新緑が滴る木漏れ日の下で、苔の生えたベンチにシートを敷いた。男池の湧水の傍らで食べるコンビニお握りと浅漬けの漬物だけのお昼が、この佇まいの中では最高のご馳走なのだ。
散策路を小さな男の子二人を連れた若いお父さんがやって来た。4歳くらいの男の子が「コンニチワ、何してるの?」と訊いてくる。
「お弁当食べてるんだよ」
「一人で大丈夫?」
「………!」絶句した。幼い子供の目には、そんなに見えてしまうのか!
孤老?……山野草探訪は、やはり喜びを分かち合い、見付けるのを競う相手が居てこそ楽しさが倍加するのだと、改めて実感する。
昨夜、由布院の宿「ムスタッシュ」に泊って高原散策中の山仲間に電話して、最新の山野草の情報をもらった。泉水山の野焼きが雨で3週間遅れたために花芽まで焼いてしまって、今年のキスミレは壊滅状態という。由布高原のニホンサクラソウと倉木山のエヒメアヤメアヤメは見頃と聞いては、もうじっとしていられない。2週間前のリベンジ!少し疲れ気味の家内を残し、一人で7時20分に家を走り出た。
快晴の初夏の風の中、ひたすら大分道を疾駆、由布ICで降りて由布院の町を走り抜けて一気に倉木山に着いたのが8時50分。(あれ?こんなに近かったかな?気が逸って少しスピード違反はやったけど…)
連休の合間の月曜日、この時間にはさすがに人影はない。中腹の窪地に車を停めて、マクロを噛ませたカメラを担いで山肌に取りついた。強烈な紫外線を額に感じるほど、初夏の朝日が痛い。膝も肘も胸も野焼きの後の黒い灰に汚れるのも厭わず、蹲り腹這いになってファインダーを覗き続けた。この季節だけの、至福の一瞬である。
小さな谷筋の入り口で、まずイチリンソウとニリンソウが迎えてくれる。左右の山肌に点々と短い丈の小さなエヒメアヤメの青紫。眼を近付けると、更に小さなバイカイカリソウが小指の爪ほどの純白のランタンを提げて群れていた。点在するキスメレの黄色が眩しいほどに照り映える。
充分に満たされて30分そこそこで山を下り、「やまなみハイウエー」に戻って、5分ほどで由布高原に走り上がった。早起きの登山者で既に満杯となった駐車場に車を置いたのが9時半、今日は先を急ぐ。
登山道を右に逸れ、草原をしばらく歩くと一面のニホンサクラソウの群落が拡がっていた。盗掘や踏みにじるのを避けるロープが張り巡らされているのが無粋だが、中高年の山歩き人口が増えるにつれて、ルール違反の輩も増えていく。そういえば、先程の倉木山にも「盗掘、3万円の罰金!」と立札があった。哀しい現実である。ロープの間から数枚の写真をいただき、慌ただしく車に戻った。
滞在20分で、やまなみハイウエーを東に駆け戻る。朝日台を過ぎると、フロントグラスの向こうに一気に九重連山の展望が開ける。南に折れてお馴染みの男池に着いたのは11時、黒岳や平治岳の登山者はまだ少なく、入り口で100円の管理料を払って散策路にはいった。
僅か2週間で山野草の姿が一変していた。ハルトラノ、ネコノメソウ、ヤマルリソウ、エイザンスミレは終わり、代わりに迎えてくれたのは木陰に首を傾げるイチリンソウの群落だった。
急ぎ足に「かくし水」への山道を辿った。今日の狙いはヤマシャクヤクひとつと決めていた。バイケイソウも丈を伸ばして蕾を着けはじめている。ヤブレガサも大きく開いた。ユキザサがようやく優しい花房を開き始めた。林立するチャルメルソウが小さなラッパを風になぶらせる。
新緑の中をなだらかにうねる登山道を黙々と登り続けて20分、右斜面にヤマシャクヤクの秘かな群生地がある。その気で探さないと見付からない場所であり、だからこそ、盗掘を免れている。以前、山仲間とわざわざ倒木を運んで積み上げ、開き始めたヤマシャクヤクを護る目隠しを作ったこともあった。そうなのだ、優しさを喪った人間に、山野草を愛でる資格はない。
残念ながら、花時は既に過ぎていた。殆どが花びらを散らし、満足な姿の花は一輪も残ってなかった。これが、読みがたい山野草の花時であり、だからこそ時を読んで巡り会えた時の喜びは大きいのだ。
男池の畔の戻ってお握りの包みを開いた。せせらぎに混じって、木漏れ日を縫うようにキツツキのドラミングが降ってきた。至福の時間は、あっという間に過ぎる。
小一時間の森林浴の憩いのあと慌ただしく長者原に戻り、牧の戸峠を越え、瀬の本から黒川温泉を抜けて、久し振りに「ファームロードWAITA」を走り下った。文字通り、「湧蓋(わいた)山を巻く広域農道」は、時折走りを楽しむバイクが傾ぎながら擦れ違うだけの隠れドライビング・コースである。アップダウンの激しい曲折の道を、ギアチェンジとハンドル操作を楽しみながら無心に日差しの中を走り下った。
途中、家内の勧めに甘えて「豊礼の湯」に立ち寄り、貸切露天風呂に浸かった。1200円を奮発すれば、50分間濁り湯が掛け流しになる。年甲斐もなく走り続け歩き続けて少し疲れた膝と腕を労わりながら。此処もまた至福のひと時だった。遠く湧蓋山が綺麗な稜線を見せ、湯船の目の前には折から真っ盛りの山藤が目を癒してくれる。少し日焼けした頬に湯が沁みた。
お馴染みの喫茶店でソフトクリームを食べて湯上りの火照りを鎮め、4時40分に帰り着いた。7000歩を歩き、293キロを走り……「後期高齢者のやることじゃないな」と自嘲ながら飲んだビールは、実は限りなく美味だった。。
この日、太宰府は29度の夏日を記録した。
(2015年4月:写真:群れ咲くバイカイカリソウ)