蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

忍び寄る影

2008年02月27日 | 全体

 晩秋の玄界灘は、激しい波濤が渦巻いていた。歴戦の生き残りの駆逐艦「雪風」の主砲塔の下に転がって、突き上げる船酔いに苦しみながら、青い空に流れる雲を、半ば朦朧とした意識の中で呆然と眺めていた。
 社宅の隣家の庭先で親達の後ろに立ちながら、聞き取りにくいラジオの放送を聴いた。天皇の終戦の詔勅だった。6歳の子供心には、戦のことも敗戦の恐怖も何も解らず、頭頂に照りつける日差しの暑さだけが記憶にある。召集されていた父は、済州島(チェジュド)で終戦を迎えた。
 商事会社に勤める父の転勤で、兄が外地(植民地)の釜山(プサン)、私が京城(ソウル)、妹が平壌(ピョンヤン)で生まれ、その後大阪・豊中を経由して再び京城に赴任中に、召集・終戦を迎えた。国民学校1年生に入学して1学期を終えた夏休みの終戦だった。(歴史を学ばない最近の若者にこの話をすると「え、あちらの人だったんですか」と一歩退く。「とんでもない!父は神奈川の金時山近くの蜜柑山農家の生まれだし、母は生粋の博多っ子で、純血の日本人だよ」と言葉を添えなければならない。)
 南向きの斜面に立ち並ぶ社宅の横に、テニスコートがあった。戦に疲弊して手入れする人もなく草茫々のコートは、子供達の格好の遊び場だった。バッタを戦闘機に見立てて戦争ごっこをしたり、アシナガバチの巣を叩き落したり、腕白たちの秘密基地でもあった。
 街を取り巻く峰々には高射砲陣地が並び、戦時中も高空を偵察機がたまに飛ぶだけで、まるで戦とは無縁の平和な環境だった。しかし終戦と同時に、ロッキードやグラマンの編隊が低空で飛び回り、それまで内向して一見穏やかだった人種間の軋轢が一気に噴出し、街中から日の丸が消えて韓国旗が翻り、外出禁止となった。日用品は会社がトラックで届けてくる。やがて父も復員、慌しく引揚げを待つことになる。散弾銃の弾丸を自製し、狩猟道楽出来るほどに豊かだった。「雉のすき焼きや、山鳩のすり身の離乳食を食べさせた」と母はよく言っていたが、記憶にはない。引揚げに持ち帰ることが出来るのは、身体で持てるだけの荷物と、現金は一人千円だけ。貴金属類は没収されるという話だった。
 それまで築いた全ての財産を残し、会社が差し向けたトラックで京城駅に運ばれ、有蓋貨車に詰め込まれて釜山に向かった。途中何度も山の中で列車が停まる。その度になけなしの現金を集めて機関士に届けながら、ようやく釜山駅に着いた時には、現金は殆ど残っていなかったという。駅から港に向かう道の両側は、捨てられた荷物が山をなしていた。両手一杯荷物を持った親達は、子供を声で誘導しながら引揚げ船までの道を歩いた。気力で持ってきた重たい荷物が、引き上げ船を見た途端に力が抜けて持てなくなったのだという。(多くの情景は母から聞かされたものだが、子供心には定かではなく、母の記憶も長い歳月で少しずつ事実とは変容しているかもしれない。)
 残留浮遊機雷のため、行き先は不明と言われて離岸した。翌朝、遠くに箱崎八幡の大鳥居が見えたとき、安堵のあまり涙が出たと母は言う。
 牛車で箱崎八幡横の母に実家に辿りついた。三世代、3家族14人がせまい長屋で暮らす、戦後の耐乏生活の始まりである。飽食の今の人たちには想像もつかない、油臭い塩鯨、野草を入れた汁、芋づるの水団、筋だらけの痩せたサツマイモの弁当、長屋の脇にあった椋の巨木の実の甘み……豊かさへの飽くなき希求の原点がここにある。これが軍の傲慢な暴走に翻弄された日本の敗戦の現実である。

 相次ぐ自衛隊の不祥事、その報道の中に見え隠れする軍の傲慢、旧日本軍の暴虐な記憶は、今の為政者達にとってどれほどの重みを持っているのだろう。船酔いの原体験が今も残る引揚げ船を思い出しながら、恐ろしい「亡びの笛」を聴く昨今である。満開の梅の季節、この穏やかな日々にも、地球温暖化の急加速、血税を費やして膨張し続ける軍事力、民の痛みを忘れてひたすら利権に走る政治屋などの、暗く重い影が容赦なくのしかかってくる。

 夜来の雨が晴れて、陽射しが戻った。
                (2008年2月:写真:満開の紅梅)

訃…引き継がれるもの

2008年02月14日 | 全体

 いつもの山道を歩く。心を空にして黙々と歩く。冬枯れの木立の陰に、種子を飛ばしたあとのウバユリの実が幾本も立ち竦んでいた。梢の先で木枯らしが泣くこの季節、夕暮れ間近の淡い冬日は温もりを失い、足元からしんとした冷気が這い登ってくる。

 ひたひたと寒気団が寄せてくるそんな夜、訃報が届いた。区長を務めた6年間、民生児童委員として地域の福祉をサポートしてくれたMさんが、74歳の若さで彼岸に旅立った。9年続けた民生児童委員の終盤は、病に臥すご主人の看護・看病に献身する傍ら、お年寄りと子供達への心配りに尽くす日々だった。公務を全うし、やっとこれから自分の時間とご主人の看護に専念出来るようになったというのに、いつの間にか病魔が容赦なく身体を蚕食し、病に臥すご主人に思いを残しながら、退任して僅か2ヶ月余りで慌しく逝ってしまった。25年前、一朝の病で呆気なく亡くなった父がやはり74歳だった。四分の一世紀前でさえ早過ぎる永眠だったが、世界一の長寿を誇るこの時代の74歳は余りにも早い。
 木枯らしの中の通夜に、町内のたくさんのお年寄りが、半ば呆然として斎場に集った。その中に、お母さんと連れ立った5人の子供達の姿があった。「夏休み平成おもしろ塾」の卒業生と塾生だった。

 区長2年目、「ゆとり教育」という不可解な政策で子供達が土曜全休となったとき、子供達の思い出作りに、何か学校教育で学べないものを地域で提供出来ないかと、家内とふたりで考えた。辿りついた切り口が、「経験豊かな町内のお年寄りの智恵を借りよう」というものだった。呼びかけにふたつ返事で協力が寄せられた。夏休みの3日間、小学生が9時に公民館に集まる。夏休みの宿題自習30分の後、お茶の先生方によって屏風やお茶花で茶室に仕立てられた和室に移って、お茶のお点前の体験が1時間。それぞれお運びとお客様に分かれて、簡単な作法を学ぶ。腕白たちが殊勝に畏まりながら正座して、懐紙に載ったお茶菓子を食べたあと、子供の口には多分苦いだけのお抹茶を味わっている姿は微笑ましく、見守るお母さん達の笑顔も優しかった。そのあと、女の子は大正琴を習い、男の子は将棋や五目並べを楽しむ。昨年は、割り箸鉄砲を作る遊びもあった。最後は公民館の大広間に新聞紙を敷いて、存分に大きな文字のお習字を習う。最終日には、持ち寄った道端の草花を花瓶や空き瓶に気ままに生ける体験もあるし、先生方に世話人やお母さん達も交えてのお食事会でお開きとなる。
 塾長の私が、毎年昆虫についての特別授業をやるのも恒例になった。塾の最中に、公民館の前の畑で脱皮したばかりのカマキリを見付け、みんなで観察するという巧まざる偶然の野外授業もあった。そして、ここで習った大正琴を、秋の敬老会で子供達が十数台のお琴を並べて披露するのが恒例になって、6年を重ねた。貸していただいたお年寄りの智恵への、ささやかな恩返しである。その大正琴を教えてくれた先生の一人が、25年のキャリアを持つMさんだった。
 通夜の席に涙ぐみながら参列した子供達は、みんなこの「夏休み平成おもしろ塾」の塾生達だった。こうして、Mさんの智恵は、子供達の思い出の中に継承されていった。

 翌日、小雪舞う厳しい寒さの中を、多くの人たちの合掌に見守られながら、Mさんは西方浄土に旅立っていった。夜半、木枯らしが雲を払った。西に傾く細い三日月を浮かべながら、美しい星空が広がった。中天やや南にオリオン座のベテルギウスと、その下に一段と光り輝く大犬座のシリウス、左斜め上に子犬座のプロキオン……凍て付く夜気の中に、見事な冬空の大三角が君臨していた。
 ……名のみの春は、まだまだ遠い。
         (2008年2月:写真:種子を飛ばしたウバユリの実)

龍宮城からの招待状

2007年12月25日 | 全体

Dear お父さん、お母さん
 元気ですか?日本の生活には慣れましたか?アメリカ生活が長かった分、時間がかかったのでは……?本当にお世話になりました。ありがとうございました。
 今年は色々あり、大変な1年でした。来年は良い年でありますように、来年も頑張ります。 

PS.
 ライセンスが届きました。カードの裏にサインして下さい。本当におめでとうございます。
                                  マサ
Dear お父さん、お母さん
 元気ですか?今頃は雪も降ってたりするのかな。雪は恋しいけど、寒いのはな~…。
 さて、お待ちかねのカードが来ました!!
おめでとう!これを持って、次は沖縄だね!Masaくんもその気になってるので、今度こそ4人そろっての旅行が実現するといいよね。
                                  知子

 クリスマス・イブの夕べ、待望のスキューバ・ダイバーのライセンス・カードが届いた。サポートしてくれた娘夫婦が、自分のことのように喜んでくれているのが嬉しい。アメリカで、家族中心の暖かく静かなクリスマスを体験して以来、クリスチャンでもないのに商業主義に踊らされる騒がしい日本のクリスマスにうんざりして、「我が家は浄土宗だ!」などと粋がって無視していたクリスマス・イブ。
 思いがけずに町内の子供達から届いた手作りのクリスマス・カードと、サンタさん列車の器に盛られたプリン・ケーキのプレゼントに続いて、二人からの郵便が届いた。メキシコの海の底で演出されたギンガメアジの大群との遭遇に続く、巧まざる偶然のサプライズである。
 過日、70歳以上の高齢者を公民館に招き、子供達と早めのクリスマス会を開いた。その席にサンタさんに扮した私が、予告無しに登場…ささやかなアメリカ土産を子供達に、そして町内のボランティア・グループのひまわりサンたちが作った来年の十二支のねずみをお客様に配った。「メリー・クリスマス!遠いサンタの国からやって来ました。」と挨拶したけれども、あっけなく正体がばれてしまった。その楽しい演出のお返しが、可愛いカードになって届いたのだった。
 
 ロス・カボスの朝のビーチで、産卵に訪れた海亀が激しい波に煽られて仰向けになって足掻いているのを、娘がずぶ濡れになるのも厭わず、海にはいって助けた。
 「龍宮城から、お礼のお迎えが来るよ!」と笑っていたけれども、どうやら龍宮城へのお招きは父親の方に来たようだ。乙姫様や魚たちに歓待を受けて時を忘れ、帰って玉手箱を開けても私は既に白髪の老人。40年間、剛毛の七三分けに苦労していたのを、退職後、沖縄・座間味のシュノーケリングにハマって以来、バッサリと短くした。一見GI刈り(ジイサン刈り?)の白髪には、もう玉手箱なんか怖くない。
 無為有閑の日々にもかかわらず、何故か気ぜわしく師走が過ぎていく。
        (2007年12月:写真:ライセンス・カード)

再び八朔考

2006年09月20日 | 全体

 瞬間最大風速49メートルの猛威を揮って、台風13号は福岡の西をかすめて玄界灘に去った。久々に家鳴り震動する宵の恐怖を味わった。延岡では竜巻が発生して特急列車を転覆させ、福岡でも大濠公園の樹木を100本以上吹き倒した。我が町は幸い大きな被害もなく、台風が去ったあとの暑くなく寒くない曇り空の中で、敬老会も無事に終わった。
 この風で、町内中が吹き溜まった落ち葉や折れた枝で埋もれた。風向きのせいか、角地の我が家はご近所の分まで落ち葉が吹き溜まり、我が家にないはずの葉が道端を埋めた。横浜に住む上の娘の、某アーティスト(特に名を秘す)の追っかけ仲間であるT.Kさんに家内がその旨メールを送ったところ、佐伯の彼女からこんな戯れ歌が届いた。
    ♪ 風流好みの 主様故に
      風に吹き寄す 病葉朽葉
      いつか積もりて 山となりゃ
      冬のほむらで 思いの供養
      古希の声まで 燃やしゃんせ ♪
 「三味線で歌ってやってください(笑)」と結んである。愉快な才人である。

 掃き寄せた落ち葉の中に青い八朔が6つも混じっていた。世界中で300種を超えるという柑橘類の中で私の一番の好物であり、以前書いたように何年も待ち続けてようやく実を着けるようになって4年目である。昨年より少なめの実を毎日数えながら成長を大事に見守っていたのに、この落果は大きい。無念の思いで青い実を割ってみた。未熟な色合いの中に並ぶ種子を数えながら、カボスの代わりに秋刀魚に添えてみようか、などと考える。よその甚大な被害を省みずに我が食欲を思い悩むなど、歳をとって人間が小さくなったなと苦笑する。
 新聞に「八朔の節句」という記事を見出したのはこの日の朝である。福岡県芦屋町に江戸時代から続く「筑前芦屋だごびーなとわら馬まつり」が始まるという。旧暦の8月1日(八朔)に藁の馬人形や米粉で作っただご(団子)雛を飾って、1年以内に生まれた長男や長女の健やかな成長を祈る習わしで、男の子なら馬の人形、女の子なら団子雛を飾るという。次男の私としては「何で長男だけ?」と云いたいところだが、やめておこう。また年寄りの僻みと言われそうだから…。
 300年以上続く無形文化財も、少子高齢化で人形の作り手や節句を祝う家庭が減少している。町内の人以外にもこの節句を知ってもらうために祭りの開催に乗り出した。芦屋町はこのところ行政がやたら進めて来た町村合併が破綻し、財政難で夏の花火大会も砂浜の美術展も開催できなくなった。町の活性化を目指して商店主らで作る実行委員会が立ち上がったという。闇雲に合併させたがる行政の意図はいまひとつ見えないが、小さな町にはそれなりの悩みがあるのだろう。合併で得するのはいったい誰なんだろう?
 疑問符をよそに、台風一過、一点の雲もない秋晴れである。
         (2006年9月:写真:落ちた八朔)
 

初めのつぶやき

2005年01月04日 | 全体
 それは一つの衝動かもしれない。突然何かに呟いてみたくなることがある。誰に読ませたいというものではない。家族だけに、或いは限られた身近な人に読ませることはあっても、公に広く発表しようという気はさらさらない衝動だった。小エッセイと云えば聞こえがいいが、たまたま機会あってちょっとした新聞や小冊子に載せることはあっても、決して積極的に望んだものではなかった。
 書き溜めていたものを、先年三つのテーマに括ってワープロで叩き、2セットの作品集を自作してみた。会社人生を終えて悠々自適の日々に、なんとなく自分史に代えて纏め上げたものだったが、これが一つの弾みとなって、時たまその衝動の赴くままにパソコンの原稿用紙に向かうことが多くなった。
 「季節の便り」という息の長いテーマがある。それは時として山野草であり、昆虫であり、旅であり、家族であり、いずれも掌篇ともいうべき短いエッセイの連なりである。それに、もう一つの趣味の自分で撮った写真を添えて小さな世界を切り取ってみる……つぶやきの中に、ささやかな自分だけの満足があった。
「没後、追悼出版してあげようか」という娘の戯れ言に苦笑いしながら、満更でもない夜が今日も更けていく。
  (2005年1月 :写真:ヨシュアツリー・カリフォルニア)