原ドライブをして山野を歩き回り、野性を追いかける時節である。「野うさぎの広場」への散策さえ、あと一つ気が乗らず、カミさんから老人性鬱を疑われる始末だった。

 緊急事態宣言終了を機に、月一の読書会が復活した。読み続けている「伊勢物語」は97段、何とか今年度中(来年3月)には125段を読破出来そうなところまで読み進んできた。週一の気功教室も復活した。少しずつ元に戻りつつはあるが、コロナ前の日々とは、どこか根本的なところで違っているような気がする。このところの急速なコロナの鎮静化も、日本固有の現象でどこか不気味なものがある。

 人と会うことが少なくなった。テレビの前に坐る時間が増えた。そして、やたらに昔のドラマの再放送が増えた。脚本が貧しく、役者が薄い上に、軽薄なお笑いを多用する最近のドラマより、はるかに観るに堪えるものが多いから助かっている。女優も今ほど痩せっぽちじゃないし(痩せた方が美しいと、誰が誤った風潮を作ったのだろう?カマキリ脚より、むっちり太ももの方が遥かに癒されるのに)、スカートも短くてホッとする。ジジイがこんなことを呟くから、益々自律神経がおかしいと言われるのかもしれない(呵々)。
 時々、あまりにも古すぎて、出演者の大半が故人だったりもする。どっこい、こっちはまだまだ元気で生きてるぞ!
 しかし、時々ドキッとする。昨日も、マヨネーズを買いに行って、ケチャップを買ってきてしまった。笑い飛ばしながら、どこかで加齢に慄いている自分がいる。

 雨が降らない。10月も記録的少雨だった。平年の10%にも満たないという。カラッカラの大地を踏んで、マスク不要の早朝のウォーキングも始めた。50段ほどの石段を踏んで、石穴稲荷の本殿に詣でる頃、まだ黎明の明かりは届いていない。ペンライトで照らしながら詣り、ライトを消して漆黒の闇に佇む。お狐様の館なのに、不思議に恐怖感はない。何も見えない世界の静寂は、何故か心を鎮静化する。願い事への御利益のほどはわからないが、この静寂が欲しくて、ついつい本殿までの階段を上ってしまうのだ。
 漸く薄明が届くころ石段を下りる。道端の叢には、もう種を弾かせ始めたウバユリが何本も立っていた。
 
 午後の暖かい日差しの中を、友人がオキナワスズメウリを袋いっぱい届けてくれた。数年前に我が家から分けた種を、さすがに農業のプロ、毎年おびただしいほどの実を育て、こうして届けてくれる。我が家は、今年は全滅だった。同じ日差しでも、土が違うし、丹精の籠め方が違うのだろう。
 早速、いつものように玄関脇の窓に吊るした簾に飾り付けた。緑と赤の小さな瓜の玉が、秋風に揺れる。落ち込みがちだった秋、復活への足がかりがこの実にあるかもしれない。

 明日午後、久しぶりに雨マークがついた。
                     (2021年11月:写真:オキナワスズメウリ)

異変からの回帰

2021年09月29日 | 季節の便り・花篇

 こんもりと繁った松の葉の一本一本が、秋晴れの強い日差しをキラキラと弾き返す。眩しさの中に、夏の暑熱の残滓が散りばめられていた。
 ツクツクボウシの声も、遠い石穴稲荷の杜からかすかに響くだけになった。もう、繁殖に残された時間は少ない。朝晩のかすかな冷え込みが、ツクツクボウシの鳴き声に焦りを滲ませる。伴侶を見つけ交尾して子孫を残す……ただそれだけの為に、ひたすら健気に鳴き続けてきた。そんなセミの季節が終焉に近づいていた。

 早朝のウォーキング、ここ1週間少し夏バテ気味で寝過ごすことが多く、歩くことも億劫な日が続いた。ようやく平常に戻った実感を噛みしめながら、いつものように40分のストレッチの後、まだ白川夜船のカミさんをベッドに残して歩きに出た。
 もう、この時間が仄暗くなった。冬場用のペンライトをポケットに入れようかと、一瞬迷う暗さだが、東の空には既に黎明が立ち上がろうとしていた。
 石穴稲荷のお狐様が咥える巻物を擦って、今日も願掛けを終え、久しぶりに石段を上がって本殿に詣でた。明るさが広がり始めた縁の傍に立ち、早朝の静寂に浸る。束の間の無音の陶酔に、ふと足が縺れそうになる。

 異変の多い夏だった。世間のことはいい。我が家に齎された異変の数々……幾つかの変異は、問うても応えの無いものだった。

 1)八朔の枝で羽化するセミの数が、多いときは100匹を超えていたのに、僅か29匹で終わった。
 2)例年、キアゲハの幼虫を育てる目的で、プランター2本にパセリを10株植えて待つ。しかし、訪れるチョウもなく、今年はとうとう一頭も孵化することなく終わった。
 3)庭中のスミレをプランターに移植して繁茂させ、ツマグロヒョウモンの産卵を待つのも恒例だったのに、こちらも一頭も現れなかった。
 4)友人から株分けしてもらったオキナワスズメウリが、一個も実をつけない。
 5)5つの鉢に増やした月下美人が、2度3度と開花を迎えたのに、何故か完全に開くことなく、開花半ばで薫りも止めた。この春、土を替え伸び過ぎた髭根を刈って新たな鉢に植え替えた。肥料も施した。猛暑に焙られ、長雨に祟られたせいなのか、替えた土が悪かったのか、気落ちしながら秋を迎えた。

 45年前、赴任した沖縄の社宅にあった株から、2枚の葉を父に送った。父が丹精込めて株を増やし、開花の夜にはご近所を招いて花の薫りでもてなした。父が逝き、母が引き継いで毎年花を咲かせた。晩年は認知症となり、月下美人の鉢も放置されたまま枯れかかっていた。南米原産の乾きに強い特性に賭けて、枯れかかった中から数枚の葉を選んで鉢に差した。蘇った株はぐんぐん育ち、毎年初夏から初秋迄、数度の開花で我が家を飾り続けた。
 世代を超え、昭和、平成、令和と生き続けた逞しい株である。株分けした幾つかの鉢は、親しい友人の庭で今も花を咲かせている。我が家の歴史と共に歩んだ大切な月下美人、このままで終わるのだろうか?

 9月半ば、二つの鉢に小さな蕾が7つ付いた。棘々の弱弱しい薄緑の蕾に、ふと不安が兆す。1メートルをはるかに超える株である。風に倒れやすいから、早めに広縁の日溜りに上げた。
 朝晩、広縁を覗いて見守り続けた、棘々の蕾が筆のような房になり、やがて次第に頭を擡げ始める。45度ほど頭が立った数日後の夜、ふっくらと膨らみ始め、とうとう昨夜開花を迎えた。
 しかし、まだ安心出来ない。9時近くに開き始めたが、10時過ぎてもまだ満開にならない。おかしい!遅い!また、半開きで終わるのだろうか?
 10時半、ようやく甘く芳醇な香りが部屋中に弾けた。開く、開く!!11時過ぎるころ、ようやく満開になった。待ち望んだ開花だった。
 一夜限りの儚い花である。純白の絢爛豪華な花は、夜が明けるとすっかり萎み、葉先から垂れ下がる。儚いが故に、一層その絢爛豪華な純白の装いが心に沁みる。

 異変から回帰し、コロナ禍を忘れて美しい姿に酔い、芳醇な薫りに身を浸して、贅沢な夜が更けていった。
 そして今夜、花は酢の物として食卓を飾る。とろみとシャキシャキ感が絶妙である。
                   (2021年9月:写真:満開の月下美人)