蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

異変からの回帰

2021年09月29日 | 季節の便り・花篇

 こんもりと繁った松の葉の一本一本が、秋晴れの強い日差しをキラキラと弾き返す。眩しさの中に、夏の暑熱の残滓が散りばめられていた。
 ツクツクボウシの声も、遠い石穴稲荷の杜からかすかに響くだけになった。もう、繁殖に残された時間は少ない。朝晩のかすかな冷え込みが、ツクツクボウシの鳴き声に焦りを滲ませる。伴侶を見つけ交尾して子孫を残す……ただそれだけの為に、ひたすら健気に鳴き続けてきた。そんなセミの季節が終焉に近づいていた。

 早朝のウォーキング、ここ1週間少し夏バテ気味で寝過ごすことが多く、歩くことも億劫な日が続いた。ようやく平常に戻った実感を噛みしめながら、いつものように40分のストレッチの後、まだ白川夜船のカミさんをベッドに残して歩きに出た。
 もう、この時間が仄暗くなった。冬場用のペンライトをポケットに入れようかと、一瞬迷う暗さだが、東の空には既に黎明が立ち上がろうとしていた。
 石穴稲荷のお狐様が咥える巻物を擦って、今日も願掛けを終え、久しぶりに石段を上がって本殿に詣でた。明るさが広がり始めた縁の傍に立ち、早朝の静寂に浸る。束の間の無音の陶酔に、ふと足が縺れそうになる。

 異変の多い夏だった。世間のことはいい。我が家に齎された異変の数々……幾つかの変異は、問うても応えの無いものだった。

 1)八朔の枝で羽化するセミの数が、多いときは100匹を超えていたのに、僅か29匹で終わった。
 2)例年、キアゲハの幼虫を育てる目的で、プランター2本にパセリを10株植えて待つ。しかし、訪れるチョウもなく、今年はとうとう一頭も孵化することなく終わった。
 3)庭中のスミレをプランターに移植して繁茂させ、ツマグロヒョウモンの産卵を待つのも恒例だったのに、こちらも一頭も現れなかった。
 4)友人から株分けしてもらったオキナワスズメウリが、一個も実をつけない。
 5)5つの鉢に増やした月下美人が、2度3度と開花を迎えたのに、何故か完全に開くことなく、開花半ばで薫りも止めた。この春、土を替え伸び過ぎた髭根を刈って新たな鉢に植え替えた。肥料も施した。猛暑に焙られ、長雨に祟られたせいなのか、替えた土が悪かったのか、気落ちしながら秋を迎えた。

 45年前、赴任した沖縄の社宅にあった株から、2枚の葉を父に送った。父が丹精込めて株を増やし、開花の夜にはご近所を招いて花の薫りでもてなした。父が逝き、母が引き継いで毎年花を咲かせた。晩年は認知症となり、月下美人の鉢も放置されたまま枯れかかっていた。南米原産の乾きに強い特性に賭けて、枯れかかった中から数枚の葉を選んで鉢に差した。蘇った株はぐんぐん育ち、毎年初夏から初秋迄、数度の開花で我が家を飾り続けた。
 世代を超え、昭和、平成、令和と生き続けた逞しい株である。株分けした幾つかの鉢は、親しい友人の庭で今も花を咲かせている。我が家の歴史と共に歩んだ大切な月下美人、このままで終わるのだろうか?

 9月半ば、二つの鉢に小さな蕾が7つ付いた。棘々の弱弱しい薄緑の蕾に、ふと不安が兆す。1メートルをはるかに超える株である。風に倒れやすいから、早めに広縁の日溜りに上げた。
 朝晩、広縁を覗いて見守り続けた、棘々の蕾が筆のような房になり、やがて次第に頭を擡げ始める。45度ほど頭が立った数日後の夜、ふっくらと膨らみ始め、とうとう昨夜開花を迎えた。
 しかし、まだ安心出来ない。9時近くに開き始めたが、10時過ぎてもまだ満開にならない。おかしい!遅い!また、半開きで終わるのだろうか?
 10時半、ようやく甘く芳醇な香りが部屋中に弾けた。開く、開く!!11時過ぎるころ、ようやく満開になった。待ち望んだ開花だった。
 一夜限りの儚い花である。純白の絢爛豪華な花は、夜が明けるとすっかり萎み、葉先から垂れ下がる。儚いが故に、一層その絢爛豪華な純白の装いが心に沁みる。

 異変から回帰し、コロナ禍を忘れて美しい姿に酔い、芳醇な薫りに身を浸して、贅沢な夜が更けていった。
 そして今夜、花は酢の物として食卓を飾る。とろみとシャキシャキ感が絶妙である。
                   (2021年9月:写真:満開の月下美人)

友よ!

2021年09月19日 | 季節の便り・花篇

   ごんしゃん ごんしゃん どこへゆく
   赤いお墓の ひがんばな
   きょうも手折りに 来たわいな

   ごんしゃん ごんしゃん 何本か
   地には七本 血のように
   ちょうど あの児の 年のかず
          曼珠沙華(ひがんばな) 北原白秋

 台風一過、俄かに秋が来た。ツクツクボウシの声が少し遠くなり、ツクツクが聞こえず、オーシ、オーシだけが耳に届く。夜の扉を叩くカネタタキの声も掠れがちになった。梅雨の長雨から、体温並みの酷暑、そして豪雨の秋雨前線が居座り続けた。その陰で、傲然とのさばり続けるコロナ。夏にとどめを刺したのは台風14号だった。3日ほど洋上を彷徨った後、一気に東に走り、直接福岡県に上陸、史上初めての出来事となった。
 
 観世音寺脇の戒壇院参道に、真っ赤な曼殊沙華が咲き揃ったという知らせが来た。白秋の詩を思い出し、ふと口ずさむ。
 白秋の愛弟子だった田中善徳という写真家がいた。白秋と共著で残した、白秋の郷里・柳川を美しくとらえた写真集「水の構圖」。復刻された一冊が、我が家の書棚にある。「昭和18年1月25日発行、8圓25銭」とある。既に絶版になっていたものを、昭和55年4月1日、善徳の長男、田中瑛によって復刻され、3500円で書店に並んだ。
 この田中瑛は、私の親友の一人だった。福岡学芸大学付属福岡中学校と福岡県立修猷館高校で勉学を共にし、彼は父の薫陶でろうけつ染めに優れ、後に東京芸大に進み、私は地元の九州大学法学部に進学した。瑛(あきら)という名前は、白秋が付けというた。彼が彼岸に渡って、すでに20年近くが過ぎた。実は、私とカミさんを結びつける機会を作った友人だった。(詳しいことは、いずれ書くことがあるかもしれない)
 もう一人の親友だった貝原信明は、貝原益軒の13代目の子孫だった。田中と同じく、中学と高校を共にした。算盤の名手であり、全国大会でも名を馳せたことが何度もある。九州大学医学部に学び、鳥取大学医学部教授を務めた。奥様に先立たれ、男の子二人と「キャンプのような毎日です」と賀状に書いてきたことがある。後に中学の同級生と再婚、その結婚式の司会に、赴任先の長崎から福岡まで駆け付けたことがあった。しかし、そんな彼も、鬼籍に入ってから既に数年が過ぎた。私一人が残されて、また「敬老の日」を迎えようとしている。

 コロナ禍に翻弄され、ひたすら自粛して耐えるだけの日々に、過ぎ去った昔を思うことが多くなった。夜ごと高まる蟋蟀の声に、次第に心が淵に沈んでいく。
 そんな夜が明けたひと日、Y農園の奥様から秋野菜の収穫のお誘いが来た。早速、カミさんを乗せて観世音寺に走った。駐車場から観世音寺の参道を横切って戒壇院の脇に出た小路で、畑に向かう奥様とばったり出会った。

 まだ苛烈さの片鱗を残す日差しの下で、存分に採らせていただいた。ピーマン、茄子、オクラ、生姜、ゴーヤ、無花果――あっという間に籠がいっぱいになる。
 長雨のせいで、昨今の野菜の値段の高騰が半端ない。白菜が4倍とか!昨日、近くのスーパーで野菜を買おうとしたら、そこにいた担当者が「高いから、野菜は買わないで!今は、肉を食べて下さい」と言われ、手に取った春菊を棚に返した。笑えない現実である。

 緑の大玉を提げる晩白柚の木陰で汗を拭いながら、心地よい秋風に吹かれていた。バッタが跳ねる、ツマグロヒョウモンが舞う。畑の傍らに一叢のススキがあり、21日の仲秋の名月に供えるために、数本を刈らせてもらった。

   ごんしゃん ごんしゃん 気をつけな
   ひとつ摘んでも 日は真昼
   ひとつ後から また開く

   ごんしゃん ごんしゃん なし泣くろ
   いつまで取っても ひがんばな
   恐や 赤しや まだ七つ
       

 真っ赤な彼岸花は、どこかに怖さを秘めているような気がする。球根に毒があるからというよりも、花言葉の一つに、「悲しい思い出」というのがあるせいかもしれない。
               (2021年9:月写真:戒壇院参道の彼岸花・Y農園奥様撮影)