蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

秋の気配

2022年08月25日 | 季節の便り・花篇

 今年の秋は短いという。ラニーニャ現象の余波で、残暑は10月まで続き、11月の初めには、もう冬の気配が忍び寄ると。つまり、今年の爽やかな秋は2~3週間しかないということだった。美しい詩情豊かな日本の四季が、地球温暖化の煽りを受けて次第に春と秋が短くなり、夏と冬が長くなっていく―――二季なんて、なんだか寂しく、哀しい。人類の傲慢のツケである。

 早朝の散歩で、ふと涼風を感じた。何か月ぶりだろう、この気配は?花時の長いランタナ、眩しいほどの百日紅、その向こうの空に小さな秋雲のひと群れがあった。色白く美しい女子大生と思しき外国人と擦れ違った。「オハヨゴザイマス!」というたどたどしい日本語、「あ、ウクライナの留学生!?」と思ってしまった。
 近くの大学に多数のウクライナからの留学生が迎え入れられており、故郷の戦禍を少しでも慰めようと、様々な地域行事に招かれている。秋を感じた早朝、思いがけない邂逅だった。

 プーチンの非道によるウクライナの戦禍は、半年たっても終焉の気配はない。昨日の西日本新聞「春秋」にこんな一文があった。
 ――国立歴史民俗博物館館長などを歴任した考古学者、佐原真の言葉がある。「人類の歴史を400万年とするなら399万年間、人は武器と戦争を知らなかった」「400万年を4メートルに置き換えていうなら、人類は最後の1センチ以降で戦争を始めてしまった。(講談社「今読む名言」)▼石器に始まり鉄や刀剣を作り出した。鉄砲、毒ガスに核兵器まで開発、加えて大量殺りくをいとわない、狂気の指導者も生み出した。全て1センチの間に――前述に続けて佐原さんは「数ミクロンのところで地球と全人類の破滅を招きかねないほど武器を発達させてしまった」と語っている。武器を生み出した知恵と同様、私たちには武器を使わせない知恵も備わっている。そう信じたい――

 「終末時計」というものがある。ノーベル賞受賞者などの専門家が、人類滅亡を午前0時に見立てて、過去一年の世界情勢に基づき、人類滅亡までの残り時間を決めて、毎年発表している。一昨年は、「核と地球温暖化の脅威が深刻化した」として、1947年の創設苛最短となった。昨年は、コロナを巡り「深刻な地球規模の公衆衛生危機への対応を誤った」ことに加え「核や気候問題で進展を欠いた」として、前年の残り時間を据え置いた。
 その人類滅亡までの残り時間は、僅か100秒である!人類は既に、23時間58分と20秒を使い果たしてしまった。

 もうヒグラシの声も聴こえず、ツクツクボウシの声も遠い。今年は蝉が少なく、鳴き声も遠かった。歩く道端から、コオロギをはじめ、すだく虫の声が次第に濃くなっていく。
 石穴稲荷にいつもの願をかけ、坂を下って左に折れる頃、昇り始めた朝日が背中に届いた。6時半、夏至の頃に比べ、もう日の出が30分遅くなった。心なし日差しも背中に優しく、10メートルほど伸びた自分の影法師を追いながら歩く。細く長い脚に、「影で見ると、まだまだ若いな!」と自賛する。「脚があと10センチ長かったら、人生が変わっただろうな」という、負け惜しみの言い換えでもある。
 左折して坂道を上がり、もう一度左に曲がると、朝日が真っ向から顔を包んだ。多少優しくなったといっても、まだ夏の日差し、フッと汗が噴き出した。

 帰り着いて浴びるシャワーの温度を、43度に上げた。アメリカの娘を何度も訪ねるうちに、シャワー生活が染みついて、5月から10月頃まで我が家では風呂を沸かすことがない。そして、熱いシャーの後に、必ず冷水を浴びる。冬場は、湯冷めしやすい体質だから、下半身に熱いお湯と氷のような冷水を数回交互に浴びる。夏場、ぬるま湯のようだった水が、今朝は少し冷たく感じられた。こんなところにも、こっそり伺う小さな秋の顔がほの見えて嬉しい。
 朝食を終え、洗濯物を干す。夏の間、苛烈な日差しに汗みずくの地獄だったのに、今朝の日差しは、やはり優しく感じられた。
 干し終わるころ、空はすっかり夏雲に戻っていた。

 農園の奥様から、夏水仙(ナツズイセン)の写真がLINEで届いた。花時に葉がないから、裸百合(ハダカユリ)とも呼ばれるという。花言葉は、「深い思いやり」、「楽しさ」、「悲しい思い出」、そして「あなたの為に何でもします」
 ヒガンバナ科に属し、お彼岸の頃に咲くから「大切な人の想い」を連想させる花言葉だという。兄の初盆にも行けないままに、コロナの夏が過ぎようとしていた。
                     (2022年8月:写真:友人撮影のナツズイセン)

炎天に、秋立つ!

2022年08月07日 | 季節の便り・花篇

 例年になく、百日紅(サルスベリ)の紅が濃く感じられる。その紅の花房を、午後の苛烈な日差しが容赦なく叩く。この炎天に、姦しいセミの声も絶え、人声もしない日曜日である。洗濯物を取り込む背中に、重みを伴うような日差しが痛い。

 猛暑日が当たり前になった。37.4度という体温を超える暑さも、近年は異常とは言えなくなった。どう弁解しようと、地球温暖化はもう否定できない。40度を超える炎熱に死者が相次いだヨーロッパをはじめ、旱魃と洪水のニュースが後を絶たない。天災に名を借りた実は人災、ロシアの暴挙が世界中の食材と燃料の流れを滞らせ、便乗も含めた値上げのカーブが登り続ける。
 世界最多のコロナ第7波は衰えを見せず、人口7万1千あまりの小さな大宰府市でさえ、連日三桁の感染者を出し続けている。「重症化リスクの高い高齢者は、不要不急の外出を避けてください!」と、国のトップは無策のツケを高齢者に向けてくる。「ざけんなよ!いま発症しているのは若者や子供たちであり、最も自粛して家に籠っているのは高齢者だろう!」と憤っても虚しい。アベ、スガに続くキシダ政権、これほど貧弱な閣僚を据えた内閣も珍しい!茶番の朗読劇しかやる能力のない人間が、国の政治を司っている日本の将来に、若者は何の希望を見出だせるだろう。
 ―――腹を立てても甲斐なく、暑苦しさが一層増すだけだった。

 8月7日、立秋。暦の中の秋は、現実には35.6度、微塵の気配さえ感じられない立秋だった。懸命に小さな秋を探してみても、8月3日に、昨年より4日早くツクツクボウシが鳴き始めたこと、朝の散策の傍ら、小さな水音を立てる湧き水の辺りでウスバキトンボの小さな群れを見付けたこと――子供の頃、ボントンボといって、空一面に払いのけたくなるほどの群れが飛んでいた。確かに秋に向かう小さな気配ではある。
 子供の頃、もう一つ空を覆う季節の生き物がいた。アブラコウモリ(家蝙蝠)である。日暮れになると、石を投げれば当たりそうなほど空一面を蝙蝠が覆っていた。天の川と並び、今は失われてしまった風物詩の一つである。
 気になっていることがある。我が家の軒下に棲んでいたアブラコウモリがいなくなった。この春まで軒下に落ちていた小さな糞や虫の食べ滓が、梅雨明けの頃から見当たらくなった。数年前には子供まで生まれていたから、少なくともひと番いは命を全うしていた筈なのに。また一つ、風物詩が失われていく。

 異常気象も、毎年繰り返し叫ばれると当たり前になってしまう。人間の適応力を超える速さで、環境悪化が加速しているのだろう。環境で滅ぶか、核で滅ぶか、残された選択肢を政治が自ら狭めつつ日々が過ぎ去っていく。この夏に、まだ滅びの色は見えない。

 7月2日始まった我が家の庭のセミの羽化は、7月21日72匹を数えて終わった。昨年の29匹に較べれば多いが、かつて120匹を越えた年に較べれば少し物足りない。ニイニイゼミ、クマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、そしてツクツクボウシの季節になった。早朝の薄明に「カナ、カナ、カナ!」とヒグラシが鳴き、日が昇ると「ワーシ、ワシ、ワシ!」と姦しいクマゼミに変わる、やがてアブラゼミが「ジリ、ジリ、ジリ、ジリ!」と油照りの午後を引き継ぐが、今日の炎熱の午後はセミさえも鳴かない。木立の下で、蟻に引かれる骸も増えてきた。6年も7年も地中で暮らし、這い出て羽化してもせいぜい1か月、ひたすら繁殖の為だけの鳴きたてるセミの健気さ。雌に出会うこともなく、地に落ちるセミもいるだろう。そのひたむきな生きざまが哀れを誘う。
 やがて、「オーシーツクツク!」とツクツクボウシが懸命に秋を呼び寄せてくれるだろう。

 今年も、2匹のハンミョウ(道教え)が我が家の庭で狩りを続けている。庭師が入って綺麗に刈り揃えられた庭木の緑の中で、一段と百日紅の紅が燃え上がるようだった。
                       (2022年8月:写真:百日紅燃える)

縺れ飛ぶ

2022年04月06日 | 季節の便り・花篇

 枯葉の上に一人用のピクニックシートを拡げ、脚を伸ばして寝っ転がった。見上げた空は春色、数本の木々が青空を突き刺す中に、花吹雪を舞わせる桜が1本、散る花びらを額に受けながら、目を閉じて木漏れ日の優しい眩しさを瞼に受けた。時折葉先を揺する春風に乗って、シジュウカラやヤマガラの囀りが運ばれてくる。真っ盛りの春にも、早くも初夏への滅びの気配があった。今年の季節の走りは気紛れである。季節を狂ったように右往左往させるのも、結局は人間のなせる業が原因だろう。
 値上げの春である。庶民には音を上げる春、全ての元凶は狂ったロシアにある。ウクライナの国旗は、麦畑と青空を表すという。覿面、小麦の価格が高騰、ロシアへの経済制裁で原油価格が高騰、この二つで、自給率の乏しい日本は忽ち息切れし始めた。値上げの範囲は、日々拡大を続ける。将来に夢を持てない若者は、益々乏しい夢を摘み取られていく。そんな不穏な世情に、新型コロナが第7波に向かってグラフの鎌首を擡げようとしている。
 言いたくない!書きたくない!!とぼやきながら、ついつい目を逸らせない自分に疲れて、青空の中を歩き始めた。カミさんは親しい友人とランチ&ショッピングに出掛けた。貴重な憂さ晴らしである。

 切り株に坐って、昨日の夕飯の残りの散らし寿司を食べた。博多では3月3日ではなく4月3日に雛祭りをする。遠い昔々に雛だったカミさんが、久しぶりに散らし寿司を作った。2合の寿司が二日分になる年寄り夫婦である。今夜、カミさんは頂き物の釣りたての鰤を煮付けて食べるから白飯にして、多分残った一人分のチラシ寿司は、昼に続いて私が処分することになるだろう。

 観世音寺のハルリンドウが、私を秘密基地「野うさぎの広場」に駆り立てた。10日前、観世音寺に見つけた翌日、期待を込めて急ぎ足で訪れた広場には、一輪の花の姿もなかった。毎年、足の踏み場に困るほど群れ咲く広場である。もう終わったのか、まだなのかと迷いながら1週間が過ぎた。3日前に再び観世音寺を訪れ、20輪ほどのハルリンドウを這い蹲って撮った。
 期待半分諦め半分で、再び広場を訪ねることにした。古いカメラで使い慣れた50ミリのマクロに接写レンズを噛ませ、接続用のリングに付けた新しいミラーレスカメラがずっしりと肩に重い。

 良かった!小さなハルリンドウが、僅かながら5輪ほど花開いていた!!昼時を過ぎていたが、飯より写真が先と、例によって枯葉の上に這い蹲った。枯葉色の広場に、散り落ちた桜の花びらに交じって、真っ青なハルリンドウが笑っていた。これこそ、春色だった。僅か5輪!しかし、少ないが故に、一層愛しく思われるのだ。

 目の前の楓の若葉に、イシガケチョウがとまっていた。近くに好みのイヌビワでもあるのか、この九州国立博物館周辺や裏山にはイシガケチョウが多い。ボランティアをやっていた22年前から6年間、初めて博物館裏の湿地で水を吸っているこの蝶に出会って以来、すっかりお馴染みになった。まるでおぼろ昆布のような文様が「石崖蝶」のネーミングとなった。飛翔が速い蝶だが、とまる時は殆んど羽を拡げたままだから、接写機能付き望遠レンズがあればいい寫眞が撮れる。
 その1頭にもう1頭が縺れた。縺れ合いながら、広場中を飛び回る。それを目で追いながら、ちらし寿司を口に運ぶ。虫キチ・蝶大好きの私にとって、至福の時間だった。蝶たちにも待ち望んだ恋の季節だった。地表すれすれに飛び回るたった1頭のキチョウが、なんだか可哀想になるほど、縺れ合う2頭のイシガケチョウは楽しそうだった。

 微睡みかけたところに、スッと冷たい風が吹いた。春の日差しは暖かくても、吹く風にはまだ冬の残渣がある。シートを畳んでショルダーに納め、ストックを突いて帰路に就いた。今日のストックは枯れ枝のマイ・ストックではなく、たくさんの山道を歩いて来た本物の山用のLEKIのストックである。いろいろな山の想い出がいっぱい詰まったストックの握りには、熊の姿とYOSEMITEという文字が刻印されている。

 辿る山道に、イノシシの狼藉は一段と凄まじかった。イノシシも懸命に生きているのだ。「頑張れよ!」と声を掛けたくなる午後だった。
              (2022年4月:写真:「野うさぎの広場」のハルリンドウ)

酣(たけなわ)の春

2022年03月28日 | 季節の便り・花篇

 シートを拡げるのを躊躇うほど、足元に春が溢れ咲いていた。スミレ、ホトケノザ、カラスノエンドウ、ムラサキサギゴケ、オオイヌノフグリ、蹲って目を凝らさないと見えないほどの小さな白い花もある。少しでも花が少ない空間を見つけ、小さな斜面にシートを敷いた。政庁跡山門手前東側に、ポツンと孤立した一本の桜の木の根方が、今日のランチテーブルだった。早春に訪ねたシナマンサクの木の近くである。
 西側は端から端までの桜並木、日曜日の今日は殆んど家族連れのシートに覆われ、晴れ上がった青空は最高の花見日和だった。
 シートの主役はコンビニのおにぎりと漬物とポテトサラダ、簡素ながら、時折風に舞う満開の桜の花が豪華なご馳走にしてくれる。

 2月と5月を慌ただしく行き来する不順な天候が、福岡市内より3日ほど遅れていた開花を、あっという間に満開にして見せた。着るものに惑う人間をよそに、花は20度を超える一瞬を見逃さず、爛漫の春を届けてくれた。昨年は3月24日に、親しい友人ご夫妻とお花見ピクニックを楽しんだ。不慮の障りで今年はご一緒出来ず、今日27日にカミさんと二人のお花見となった。
 「今年も来ることが出来たネ!満開の桜だよ!!」
 二人合わせて165歳、日毎年毎に明日が来年が、必ずしも約束されたものではなくなる年齢である。だから、朝の目覚めが嬉しいし、暦を捲る手に安堵の吐息が掛かるのだ。

 コンビニで買い物を済ませ、太宰府図書館の駐車場に車を置いて、御笠川沿いの桜並木の散策路に歩き出た。見晴るかす一本道は、満開の桜のトンネルだった。行く人戻る人、脇をかすめる自転車、皆マスク姿で表情は見えないが、青空に映える万朶の桜を見上げる眼差しは同じだった。
 毎年、同じ場所同じアングルで写真を撮ってしまう。同じ絵面でも、去年とは違う、と言い訳しながらシャッターを落とすのだった。一瞬だけマスクとサングラスを外させ、桜並木を背景にしたカミさんの写真をスマホで録って、娘に「生存確認」のLINEを送る。

 春風が川面に縮緬のさざ波を走らせた一瞬、カミさんが小さく叫んだ。
 「あ、カワセミ!!」
 この川にはカワセミが住む。時折枯れ葦の葉先を霞めて、翡翠色の小さな光が走る。見上げていた桜から目を落とした時には、すでに光は飛び去っていた。

 「世に中は、三日見ぬ間の桜かな」
 江戸中期の俳人、大島蓼太の句という。一瞬で移ろい行く世の中を、見事に17文字に籠めた。
 多分、此処一両日で花吹雪が始まるだろう。その吹雪を浴びるのも又良し。お握りを頬張る頭に、時折一片の花弁が舞う。うらうらの日差し、揺蕩う春風、文字通り「春風駘蕩」の午後が過ぎていった。

 「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞上人絵詞伝)
 嵐に吹き散らされるのもいい。軍歌に度々謳われた暗い一面もあるが、潔い散り際は日本人の心に消すことのできない思いを沁み込ませてきた。夜桜はどこかおどろおどろしく、「桜の木の下には死体が埋まっている」という言い伝えも、何故か素直に心に沁みてくる。
 全てを受け止めて、今日も爛漫と桜は咲き誇っていた。

 次第に増えていく人影を避けて帰路についた。学校院跡から戒壇院、そして確かめたいことがあって観世音寺の参道に折れた。期待は裏切られなかった。叢の中に7輪ほどの小さなハルリンドウが咲いていた。酣(たけなわ)の春の便りの総仕上げだった。
                  (2022年3月:写真:ムラサキサギゴケ)

花を呼ぶ

2022年03月20日 | 季節の便り・花篇

 6日前、いきなり25度の夏日が、強引に初夏を手繰り込んだ。そして今日、2ヶ月も走り戻って13度の肌寒い早春の風が身も心も縮こまらせる。こんな激しい気候変動に易々とついていけるほどタフではない。何となく不調が続いて、掛かり付けの病院に駆け込んで点滴を受ける羽目になった。毎年繰り返す季節の変わり目の変調ではあるのだが、今年はあまりにも早過ぎる。

 コロナ、オミクロン、ロシア、プーチン、習近平、金正恩―――拒否反応を起こす言葉が日ごと増えていく。加えて、自然災害の殆どの原因が人災と思うと、この国は勿論、人類の行く末にも絶望的な暗雲が見えてしまう。戦後のどん底から築き上げてきた人生だから、一層戦(いくさ)に対する忌避感は強い。戦をゲームとしてしか知らない世代が、本物の戦争をどう受け止めていくのか、予想するすべを知らない。ニュースが始まると、チャンネルを変えることが多くなった。目を背けてはいけないとわかっていても、なすすべを持たない身には、実に重い日々が続く。

 乱調子ながら、季節が走っていく。一昨日、全国に先駆けて桜開花を宣言した福岡だが、我が住まいに近い児童公園は、まだ数輪が綻んだばかりである。御笠川沿いの桜並木にも、まだソメイヨシノの華やかな染まりはない。
 たどたどしく切れ切れに鳴いていた石穴稲荷のウグイスが、ようやく見事な囀りを聴かせ始めた。鳥居脇の叢に立っていた土筆も、そろそろスギナ林に替わりつつある。沈丁花が咲き、庭にムスカリが立ち、ハナニラが六光星の花を並べ始めた。キブシも黄金色の藤棚の様相を見せ、ユキヤナギが溢れるように枝垂れる。花が花を呼ぶ季節である。

 春の彼岸を迎えた。休日の、しかも連休は車を出さないという高齢ドライバーの我が家のルールを破って、菩提寺のお参りに出掛けた。福岡県の「感染再拡大防止対策期間」はまだ続いているし、それほどの混雑はないだろうという判断だった。感染者の減少速度が鈍い。この小さな大宰府でさえ、第5次では一桁だったのに、今回は多い日は60人を超え、少なくても30人ほどの感染が続いている。少ないとはいうものの、亡くなる人は殆んどが70歳以上の高齢者である。わが身と思えば、気持ちが萎縮するのは仕方あるまい。
 
 往路は混雑なく走った。しかし、下り車線は予想外の混雑である。自粛の気配は全く感じられないような車の列が続いていた。

 納骨堂に新しい位牌があった。昨秋亡くなった兄の位牌が、電話連絡を受けた住職により院号が与えられ、位牌が祀られていた。三十五日も四十九日も過ぎたの>に、お骨はまだ広島の嫂が手放さないでいる。この納骨堂は兄が管理し、まだ元気な頃に位牌も広島に持って行った。兄の息子が後を引き継ぐことになっている。だから、我が家に仏壇はない。
 母方の叔父叔母の納骨堂を長い間我が家でお守りをしてきたお返しに、親族が絶え永代供養をしてお寺に返す際、住職がその納骨堂の名義を無償で私に替えてくれた。男の子がいないから、分家として一代限りの納骨堂である。我が家の二人の三回忌が過ぎたら、永代供養してお寺に返すよう、娘に言い残してある。
 生き物は死ねば大地に帰る。形あるものは残す必要はない。残された人の記憶の中に生きてさえいればそれでいい。やがて、それも失われていくだろう。それでいいのだと思う。だから、三回忌以上の忌を重ねる必要はないと思っている。法事だけは仏教徒という、日本人は変な人種である。

 都市高速に乗って半ば過ぎたところで、渋滞が始まった。しかし、完全に停まることはないから、横浜の娘に言わせると、「こんなの、渋滞と言わない!」と。しかし、通常なら30分で帰る道が1時間半かかると、太宰府原住民的に言うと、「これは、渋滞である!」。

 3年放置していたイトラッキョウの鉢が、髭根でいっぱいになってしまった。髭根を切ってほぐし、2鉢を4鉢に株分けして秋の花時に備えた。八朔の根方にも、油粕と骨粉のお礼肥を施す時期である。縮こまった我が身もほぐしながら、少しずつ季節を追っかけることにしよう。
 ハナニラ(花韮)の花言葉に、「悲しい別れ」、「耐える愛」とある。そう、春は別れの季節でもあるのだ。
                     (2022年3月:写真:六光星のハナニラ)

青空の錦糸卵

2022年02月28日 | 季節の便り・花篇

 「もう、そんな季節なんだ!」

 抜けるような青空だった。数日前の酷寒が嘘のように、今日は一気に3月中旬の陽気という。今朝は氷点下0.2度、そして午後2時の今、温度計は16度を示している。この16度を超える温度差に、老骨は軋むばかりである。
 1年前の今日、2年前の昨日と、手帳を繰るたびに、年々落ちていく体力、衰えていく行動力を思い知らされる。昨年末から、何となく不調が続き、例年になく寒さが肌に沁みるようになった。この温度で、何で!?と自分を叱咤しながら、気が付いたらもう2月が去ろうとしていた。逃げる2月が、今年の長い長い酷寒を詫びるように、一気にひと月近く季節を呼び寄せて走り去って行く。
 日脚は間違いなく長くなり、暗闇で詣でていた石穴稲荷のお狐様も、もう早暁の明るさの中でキリっと見詰め返してくる。1年300日は歩こうと、秘かに自分に強いてきた。今年6冊目の「太宰府市歩こう会」の一枚50ポイントの集印手帳が、残り30ポイントを切った。好調不調、気温と共に体調も乱高下した1年だったが、何とかその誓いを全う出来そうである。

 玄関前の石段と石畳、玄関や裏口や庭先への上がり框、廊下、トイレ、浴室など、我が家の内外に11本の手摺が付いた。カミさんも私も、年齢的に時たま足元がおぼつかなくなることがある。加齢に逆らって気持ちだけ若ぶっていても、身体は容赦なく老いの坂を下っていく。
 長女の迅速な(半ば強制的な)行動で、ひと月前に介護保険の「要支援」(カミさんは2,私は1)の認定を受け、何とバレンタインデーに専門業者が訪れて、我が家はアッという間に手摺だらけになった。陋屋「蟋蟀庵」を「手摺庵」と改名したくなるほど、必要なところに手摺がある。おまけに、ベッドからの起き上がり補助手摺まで、レンタルで借りることになった。娘が「転ばぬ先の杖!」と強調する。
 しかし、この安心感は何だろう!?特に、深い浴槽を出入りする度に感じていた不安が、2本の手摺で嘘のように消えた。紛れもなく、「転ばぬ先の杖」の存在感だった。

 坐骨神経痛で整形外科通いのカミさんを送った序でに、ずっと気になっていた写真を撮りに車を走らせた。観世音寺の駐車場に車を停め、県道沿いの道を戒壇院、学校院跡と辿り、大宰府展示館前を過ぎて、大宰府政庁跡に出た。南門跡の東側に、早春の頃から訪ねる一本の木がある。錦糸卵のような花を青空に広げて、今年もシナノマンサクが春を謳っていた。
 ネットで確かめる―――支那万作。別名キンロウバイ(金楼梅)、英名Chinese witch hazel、開花期は1~3月。他の花木に先駆けて「まず咲く」ことを語源とするマンサクよりも、さらに早く咲く。前年の枯葉を枝に残したまま越冬し、その状態で開花することから、花が葉の陰に隠れていることも多い。
 黄色いリボン状の花弁が四方へ広がり、その付け根にある萼は紅色になる。厳冬期に咲く花には甘い香りがあり、ひと足早い春の訪れを告げる。花の後には乾いた果実ができ、熟すと自然に裂ける。
 葉の展開は花後で、葉の直径は8~15センチほど。マンサク同様に左右非対称だが、より大きい。枝から互い違いに生じ、葉の両面、若い枝には綿毛があるが、葉の裏は特に毛が多い。秋には綺麗に黄葉する―――

 花言葉は、『呪文』『魔力』『霊感』『不思議な力』『神秘』『ひらめき』、どの言葉をどう読むか、人それぞれであっていい。私は、『神秘』を選ぼう。早春のまだ冷たい木枯らしの中で、錦糸卵のような花が群れ咲く姿は、不思議な惹きつける魅力を持っている。

 2012年12月、左肩腱板断裂の修復手術を受け、1~2月の厳冬期を病室で過ごした。足腰は何ともないから、朝夕のリハビリ以外の時間を持て余していた。時折外出の許可を得て、左腕を三角巾で吊ったままコートを羽織って散策に出た。冬枯れの政庁跡で、真っ青な冬空に向かっていっぱいの花を拡げるシナノマンサクは、病院暮らしに倦んだ身に、何よりもの慰めだった。
 時に、「市民の森」(「春の森」、「秋の森」)まで足を伸ばし、近づく春の気配を探した。過ぎ去った10年の豊かな日々に思いを馳せながら、少し元気をもらって帰路に着いた。

 高齢者を貪ろうとするオミクロン株の脅威、狂気に駆られた独裁者のウクライナへの侵略、一つ間違えば人類滅亡へのリスクさえある。「滅びの笛」を不気味に聴く日々は、一向に治まる気配がない。
                      (2022年2月:写真:シナノマンサク)

他山の石

2022年01月18日 | 季節の便り・花篇

 何事もなく、一日が明けた。当然のことながら、今日も昨日の続きでしかなく、いつもの通り起き抜けのストレッチを終えて、まだ明けやらぬ早朝ウォーキングに出た。気温も、昨日より3度ほど高く5度、皮手袋を突き刺す冷気もない朝だった。西の空には、まん丸い有明の月が雲の群れに追われて山蔭に逃げようといていた。
 石穴稲荷に詣でたのは6時20分、北面したゆるい傾斜に並ぶこの戸建て団地は、石穴の杜から朝日が昇るのは、9時過ぎである。南に低い冬の日差しは、昼前から夕方まで隣の2階建てのアパートに遮られ、我が家の庭は日陰になってしまう。洗濯物の乾きも悪く、一日晴天でも最後は部屋干しで仕上げることになる。

 83歳の誕生日を迎えた。いつの頃からだろう?親の年齢を超えることが、最後の親孝行と思い込むようになった。
 父は、昭和58年(1983年)7月14日に74歳で逝った。前日まで元気に庭いじりをしていたのに、老人性喘息で呼吸に基礎疾患を抱えていた父は、朝になって呼吸困難を訴え、明け方に救急車を呼んだ。その後、意識は戻らないものの、小康状態が続き、私は新会社設立を前に、組合幹部との協議を重ねるために出社した。昼過ぎに急変の知らせを受け、組合長に断って病院に駆けつけた。そのまま意識不明が続いたが、なんとか夜は越せそうだという医師の話を信じ、カミさんだけを残して帰宅した。再び危篤の知らせが届いたのは、帰り着いた直後のことだった。死に目には会えずに、カミさんだけが看取った。
 その後9年気ままに生きた母は、平成4年(1992年)7月22日に82歳で彼岸に渡った。最後の3年ほどは認知が出て、カミさんが介護に明け暮れた。今のような介護保険も制度もない時代だったから、負担は全てカミさんに来た。沖縄出張中の朝、ホテルで母危篤の電話を受けた。予定を切り上げて飛行機に飛び乗ったが、熊本上空を降下していた時刻に、父と同じくカミさんだけに看取られて母は息を引き取った。
 昨年、私はその年に届き、今日ようやく母の歳を越えたことになる。これで子としての親孝行の責任を果たし、ある意味、これからが本当の「余生」かも知れない。

 穏やかで豊かな日々を楽しむはずの余生が、いまコロナに翻弄されている。コロナ籠りは心身を少しずつ蝕んでいく。動きが鈍くなり、加齢が足腰を弱めていく。最近、階段や風呂場で不安を感じるようになった。カミさんは夜中に足がつって悲鳴を上げて目覚めたり、しゃがみ込んだら何かに掴まらないと立ち上がるのが困難になった。
 私も、左足人工股関節置換手術や左肩腱板断裂手術で、左手で重いものを持つことを避けるようになった。追い打ちを掛けるように、右腕から肩背中の帯状疱疹後神経痛が3年以上改善せず、右手も頼りにならなくなった。
 娘が見かねて年末に帰省、包括支援センターに相談し、早速ケマ・ネージャーが事情聴取に来て、介護保険の「要支援者」の申請を勧められた。家内外8か所の手摺工事の見積もりに専門業者が派遣され、市役所に申請書を出しに行き、年明けに市の調査員が審査に訪れ――事態が急展開し始めた。
 余生は、ただ待っていて与えられるものではないことを実感した年末年始だった。

 春の使者・蝋梅が咲いたが、まだまだ春の訪れは遠い。花言葉、「慈しみ」「ゆかしさ」。スーパーのレジや駅などで、モンスターみたいに店員や駅員をいじめている年寄り(ジジイが多い!)を見るたびに、蝋梅の花言葉に恥じない余生を生きたいと切実に思う。もって、「他山の石」としよう!

                         (2022年1月:写真:蝋梅)

異変からの回帰

2021年09月29日 | 季節の便り・花篇

 こんもりと繁った松の葉の一本一本が、秋晴れの強い日差しをキラキラと弾き返す。眩しさの中に、夏の暑熱の残滓が散りばめられていた。
 ツクツクボウシの声も、遠い石穴稲荷の杜からかすかに響くだけになった。もう、繁殖に残された時間は少ない。朝晩のかすかな冷え込みが、ツクツクボウシの鳴き声に焦りを滲ませる。伴侶を見つけ交尾して子孫を残す……ただそれだけの為に、ひたすら健気に鳴き続けてきた。そんなセミの季節が終焉に近づいていた。

 早朝のウォーキング、ここ1週間少し夏バテ気味で寝過ごすことが多く、歩くことも億劫な日が続いた。ようやく平常に戻った実感を噛みしめながら、いつものように40分のストレッチの後、まだ白川夜船のカミさんをベッドに残して歩きに出た。
 もう、この時間が仄暗くなった。冬場用のペンライトをポケットに入れようかと、一瞬迷う暗さだが、東の空には既に黎明が立ち上がろうとしていた。
 石穴稲荷のお狐様が咥える巻物を擦って、今日も願掛けを終え、久しぶりに石段を上がって本殿に詣でた。明るさが広がり始めた縁の傍に立ち、早朝の静寂に浸る。束の間の無音の陶酔に、ふと足が縺れそうになる。

 異変の多い夏だった。世間のことはいい。我が家に齎された異変の数々……幾つかの変異は、問うても応えの無いものだった。

 1)八朔の枝で羽化するセミの数が、多いときは100匹を超えていたのに、僅か29匹で終わった。
 2)例年、キアゲハの幼虫を育てる目的で、プランター2本にパセリを10株植えて待つ。しかし、訪れるチョウもなく、今年はとうとう一頭も孵化することなく終わった。
 3)庭中のスミレをプランターに移植して繁茂させ、ツマグロヒョウモンの産卵を待つのも恒例だったのに、こちらも一頭も現れなかった。
 4)友人から株分けしてもらったオキナワスズメウリが、一個も実をつけない。
 5)5つの鉢に増やした月下美人が、2度3度と開花を迎えたのに、何故か完全に開くことなく、開花半ばで薫りも止めた。この春、土を替え伸び過ぎた髭根を刈って新たな鉢に植え替えた。肥料も施した。猛暑に焙られ、長雨に祟られたせいなのか、替えた土が悪かったのか、気落ちしながら秋を迎えた。

 45年前、赴任した沖縄の社宅にあった株から、2枚の葉を父に送った。父が丹精込めて株を増やし、開花の夜にはご近所を招いて花の薫りでもてなした。父が逝き、母が引き継いで毎年花を咲かせた。晩年は認知症となり、月下美人の鉢も放置されたまま枯れかかっていた。南米原産の乾きに強い特性に賭けて、枯れかかった中から数枚の葉を選んで鉢に差した。蘇った株はぐんぐん育ち、毎年初夏から初秋迄、数度の開花で我が家を飾り続けた。
 世代を超え、昭和、平成、令和と生き続けた逞しい株である。株分けした幾つかの鉢は、親しい友人の庭で今も花を咲かせている。我が家の歴史と共に歩んだ大切な月下美人、このままで終わるのだろうか?

 9月半ば、二つの鉢に小さな蕾が7つ付いた。棘々の弱弱しい薄緑の蕾に、ふと不安が兆す。1メートルをはるかに超える株である。風に倒れやすいから、早めに広縁の日溜りに上げた。
 朝晩、広縁を覗いて見守り続けた、棘々の蕾が筆のような房になり、やがて次第に頭を擡げ始める。45度ほど頭が立った数日後の夜、ふっくらと膨らみ始め、とうとう昨夜開花を迎えた。
 しかし、まだ安心出来ない。9時近くに開き始めたが、10時過ぎてもまだ満開にならない。おかしい!遅い!また、半開きで終わるのだろうか?
 10時半、ようやく甘く芳醇な香りが部屋中に弾けた。開く、開く!!11時過ぎるころ、ようやく満開になった。待ち望んだ開花だった。
 一夜限りの儚い花である。純白の絢爛豪華な花は、夜が明けるとすっかり萎み、葉先から垂れ下がる。儚いが故に、一層その絢爛豪華な純白の装いが心に沁みる。

 異変から回帰し、コロナ禍を忘れて美しい姿に酔い、芳醇な薫りに身を浸して、贅沢な夜が更けていった。
 そして今夜、花は酢の物として食卓を飾る。とろみとシャキシャキ感が絶妙である。
                   (2021年9月:写真:満開の月下美人)

友よ!

2021年09月19日 | 季節の便り・花篇

   ごんしゃん ごんしゃん どこへゆく
   赤いお墓の ひがんばな
   きょうも手折りに 来たわいな

   ごんしゃん ごんしゃん 何本か
   地には七本 血のように
   ちょうど あの児の 年のかず
          曼珠沙華(ひがんばな) 北原白秋

 台風一過、俄かに秋が来た。ツクツクボウシの声が少し遠くなり、ツクツクが聞こえず、オーシ、オーシだけが耳に届く。夜の扉を叩くカネタタキの声も掠れがちになった。梅雨の長雨から、体温並みの酷暑、そして豪雨の秋雨前線が居座り続けた。その陰で、傲然とのさばり続けるコロナ。夏にとどめを刺したのは台風14号だった。3日ほど洋上を彷徨った後、一気に東に走り、直接福岡県に上陸、史上初めての出来事となった。
 
 観世音寺脇の戒壇院参道に、真っ赤な曼殊沙華が咲き揃ったという知らせが来た。白秋の詩を思い出し、ふと口ずさむ。
 白秋の愛弟子だった田中善徳という写真家がいた。白秋と共著で残した、白秋の郷里・柳川を美しくとらえた写真集「水の構圖」。復刻された一冊が、我が家の書棚にある。「昭和18年1月25日発行、8圓25銭」とある。既に絶版になっていたものを、昭和55年4月1日、善徳の長男、田中瑛によって復刻され、3500円で書店に並んだ。
 この田中瑛は、私の親友の一人だった。福岡学芸大学付属福岡中学校と福岡県立修猷館高校で勉学を共にし、彼は父の薫陶でろうけつ染めに優れ、後に東京芸大に進み、私は地元の九州大学法学部に進学した。瑛(あきら)という名前は、白秋が付けというた。彼が彼岸に渡って、すでに20年近くが過ぎた。実は、私とカミさんを結びつける機会を作った友人だった。(詳しいことは、いずれ書くことがあるかもしれない)
 もう一人の親友だった貝原信明は、貝原益軒の13代目の子孫だった。田中と同じく、中学と高校を共にした。算盤の名手であり、全国大会でも名を馳せたことが何度もある。九州大学医学部に学び、鳥取大学医学部教授を務めた。奥様に先立たれ、男の子二人と「キャンプのような毎日です」と賀状に書いてきたことがある。後に中学の同級生と再婚、その結婚式の司会に、赴任先の長崎から福岡まで駆け付けたことがあった。しかし、そんな彼も、鬼籍に入ってから既に数年が過ぎた。私一人が残されて、また「敬老の日」を迎えようとしている。

 コロナ禍に翻弄され、ひたすら自粛して耐えるだけの日々に、過ぎ去った昔を思うことが多くなった。夜ごと高まる蟋蟀の声に、次第に心が淵に沈んでいく。
 そんな夜が明けたひと日、Y農園の奥様から秋野菜の収穫のお誘いが来た。早速、カミさんを乗せて観世音寺に走った。駐車場から観世音寺の参道を横切って戒壇院の脇に出た小路で、畑に向かう奥様とばったり出会った。

 まだ苛烈さの片鱗を残す日差しの下で、存分に採らせていただいた。ピーマン、茄子、オクラ、生姜、ゴーヤ、無花果――あっという間に籠がいっぱいになる。
 長雨のせいで、昨今の野菜の値段の高騰が半端ない。白菜が4倍とか!昨日、近くのスーパーで野菜を買おうとしたら、そこにいた担当者が「高いから、野菜は買わないで!今は、肉を食べて下さい」と言われ、手に取った春菊を棚に返した。笑えない現実である。

 緑の大玉を提げる晩白柚の木陰で汗を拭いながら、心地よい秋風に吹かれていた。バッタが跳ねる、ツマグロヒョウモンが舞う。畑の傍らに一叢のススキがあり、21日の仲秋の名月に供えるために、数本を刈らせてもらった。

   ごんしゃん ごんしゃん 気をつけな
   ひとつ摘んでも 日は真昼
   ひとつ後から また開く

   ごんしゃん ごんしゃん なし泣くろ
   いつまで取っても ひがんばな
   恐や 赤しや まだ七つ
       

 真っ赤な彼岸花は、どこかに怖さを秘めているような気がする。球根に毒があるからというよりも、花言葉の一つに、「悲しい思い出」というのがあるせいかもしれない。
               (2021年9:月写真:戒壇院参道の彼岸花・Y農園奥様撮影)

虚しい宴

2021年07月26日 | 季節の便り・花篇

 民意を無視して、2020東京オリンピックが始まってしまった。関係者の辞任・解任が相次いだ開会式を観ながら、「なんだ、これは!?」と、次第にシラケていく自分がいた。暗い!部分的には、気持ち悪く、不気味なシーンもあった。
 そもそも、コンセプトなど、説明を聞かないとわからない演出って、いったい何だろう?無観客でよかった。テレビでズームして観ているからわかるチマチマしたシーンなど、広く遠い観客席からでは意味がわからなかったかも知れない。独りよがりが不愉快でさえあった。解説するNHKアナの言葉にも、いくつもの抜けがあった。最近のアナウンサーは勉強していない。
 あまりにも冗長過ぎた。あんな深夜まで天皇を拘束し、しかも天皇の開会宣言に遅れて立ち上がる不敬なスガやコイケの醜態!ハシモトやバッハの長たらしい挨拶に比べ、簡潔に開会のみを宣言した天皇は、潔く見事だった。

 好きな試合だけを拾い観しながら、コロナがらみの報道が急速に影を薄めたことに気付かされる。NHKは、完全に政府に報道コントロールされているのが見え見えである。この時期の気候は良好などと、梅雨明けの高温多湿のこの時期にオリンピックを誘致した罪人・アベ、「福島はアンダーコントロールにある」と言った言葉とともに、歴史に残る欺瞞・虚言のひとつである。
 選手たちは、相手と戦う前に暑さと戦っている。熱中症で気を失った選手もいる。試合時間を夕方からに遅らせるよう要求した選手もいる。選手や関係者のコロナ感染も日々増え続けている。追い打ちをかけるように、大型台風8号が迫っている。アメリカのマスコミの圧力?スポンサーの圧力?政権の保身?選挙対策?アベからスガに汚泥を引き摺ったオリンピック、国民感情を取り残し、ある意味で選手たちまで犠牲にして、オリンピックが独り走りしていく。

 久々に、新聞のコラムに快哉を叫んだ。西日本新聞26日朝刊2面「提論~明日へ」に書かれた、日本総合研究所調査部主席研究員藻谷浩介氏の快論である。部分引用させていただき、36度を超える猛暑の憂さ晴らしとしたい。
 まず第2段から。
 ~~日本は(アルファ株もデルタ株も)どちらもうまく防げなかった。その原因が国内の体制不備だと理解せず、五輪に絡めて外国人を攻撃しているようでは、攘夷気分に狂って世界の現実を見ようとしなかった幕末の日本人を笑えない~~

 ~~客観的な数字を見れば、先にワクチン接種が進んだ欧米、そして入場行進した国々・地域の多くに比べ、日本は安全なのだ。
 首相以下の五輪推進派の関係者がなぜ、こうした数字を示さず「安心安全」という精神論を唱えるだけなのか。数字を見ていない、あるいは数字を国民に説明する言語能力がないのだろう。強権を振りかざして忖度させるだけで、周囲のやる気を喚起する言葉を持たない人物を首相に据え、それを問題とも思わない政党に、時代の求める「政権担当能力」はないと有権者はいつ気付くのか~~

 そして、終段。
 ~~延期を1年3ヶ月にして10月開催にできていれば、ワクチン接種も進み、暑さ対策にもなっただろうが、在任中の実施をもくろむように延期を1年とした前首相は何を思うのか。大会組織委員会の名誉最高顧問でありながら開会式を欠席した節操のなさ、腹の座らなさには言葉がない。ここでも責任は、彼の数々の公私混同を多年放置してきた、われわれ有権者自身にある。
 五輪はそれとは無関係に第5波の下で遂行され、多少もしくは多数のごたごたとともに、しかし他国で行われた場合に比べれば大過なく終わるだろう。それがいかに利権やスキャンダルまみれであれ、その開催を世界のスポーツ選手に対し引き受けた日本として、最低限の責任は果たす形だ。五輪より開幕が1か月遅いパラリンピックは、ワクチン接種が進む分、少しでも盛り上がることを願う。
 そしてその後に、われわれ日本人に何が足りていないかを、今度こそ深く反省しよう。それは物事を客観視する訓練と、標準的な公徳心と言語能力持つ人物をリーダーに選ぶ習慣に他ならない~~

 言い得て妙、言い尽くして快!

 この夏2度目の月下美人が、今夜4輪花開く。一夜限りの美人を愛でながら馥郁とした香りに浸り、束の間の安穏な宵を楽しむことにしよう。
                 (2021年7月:写真:頭を擡げる月下美人の蕾)