蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ジョージよ

2012年11月22日 | つれづれに

 最低気温3.3度。11月下旬にはいるなり季節を1ヶ月先取りして、この冬一番の冷え込みとなった。
 キリッと引き締まった研ぎ澄ますような冷気の中を、床屋さん(この表現も絶滅した。散髪屋さんでもなく、今は理容院または理髪店と言わないと恥をかくらしい。)に歩いた。もう先代から数十年世話になっているこの床屋さんも、息子さんの代になって「髪ing○○○○」と今風の屋号に変わった。
 GI刈り?慎太郎刈り?…頭皮から直角に伸びる直毛・剛毛で癖のない曲者の髪の毛に、40年散々悩まされてきた。ビジネスの場では一応サマになってなければならず、無理やり撫で付け、粘性の強い整髪剤とヘア・ドライヤーで無理やり整えても、少し汗をかくとたちまち膨れ上がってしまう。リタイアしてから真っ先に七三の髪を刈り落とし、白髪の「東映やくざのなれの果て」みたいな髪型にした。(ヘアスタイルとは、敢えて言わない。)これがもう、快適極まりない。シャンプーも微量で済むし、ヘア・トニックだけで整髪料も要らない。汗も雨も怖くないし、絶妙の解放感だった。
 ところが、これが却って床屋さん泣かせで、バランスをきれいに刈り上げるのは、むしろ植木屋さんの剪定に近い職人芸である。毎回1時間を超える手間をかけて、もう50代になった二代目さんが綺麗に刈り上げてくれる。一度電車の中で、見知らぬ初老の紳士に「見事な刈り上げですね。どこの床屋さんですか?」と訊かれたことがあった。

 来月の入院・手術のタイミングに合わせるために、少し早目の散髪だった。薄手のウインドブレーカーでは寒気が染み入るほどの朝だった。玄関先のラカンマキの垣根の裾の辺りで、数年前に消えてしまったはずのノコンギクがたった1輪、鮮やかな紫紺に輝いていた。こんな小さな発見が嬉しくなる季節である。
 床屋さんまで10分ほどの道のりである。久しぶりに電線でスズメが囀っている。数えると片道で20羽ほど。最近とみに減ってきたスズメの群れ、住宅地の軒が隙間なく作られるようになって、屋根裏の巣作りが出来なくなったのも一因だという。言われて見上げながら歩くと、昔風の軒は殆ど見当たらない。昔風にこだわった我が家は、幸い時たまスズメが軒に出入りするし、数年前まで一頭の蝙蝠が住み着いていた。子供の頃、夕暮れになると空一面にぼろ布をぶちまけたみたいに、たくさんの蝙蝠が飛んだ。今は見かけるのは奇跡に近い。数多くの失われた風物詩のひとつである。多くの生き物ばかりでなく、たくさんの風物詩が絶滅していく。

 色づいてたわわに実る渋柿のそばの電線で、群れないハシブトガラスが1羽、傲慢に下界を睥睨している。右手の小山の藪ではヒヨドリの群れが鳴き騒いでいた。農協の店の前の信号を渡り、西鉄太宰府線の踏切を通って梅大路の信号を越えると、床屋さんはすぐそこである。

 嬉しいニュースがあった。南米エクアドル・ガラパゴス諸島のビンタ島でただ一頭生き残っていたゾウガメ「孤独なジョージ」が、今年6月に推定100歳で死んだ。絶滅危惧種のシンボル的存在だったジョージの死を、全世界の人たちが惜しんだ。ところが、ビンタ島から数十キロ離れたイサベラ島北部で1600頭以上のゾウガメを調べたら、純血種ではないものの、17頭からビンタゾウガメの遺伝子が発見されたという。「孤独じゃなかったジョージ」と、新聞は報じていた。捕鯨船や軍艦などの食用に乱獲されて滅びに向かったという、無数にある「人間の負の遺産」の一つ。不要になったゾウガメを、今度は邪魔だからとほかの島や海に捨てたという、それがイサベラ島で生き延びた理由らしいというのも皮肉な話である。
 人間が、自らの命の根源を自ら食い滅ぼしている例は数えきれない。「気付きの限界点」は、もうとっくの昔に越えてしまっている。

 師走が、そこまで来た。
                 (2012年11月:写真:ノコンギクの孤独)

冬の先駆け

2012年11月04日 | 季節の便り・虫篇

 年々、秋が短くなる……そんな気がしてならない。11月の声を聞いた途端、突然朝の気温が4.9度まで下がり、慌てて例年通りレンタルのガス・ファンヒーターを依頼し、カーペットを敷き、加湿器を納戸から出し、冬支度を整えた。合服を着る間がないと家内がぼやく。そう言えば、Tシャツを仕舞い込んだのはつい先ごろのこと。5月から半年の間シャワーで済ませていたのを、ようやく湯船にお湯を張る生活に戻ってまだ間がない。
 前夜の天気予報で霜注意報が出た。霜に弱い月下美人の鉢を4つ、広縁の陽だまりに上げた。晩夏から束の間の秋を掠めて、冬が駆け足でやってきた……とはいうものの紅葉がまだだから、多分気温の乱高下に身体が過剰反応しているだけなのだろう。我が身は紛れもなく玄冬。方位は北、季節は冬、色は玄(黒)、動物は玄武(亀)……季節の変化に敏感になる年代には違いない。

 例年になく、今年はカマキリとの出会いが多かった。春のちびっ子カマキリから、命の絶える直前の秋のサヨナラまで、何度となくカマキリに出会った。
 そのせいだろう、いつもの散策路を歩きながら、久し振りに道端の藪にカマキリの卵を探す自分がいた。笹の葉の陰、セイタカアワダチソウの繁み、盛りを過ぎたススキの茎など、およその見当で目を走らせながら歩いていた。本当はもう少し冬枯れが進んだ藪の方が探し易いとわかっているのに、何故か気がせく。
 ようやく「文化の日」、寒波の後に戻ってきた晩秋の日差しの中を、博物館への89段の階段を登りながら探す目線の先に、それはあった。外来種でありながら、いつの間にかすっかり生い茂ったセイタカアワダチソウの茎の半ばに、オオカマキリの卵塊がしっかりとしがみついていた。

 虫、黴、埃、温度、湿度をウォッチングする環境ボランティアの立場から、当然博物館には持ち込み禁止の獲物である。折り取った茎をこっそりトレーナーの袖に差し込み、卵塊をタオルでくるんで掌に隠して入館。折りから開催中の被災地「ふくしま」の写真展を観た。地震と津波と、そして放射能にまで虐められた人たち。その懸命に生きる姿を切り取った写真と、パネルの隙間に書かれた詩のような言葉に引き込まれた。子供たちやお年寄りの表情の明るさが、かえって心にズシンとくる。「つらさは耐えられるけど、優しさに涙が出る」という意味の言葉にウルッとくる。
 主宰者の男性から声を掛けられて、小さなメモにメッセージを書いてボードに貼った。「生きてください。どんなにつらくても、そこはふるさと。皆様の哀しみは決して忘れません。それが私たちの責任ですから」

 エントランスのガムランの楽器のそばのベンチでしばらく休み、その日の散策をそこまでにして戻った。下る階段の落ち葉を掃いている人たちがいる。掃くかたわらから、とめどなく落ち葉が散る。その繰り返しの中で、この道がいつもきれいに掃き清められている。こんな多くの人たち……300人を超えるボランティアや、NPOの皆さん、「愛する会」の人達などに支えられて、この博物館はある。開館7年目にして、入館者は1000万人を超えた。太宰府天満宮との相乗効果もあるものの、この田舎町でこの数字は凄いと思う。「サーカス以外は何でもやります」という館長の姿勢が、他に例を見ない「開かれた国立博物館」として存在感を高めている。
 環境ボランティアもすでに5年目、許されるのは6年限りだから残すところ1年余り。これからの日々が一段と貴重になる。肩の異常で3ヶ月活動を休んでいたが、原因と対応がはっきりしたところで、10月終わりから現場に復帰した。後輩の3期ボランティアの仲間たちと久し振りに温湿度計の記録紙を交換したり、生物インジケーターを交換したりしながら、やたらに楽しかった。「やっぱり好きなんだな」と思う。

 持ち帰ったオオカマキリの卵塊を、庭の鉢のひとつに立てた。やがて年が明け、春が来たら、この中から数百匹のちびっこカマキリが蟋蟀庵の庭に溢れてくる。その頃には術後の長い長いリハビリも終わって、この疼く左肩の痛みも消えていることだろう。
 方位は東、季節は春、色は青、動物は青龍……命が蘇り、新たに紡がれていく季節がやってくる。それは、これから迎える厳しい冬を越えた、ずっとずっと向こうにある。
               (2012年11月:写真:オオカマキリの卵塊)