蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

日溜りのホバリング

2013年11月26日 | 季節の便り・虫篇

 短い秋が過ぎ、紅葉も「錦秋」というには少し躊躇われるような物足りなさの中に、冬が来た。

 南に傾き、西に落ちかかった冬日の小さな日溜りに中で、背中に日差しを浴びた4匹のホソヒラタアブが、編隊飛行しながら見事なホバリングを見せていた。もう虫の姿も乏しく、時たま成虫で冬を越すタテハチョウの姿が日差しを切るだけで、あとは勤勉な幾種類かのハチが乏しい花を探して飛び回るだけの季節である。
 ホソヒラタアブが狙っているのは、花火のように小さな花をいっぱいに咲き拡げているイトラッキョウの鉢である。こんな小さな花にも、1センチあまりの小さな身体には十分な蜜があるのだろう。耳に風の冷たさを感じながら、小さな日溜まりに一緒にほっこりと佇んで、ホバリングに見とれていた。じっと動かずに気配を消すと、安心したように花弁にとまり蜜を吸う。少しでも動くと、敏感に察してホバリングに戻る。微かな羽音に耳を澄ませながら、健気な飛翔にしばらく引き込まれていた。

 ホバリングする虫は少なくない。スズメガの仲間のホウジャク(蜂雀と書き、ホシホオウジャク、ヒメクロホウジャク、クロスキバホウジャクなどのホバリングが、よく知られている)、オオスカシバ、マメヒラタアブ、ホソヒラタアブ、求愛中のクマバチの雄、ハナアブ、ビロウドツリアブ、ハエの仲間、オオシオカラトンボなど、気を付けていれば見ることが出来る。
 ホウジャクの吸蜜ホバリングの姿は、カリフォルニアでは日本の雀以上の頻度で見かけるハミングバード(蜂鳥)と見紛うほどにそっくりである。娘のキッチンの外に、ハミングバード用の吸蜜器が提げてある。長い嘴を差し込んで砂糖水を吸う姿を、一日中飽かずに眺めていた。姿に似ず、けっこうお喋りな小鳥で、ジュクジュクと鳴き騒ぎながら、餌場の取り合いでいつも喧嘩していた。
 スズメガは食草の種類も多く、害虫扱いされがちだが、意外に利用価値の高い昆虫でもある。花から花へ飛び回る受粉効果はもとより、幼虫はサイズも大きいし繁殖力も強いから、遺伝子などの実験用として、海外でも日本でも養殖されている。
 また、食糧難の前兆なのか、飽食の行き着いた果てなのか、豊富な栄養分を持つ蛋白源の補給手段として、「昆虫食」が水面下で密かなブームになりつつあるという。私たちの世代は、戦後の食糧難の時代を生きたから、イナゴを捕って食べた経験を持っているが、さすがにまだスズメガの幼虫を食べる勇気はない。しかし、世界中探すと昆虫食を蛋白源とする地域は数多くある。中国ではトビイロスズメを「大豆蛾」と言って、食用に売られているという。食料自給率40%を切る日本でも、将来は虫を食わざるを得ない時代がやってくるかもしれない。

 厳しい寒気が目の前に迫っている。日溜まりの底でホソヒラタアブのホバリングと遊びながら、ようやく階段も上り下りできるようになった右膝と、腸炎が癒えて戻ってきた食欲に安堵する昨日今日である。不調になったファクシミリ電話機を買い替え、30年使い続けてきたドアチャイムを、カメラ付きインターホンに替えた。新しい機器を喜ぶ半面、耐用年数と我が身の余命と、どちらが長いかを考えて憮然とする。

 一日の重みが増す年の瀬である。
       (2013年11月:写真:ホソヒラタアブのホバリング)

錦秋の名残

2013年11月22日 | つれづれに

 「想い重ねて」……この言葉を添えて、母校・修猷館高校昭和33年卒業55周年記念同窓会の案内を送った。「さんざん会」という同期会の実行委員長を務めて25年になる。
 33年の卒年に因んで付けた名前だが、時に「散々会」とからかわれ、時に「燦燦会」と自賛して胸を張る。
 
 時の移ろいには掉さすこと叶わず、この1年も幾人かの館友を彼岸に送った。452人中(内、女性73名)、判明しているだけでも77名が彼岸に渡った。(内、女性は1名だけという驚異!)消息不明者48名の中の推定物故者を含めれば、およそ2割が既に鬼籍に入った……というより、むしろ70代半ばのこの歳で8割が生きていることの方を慶びたいと思う。
 11月16日、八仙閣に92名の館友が集った。初の試みとして、開宴前に同期の博多座社長A君の講演「博多座奮戦記」、後輩46年卒の女性講談師Kさんの講談「緒方竹虎」の熱演に盛り上がり、総会にはいった。
 今回の55周年記念総会には、格別の感懐がある。「さんざん会」を殆ど一人で支え続けてくれていた名幹事・M君がこの1月にまさかの急逝、彼の奥様をお迎えして総員の謝意を込めた感謝状と花束を贈るという大きな目的があった。彼なしには、今日の「さんざん会」の隆盛は決してあり得なかった。

 30周年を期して、果たせなかった修学旅行を企画(修猷館高校には、当時修学旅行はなかった)、博多駅から列車一本を借り切って湯布院に走ったのが「さんざん会」の実質上のスタートだった。定期列車の間隙を縫って走った走行時間が3時間33分!偶然が齎した奇跡の「3」の羅列に歓声を上げた日が、まるで昨日のように思い出される。以来四半世紀の歳月を重ねて、今日の盛会がある。その全てを支えたのが、一見豪放磊落に見せながら、実は誰よりも細心の気働き・気配りが出来る名幹事M君だった。
 終生バスケットボールの指導に情熱を傾け、通夜と葬儀にはたくさんの教え子たちや仲間、館友が集って、涙ながらに送った。悲しく、それでいて心温まる盛大な告別式だった。

 彼が心を残しながら企画半ばで逝ったあと、G君を中心に新体制が整い、55周年記念総会が実現した。久しぶりの懐かしい再会もあった反面、常連の幾人かが体調不良などで参加叶わなかったことに、懸念と一抹の淋しさが付きまとう。
 M夫人を前に、実行委員長としての涙の追悼の挨拶から始まり、伝えることの出来なかった「ありがとう!」を感謝状に添えて花束と共に贈ってM君の奥様の内助の功を讃え、恒例の館歌斉唱でお開きとなるまで、八つの円卓に彼を偲ぶ話は尽きなかった。
 胸に温もりを抱き、再会を期して、館友たちはそれぞれ夜の巷に三々五々散って行った。

 足並みが乱れた錦秋の秋、紅葉が朽ち葉に衰えていく季節だった。同窓会の翌日から体調を崩して急性腸炎となり、貧血を起こして点滴に通う羽目になった。右ひざのリハビリはまだ続いているが、漸く普通に歩けるようになった。
 「不惑」の世代を生き、やがて「知命」(天命を知る)50歳を前にしてスタートした「さんざん会」の仲間たちも、既に「古希」を半ば過ぎようとしている。それぞれ何か身体に異常を抱えた友が多いのも仕方ない世代である。
 同窓会機関紙「菁莪」への報告の最後に、こんな言葉を添えた。

 「M君、長い間ありがとう。君は多分今頃、彼岸に渡った仲間たちと「冥途のさんざん会」を結成して、待っていることだろう。しかし、残された私たちは、君の分まで一日も長く元気に生きることで、君の恩に報いたいと思う。暫く待たせるよ。」
                  (2013年11月:写真:庭の錦秋の名残)

脚の記憶

2013年11月13日 | つれづれに

 私の山歩きは、中学生の頃から始まった。福岡市近郊の脊振山―鬼ヶ鼻岩―金山、宝満山―仏頂山―三郡山―砥石山―若杉山などの縦走を繰り返した「脚」の記憶は、中学3年間1日で60キロを歩く3度の遠行会でしたたかな自信となった。
 早朝6時に中央区西公園下の学校をスタートし、「一歩々万里を行く」とい幟を靡かせながら、12時間かけて15里を歩き抜く。寒風吹きすさぶ12月14日(初めは1月15日だった記憶がある)、これが忠臣蔵四十七士の討ち入りに因んだものかどうかは、定かではない。当時はウォーキングシューズや、小さなリュック、ウエスト・ポーチ、魔法瓶などという洒落たものはなく、梅干しを入れたお握りを竹の皮で包み、風呂敷で腰に巻き付けて、アルミの水筒を提げ、ズックで歩いた。
 福岡市を西に横断し、糸島まで歩いて戻る強行軍だったが、水分補給の小休止やお弁当を食べる大休止の時間を除けば、時速6キロ近い速歩だった。夕闇が落ちる校舎まで意気軒昂で踏破したのに、そこから辿る1キロの家路が限りなく遠く、足の重みを引き摺った記憶がある。
 この3度の60キロ遠行の自信が、富士登山での忘れがたい記憶に繋がる。高校2年の2学期の終わり、教師の許しを得て(おおらかな高校だった)修了式をサボり、友人と富士登山に出掛けた。富士宮口登山道を目指し、2合目まで行くバスをわざと1合目で降りて、ひんやりと霧に包まれた樹林の中を二人だけで歩き始めた。朽木の陰にひっそりと立つ、純白の奇妙な隠花植物・ギンリョウソウを初めて見た。
 各合目ごとに茶店がある。ついつい油断して甘酒や飲み物を摂りながら8合目で1泊した時、もう帰りの汽車賃しか残ってないことに気付いて愕然!夜中の雨音を聴きながらうとうとして、午前4時に胸突き八丁の最後の登りに挑戦、希薄な空気に喘ぎながら山頂の剣が峰に辿り着いた。7月19日、下界は31度、ここ富士山頂の気温は2度、激しい温度差に唇はガサガサだった。
 一面にうねる雲海から昇る御来光に感激しながら御鉢巡りを終え、「大丈夫、歩けるさ」と嘯きながら、7時に御殿場口に向かって下った。砂走りの長い傾斜を霧に包まれながら駆け、滑り落ちるように下るうちに、新調したバスケットシューズはぼろぼろ。次々に追い抜いて行く下山バスを横目に見ながら、バス代のない私たちは黙々とひたすら歩き続けた。米軍演習場の中である。時折黒人兵がカービン銃を抱えてガサガサと藪の中から現れる。緊張に疲れ、へとへとになって御殿場駅に辿り着いたのは既に午後2時を過ぎていた。

 久住山、大船山、稲星山、白口岳、硫黄山、などの久住連山の山々を踏破し、えびの高原から大浪池―韓国岳―獅子戸岳―新燃岳を縦走し、多良岳―経ヶ岳を歩き…高校・大学時代の息抜きは、もっぱら山に求めた。
 就職して、長い間「脚」の想い出が途絶える。唯一の記憶は、中禅寺湖1周25キロを会社の同僚と歩いた想い出だけである。
 リタイアして、ヒマラヤを登る山の友人と40年ぶりの山歩きが復活して、今日に至る。登り残していた九重連山の星生山、沓掛山、下泉水山、上泉水山、黒岩山、三俣山も彼らと極めた。

 アメリカに渡る度に、娘とカリフォルニア州・ヨセミテ国立公園でキャンプして、ナバホ滝横をずぶ濡れになりながらミスト・トレイルを滝の上まで登ったり、ユタ州・ザイオン国立公園のエンジェルス・ランディング(天使が舞い降りる岩)という急峻な岩山の狭い尾根道を、左右500m落ちる深い絶壁に慄きながら鎖伝いによじ登ったり、無数の奇岩怪石が林立するブライスキャニオンの底に連なるロング・トレイルを終日歩いたり、アリゾナ州・アンテロープ・キャニオンの神秘的な地底洞窟を経巡ったり、南カリフォルニアのヨシュアツリーパークで、ロッククライミングや懸垂下降の訓練をする山男を見上げながら、岩と不思議な形のサボテン系のヨシュアツリーが群生する荒野を散策したり……そんな時、いつも力強い伴侶として握られていたのが、今この膝をサポートしてくれているチェコ製のLEKIというトレッキング・ポール(ストック)である。

 脚に不自由があると、何故かしきりに脚で歩いた記憶ばかりが蘇る。自重しながら、「必ず回復して、もう一度脚の記憶を綴ろう」と心に決めている。
 右肩腱板断裂は、手術と2ヶ月あまりの入院、半年のリハビリで克服し、来年は再びスクーバ・ダイビングに復帰して、優雅な海底遊泳を楽しむことが出来る見通しが立った。
 膝だって克服し、急峻な登山は無理でも、せめて飯田高原・長者原の「自然探究路」の四季折々の散策、御池周辺の山野草探訪、日常の散歩道・天神山散策と「野うさぎの広場」での癒し、夕暮れの「春の森」「秋の森」のそぞろ歩き等々を楽しむまでには、必ず回復してみせる!

 ……と、やや大袈裟な決意にしがみつきながら、リハビリに通う日々である。
          (2013年11月:写真:ブライスキャニオンのトレイルにて)

さよならの絢爛

2013年11月11日 | 季節の便り・花篇

 魔女の悪戯は、一撃では終わらなかった。3連休を抗炎症鎮痛剤の服用と湿布で少しずつ落ち着き、ゆっくりならストックなしで歩け、運転も支障ないところまで回復していた。
 しかし、休み明けのリハビリを受けて帰った夜、ちょっとした弾みで捻った右膝に、再び激痛が走った。3日間歩くことも出来ず、通院さえ断念して脂汗流しながら耐える羽目になった。小康状態に戻るまで、1週間を無駄にした。
 「枕の草子」読書会、「歎異抄」講座、博多学講座、それに伴う「博多検番と老舗料亭の集い」、同窓会幹事会、天神山散策、博物館のボランティア活動……幾つもの犠牲を払いながら、治療に専念する日々だった。

 携帯電話に装備された歩数計が動かないままに、粗大ゴミとなった我が身を持て余しながら、窓から初冬の庭や道行く人影を追う。子供たちが随分増えたというのに、外で遊ぶ声が聞こえてこない。そんな時代が年々加速している。
 引き籠り、虐め、ネット被害、行き過ぎた暴力沙汰、児童虐待、家庭崩壊、学級崩壊……子供たちを巡る暗いニュースは後を絶たない。勿論、悪いのは子供達ではなく、そんな世の中を作った我々大人に責任がある。
 10年ほど前に、ある講座で印象的な話を聞いた。現代社会は、3人の先生を喪ったという。
①ガキ大将がいなくなった――子供たちの縦の集団の中で、強い年上の子が弱い年下の子を守り、下は上を敬い、時には喧嘩して自ら痛みを知ることで、喧嘩の力加減を身体で覚えていった。子だくさんの家庭の中でも、兄弟付き合いで知らず知らずのうちに秩序を学んでいった。(少子化で兄弟のいない子供が増え、家の中でのゲーム等一人遊びに耽って、ガキ大将を頭にする集団の遊びを見なくなった)
②町内やご近所の開放的な付き合いが喪われた――子供たちが悪いことをしたら、町内の大人たちがよその子供でもしっかり叱りつけて躾をしていた。それを親も笑いながら見守っていた。(時代と共に近所付き合いも希薄となって、地域で支える風習も消えていった。下手なことを言ったら、親から何を言われるから分からないから、お年寄りもだんまりを決めるしかない)
③全人格を掛け、身体を張って生徒を導く教師が少なくなった――モンスター・ペアレントなどという家庭の躾を学校に丸投げして責任追及する身勝手な親もいなかったし、放課後暗くなるまで学校で遊んでいても、叱る親や教師はいなかった。時には叩かれても、暴力教師と訴えられることもなく「叩かれたお前が悪い」と親から又叱られる時代だった。勿論、教師も叩く加減を知っていたし、親に怯えておもねることもなかった。(学校運営委員会で、PTAから「箸の持ち方を教えていない」と学校にクレームが付いた現場に立ち会って唖然としたことがある。さすがに「それは家庭の躾けの問題です」と教師が反論したが。身近なところで、学校教師による盗撮事件が新聞を賑わせる……そんな時代である)

 小学校の恩師を今も思い出す。先生が頭の上にごっつい拳骨をかざし「自分が悪いと思って分だけ、勢いをつけて飛び上がれ」という罰が懐かしい。先生から拳骨を落とすことは決してなかった。終戦の年に外地から引き揚げて、翌年に小学校1年からやり直した低学年の私は、かなりの悪ガキだった。悪さをしてバケツ持って立たされたり、指導用の大型ソロバンに座らされても、自分が悪いことをしたという自覚で、おとなしく罰を受けていた。

 身体が思うに任せないと、つい年寄りの愚痴が出る。だから、粗大ゴミと言われても仕方がない。(呵呵)

 3輪の月下美人が、吹き始めた寒風の中で2夜に分かれて花開いた。これまで、こんなに遅くまで咲いたことはなかった。異常気象の煽りに負けることもなく健気に咲き誇り、部屋いっぱいに香りを拡げる豪華絢爛な花を愛でながら、残り少なくなった今年を想う。
 雲が切れ、眩しい日差しが窓から降り注いできた。
                (2013年11月:写真:名残りの月下美人)

紅葉に背いて

2013年11月05日 | つれづれに

 えびの高原の御池を囲む紅葉便りが、今朝の新聞の紙面を飾った。そぞろ高原ドライブが誘惑の手を差し伸べてくる。しかし……しかし、リハビリに通う右膝は、まだ長距離ドライブに耐える状態にない。歩いて10分の近場の紅葉の名所・光明寺さえも、遥かに遠く感じる日々である。それどころか、2階の寝室さえが限りなく遠い。1階の客間に布団を敷いて仮の寝間として、えっちらおっちら行き来する毎日である。

 晩秋の日差しの中で、まだ蝶が舞う。キチョウが縺れ、セセリチョウが俊敏な飛翔でツワブキの黄色い花に戯れる。日溜まりの中を、一瞬アカタテハが切り裂いて翔んだ。ふっくらとした白地に淡いピンクを刷いた山茶花には、小さなスズメガが敏捷に飛び回っている。時たまシジュウカラが空気を弾く。そろりと庭を歩きながら、そんな季節の移ろいが何よりもの癒しである。
 斜めに傾いた日溜まりに月下美人を移したら、最後の3輪の蕾がゆっくりと頭を擡げ始めた。釣瓶落としの夕暮れを待って広縁の中に4鉢を納めて、そろそろ霜対策に備えた。春4月まで、ここが月下美人の温室代わりの越冬の場所となる。

 整形外科での高周波・低周波のリハビリのついでに、隣りの内科クリニックに寄って待合室の写真3枚を入れ替えた。ツリフネソウ、キレンゲショウマに代わって、ダイモンジソウ、イトラッキョウ、ホトトギスが年末までの1ヶ月を飾る。毎月差し替える山野草の写真は、もう450枚を超えただろう。患者さんのせめてもの癒しになればいいと思って始めた写真掲示は、既に13年目になる。これも私自身の一つの生活のリズムになってしまった。

 ブログの原稿をパソコンで叩いていたら、カリフォルニアに住む娘からSkypeのコールがはいった。お互いに動画を見ながら、まるで向かい合っているように会話が出来る。無料をいいことに、時たま1時間以上も近況を語り合う楽しい時間である。
 懐かしいラグナビーチでウインドウ・ショッピングを楽しんだお洒落な店、ダナポイントの壮麗な夕日、何度も訪れたロングビーチ・ショアライン・ヴィレッジの海辺のレストラン・ヤードハウス……尽きぬ想い出を語りながら、来年こそは4年振りに娘の家を訪ねようと思う。ヤードハウスの看板メニューのヤードビアを飲んだのは、もう何年前だろう。1ヤードの(98センチ)の長いグラスにつがれたビールが、テーブルの脇の特製スタンドに置かれる。両腕で抱え込んで、こぼさないように傾けて飲むビールを、周りの客たちがにこにこ笑いながら見守るという、何とも楽しい店だった。
 その娘が、来月1年振りに帰って来る。23歳、人間に置き換えると116歳の愛猫サヤを婿に託しての単身帰国だから、滞在するのはクリスマス前の僅か2週間でしかないが、温泉に行きたい、フグを食べたい、去年食べそびれたイカを食べに呼子に走りたいと、楽しみをぶっつけ合った。話に夢中になって気が付いたら、カリフォルニアは既に夜中の1時半を過ぎていた。ハロウイーンが終わったこの日曜日で、サマータイムが終わる。画面の中でホット・パットの寝床で気持ちよさそうに眠るサヤの姿を見ながら、「またね、おやすみ」とSkypeを切った。

 今年の紅葉狩りドライブは断念して、小さな季節の贈り物を身近に味わうことにしよう。夕闇が早い。そろそろ、冬支度のカーペットを敷く時期である。
                 (2013年11月:写真:娘の愛猫サヤ)
   

魔女の悪戯

2013年11月03日 | 季節の便り・花篇

 “御三家筆頭・尾張徳川家の至宝 日本最古の絵巻、色あせないドラマ。国宝「源氏物語絵巻」4週間限定で特別公開!”

 この惹句に引き寄せられて、友人夫妻と九州国立博物館を訪れた。……と言っても、いつもの馴染の散策路の途中にある。家から歩いて10分後には、会場へのエスカレーターに乗っていた。
 人波に押されながら、人気の特別展を半ばほど観進んだ時に、それはやってきた。右膝を突然襲った激痛!ウッと息を詰めて、一瞬立ち止まった。展覧会は、立ち止まっては時折身体を捻って次の展示物に歩みを進める。その膝の捻りが痛みでかなわなくなった。
 騙し騙ししながら何とか最後まで観て、友人夫妻を残して家内と先に帰ることにした。真っ直ぐそろりそろりと前だけに足を出しながら帰り着いて、その後動けなくなった。この段階ではまだ「歩行困難」というレベルだったが、夜から膝を曲げられない、捻れない、体重を掛けられないという「歩行不能」状態となった。
 運悪く、木曜日午後は整形外科の休診日である。悪寒に身体が震えるほどの痛みに呻吟しながら床に就いた。2階の寝室まで階段を上がることも出来ない。1階の客間に布団を敷き、松葉杖代わりに、トレッキング用のストック2本を枕元に置いて眠った。

 翌日タクシーを呼び、家内にエスコートされながら行きつけの整形外科に辿り着いた。今朝は何とか1本ストックで騙し歩き出来るくらいになっていた。
 X線診断の結果、若干軟骨のへたれはあるものの幸い骨には異常なく、一時的な炎症だろうという事だった。膝関節にヒエルロン酸の注射を週1回、高周波と低周波のリハビリを毎日、そして抗炎症鎮痛解熱剤を服用しながら様子を見ることになった。しかし、翌日から3連休で休診、リハビリもお預けという不運が待っていた。

 身に覚えはある。このところ、少し右膝に違和感はあった。正座から立ち上がる時の一瞬の痛み。「やばいな」と思いながら八千代座の桟敷席での2時間半の苦行難行に加え、二日にわたって梯子の上で膝に負担を掛けながら物置の屋根のペンキ塗りをしたとき、「無理な姿勢だな」という自覚はあった。前日、町内の高齢者と共に(自分も高齢者なのだが)マリンワールド海の中道水族館にバスハイクに行き、カメラマンとして8000歩余りを歩いた。そして、「徳川家の至宝展」である。
 この手の観覧は、立ち止まっては身体を捻って歩くの繰り返しだから、実は早足で歩く以上に足腰に負担を掛ける。……繰り返した過負荷の膝を、魔女が軽く叩いた。加齢で経年劣化した膝に疲労が溜まり、魔女の軽いひと突きで脆くも打ちのめされる羽目になったという事だろう。

 整形外科は、高齢者の群れである。それほど高齢化が進んだこの町なのだが、否応なしに自分自身が年寄りになったことを自覚させられて、いささか切ない。
 二日目から何とかストックなしで擦り歩けるようになったが、捻るとまだ痛みが走る。ナマケモノのようにそろそろ、てろりてろりと家の中を動きながら、3連休を過ごしている。膝の角度の関係で運転には支障ないと分かり、用心しながら買い物に出て膝サポーターを買ってきた。「グラつきからくる痛みに!!」という謳い文句どおり、ありがたいことに、捻りによる痛みが抑えられるようになった。
 更に、とどめのオチがある。右足を庇って動いているから、どうしても身体のバランスが乱れる。何かの弾みで、左腰がキクッとなった。魔女のひと突き(ぎっくり腰)とは、中学生の頃から半世紀のつきあいがある。このところ発作を起こさずに来ているのに、もうたくさんである。

 友人夫妻が手土産に持ってきてくれたダイモンジソウとイトラッキョウが可憐に咲き、テレビと読書に倦み疲れた目を癒してくれる。
 左肩腱板断裂修復手術後の入院病棟で新年を迎えた今年も、もう残り2ヶ月を切った。家内も私も、今年は十分に痛めつけられた。魔女よ、もうこれ以上の悪戯は勘弁して欲しい。
               (2013年11月:写真:ダイモンジソウ)