蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

命、短く燃えて…

2010年06月24日 | 季節の便り・花篇

 湧き上がる懐旧の情、幻想に酔うひと時…本当に何十年振りだろう?

 入梅間もない中休みの晴れ間の中を走った。大分自動車道を日田で降り、久し振りに「わいたファームロード」を駆け上がった。走り屋がギヤ・チェンジとハンドル操作でドライビング・テクニックを楽しむこの道は、アップダウンとカーブがダイナミックに続き、油断すると80キロをすぐに超えてしまう。平日のこの日は走る車も少なく、山並みを遠望しながら湧蓋(わいた)山の裾を颯爽と走り上がった。両眼手術以来、初めてのロング・ドライブである。

 途中、小国の外れの素朴な手打ち蕎麦の店で早めのお昼を済ませ、黒川温泉、瀬の本高原を過ぎ、山並みハイウェーを牧の戸峠への九十九折れを登った。阿蘇五岳が鈍い日差しに浮かび上がる。束の間の梅雨の晴れ間に誘われたのだろう、峠の駐車場は、例年になく遅れたミヤマキリシマのピンクの絨毯を求める久住、大船、星生、泉水方面への登山者の車が溢れていた。
 長者原の自然探求路を歩くつもりだったが、予想以上の暑さに断念して、男池(おいけ)の樹林散策に向かった。(この日、日田の街は30度を大きく越える真夏日となった。)午後まだ早いのに、黒岳登山者がもう下山してきている。溢れる湧水で喉を潤し、小一時間の散策で身も心も緑に染まった。端境期の今は、山野草の花ひとつない。

 長者原に戻り、ナビの導くままに宝泉寺温泉に下った。幾つかの集落を綴りながら、離合も難しい山道を延々と下り続けること40分。着いてみれば何のことない、お昼の蕎麦を食べたところから10分ほどの谷あいにある鄙びた小さな湯治場だった。随分遠回りをしてしまった。かつて遊郭があった温泉と後日聞いたが、こんな山奥にまで男たちは遊びに来ていたのかと、いささかほろ苦い。宿ご自慢の庭園露天風呂が、午後7時以降は混浴になるという。何となくそそられて、10時過ぎに訪れたが、無念にも孤独な一人風呂となった。(翌朝も又然り。男って馬鹿だな…呵呵!)

 実は…ホタルの時期、しかもこの日は豊後牛ステーキ会席で2組限り半額の7500円というプランをゲットしての旅だった。ふたつの宿で4つの温泉を楽しんで、とろけそうに柔らかい豊後牛ステーキに舌鼓を打ち、やがて8時。小さな川沿いの道を5分も歩くと、そこに夢幻の世界があった。月のない絶好の闇夜、せせらぎを覆う深い木立の闇の底で、時に見事にシンクロしながら、ゲンジボタルが幻想的な群舞を見せてくれた。僅か2週間の短い命、次の命を残すために結ばれる相手を求めて、小さなともし火を健気に瞬かせていた。
 団扇、浴衣、せせらぎ、笹の葉…幼い日への郷愁を誘うホタル。遠い日への思いをほのぼのと心に蘇らせながら、しばしホタルの幻想に浸っていた。

 唐津に住む親しい画家のアトリエを訪ねた時、ヒマラヤの花の苗を土産に頂いた。それから10年近くなるだろうか、昨年初めて不思議な花を開いた。今年は一普段と大輪になり、次々と花を咲かせている。名前も知らない花だが、葉や花の模様はアヤメの仲間を思わせる。少し厚めの葉を横に長く伸ばし、その先端に花をつける。朝開き始めて、すぐに満開となり、午後には萎れてしまう短い命である。厳しいヒマラヤの自然の中で、束の間に受粉し生き延びていく宿命が、こうして生き急がせているのだろうか。

 南九州に停滞した梅雨前線が大雨をもたらしている。北部九州は、まだおざなりの小雨の断続である。
           (2010年、6月:写真:ヒマラヤの花)
<追記>
 家内のネット仲間のホマンさんから、この花の情報を頂いた。
 ブラジル原産の花が、どういう経路でヒマラヤに到ったのか…長い長い旅の謎が、また一 段と深まっていく。

 名前:アメリカシャガ
 漢字表記:亜米利加著莪
 別名・異名:ネオマリカ
 語源 :アメリカシャガのアメリカは、西洋社会からの渡来植物を意味する。実際の原産地はブラジル。シャガは花形が似ているから。実際のシャガはアヤメ属に属すが、アメリカシャガは、ネオマリカ属を構成する。

梅雨の蛾

2010年06月13日 | 季節の便り・虫篇

 百日紅の木陰を、3匹のユウマダラエダシャクが縺れ飛んでいた。夕斑枝尺……白地に、褐色の斑紋があるシャクガの仲間である。鳥の糞に擬態していると言われ、幼虫は、マサキ、コマユミ、ツルマサキなどの葉を食べて育つ。年に春秋2回繁殖する特徴を持ち、初夏に羽化した成虫はすぐに産卵して、秋には次の世代が羽化する。秋に羽化した少し小型の成虫から生まれた幼虫は、そのまま冬眠に近い状態で越冬する……そんな学問的な目線で虫たちに向き合うのは、遠い昔にやめた。感性だけで叙情的に見詰める方が、生き物は美しく可愛い。だからこそ、万人に忌み嫌われるイラガの幼虫でさえ、その造形美に感動することが出来る。
 
 博物館環境ボランティア用のバッグには、実は鮮明なイラガの幼虫の写真が納まっている。「虫は嫌い!」と言う人がいたら、おもむろに写真を取り出して「観てごらん。嫌いだと思うから目を遠ざけて、益々嫌いになってしまう。目を近づけてよく観たら、こんなに見事な造形なんだよ!」と感動を強いることにしている。(少し悪趣味かな?)

 ユウマダラエダシャクが舞い始めると、梅雨が近い。その名の通り、夕暮れ間近の仄暗い木陰を、儚げに頼りなく舞う。長くは飛べない蛾である。見ていて手を差し伸べてやりたいほど、たどたどしく情けない舞い姿だが、そのはかなさが何故か心に残って、昆虫少年の頃から大好きな虫のひとつだった。
 梅雨が近づくと、無意識に夕暮れの樹間にその姿を探し、入梅の近さを推し量ってきた。数日前から、時たま見掛けるようになった。このところ気温の乱高下が続き、ガスストーブを置いたまま冷房のスイッチを入れるような、おかしな天候が続いている。梅雨入りも遅れた。庭木の育ちだけが、何故か例年になく猛々しく、梅の実が豊作の傍らで八朔が壊滅したりする。風が強い一日、一瞬見かけたユウマダラエダシャクは、頼りなげに風に逆らうすべもなく、一陣の風に吹き飛ばされて消えた。

 夏場に強い筈の身体が理由もなく倦怠感・脱力感に苛まれ、目下総点検の中にある。X線を撮り、心電図を測り、血液検査で腫瘍マーカーやピロリ菌をチェックし、4年ぶりの胃カメラも呑んだ。胃と十二指腸に良性のポリープが見付かった以外は、今のところ原因らしいものは見付からない。「歳のせいでしょ!」という陰口を自分でつぶやきながら、高温多湿の気怠さの底で呻吟する昨日、太宰府の最高気温は31度を超えた。そしてこの日、九州地方は一斉に梅雨入り宣言をした。北部は平年より7日遅れの梅雨入りである。鈍いながらも洗濯物が乾く日差しがあり、入梅の実感はない。歯切れの悪い梅雨入りである。 

 夜、強い風がカーテンを揺らす中で、申し訳みたいな雨が降った。夕飯後の寛ぎのひと時、明かりに誘われて網戸に珍客が飛来した。ツノゼミ…セミと言っても、実はセミの仲間ではなく、ウンカやヨコバイに近い1センチにも満たない昆虫だが、結構種類は多いのに、これまで実物を見たことがなかった。「前胸部に角を持つセミのような昆虫」という単純な名前の由来なのだが、実はツノゼミの角はツノゼミにとって全く何の役にも立っていないらしい……こらこら、学問的視点はもう捨てたんじゃなかったっけ?

 苦笑いしながら、ほろ酔いのひとときを、ツノゼミと戯れていた。


             (2010年6月:写真:雨戸に飛来したツノゼミ)

満身創痍

2010年06月06日 | つれづれに

 遠く南の海から、かすかな梅雨の足音が近付いてくる。例年になく乾き切った初夏が夏への歩みを速める気配に、「雨が来る前に…」と待ち望んでいた梅千切りをした。
 家を新築し、父の形見の松や庭石を隣家から移し、純日本庭園の造成をした折に、1本の白梅を植えた。決して安い値段ではなかったが、当時の太宰府の家に相応しくする為には、やはり梅が欠かせなかった。既に育ち上がった大きな梅の木が、翌年みっしりと実を付けた。しかし、以来20数年、毎年見事な花を咲かせるのに、期待をよそに数えるほどの実しか実らなかった。父の代からの付き合いで、新居の庭の造成も任せた植木職人が「実を付けないなら、来年は切るぞ!」と脅せば実ると、半ば本気で言う。毎年脅し続けたが、馬耳東風、脅しは効かなかった。
 昨年、業を煮やした植木職人が「根を苛めたら実が付く」と、シャベルで掘り下げて数箇所で根を切ったら、今年本当にびっしりと大きな実を付けた。不思議なものである。雨や風に一喜一憂しながら、葉陰に日ごと育つ梅の実を数え続けて、5月の晦日を迎えた。
 脚立を持ち出して、枝を傷めないように無理な姿勢で、込み入った枝の隙間から梅千切りに1時間、籠一杯に溢れた梅は丁度4キロ!大収穫だった。早速瓶と梅酒用の35度のリカー、氷砂糖を買いに走り、その日のうちに4升の梅酒を漬けた。3年寝かせて、これで一生分の梅酒が出来たと喜んでいて、ふと両腕の何本もの蚯蚓腫れの痛みに気が付いた。欲と道連れ、漬け終わるまで気が付かない我が身の浅ましさ……梅の枝で傷ついた満身創痍の腕を撫しながら、呵呵大笑の夕べだった。
 1個およそ20グラム、約200個の青梅に、4本爪のホークで4回深く穴を穿つ。計800回、合わせて3,200個の穴から、35度のリカーが梅のエキスを抽出して、やがて琥珀色の古酒が出来上がる……数字遊びである。

 数字遊びと言えば……かつて高校々卒業30周年を迎え、初めての学年同窓会総会を計画した時のことである。私達の卒業年度の昭和33年に因んで「33(さんざん)会」という。当時、我が母校には珍しく修学旅行がなかった。「下駄を履いて廊下を走るべからず!」という以外は何の禁令もない自由闊達な校風だったから、「お前達を連れて行ったら帰りは半分になる。だから、修学旅行はしない」と、本気だか冗談だか分からない理由に何故か納得していた。
 卒業30周年を帰して、夢幻と消えた修学旅行をやろうと、豪華展望列車「サザンクロス号」を借り切って、博多駅から湯布院温泉への旅を実現した。(「さんざん会」には「散々苦労する」という語呂合わせもある。「サザンクロス号」という、まず一つ目の言葉遊びの偶然)鹿児島本線から久大線に乗り入れて湯布院に向かう臨時列車は、ダイヤの隙間を縫って走る。その所要時間が何と3時間33分!33会30周年記念で「サザンクロス」号に乗って3時間33分、これだけ3が並ぶ偶然は、もう奇跡としか言いようがない。ホテルでの総会の冒頭、実行委員長として挨拶するに際して、誰も気付かなかった、この偶然の「3尽くし」に触れた瞬間、満座にどよめきが走ったことを覚えている。
 序でながら、呼び掛けに私が書いたタイトルは『振り返れば一瞬……もう30年』そして、同窓の友人が描いた湯布院の朝霧の絵を表紙にあしらった記念誌『あさぎり』で、30年を「11,000日、263,000時間、15,780,000分、946,700,000秒」と数字で遊んだ。以来5年毎の宿泊同窓会を重ね、一昨年秋、50周年の古稀の総会で、実行委員長を辞した。

 蚯蚓腫れも又楽し!……翌6月1日、太宰府天満宮恒例の神事「梅の実千切り」が行なわれた。タイミング申し分なしの初夏の終わりだった。
               (2010年6月:写真:籠に溢れる青梅)