蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

55年目の邂逅

2007年05月13日 | 季節の便り・虫篇

 気温乱高下する初夏の一夜、昼間の汗ばむ陽気が嘘のように、日没が引き締まる夜気を大地に降ろした。勝手口を開けてゴミ出しに外に出た時、左手の人差し指にかすかな生き物の気配を感じた。外灯の光にかざしてみると、透明な羽に涼やかな緑の輝きを見せる僅か3センチほどの小さな蝉がとまっていた。「え……!!」久しぶりのときめきだった。
 昆虫少年55年、先年、お隣の小学生の博識に脱帽して「虫博士」の称号を譲って以来、最早「虫ジジイ」でしかないが、実は長い虫達との付き合いにもかかわらず、春蝉とはこの夜が初対面だった。その可憐で清楚な姿とは似ても似つかぬ悪声なのだが、幸いこの夜の訪問者は物言わぬ静かな雌。人間社会と違って、生き物の世界には概ね「女3人寄って姦しい」という言葉はない。懸命に鳴き、囀り、踊り、戦い、異性の気を引こうとするのは雄なのである。(勿論、人間も本来はそうであった筈なのに、男3人寄っても「姦」という文字は生まれなかった。その代わりに、「嬲る」という不名誉な文字はある。)
 早くから蝶と甲虫に関心が凝縮したために、残念ながら我が家に蝉の図鑑はなく、インターネットの昆虫図鑑を漁ったけれどもけれども記事が見つからない。やっと本州に住むある人のホームページで「春蝉・雄」の写真を見つけて確認した。我が家の夜の訪問者は尾端が長く、明らかに雌。何よりも沈黙が実証しているではないか。
 あいにく、この夜の冷気は小さな蝉には過酷過ぎた。庭の木立のそっととまらせていたのに、翌朝、折からの強い風の中にほしいままに転がされる彼女のなきがらがあった。

 今年は異様に樹木の生長が早い。気のせいかと思っていたら、出入りの植木職人があちこちの家で同じ指摘を受けるという。樹木が元気な証なのか、それとも異常なのか…最近の季節の移ろいは、人為が狂わせた気まぐれで、何が正常なのかわからなくなってしまった。7本立ったヤマシャクヤクが花をひとつしかつけず、それも開花直前に花びらを茶色に枯らして散っていった。雨がおかしい…そんな疑いが今も消えない。
 艶やかに輝く侘助の木陰や玄関の日陰に、ユキノシタがいっぱいの花を開いた。初夏を謳う踊り子の群舞である。小さな花の可憐さに目覚め、カメラを望遠からクローズアップ・レンズに差し替えるきっかけとなった想い出の花である。それが嬉しさに、我が家の庭では蔓延るままに任せ、猫に痛めつけられて見るも無残になってしまったスギゴケの床にも、ユキノシタを移し替えて、一面覆い尽くすのを待っている。ミヤコワスレが今年は長い。キバナホウチャクソウもチゴユリもナルコユリ終わっても、まだ息長く美しい紫を見せてくれている。アヤメが9輪、八朔が白い花びらをこぼし、その下にヒトリシズカが花穂を立てた。アカバナが可憐に陽射しを仰ぐ。命輝く季節である。
 日脚に合わせて山野草の鉢を移動させながら、何事もなく日々が過ぎていく。自治会長・区長の仕事から解放され、無為浪々を楽しむつもりでいたのに、行政をサポート(ウオッチ)するお役目が二つほど舞い込んできた。厳しい財政の中で福祉の充実という重大な課題を抱えながら、貴重な税金を250万円も使って、束の間の旅人でしかなかった歌人達の万葉歌碑をまた2本も建てたという記事を見た。これで25本という。恥ずかしくなるような自称「万葉時代の衣装」を着て除幕式をやっている姿がおぞましい。何か間違っていないだろうか。そんな行政のまちだから、やっぱり無為浪々の隠居暮らしなどやってられないということだろう。もう少し頑張ってみよう。人も気候も異常な中で、蟋蟀(こおろぎ)庵隠居が、小さな蟷螂の斧を振り上げる…冷たい夜気と戦った春蝉の、けなげな一夜にならうとしよう。
        (2007年5月:写真:夜の訪問者・春蝉)

もうひとつの感謝状

2007年05月02日 | つれづれに

 7年前、61歳を迎えた梅雨の頃、40年間の会社人生に幕を下ろして有閑の日々を迎えた。不思議にそれまでの日々を惜しむ気持ちは薄く、肩の荷をおろした開放感だけが心を支配していた。24時間を自分でほしいままに設計に出来る自由を謳歌してみようと気持の手綱を解き放っていた数ヵ月後、待っていたかのように町内の古老3人が我が家を訪れた。自治会長・区長就任の懇請だった。
 礼を尽くされた説得にやむなく引き受けてはみたものの、それまで地域に目を向ける余裕もなく、ご近所の人たちの顔も碌に知らない我が身にとって、「地域」はどこから入り込んでいいのか戸惑う未知の世界だった。「男の地域デビュー」…それは言うは易く、実は日頃寝に帰るだけの会社人間だった我が身にとっては、暗黒大陸にも等しい。(ちょっと大袈裟かな?)まして、市役所とのパイプ役としての「非常勤特別職地方公務員」という区長職が付随するとあっては、もう手のつけようがない。
 しかし、ここに救世主がいた。かつて臨時職員として市役所で仕事をしたり、職員を客とする仕事を経験し、しかも主婦・母として永年地域や学校に浸透していた家内である。家内に連れられて市役所の「廊下とんび」をすることから、私の地域奉仕の仕事が始まった。暫くは「○○さんのご主人」という切り口で、行政に接していった。町内も然りである。何とか自立できるまで、1年以上はかかっただろうか。一人では何も出来ない新米地域人だった。
 そうこうするうちに、私の仕事のアシスタント…というより、参謀として二人三脚の体制が当たり前になっていった。たまに一人で歩いていると、町内の人から「どうしたの?喧嘩でもしたの?」という言葉が飛んでくるほど、いつも二人で何かしていることが当たり前になっていた。

 「内助」という言葉がある。実感を重ねる中に6年の任期が過ぎた。「敬老会」、「井戸端サロン」、「区民文化祭」、「夏休み平成おもしろ塾」、「サポート隊」…創り上げていった地域福祉活動の全てに、「内助」があった。いつの頃からだろう、「この職務、男性であるよりも、むしろ女性こそ相応しいのではないか?」…そんな思いが芽吹いていた。
 任期満了間近い頃、市の「男女共同参画推進市民フォーラム」の実行委員長を務めて、この思いは確信になった。こうして私の後任に、この区始まって以来初の女性自治会長・区長が誕生することになる。これまで福祉委員と福祉グループ「ひまわり会」の会長を務め、町内の方々の信頼厚い切れ味のある女性である。しかも、何よりも若さがある。我が区から、新しい風が吹く。そして家内は、その女性自治会長・区長をサポートする役員ひとりとして、福祉グループ「ひまわり会」の会長と「サポート隊」運営委員長を引き受けることになり、これからは私が「内助」の立場となる。

 総会終わって横浜の孫のところから帰宅した家内に、子供会からもう一つの感謝状が届いた。たどたどしい文字に子供達の思いが綴られている
 「…あなたは、私達湯の谷西子供会をあたたかく見守り、たくさんの愛情を注ぎ、いつも明るい笑顔で見守ってくれました。感謝の気持を込めて、ここに感謝状を贈りたいと思います。…」
 子供達は、「内助」の温もりをちゃんと見ていた。花束を添えて、我が家に二つ目の勲章が届いた。
 「男の地域デビュー」…大きな課題を積み残して、一区民として見守る日々が始まった。
         (2007年5月:写真:キバナホウチャクソウ)