蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

袂別の秋

2014年10月29日 | 季節の便り・旅篇

 一天、青空が抜けた。思わず身を竦める、この秋一番の冷え込みに霜が降りた。

 前夜、会社OB会に阿蘇・帯山に集った。標高743mの高原に聳える、13階建ての某アジア系資本のゴルフ場併設のホテルである。職員の殆ど、宿泊客の殆どが某国人で、チェックインの時間に部屋の掃除が終わっていないし、館内の表示も殆どが某国語。太宰天満宮界隈の団体ツアーでマナーの悪さに辟易しているだけに、さすがに大浴場を利用する気にならず、翌朝の乏しいメニューの朝食バイキングもそこそこに、逃げるように宿を走り出た。
 晩秋の爽やかな高原、「これじゃぁ、このまま帰られめぇ!」

 産山から瀬の本高原に抜けて、「やまなみハイウエー」を牧の戸峠に向かった。山肌を九十九折れで登る途中の展望台から、朝霧棚引く壮大な阿蘇五岳を望む。雲一つない秋空の下で、巨大な涅槃像が朝霧の衣を纏って横たわっていた。
 黒岩山(1503m)と沓掛山(1503m)の鞍部を越える牧の戸峠(標高1333m)は、久住山(1787m、)星生山(1762m)等の久住連山への表玄関である。まだ9時前というのに、既に駐車場は登山客の車が溢れていた。色とりどりの山姿が続々と沓掛山への登山口に向かっている。
 気持ちの底で、ズシンと落ちるものがある。1週間前、履き慣れた家内と二人分の登山靴と33ℓのザックを山仲間に預けて、然るべき人への譲渡を頼んだ。右膝の痛みを、毎日の自主リハビリで日常生活や近場の山林散策には支障ないまでに回復したものの、もう本格的な山登りは無理と諦めた。
 主治医の整形外科医が「診てあげてもいいけど、もう加齢。正座なんて考えない方がいいですよ」…要は、加齢による軟骨減摩で完治は無理という事である。そばにいた婦長までが「私も膝が駄目なんです」…これはもう、諦めるしかなかった。
 中学の頃、友人の兄に連れられて福岡近郊の脊振山(1055m)に登ったことで始まった、私の60年の山歩きが閉じた。寂しくないといえば嘘になる。厳しい山岳を極めた登山家というわけではない。九重連山を中心にしたトレッキング程度の山歩きには違いないが、それでも数えきれないほどの思い出がある。
 袂を分かった山々の入り口で震え上がる寒風に吹かれながら、暫く登山者の姿を目で追っていた。今朝の牧の戸峠の寒風は、一段と身に染みた。
 人生のひとつの節目だった。しかし、山を諦めても、私には海がある。20メートルの海底で、優しく包み込んでくれる豊かな海がある。

 黙々と長者原に下る。馴染みのタデ原湿原から湿地の樹林を周回する「長者原自然探究路」を独り歩いた。入り口の斜面に、咲き遅れたマツムシソウが一株、葉末を霜で白く縁どりながら美しい花を数輪開いて迎えてくれた。沈みがちだった気持ちが、ふっと軽くなる。
 三俣山(1745m)と星生山の間から、硫黄山の噴煙が白く青空に立ち昇り、一面枯れススキの湿原を横切る木道は、今日も独り占めだった。右手には、春になると馬酔木の巨木が鈴なりの花を並べる下泉水山(1296m)、泉水山(1447m)、黒岩山と連なる稜線が青空をくっきりと断ち切る。かつて縦走した時の、日差しの中で咲くショウジョウバカマの可憐な姿が記憶をよぎってちょっと切ない。
 やがて樹林にはいり、カサコソと落ち葉を踏み鳴らし、小さなせせらぎを聴きながら歩き続けた。しみじみと歩き続けた。ツルシキミが真っ赤な実を一面につけて、キラキラと流れに弾ける木漏れ日の下で輝いていた。
 1周4000歩あまり、小一時間で辿る2キロ足らずの探究路だが、木々の優しい囁きに浸る、私のお気に入りの癒しの空間のひとつである。一つ一つの木立に、思い出がある。コンビニのお握りを最高の御馳走に変えるベンチがある。

 再び牧の戸峠を越え、瀬の本から黒川温泉に下り、やがて北に折れる。知る人しか知らない広域農道「ファームロードWAITA」。激しいアップダウンと急カーブが続くこの道は、土日になるとドライブ・テクニックを楽しむ走り屋たちが、バイクやスポーツカーを連ねて賑やかになるが、平日は殆ど車に会うことはない。この日も1時間あまりの疾駆の間に、すれ違ったのは10台足らずのバイクと車だけだった。シフト・チェンジを繰り返しエンジン・ブレーキを効かせながら、出来るだけブレーキを踏まずに走り下る快感は譬えようがないが、「急カーブあり。スピード落とせ!」「二輪車事故多し。スピード落とせ!」とやたらに注意標識の多い道である。ときたま「農耕車に注意!」とあるのが、まさしくファームロード(農道)であることを思い出させ、微笑ましい。

 途中、右に折れて馴染みの立ち寄り露天風呂「豊礼の湯」で車を停めた。昨夜の恨みを晴らそうと、ちょっと贅沢して家族露天風呂を借り切った。500円玉2枚と100円玉2枚を入れると、50分間乳白翡翠色の温泉が掛け流しとなる。日差しの中に綺麗な稜線を見せる湧蓋山(1500m)を枯れススキ越しに見上げながら、岩風呂の独り占めの湯音に沈んでいた。
 蕎麦どころ「宝処三昧」で「わいた膳」を食べて…ワンパターンの行程ではあったが、久々の310キロの独りドライブ。
 山への袂別を告げた秋の一日。多分、この日を私は忘れない。
             (2014年10月:写真:朝霧を纏う阿蘇五岳)

死闘

2014年10月26日 | 季節の便り・虫篇

 東に面した塀際に植えた山茶花が、秋風と共に白い大輪の花を咲かせ、毎日のように一匹のスズメバチ(キイロスズメバチ?)が羽音も高く蜜を吸いにやってくる。
 先日傍らを通った時、何を思ったのか突然首にとまった。スズメバチ類の中で、最も刺される事故が多い怖ろしい蜂である。一瞬固まった。動けば間違いなく刺される。中学生の頃、無謀にも捕虫網に捕えて刺された経験があるから、二度目にはアナフィラキシー・ショックという恐ろしい事態もあり得る。首筋の脈動は止めようがない。ひたすら息をひそめて固まっていた。ほんの十数秒のことだったのに、限りなく長く感じられた。
 やがて蜂は再び山茶花に戻り何事もなく済んだものの、緊張の数瞬だった。

 日差しが斜めに傾いた頃、落ち葉を掃きに庭に出たとき、山茶花の根方で2匹のスズメバチが戦っていた。組んずほぐれつ、絡み合い噛み合いながら地面を転げまわっている。獰猛で雑食の蜂である。蜘蛛、蠅、虻、蝉など数十種類の生き物を捕食し、仲間であっても容赦しない。山茶花の蜜を争っての死闘だったのだろうか、いずれ1匹が死ななければ終わらないと思わせる激しい戦いだった。
 しかし、やがて1匹がもう1匹を振り放して飛び立ち、東の屋根を越えて遠くに消えていった。残された1匹も暫く地面をよろよろと這いまわっていたが、辛うじて飛び立って弱々しく翅を震わせながら何処かへ去った。骨肉の争いは何とか引き分けに終わったものの、小さな生き物の命を懸けた戦いは、凄絶だった。

 秋の日の日課の落ち葉掃きが続いている。朝の目覚めの後、真っ先に箒を持って庭に降り、道路を掃いて玄関先と庭を掃く。しかし夕方になると、道路は再び落ち葉落ち葉である。ハナミズキの落ち葉は、乾くと砕けるから始末に悪い。箒で掃き寄せる後ろでカサコソと音がする。振り向けば、また新たな葉が散っている。まだ3割ほど散り残した頃、今度はコブシの葉が散り始める。それが終わると、蝋梅とイロハ楓、そして最後はキブシの落ち葉の季節である。
 「落葉樹ばかり植えるから」と陰で言われても、いろいろ訳あって植えてきた木々である。それぞれに、我が家なりの思い出があるのだ。これまでに2本の木を枯らした。出入りの植木屋さんが言う。「木が枯れるときには、その家の誰かの身代わりになって命を助けてる」と。我が家には、確かに思い当たることがある。

 まだまだ当分この日課は続く。尽きることのないイタチごっこであり、不毛の戦いでもあるのだが、掃きながら、どこか無心になっている自分がいる。面倒をかこつより、季節の移ろいを気持ちのどこかで楽しんでいる自分がいる。
 落ち葉の後には、木々の新たな命の再生がある。ハナミズキには小さな玉のような花芽が鈴なりとなり、キブシには既に夏の頃から春3月頃に咲く花房がみっしりと育ち始める。掃き終わって見上げた枝先には、そんな新しい命再生の姿がある。だから、決して落ち葉掃きは苦にはならないのだ。
 以前は、掃いた落ち葉を可燃ごみ袋に入れ収集日に出していた。しかし、やっぱり大地の恵みは大地に返そうと、3年前から庭の隅に積み上げ腐葉土に変えることにした。しかし、一朝一夕で腐葉土は出来ない。腐葉土が出来るのと、我が身が土に還るのと、どちらが早いか「神のみぞ知る」である。

 風の吹くままに隣近所に散った落ち葉を追いかけ、夕凪を待って向こう三軒両隣りの道路を掃き終わる頃、日が西に傾いて吹く風が俄かにひんやりとしてくる。
 この微かな冷たさを含んだ風こそ、肌で感じる秋の息吹である。
                 (2014年10月:写真:スズメバチの死闘)

Happy Halloween !

2014年10月26日 | つれづれに

 「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ!)」……今年もたくさんの子供たちがやって来た。1週間早めの土曜日、Halloween Nightである。予め子供会から託されたお菓子を準備し、夕飯を遅らせて待ち受けた。
 去年までは、アメリカで買い求めてきたAvatarの仮面で迎えたが、不気味さを怖がる子供が多いので、今年はネットで仕込んだ宇宙人に扮した。SFっぽくて、結構可愛いと自画自賛しながら、2本の角を振り立てて待つ。玄関には、Happy Halloweenのリースを掛けた。

 3グループに分かれた子供たちが、ダースベーダ―に扮したお父さん達に率いられて宵闇の中をやってくる。「Trick or treat!」25人の子供たちに、「宇宙人のおじさん」は概ね好評だった!お母さんたちも、意外な出迎えを喜んでくれた。
 「夏休み平成おもしろ塾」で小さな幼子だった子がもう6年生になり、少しはにかみながら「宇宙人のおじさん」を恐る恐る見詰めているのが、何となくほのぼのとして可笑しい。童心に帰って楽しんだ秋の一夜だった。

 元々は古代ケルト人が秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのお祭りだったらしい。今は本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなり、カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けや映画のヒーローなどに仮装して近くの家々をまわってお菓子をもらう。アメリカの娘の家でも、魔女やスパイダーマンなどに扮した子供達や大学生までが扉を叩いて、秋の夜を楽しませてくれた。
 古代ケルトの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン祭(収穫祭)だった。現在の暦で言えば10月31日の夜に始まり、かがり火を焚き、作物と動物をいけにえに捧げて火のまわりで踊るうちに、太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まる。11月1日の朝が来ると、各家庭にこの火から燃えさしが与えられ、人々はそれを家に持ち帰り、かまどの火を新しくつけて家を暖め、悪い妖精などが入らないように祈る。1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が出来ると信じられていたという。

 朝晩は冷え込んでも、昼間は汗がにじむほどの暖かい秋晴れが続く。Halloween Nightの翌朝、日差しが強くならないうちにいつもの散策に出た。折りから開催中の「台北国立故宮博物院 神品至宝」特別展の開館時間で、既に館の外は1時間待ちの長蛇の列である。我が家は既に先日、「午後3時半以降」のご近所タイムに、待ち時間ゼロで、話題の「肉形石」もたっぷり時間を掛けて閲覧済みである。(この時間になると、遠来の客は家路を急ぎ、帰宅の長さや時間を気にしない近場の客の天下となる。)
 行列を横目に見ながら過ぎ、四阿の散策路に抜けて、イノシシの荒らした湿地を仄暗い階段に進み、やがて「野うさぎの広場」に登る山道にはいる。先日の台風の余波で、道には折り取られた木の枝が散乱していた。広場の木漏れ日を作っていた大きな木までが根元から折れ、広場を横切るように倒れ伏していた。19号が直撃していたら、この散策路も惨憺たる様相を呈していたことだろう。
 僥倖を喜びながら、暫く枯れ草の上にシートを敷いて、ほしいままの静寂の空間に浸った。

 風の音と、時折小鳥の囀りが降りかかるだけの、私の秘密基地のひとつである。風に転がる枯葉が、ひっそりと秋を囁いていた。
              (2014年10月:写真:Happy Halloweenのリース)

秋、高く

2014年10月18日 | つれづれに

 抜けるように高い青空だった。台風19号が空の塵を払い、俄かに朝晩の冷気が身を引き締める季節になった。

 来春に咲く山野草の花の鉢を植え替えた。余分な根を切って株を整理し土を新しくして、苛烈な夏の間は寒冷紗の半日陰に置いていた棚を、日差しを浴びる日向に移す。傍らの鉢では、やがて開くイトラッキョウがみっしりと蕾を増やしていた。花時の長い花である。晩秋から初冬にかけて、花火のように可憐な花を弾かせ続けてくれる。時たま、ぼろぼろに傷んだ翅を懸命に羽ばたかせながら、幾種類かの蝶が庭を横切っていく……少し物哀しい秋の日溜まりである。夜毎の蟋蟀の声も、少しきしり始めた。

 家内の書道家の従妹が、「かな三人展」を開いた。「おめでとう」と家内が花を贈って、二人で会場を訪ねた。眩しい秋日に目をそばめながら、我が家から歩いて10分、太宰府天満宮参道から細い路地を入った奥の古民家の座敷、昭和以前の鄙びた佇まいを残した部屋に、流れるように美しい水茎の跡が並べられていた。
 受付の来場者の記帳を見て、思わずたじろいだ。毛筆の見事な名前が並び、悪筆の我が身ではとても手が出ない。見かねた受付の女性が、そっとサインペンを差し出してくれた。諦めて自虐の文字を並べて、会場にはいった。
 万葉集、古今集、古今和歌集、源氏物語和歌集、和泉式部歌集抄、道真公、芭蕉、山頭火、西行、虚子、久女、与謝野晶子、蕪村、竹久夢二……歌や句の数々が、流麗な仮名文字で書かれ、考え抜いて選ばれた表装が一段と花を添える。眩しい秋日が畳から翻って、観る角度によって文字と背景の輝きを変える。
 廊下の奥に立てられた衝立の一句と文字が心に残った。安元溢という私の知らない名前の人の句を、三人会の一人が筆をそよがせるように書いていた。

   立冬や 生きるときめき 忘れまじ

 玄武厳寒の歳に到った我が身にとって、妙に心に染み入る文字と句だった。
 
 立ち去り難い静寂のひと時を過ごした後、日差しの参道に戻った。俄かにコリアンやチャイニーズのけたたましい声が耳に触る。日本語を聴くことが少ないと感じるほど、最近の太宰府はアジア系の傍若無人の姦しさが募っている。来るたびに新しい店が増え、かつての門前町の佇まいが薄れゆく参道の雑踏を縫いながら、行きつけの店で辛子明太子を求め、お馴染みの店で「梅ヶ枝餅」を二つ買って、いつものように歩き食いを楽しんだ。
 九州国立博物館エントランスへのエスカレーターは家内に譲り、久々に120段の階段を上った。痛めた膝を少し気にしながら一気に歩き上ると、さすがに少し息が上がる。まぎれもなく夏の間の運動不足のツケが、いま此処こにある。
 七色の歩く歩道を出たところで左に折れ、四阿への道を辿ってみた。春、一面に土筆の群落だった湿地はスギナに覆われ、そこかしこがイノシシのぬたばとなって荒らされていた。今日は舞う蝶の姿もない。

 裏から湯の谷口の89段の階段の途中ののり面の笹の枝に、待望のオオカマキリの卵塊を見付けた。折り取って、帰り着いた我が家の庭の鉢に差した。来年の春たけなわの頃、数百匹のちびっこカマキリが、溢れるように誕生することだろう。
 秋の空はいよいよ高く、日差しは汗ばむほどに暖かかった。
               (2014年10月;写真:立冬の句)

南帰行

2014年10月15日 | 季節の便り・虫篇

 大型台風19号が日本列島を縦断して去り、一気に秋が来た。晴れ上がった空は何処までも高く、文字通り「秋高馬肥」の佇まいである。

 2000年にわたって北方民族・匈奴に辺境を侵され続けたかつての中国にとって、秋は災いの季節であった。馬を自分の足のように自在に操り、春から夏にかけて存分に草原の草を食んで肥えた馬を駆って、中原に攻め入る匈奴(蒙古民族或いはトルコ族の一派)。秦の始皇帝は、その侵攻を防ぐために万里の長城を築き、漢王は美人を贈って匈奴の首領を懐柔しようとしたりした。肥えた馬にまたがり、弓矢を携えて、北風に乗って走り来たり、略奪の限りを尽くして再び北に走り去る。
 だから、秋になると中国人(漢人)は匈奴の来襲に恐れおののき、鏃や剣を磨いて塞(砦)の防備を厳重にした。「天高く馬肥ゆ」とは、本来「食欲が進んで馬も肥える」という意味ではなく、実はこのような恐怖の季節の到来を意味する言葉だった。
 漢書の「匈奴伝」に曰く「匈奴秋に至る。馬肥え弓勁(つよ)し。すなわち塞(さい)に入る」

 朝の肌寒い涼気が去って、日差しに微かに夏の名残の気配を感じる午後、近くの知人から「庭のフジバカマに、アサギマダラが来てますよ。」と連絡が来た。ダビング中のブルーレイを放り出し、300ミリの望遠を嚙ませたカメラを担いで玄関を飛び出した。
 秋の南下である。中には直線距離で1.500キロ以上移動した例や、1日200キロ以上移動したケース、過去の記録では、83日間で和歌山から2.500キロ離れた香港まで飛んだケースもある。美しい姿と相俟って、マニアも含めた観測体制が充実しているアサギマダラの飛翔は、毎年のように新聞の紙面を飾る。

 知人の庭に広がるフジバカマに、2頭のアサギマダラが舞い遊んでいた。早速カメラを構えたが、風に吹かれて其処此処と漂い、なかなか花にとまろうとしない。やっととまったら花陰だったり、ピントを合わせようとするうちに、気配を感じて又風に乗ったり、焦らされ続けながら瞬間を捉えて次々にシャッターを落とした。
 時折、アカタテハが戯れてフジバカマの花の蜜を吸う。20分ほどで40枚ほどの写真を撮って知人宅を辞した。ときめきの秋のひと時だった。
 数年前、大分県九重連山の裾に広がる長者原自然探究路で、ヒヨドリバナに群れるアサギマダラをカメラで追った。九州国立博物館の裏の散策路で姿を見かけたこともあった。花びらが風に舞うような優雅な飛翔は、いつ見ても心ときめかせるものがある。

 日が西に傾き始める頃、九州国立博物館の特別展「台北国立故宮博物院・神品至宝展」を観に出掛けた。連日60分待ち70分待ちという活況でも、遠来の客や団体が去った3時半以降は待ちもなく、女性のハートをくすぐる谷原章介の甘い声のイヤホンガイドを聴きながら、閉館までの1時間半を存分に楽しんだ。
 2週間で展示を終わる「肉形石」が来館を急き立てている。しかし、底知れない故宮の魅力は、そんなものではない。25年前に家族4人で訪れて息を呑んだ故宮の感動を思い起こしながら、5時の閉館まで時を惜しみ、時を忘れた。徒歩10分のご町内である。多分、まだ何度も訪れることになるだろう。
 記念に、散策用のバッグに提げたくて、玉(ぎょく)で彫ったセミのストラップを買った。

 「各地で、この秋一番の冷え込み」というニュースが流れている。台風19号が北から引き下ろした冷気である。
 「肥馬秋天にいななく」ここに匈奴は来ない。すり替わった「食欲の秋」を心行くまで楽しむことにしよう。
 アサギマダラよ、つつがなく旅を終えるがいい。
          (2014年10月。写真:フジバカマに吸蜜するアサギマダラ)

怪奇?月食

2014年10月08日 | 季節の便り・旅篇


 2年半振りの東京だった。あの日、平成中村座3月公演、場所を間違えて浅草寺から小雨の中をひた走ってようやく舞台に間に合って……それが、中村勘三郎を観た最後だった。

 「十七世中村勘三郎二十七回忌・十八世中村勘三郎三回忌追善十月大歌舞伎」
 発売の日に2台の電話を架け続けて、ようやくチケットを手に入れた。月曜日に上京してその日に夜の部を観て、翌日3年振りの歌舞伎座という横浜の娘も呼んで昼の部を観て、一緒に夕飯を摂ってもう1泊……マイレージの特典航空券の手配も済んで……そこに、無情の台風18号が容赦なく北上してきた。
 土曜日、急遽上京を繰り上げようとANAに電話を入れた。しかし、既に切り替えの許容期間を過ぎている。「もし、今日の午後か明日の朝、月曜日に台風の影響が避けられないという結論が出れば、明日のチケットに切り替えが可能になります」という。最悪の場合、日曜日に新幹線で走る代案も心づもりした。
 夕刻、再度ANAに電話を入れた。「月曜日、羽田空港閉鎖の可能性が出てきましたので、明日への切り替え大丈夫ですよ」勿論、即刻切り替えた。移動の困難を考えて、品川に取っていた宿をキャンセルし、東銀座に3連泊で宿を取った。歌舞伎座まで徒歩5分とある。暴風雨下でも、5分なら何とかなるだろう。
 娘からのメールには「土砂降りです。明後日、私も出社が危うい。都心は雨に弱いので、ほぼ地下鉄全線停まります。…明日の夜なら、孫達二人連れてけそうです。…晩御飯でも一緒にぜひ。…とにかく羽田に着いてください。フライト情報見ながら、13時には羽田に行ってようと思います。飛行機着いたら連絡ください。手荷物持っての移動はしろしかよ、今日は。銀座までお送りします」(注「しろしい」博多弁。憂欝、鬱陶しい。雨降りで鬱陶しく惨めな時に「しろしかね」などと使う。人間に使うこともある。「あの人、しろしかろうが」など)
 日曜日、曇天・微風の福岡空港を飛び立った。台風は九州の南に迫り、既に宮崎便は欠航となっていた。散々揺られながら降り立った東京は、台風外縁の雨雲で激しい雨の中だった。横浜から迎えて銀座まで送ってくれた、娘の心遣いがありがたかった。

 夕刻、急激に気温を下げた肌寒い雨の中を、孫たちがそれぞれホテルまで駆けつけてくれた。娘の提案で、ホテルの中のメインダイニングでフレンチのビストロでディナーを楽しんだ。フランス資本の世界的なチェーン・ホテルで、宿泊客も殆ど外人である。何となく海外旅行気分で、豪快な中高生の孫姉妹の食欲と仲の良さに目を細めながら、近付く台風を忘れていた。

 台風は一気に関東を走り抜けた。閉じこもったホテルの部屋でニュースを見ながら、ずぶ濡れを覚悟しているうちに、昼過ぎから一気に晴れて気温が急上昇し、汗ばむ陽気となった。人騒がせな一日だった。

 昼の部。「菅原伝授手習鑑・寺子屋」、「道行初音旅・吉野山」、「鰯賣戀曳網」
 並び席が取れずに、3階席で家内とはバラバラになった。横に指南役がいないと、何となく掛け声も引き気味で暫く遠慮していた。渋いいい声を聞かせてもらうのも、他流試合の醍醐味である。しかし、天候のせいか歌舞伎座には珍しく空席が目立ち、掛け声もいまひとつ冴えない。とうとう我慢できなくなって、松王丸・片岡仁左衛門登場の場面から「松嶋屋!」と声を掛け始めると、もう止まらなかった。

 翌日、娘と3人で昼の部を観た。奮発して1階席の花道そばだった。「新版歌祭文・野崎村」、「近江のお兼、三社祭」、「伊勢音頭恋寝刃」。(歌舞伎を論じるのは家内の分野であり、多くは語らない。家内のブログ「歌舞伎観たまま思うまま」にいずれ登場することだろう。)
 台風に振り回された歌舞伎座観劇は、その夜の歌舞伎座隣りの松竹本社ビル2階の「台湾しゃぶしゃぶ」で閉じた。娘の奢りだった。
 思えば25年前、フィリピン留学中の次女を訪ねる途上、東京の長女と台湾で落ち合い、次女もフィリピンから迎えに来て、4人で故宮博物院を訪ねた。これが、私達夫婦の海外旅行の始まりだった。そして、今年この日から九州国立博物館で特別展「故宮博物院展」が始まる。不思議な因縁の「台湾しゃぶしゃぶ」の夕べとなった。

 帰り着いて日が落ちると、石穴稲荷の山影から欠け始めた月が昇った。皆既月食の始まりだった。波乱の観劇旅行に疲れた目に、赤黒い月の姿はむしろ怪奇に映った。久し振りに三脚を伸ばし、300ミリの望遠で怪奇?月食を写し撮ってみた。
                   (2014年10月:写真:皆既月食直前の月影)