蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

10年の軌跡

2011年07月26日 | 季節の便り・虫篇

 蝉時雨というには、あまりにも豪快で烈しく、もう豪雨と譬えたいほどのセミの大合唱である。未明から夜明け、黄昏時から闇が満ちるまで「カナカナカナカナ♪」と鳴くヒグラシには、まだ涼風と遠い秋の気配を垣間見るような爽やかさがあるが、「ワ~シワシワシワシ!」「ジリジリジリジリ!」と鳴きたてるクマゼミとアブラゼミの声は、油照りの苛烈な日差しを一層加熱するような激しさである。
 夕飯後の8時過ぎ、期するところあって懐中電灯とカメラを抱えて庭に降りた。予想通り八朔の枝先に幾つもしがみ付いていたのは、地面から這い出し、よじ登ったばかりのクマゼミの幼虫だった。今夜こそ、悲願の羽化全過程の連続写真を撮ろうと、足位置を決めた。三脚が立つ高さではない。立って丁度目線の高さの枝にカメラのアングルを定め、長時間立ち続ける足位置を地面にマーキングする。殺虫剤を撒いたら繊細な羽化の瞬間に影響があるかもしれないから、薮蚊に苛まれるのは覚悟の上である。ジーンズで脚はカバーしているが、むき出しの腕は諦めて薮蚊に進呈することにしよう。
 しっかりと葉に爪を立てて動きを止めてからおよそ20分、幼虫の背中に縦に割れ目が入り、小さくたたまれた緑の羽を透かしながら、ゆっくりと伸び上がるように殻からせり出てくる。羽化の瞬間である。少しのけ反るように上半身が出る。静かに6本の脚が抜け出てくる。下半身だけ殻に残し、体をぐっとそらして、静止してしばらく時が止まった。
 やがて体液が少しずつ注がれ、小さな爪のような羽根が貝殻のように膨れてくる。たたまれていた羽が少し開きかかった頃、反らしていた身体を持ち上げながら、一気に下半身を抜き出して、前肢でしっかりと殻に摑まった。
 それからの羽の伸展は早かった。肉眼で見える速さで透明な羽が広がり、鮮やかな薄緑色の翅脈が伸びていった。枝に足場を固めて静止してから、およそ2時間の誕生のドラマである。時を忘れ、苛むやぶ蚊の痒みに耐え、立ち続ける足腰の痛みを我慢しながら、ひたすらファインダーを覗き続けた。新たな命の誕生の全てが、200枚ほどの連続写真となってカメラに納まった。悲願達成の夜だった。この夜、我が家の庭で5匹の誕生があった。7月終わり近い今、その全てがクマゼミだった。途中、二人の小学生の娘を連れて愛犬の散歩をしていた子供会のお母さんのKさんを呼び止めて、子ども達に命誕生の瞬間を見せた。

 この週末、10年目の「夏休み平成おもしろ塾」が開講する。毎回開講式で行なう「塾長先生の昆虫講座」。一人でも虫好きを育てたいという願いから、欠かすことなく続けてきた。その願いは、毎年少しずつ叶えられている。
 今年のテーマは「虫の顔を見よう」。この春手に入れた海野和男さんの「昆虫顔面図鑑」と、自ら開発した世界でただひとつの「虫の目カメラ」を駆使した栗林慧さんの素晴らしい写真集「栗林慧全仕事」、学生時代憧れの九州大学白水隆さんの「原色日本蝶類幼虫大図鑑」(昭和35年に買った私の宝物)、この日の為に撮り溜めた私の昆虫写真……テキストに不足はない。毎年楽しみにしてくれている子ども達には、先日初めて見たルリボシカミキリと美しいタマムシの写真をお土産に渡すことにしよう。
  夕方、子供育成会会長のIさんが、塾の出席者名簿を持ってきてくれた。1年生から6年生まで、19名の子ども達が今年の私の塾生である。Iさんの6年生と3年生の子供の夏休みの課題のアイデア交換、子育てのこと、親離れ子離れのことなど話が弾んだ。

10年の軌跡を残す「夏休み平成おもしろ塾」は、ご町内のお年寄りが先生となって、お点前、お習字、生け花を教えてくださる。最終日には、お父さん達も参加する初めての飯盒炊爨を組み込んだ。今では兵式飯盒もネットでしか手にはいらないが、児童公園に竈を組んで、飯盒でお米を計り、洗い、薪で炊き上げるところまで体験する。お焦げやお粥や生煮えの夏野菜カレーライスも又経験のうち、きっと楽しい思い出作りが出来ることだろう。
 
 日が昇るころ、翅脈に褐色の色を染めてすっかり成虫の貫禄を身にまとったクマゼミたちは、それぞれ伴侶を求めて飛び立っていった。これから、1週間から10日の短い命を生きる。今日も33度を越す炎天下は、豪快なセミ達の大合唱である。
              (2011年7月:写真:クマゼミ誕生のひとコマ)

    【連続写真を、フォトアルバムでお楽しみ下さい。】

初めてのレコード

2011年07月23日 | つれづれに

 久し振りのコンサートだった。ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」とベートーベンの「運命」に加え、父が好きだったラロの「スペイン交響曲」がプログラムにあったことがきっかけだった。命日の丁度1週間後である。楽しみにしていたマリア・ジョアオ・ピリスのピアノコンサートが、大震災と原発事故の騒擾の中で中止となって落胆していただけに、待ち望んでいたNHK交響楽団だった。
 「最高の演奏を聴きながら、ひそかにうたた寝する…そんな贅沢もいいよね」と家内と軽口を叩きながら座った。しかし、目が離せなくなった。雑念が飛んだ。ベルリン・フィルやロイヤル・コンセルトヘボウなど多くの有名オーケストラを指揮した経験を持つ女性指揮者スザンナ・マルッキの素晴らしさ!細身の引き締まった身体で、指揮棒を持たずに指と掌で踊るように音を引き出し、手繰り寄せ、紡ぎ、歌い上げていく。その小気味よいまでの歯切れのよさは圧巻だった。加えて、日本人二人目のベルリン・フィル第1コンサートマスターをつとめる樫本大進のヴァイオリンがいい。久々に陶酔し切ったコンサートだった。

 中学3年の時、我が家に始めての電蓄が来た。音楽の時間の歌唱テストで音程を外し、教師から「少しクラシックを聞いて耳を育てなさい」と叱られた直後だった。戦後9年目、まだステレオはもとより、電蓄もレコードも殆ど家庭にない時代である。何を聴いていいかも分からず、父に好きな曲を訊ねたときに返ってきた答えが「スペイン交響曲」だった。我が家で初めて買ったレコードである。
  以来、憑かれたようにクラシックを聴きあさった。交響曲からはいり、ピアノ協奏曲に走り、ヴァイオリン曲に移って、再びピアノ曲に戻り、室内楽にのめりこむ。高校から大学に掛けて、最もクラシックに浸りこんだ時期である。月並みだが、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は座右となった。高校3年、文芸部の部室の夕暮れに独りメンデルスゾーンを聴きながら、訳もなく涙を流したこともあった。多感な思春期は、クラシック音楽と、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌなどのフランス詩と共にあった。

 「スペイン交響曲」の旋律に包み込まれながら、陶酔の中で父の幻を見ていた。家庭では無口で、若い頃の父とはゆっくり話した記憶がない。リタイアして後、テレビの前で水戸黄門を見ている姿や、庭いじりしている後ろ姿の方が鮮明に蘇る。
  前の日まで庭いじりしていたのに、早朝老人性喘息の発作が出て救急車を呼んだ。その日、新会社設立の為に組合との協議会を控えており、家内と母に託して出社した。午後、意識を失ったという報せがあり、組合の委員長の了解を得て病院に走った。しかし、そのまま意識が戻ることなく、日が変って間もなく父は彼岸に渡った。朝、救急車に乗せるとき、発作が苦しくて横になれず、蹲るように担架に座ったまま「きつい」とひと言漏らしたのが、私が聴いた父の最後の言葉となった。家族に看病の負担を掛けることもなく、あっけなく、そして潔い74歳の旅立ちではあったが、3ヶ月ほどは実感が湧かず、庭先からいつものように上がってくる父の姿を無意識に探していた。梅雨明けの豪雨が降りしきる中を、多くの人たちに送られて父は仏となった。

 今年は珍しい虫達との出会いが多い。コンサートの翌日が母の命日、そして次の日に気功で身体と心を解きほぐして公民館を出た時、玄関先に一匹のタマムシが舞い降りた。本当に数十年ぶりの再会だった。こんな綺麗な生き物を限りなく集め、その羽で「玉虫の厨子」を作った人間。そんな文化財なんて要らない!と、ひとり嘯きながら、しばらくカメラの前で遊ばせて空に帰した。そういえば父は、ゴマダラカミキリを見たら「庭木を駄目にする」と言って、容赦なく殺していた。それさえも、今は少しほろ苦い遠い日の記憶である。
                (2011年7月:写真:珍客タマムシ)

かげろう考

2011年07月17日 | 季節の便り・虫篇

 山宿の朝の洗面所に、一匹のカゲロウがとまっていた。羽に触れても飛び立つこともなく、時折尾をもたげては、触角を震わせる。残り少ない命なのだろう、一日限りの儚い営みである。
 「かげろう」…様々な背中を見せる言葉である。脳まで沸騰しそうな暑さに倦んで、ネットで遊んでみた。日本人としては、現れては消える捉えどころのない儚さを、先ず書かなければなるまい。

  なほものはかなきを思へば あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし
                      (藤原道綱の母「蜻蛉日記」)
  
  東の野にかぎろひの立つ見へて かへり見すれば月かたぶきぬ
                      (柿本人麻呂「万葉集」)

  今さらに雪降らめやもかぎろひの 燃ゆる春へとなりにしものを
                      (詠人不詳「万葉集」)

 最初に翅を獲得した昆虫のひとつである蜉蝣は、古くは古生代石炭紀の化石記録さえある。学名の由来となったギリシャ語でephemera、その原義はepi hemeraーーone day、つまり「一日」を意味する。幼虫期を綺麗な水の中で半年から1年過ごすから、昆虫としては決して短命ではないのだが、羽化して1日の命はあまりにも短く儚い。だからドイツ語でもEintags fliegen「一日飛び虫」という。漢字の「蜉蝣」は頼りなげに浮遊するさまに由来するともいわれる。
 羽化する時は凄まじく、川面で大量発生した蜉蝣が橋を埋め尽くし、スリップ事故を多発した記事を読んだ記憶があるが、定かではない。

 カゲロウと名付いていても分類的には縁遠い虫に、ウスバカゲロウ(薄羽蜉蝣)とクサカゲロウ(草蜉蝣、臭蜉蝣)がある。
 ウスバカゲロウの幼虫アリジゴク(蟻地獄)には、誰にも幼い頃の思い出があるだろう。縁の下や抉れた土手の木の根の間など、雨の掛らないさらさらした砂地に擂り鉢状の穴を穿ち、迷い込んだ蟻を襲う。砂ごと掘り採って来て箱に入れ、螺旋状にあとすざりしながら穴を穿つのを見守ったり、蟻を捕まえて来て落とし、逃げようと傾斜を這い上がる蟻を大きな顎で砂を弾き飛ばして引き摺り落とし、大顎に咥えこむところを見て遊んだ。 「薄馬鹿下郎」と言って、仲間とふざけ合ったこともある。
 小学生の頃、白熱電球のアルミの笠に細長い柄をつけた小さな卵が幾つも下がっていた。クサカゲロウの卵である。この卵塊が俗に言う「優曇華(うどんげ)の花」…法華経にある、3000年に一度如来が来ると共に咲くといわれる伝説上の花である。

 そして、もうひとつのかげろう「陽炎」。草いきれと照り返す炎天下の道路の揺らぎ、熱せられた大気で光が屈折する気象現象でしかないのだが、大規模なものになると、砂漠の熱砂に浮かび上がる蜃気楼となる。
 真夏には50度を超すカリフォルニア州デスバレーで迎えた正月元旦、周囲の山々は白雪を頂くのに、砂丘を揺るがせる大掛かりな陽炎を見た。ネバダ州ラスベガスに向かうモハーベ砂漠、地平線まで続く一直線のハイウエーの彼方に、揺らぎ立つ陽炎が消えることはなかった。

 これを書いてる今、太宰府は35.2度の炎熱。南大東島東南東370キロにある巨大台風が、風速50メートルの暴風を伴って、じわじわと九州に迫りつつある。今年ばかりは東北の被災地を避けて欲しいと、切実に祈る思いがある。大自然が牙を剥くとき、人間も所詮カゲロウの微力に均しいのかもしれない。少し謙虚にさせてくれた一匹のカゲロウに感謝!
 この日、門柱の傍らに立つアメリカハナミズキの梢で、遅れていたクマゼミが豪快に初鳴きを響かせ、八朔と南天の葉末に空蝉が5つ並んだ。
               (2011年7月:写真:カゲロウ)

夏、初めて尽くし

2011年07月15日 | 季節の便り・虫篇

 7月3日、ヒグラシの初鳴きを薄明に聴く。7日、ナツアカネを初見。12日、ニイニイゼミ初鳴き。14日、モンキアゲハが木立を掠めて飛ぶ。15日、この夏初めてのセミの抜け殻を庭木に発見!珍しくアオスカシバが庭を訪れ、スミレのプランターに、待っていたツマグロヒョウモンが産卵にやって来た。木陰をヒメウラナミジャノメが舞う。蹲の陰から、まだ幼いカマキリが覗く。八朔の葉裏で、クロアゲハも産卵に余念がない。博物館ボランティアで自記温湿度計の記録紙交換を終えて帰る夕暮れ時、博物館の硝子外壁の下で、数十年ぶりにノコギリカミキリを見た。
 呆気なく早い梅雨明けの後、殴り込むように熱暑の夏が来た。俄かに虫達の動きが活発になる時節である。今年も、縁側の網戸にツノゼミの訪れがあった。

 右足甲にヒビを入れてしまった家内のリハビリを兼ねて、温泉に走った。動きをいたわる為に、「露天風呂付き離れ和室・一日2組限定・豊後牛と地鶏の炭火焼プラン」というキャッチ・コピーに惹かれて、前日にネットで予約した。
 大分道を湯布院ICで降り、湯布院の町から左に折れ、由布岳を右に見ながら北に走り上っていく。九十九折れをしばらく走ると、思いがけず豊かな高原風景が広がった。塚原高原の一角「山荘・四季庵」…ナビが混乱して堂々巡りを繰り返すほど、やや分かりにくいところに、飛騨白川郷から移設した木造5階建て茅葺切妻の豪壮な合掌造りがあった。「築200年、間口10間1尺8寸、奥行6間1尺8寸」と看板に謳う。そこを母屋として、13室の離れが配置されていた。帳場(フロントといわない所がいい)で鍵をもらえば、もう案内も布団敷きも何もない、「あとは気ままにどうぞ」という、その無愛想さが、何とも心地よいサービスである。
 早速、露天風呂で出かけた。早めの到着だったから、今日も無人の独り占め。温度が冷たい泉源を沸かした掛け流し温泉だが、消毒の為に加えられた塩素がかすかに臭うのが少し気になる。しかし、湯船に浸れば眼前に由布岳北面がのしかかるように聳え立つ風情はなかなかなものだった。異常発生したのか、洗い場にコガネムシの死骸が散乱して、ちょっと興を冷ますが、これも山宿ならではのこと。そっと洗い流して湯に浸る頭上を、オニヤンマがクルリと反転して過ぎた。
 合掌造りの母屋の大広間で、炭火焼三昧。黄昏と共にヒグラシの合唱に包まれ、夜陰が迫るとホトトギスの声に代わった。料理の肉質にはやや不満が残ったが、今回は湯治が主目的だから良しとしよう。満腹感は充分過ぎるほどであり、デザートの手作り風の水羊羹と、クラッシュアイスを浮かせた抹茶が絶品だった。油っぽくなった口を爽やかに洗って、夕餉を終えた。籐を円錐形に編んだ中に納められた灯火が幻想的に連なり、部屋までの木道を導いてくれる。待っていたかのように、由布岳の左肩から幾つかの群雲を従えて満月が昇った。
 夜半、部屋の露天風呂を試す家内を残し、木道の灯りを辿って再び身を沈めた露天風呂。黒いシルエットとなった由布岳と眩しいほどの満月は、今宵一番のご馳走だった。この日、父の28回目の命日。その父が逝った歳まで、1年半となった。

 翌朝、高原の涼風に吹かれて三度目の露天風呂を満喫、和食のバイキングで朝食を摂り、リハビリの家内は四度目の温泉に浸る。11時のチェックアウトを済ませて虚無僧門を潜って宿を辞す時、門扉の柱に珍しいカミキリムシを見付けた!ルリボシカミキリ、多分、我が人生で初めての対面である。この夏に迎える初見の極みが此処にあった。

 湯布院からやまなみハイウエイを走り、長者原、牧の戸峠を越え、阿蘇外輪山のミルキーウエイから小国に下り、蕎麦街道の「吾亦紅」で夏限定の大根をたっぷり使った「すずしろ御膳」と「とろろ蕎麦」で遅い昼食を摂った。
 いつものように下城のお爺ちゃんの店でピーナッツとうずら豆を買い、ファームロードWAITAを一気に走り下る。帰り着いた下界は、今日も炎熱の真夏だった。
            (2011年7月:写真:ルリボシカミキリ)