蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

孤老(?)、初夏を駆ける

2015年04月28日 | 季節の便り・花篇

 新緑が滴る木漏れ日の下で、苔の生えたベンチにシートを敷いた。男池の湧水の傍らで食べるコンビニお握りと浅漬けの漬物だけのお昼が、この佇まいの中では最高のご馳走なのだ。
 散策路を小さな男の子二人を連れた若いお父さんがやって来た。4歳くらいの男の子が「コンニチワ、何してるの?」と訊いてくる。
「お弁当食べてるんだよ」
「一人で大丈夫?」
「………!」絶句した。幼い子供の目には、そんなに見えてしまうのか!
 孤老?……山野草探訪は、やはり喜びを分かち合い、見付けるのを競う相手が居てこそ楽しさが倍加するのだと、改めて実感する。

 昨夜、由布院の宿「ムスタッシュ」に泊って高原散策中の山仲間に電話して、最新の山野草の情報をもらった。泉水山の野焼きが雨で3週間遅れたために花芽まで焼いてしまって、今年のキスミレは壊滅状態という。由布高原のニホンサクラソウと倉木山のエヒメアヤメアヤメは見頃と聞いては、もうじっとしていられない。2週間前のリベンジ!少し疲れ気味の家内を残し、一人で7時20分に家を走り出た。
 快晴の初夏の風の中、ひたすら大分道を疾駆、由布ICで降りて由布院の町を走り抜けて一気に倉木山に着いたのが8時50分。(あれ?こんなに近かったかな?気が逸って少しスピード違反はやったけど…)
 連休の合間の月曜日、この時間にはさすがに人影はない。中腹の窪地に車を停めて、マクロを噛ませたカメラを担いで山肌に取りついた。強烈な紫外線を額に感じるほど、初夏の朝日が痛い。膝も肘も胸も野焼きの後の黒い灰に汚れるのも厭わず、蹲り腹這いになってファインダーを覗き続けた。この季節だけの、至福の一瞬である。
 小さな谷筋の入り口で、まずイチリンソウとニリンソウが迎えてくれる。左右の山肌に点々と短い丈の小さなエヒメアヤメの青紫。眼を近付けると、更に小さなバイカイカリソウが小指の爪ほどの純白のランタンを提げて群れていた。点在するキスメレの黄色が眩しいほどに照り映える。

 充分に満たされて30分そこそこで山を下り、「やまなみハイウエー」に戻って、5分ほどで由布高原に走り上がった。早起きの登山者で既に満杯となった駐車場に車を置いたのが9時半、今日は先を急ぐ。
 登山道を右に逸れ、草原をしばらく歩くと一面のニホンサクラソウの群落が拡がっていた。盗掘や踏みにじるのを避けるロープが張り巡らされているのが無粋だが、中高年の山歩き人口が増えるにつれて、ルール違反の輩も増えていく。そういえば、先程の倉木山にも「盗掘、3万円の罰金!」と立札があった。哀しい現実である。ロープの間から数枚の写真をいただき、慌ただしく車に戻った。
 滞在20分で、やまなみハイウエーを東に駆け戻る。朝日台を過ぎると、フロントグラスの向こうに一気に九重連山の展望が開ける。南に折れてお馴染みの男池に着いたのは11時、黒岳や平治岳の登山者はまだ少なく、入り口で100円の管理料を払って散策路にはいった。

 僅か2週間で山野草の姿が一変していた。ハルトラノ、ネコノメソウ、ヤマルリソウ、エイザンスミレは終わり、代わりに迎えてくれたのは木陰に首を傾げるイチリンソウの群落だった。
 急ぎ足に「かくし水」への山道を辿った。今日の狙いはヤマシャクヤクひとつと決めていた。バイケイソウも丈を伸ばして蕾を着けはじめている。ヤブレガサも大きく開いた。ユキザサがようやく優しい花房を開き始めた。林立するチャルメルソウが小さなラッパを風になぶらせる。
 新緑の中をなだらかにうねる登山道を黙々と登り続けて20分、右斜面にヤマシャクヤクの秘かな群生地がある。その気で探さないと見付からない場所であり、だからこそ、盗掘を免れている。以前、山仲間とわざわざ倒木を運んで積み上げ、開き始めたヤマシャクヤクを護る目隠しを作ったこともあった。そうなのだ、優しさを喪った人間に、山野草を愛でる資格はない。
 残念ながら、花時は既に過ぎていた。殆どが花びらを散らし、満足な姿の花は一輪も残ってなかった。これが、読みがたい山野草の花時であり、だからこそ時を読んで巡り会えた時の喜びは大きいのだ。

 男池の畔の戻ってお握りの包みを開いた。せせらぎに混じって、木漏れ日を縫うようにキツツキのドラミングが降ってきた。至福の時間は、あっという間に過ぎる。
 小一時間の森林浴の憩いのあと慌ただしく長者原に戻り、牧の戸峠を越え、瀬の本から黒川温泉を抜けて、久し振りに「ファームロードWAITA」を走り下った。文字通り、「湧蓋(わいた)山を巻く広域農道」は、時折走りを楽しむバイクが傾ぎながら擦れ違うだけの隠れドライビング・コースである。アップダウンの激しい曲折の道を、ギアチェンジとハンドル操作を楽しみながら無心に日差しの中を走り下った。

 途中、家内の勧めに甘えて「豊礼の湯」に立ち寄り、貸切露天風呂に浸かった。1200円を奮発すれば、50分間濁り湯が掛け流しになる。年甲斐もなく走り続け歩き続けて少し疲れた膝と腕を労わりながら。此処もまた至福のひと時だった。遠く湧蓋山が綺麗な稜線を見せ、湯船の目の前には折から真っ盛りの山藤が目を癒してくれる。少し日焼けした頬に湯が沁みた。

 お馴染みの喫茶店でソフトクリームを食べて湯上りの火照りを鎮め、4時40分に帰り着いた。7000歩を歩き、293キロを走り……「後期高齢者のやることじゃないな」と自嘲ながら飲んだビールは、実は限りなく美味だった。。

 この日、太宰府は29度の夏日を記録した。
           (2015年4月:写真:群れ咲くバイカイカリソウ)

気まぐれな春

2015年04月17日 | 季節の便り・花篇

 鈍色の空から、烈風が吹く。丸太で囲まれた鍵型の20畳ほどの露天風呂にさざ波が立ち、雲の切れ目から斜めに差す日差しを金波銀波に弾き返す。沸き立つように吹き散らされる湯気を目で追いながら、少し口惜しい思いに浸っていた。

 「春に三日の晴れなし」…それにしても、定まらないお天気の日々が続く。「山野草の花時が過ぎる!」苛立ちながら、週間天気予報を追った。例のように「お隣の国の団体は入っていませんか?」と尋ね「20人ほどの予約が入ってますが、早めにお風呂にはいっていただけば…」という返事に、この日と決めた。前後に雨マークが並ぶ4月半ばである。「久住高原コテージ」、もう12回目を数える常宿になった。

 激しい戻り寒波に雷雨と突風が吹き荒れる春の嵐の翌日、この辺りは予報では9時頃から晴れる…筈だった。しかし、大分道を走り、玖珠ICから山道に取りついて、四季彩ロードを経て飯田(はんだ)高原・長者原に登り詰める頃になっても、一向に雨風がやまない。しかも、この時期真っ黒な筈の泉水山の山肌が、まだ冬枯れ色のまま雨に濡れている。今年も山焼きが大幅に遅れ、これでは一面のキスミレの群生は望むべくもない。濡れそぼつ枯れすすきの根方に、僅かに開くキスミレは、むしろ哀れだった。
 自然探究路の散策も諦め、寒風に追われて車の中でコンビニお握りのお昼を食べる羽目になった。気温5度、見上げる雲間の九重連山は雪!星生山、硫黄山、三俣山の尾根は、4月の春の雪を頂いて、奔る雲に弄られていた。仕方なく、予定より早くコテージに向かう途中越えた牧の戸峠は、茶店の屋根も路側も雪が覆っていた。想定外(この言葉も、「粛々」という言葉と並んで陳腐な政治用語に墜ちてしまったが)の一日となった。

 家鳴り震動する烈風の一夜が明けて3度目の露天風呂を楽しみ、曇り空の中を男池(おいけ)に向かった。空は晴れない。期待も、ともすれば薄れがちだった。
 しかし、やはり山は優しい。木道を外れて、男池の湧水から流れ下る小川沿いに歩く足元に、ムラサキケマン、ヤマエンゴサク、エイザンスミレ、そして今年はヤマルリソウの群生が見事だった。小指の爪ほどもない小さな花は、さながら「小人のボタン」。ネコノメソウ、ハルトラノオ、ヒトリシズカ、ミツバツチグリ…いつも見慣れたこの時期の花々の競演に、十分に報われたと思いながら、まだ少しばかりの未練がある。「ユキワリイチゲは、もう終わってるよね」と家内と話しながら、万にひとつの僥倖を頼んで「かくし水」への樹林を辿ってみた。
 萌える新芽が可憐で美しい、我が家お気に入りの男池の春の樹林である。ヤブレガサももう傘を広げ、バイケイソウやキツネノカミソリが群れ為してのびのびと緑を拡げている。時折、濃い紫のマムシグサが新緑の中で異を唱える。
 倒木で休む家内を残し、ユキワリイチゲの群生地まで登ってみた。やはり葉だけを拡げて、花の姿は一輪もなかった。黒岳に登る若者4人と擦れ違って挨拶を交わし、家内の元に戻ると「ホラ!」と指差す向こう、スミレの群生する木立の下に数輪のキスミレが咲いていた。山肌一面のキスミレの絨毯も圧巻だが、枯葉の中に散り咲く数輪の健気さも捨てがたい。野焼きの炭に汚れることもなく、眩しいほどに綺麗な黄色だった。

 満たされて湯布院に走り、久し振りに「ムスタッシュ」で石焼窯のピザでランチを摂った。緑の木立に包まれたこのレストランで、髭のマスターの笑顔に癒されるひと時は、いつも高原歩きのオアシスである。
 「連休前に、倉木山のエヒメアヤメとバイカイカリソウを観に来ます」と約束して、まだ時折雨が奔り風が車体を叩く中を帰途に就いた。
 305キロ、少しばかり不完全燃焼の未練が残る春探しのドライブだった。

 翌日は抜けるような快晴…なんとも気まぐれな春である。
               (2015年4月:写真:群れ咲くヤマルリソウ)

孤高

2015年04月07日 | 季節の便り・虫篇

 10センチを超える成虫からは想像出来ないほど、儚く微小な姿である。
 昨秋、九州国立博物館の裏山で採取してきて鉢に差していた2つの卵鞘(卵胞)から、初めてのオオカマキリが誕生した。通常は一つの卵鞘から200匹ほどの前幼虫が溢れるように生まれ、すぐに脱皮してカマキリの形に変容するのだが、何故かこの日、鈍色の曇り空の下で生まれたのは僅か1匹だった。
 慌て者の未熟児というわけでもない。触手まで含めても僅か15ミリほどの小さな幼虫だが、一丁前に鎌を振り立てて卵鞘に立つ姿は、孤高と言いたいほどに健気だった。鳥やスズメバチなどの天敵の多い中で生き残るのは1~2%、200匹の中の僅か2~3匹でしかない。この1匹が無事にこの庭で成虫に育つことを祈りながら、シャッターを落とした。
 鎌のような前足を畳む姿から、「拝み虫」あるいは「預言者」という異名を持つ。西洋でも「Praying mantis(お祈り虫)」という、孤高に相応しい異名がある。

 「蟷螂の斧」といえば、弱い者が身の程を弁えずに強者に向かうことをいう。中国三国の時代(222年から~263年)、陳琳が「曹操既に徳を失い依るに足らざるゆえ、袁紹に帰すべし」という主旨の檄文を送った中に、魏の曹操軍の劣弱なさまを諷して「蟷螂の斧を以て隆車(大車)の隧(すい:轍)を禦(ふせ)がんと欲す」という一文がある。また荘子の「天地篇」には、荘子が「凶暴残忍しかも知恵のある君主に仕えるにはどうしたらよいか」と問われ「まず自らの行いを正し、自然に相手を感化するように努めよ」と答え、さらに「猶、蟷螂の臂(ひじ)を怒らして、以て車轍に当たるがごとき、則ち必ず任に勝(た)えざるなり」と言ったという。それほど古くから、カマキリは身近にいた。

 男を食い物にする女を「カマキリ夫人」といい、毒婦の代名詞に使われることもある。雌が交尾中に雄を頭から食ってしまうことがあるから、あながち外れてもいない。雄は食われながら交尾を続け、頭を失った雄の腹部は勝手に動き、初期の目的通りに交尾をはたす。雄は雌に食われ続け、最後には生殖器のある尾端だけの存在になってしまう。それでもなお雄の性的機能は失われず、そのまま交尾は数時間にわたって続けられる。
 生まれたばかりのちびっこカマキリの孤高の姿からは、想像もできない凄まじい生殖本能である。頭を食われることによって雄の性欲が昂進するという最近の研究がある。実験的に雄の頭を切ると、身体はそれと連動して交尾行動をおこす。雄が絶体絶命に追い込まれた中で、最後の1滴まで使って自分の遺伝子を残そうとする適応現象だろうという。子孫を残すためには、これほど厳しい自然の掟があるのだ。
 ネット情報は、次のような言葉で結ばれていた。「しかし、昆虫類は人類とはまったく別な進化の道筋をたどって今日がある。そうした意見はカマキリが発言してくれない限り何の意味もないのだ。」

 お昼ご飯を食べて観に戻ったら、ちびっ子はまだ一匹のまま、昂然と頭を掲げて後に続く兄弟たちの誕生を待ち続けていた。
 戻り寒波の、少し肌寒い一日の出来事である。
              (2015年4月:写真:誕生まもないちびっ子カマキリ)

雨やまず……

2015年04月05日 | 季節の便り・虫篇

 庭先に降り立った足元から、小さな虹が飛んだ。
 此処数年、我が家の庭で世代交代を重ねている斑猫(ハンミョウ)が、束の間の雨の切れ目に還ってきた。ミチオシエ(道教え)、誰もが夏の熱い日差しの下、導かれたことのある親しい虫である。
 まだ生まれて間もない初々しいデビューなのだろう、いつもの敏捷な動きはなく、たどたどしく頼りなげな飛び方で、カーポートの屋根にしがみついた。3年前の2月、厳冬の合間に束の間迎えた小春日の朝、我が家の庭に誕生して以来、2匹のハンミョウが住み着いて世代交代を重ねている。夏の間、いつも縺れ遊ぶ2匹が、苛烈な夏の日差しを美しく七色に弾き返してくれる。

 満開を待っていたように激しい雨が桜を叩き、御笠川添い2000本の並木も既に葉桜。降ってはやむ雨の日々が既に6日続いている。昨夜の皆既日食も重い雲の彼方だった。
 気温だけが暦を1ヶ月早取りした初夏のような暖かさに、草花の芽生えが加速している。早春のミスミソウは終わり、六光星のようなハナニラが真っ盛りである。気儘に生い茂らせているムラサキケマンは既に盛りを過ぎた。昨年いただいたムラサキが、古株の中から3本の新芽を伸ばし、オトメギボウシ、ヒメミズギボウシ、ウバタケギボウシも芽生えた。キレンゲショウマが伸びる傍らで、バイカイカリソウが蕾を立てた。種を飛ばした幾種類ものスミレが咲く中で、白地に紫の斑点を散らすシボリスミレも幾つもの鉢に間借りして花を拡げている。鉢を並べていると、お互いに間借りし合うように広がっていくのが楽しい。
 今年の春は急ぎ足である。

 県知事・県議会議員の選挙が始まった。組織を恫喝しながら、違反ギリギリのあくどい事前運動を繰り返す候補者と、その後ろに蠢くどす黒い影に辟易して、早々に期日前投票に出掛けた。旧態にしがみつく進化しない町……この国の縮図である。語る気力ももう喪われつつあるが、孫たちが生きる時代への危惧は薄れることがない。

 先日、3拍4日の慌ただしい旅をした。春を車窓に楽しもうと、敢えて新横浜まで5時間の新幹線に乗った。駅弁を楽しみ、右頬を隠した残雪光る富士山も観た。娘の家に荷物を置いて、その夜は孫二人の吹奏楽定期演奏会に大船に走った。長女は、この日のホルンの演奏を最後に多摩美大に進学し、高校に進んだ次女は引き続きファゴットを吹き続ける。大勢のOB.OGたちと共に吹いた、チャイコフスキーの「大序曲1812年」は圧巻の演奏だった。
 翌日は家内と二人、歌舞伎座の4月公演「菅原伝授手習鑑」を昼夜通しで観た。昼の部は1階席でゆとりだったが、夜の部は3階席。本場の舞台で久し振りの声掛けを楽しんだものの、前の席と膝突き合わせる窮屈な座席に、腰と膝とお尻が悲鳴を上げた。
 明けて三日目、娘が春の南房総への旅でもてなしてくれた。二人の孫も連れ立ち、東京湾海底を走るアクアラインを抜けて、人工島「海ほたる」でランチを楽しんだ。海上ハイウエーを走って房総半島に渡り、木更津を経て鴨川のホテルに投宿。6階の展望大浴場で、夕映えに染まりながら足腰の疲れを癒した。孫たちと囲む夕餉の楽しさは譬えようがなかった。この子たちの明日を見守ることが出来る歳月は、もうそれほど長くない。5つ並べた布団で孫たちの寝息を聴きながら、想いは複雑だった。
 翌日、九十九里浜で潮風に浸った。入社した年、船橋の洗濯機工場で3週間の見習い実習を受けた時、教育課長が真冬の一日、成田山新勝寺、犬吠岬、九十九里浜に連れて行ってくれた。以来、半世紀振りの訪問だった。高村光太郎の「千鳥と遊ぶ智恵子」の詩碑を、暖かい春の潮風が優しく吹き過ぎていた。
 牡蠣打ち小屋で焼き牡蠣や焼きハマグリ、釜上げシラス丼でお昼を済ませ、娘夫婦の厚意に甘えて成田からマイレージを使って帰途に就いた。夕暮れの富士山のお鉢を翼の下に見ながら、慌ただしい「孫たちといた時間」に感慨は深かった。いろいろ未来を思い悩んでも、もう私たちに出来ることはあまりない。

 今夜から又雨が来る。やまぬ雨を重ねながら、急ぎ足で春が深まっていく。たどたどしいハンミョウの飛翔も、日毎に巧みさを増すことだろう。
               (2015年4月:写真:還ってきたハンミョウ)