晩秋の玄界灘は、激しい波濤が渦巻いていた。歴戦の生き残りの駆逐艦「雪風」の主砲塔の下に転がって、突き上げる船酔いに苦しみながら、青い空に流れる雲を、半ば朦朧とした意識の中で呆然と眺めていた。
社宅の隣家の庭先で親達の後ろに立ちながら、聞き取りにくいラジオの放送を聴いた。天皇の終戦の詔勅だった。6歳の子供心には、戦のことも敗戦の恐怖も何も解らず、頭頂に照りつける日差しの暑さだけが記憶にある。召集されていた父は、済州島(チェジュド)で終戦を迎えた。
商事会社に勤める父の転勤で、兄が外地(植民地)の釜山(プサン)、私が京城(ソウル)、妹が平壌(ピョンヤン)で生まれ、その後大阪・豊中を経由して再び京城に赴任中に、召集・終戦を迎えた。国民学校1年生に入学して1学期を終えた夏休みの終戦だった。(歴史を学ばない最近の若者にこの話をすると「え、あちらの人だったんですか」と一歩退く。「とんでもない!父は神奈川の金時山近くの蜜柑山農家の生まれだし、母は生粋の博多っ子で、純血の日本人だよ」と言葉を添えなければならない。)
南向きの斜面に立ち並ぶ社宅の横に、テニスコートがあった。戦に疲弊して手入れする人もなく草茫々のコートは、子供達の格好の遊び場だった。バッタを戦闘機に見立てて戦争ごっこをしたり、アシナガバチの巣を叩き落したり、腕白たちの秘密基地でもあった。
街を取り巻く峰々には高射砲陣地が並び、戦時中も高空を偵察機がたまに飛ぶだけで、まるで戦とは無縁の平和な環境だった。しかし終戦と同時に、ロッキードやグラマンの編隊が低空で飛び回り、それまで内向して一見穏やかだった人種間の軋轢が一気に噴出し、街中から日の丸が消えて韓国旗が翻り、外出禁止となった。日用品は会社がトラックで届けてくる。やがて父も復員、慌しく引揚げを待つことになる。散弾銃の弾丸を自製し、狩猟道楽出来るほどに豊かだった。「雉のすき焼きや、山鳩のすり身の離乳食を食べさせた」と母はよく言っていたが、記憶にはない。引揚げに持ち帰ることが出来るのは、身体で持てるだけの荷物と、現金は一人千円だけ。貴金属類は没収されるという話だった。
それまで築いた全ての財産を残し、会社が差し向けたトラックで京城駅に運ばれ、有蓋貨車に詰め込まれて釜山に向かった。途中何度も山の中で列車が停まる。その度になけなしの現金を集めて機関士に届けながら、ようやく釜山駅に着いた時には、現金は殆ど残っていなかったという。駅から港に向かう道の両側は、捨てられた荷物が山をなしていた。両手一杯荷物を持った親達は、子供を声で誘導しながら引揚げ船までの道を歩いた。気力で持ってきた重たい荷物が、引き上げ船を見た途端に力が抜けて持てなくなったのだという。(多くの情景は母から聞かされたものだが、子供心には定かではなく、母の記憶も長い歳月で少しずつ事実とは変容しているかもしれない。)
残留浮遊機雷のため、行き先は不明と言われて離岸した。翌朝、遠くに箱崎八幡の大鳥居が見えたとき、安堵のあまり涙が出たと母は言う。
牛車で箱崎八幡横の母に実家に辿りついた。三世代、3家族14人がせまい長屋で暮らす、戦後の耐乏生活の始まりである。飽食の今の人たちには想像もつかない、油臭い塩鯨、野草を入れた汁、芋づるの水団、筋だらけの痩せたサツマイモの弁当、長屋の脇にあった椋の巨木の実の甘み……豊かさへの飽くなき希求の原点がここにある。これが軍の傲慢な暴走に翻弄された日本の敗戦の現実である。
相次ぐ自衛隊の不祥事、その報道の中に見え隠れする軍の傲慢、旧日本軍の暴虐な記憶は、今の為政者達にとってどれほどの重みを持っているのだろう。船酔いの原体験が今も残る引揚げ船を思い出しながら、恐ろしい「亡びの笛」を聴く昨今である。満開の梅の季節、この穏やかな日々にも、地球温暖化の急加速、血税を費やして膨張し続ける軍事力、民の痛みを忘れてひたすら利権に走る政治屋などの、暗く重い影が容赦なくのしかかってくる。
夜来の雨が晴れて、陽射しが戻った。
(2008年2月:写真:満開の紅梅)