蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

記憶と忘却

2022年01月29日 | つれづれに

 読書しながら、ふと使われた言葉の語源が知りたくなる--たまに、そんな作家に巡り合うと、読むことを忘れて辞書を引まくるくことになる。そんな言葉を幾つも集めて、例月の読書会で遊んだ。
 胡乱(うろん)? 正体の怪しく疑わしいこと。【語源】胡乱は室町時代に禅宗を通して日本に入った言葉で、「胡(う)」「乱(ろん)」ともに唐音である。 モンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族「匈奴(きょうど)」を「胡(えびす)」と言い、また胡 (えびす) が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。
 ぎこちない? 動作や話し方などが滑らかでない。【語源】「キ」牙や「コチ」骨の呉音に形容詞をつくる接尾語「ナシ」が付いた語で、「(ゴツゴツしていて)骨のようだ」という意味から「不作法だ」という意味になったと思われる。
 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)?とても慌てていること、または非常にうろたえること」【語源】《周章》も《狼狽》もあわてるという意味がある。《周章》の「周」は「歩き回ること」を意味する。一方、「周章」の「章」は、「目立つ」という意味がある。すなわち「周章」は「目立ちながら歩き回る」様子を表し、ここから「ひどく慌てふためくこと」という意味が生まれたとされる。《狼狽>は「予想外の出来事にどうしたらよいかわからず、取り乱す様子」を表す言葉。「狼狽」は伝説の動物にある。「狼」も「狽」もどちらも狼の一種の伝説の動物。狼は前足が長くて後ろ足が短い生き物で、それに対して狽は前足が短くて後ろ足が短く、この二つの動物は対で行動するとされる。二匹そろってやっと歩けるため、もし片一方が離れるとたちまちバランスを崩して倒れてしまう。このことから「狼狽」が「(うまくいかずに)慌てふためくこと」という意味となったといわれている。

 二(に)の足(あし)を踏む、 虎落笛(もがりぶえ)、畢竟(ひっきょう)、あたら (惜・可惜)、逼塞(ひっそく)と、辞書と首っ引きが続いて、それなりに楽しんだ。この歳になっても、新しい言葉を覚えるのは嬉しい。

 しかし、ふと思う。昔々に覚えたことは忘れていないのに、昨日のことが思い出せないことがあるのは何故だろう?テレビを観ていて、俳優や女優の名前がなかなか出てこないのは何故だろう?カミさんとの会話も、次第に「アレ、ソレ、、コレ」で通じ、主語のない会話になりつつあるのは何故だろう?―――答えはわかっている。そう、「加齢!!」医者の決め言葉も「お歳ですから――」そういわれると、それ以上返す言葉がない。

 子供の頃、叔母が落語の「寿限無」に負けない長い名前を教えてくれた。それが、70年以上経っても忘れないのだ。
 「てきてきのてきすろんぼうそうりんぼう、そらそうたかにゅうどう、ちゃわんちゃべすけすっけらこう、ぎちぎちのあけすけもけすけ、てびらかのぱらりすっぽんたんざえもん」
 意味不明のまま覚えてしまった。「平家物語」の書き出し、「三国志」の「出師の表」、「奥の細道」、「南総里見八犬伝」――中学生の頃まで、貪るように読み、覚えようとした。アオバアリガタハネカクシという虫の名前や、トリステアリルアミロフェニルトリメチルアンモニウムスルホメチラートという化学薬品の名前など、とにかく長いものを「覚えること」が楽しい時期だった。

 「思い出すとは忘るるか 思いださずや忘れねば」という閑吟集(16世紀初めに、世捨て人によって詠まれての歌謡集)の歌、多分中学校の担任から教えてもらったこの歌も忘れていない。「私のことを思い出すということは、今まで私のことを忘れていたということですか。忘れていないのならば思い出す必要はありません」という、ちょっと小理屈めいた歌だが、恋の歌の返しと思えば、それなりに楽しい。

 「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」昭和27年(1952年)から放送されたラジオドラマ・菊田一夫の「君の名は」の冒頭のナレーションである。銭湯を空にしたという伝説的なドラマだった。

 「リチャード・キンブル。職業・医師。正しかるべき正義も時として盲いることがある。 彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。 孤独と絶望の逃亡生活が始まる。 髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら・・・現在を、今夜を、そして明日を生きるために」1960年代に放送されたアメリカのテレビドラマ「逃亡者」の冒頭ナレーションである。

 別に思い出しても何ということはないのだが、昨日の晩飯を思い出そうとしていたら、こんな昔々の記憶の方が先に出てきてしまった。加齢、恐るべし‼(呵々!)そして、カミさんと私に「要支援」認定の通知が来た。加齢の重みが、ズシンと来た。

 燃え盛る燎原の火のごとく、感染のスピードを緩めないコロナに立ち向かうことさえ、忘れてしまいたい日々である。3回目のワクチンの通知が来た。早速ネットで予約し、カミさんは2月1日、副反応に対応出来るよう、私は日をずらして2月10日を押さえた。「ファイザー」→「ファイザー」→「モデルナ」の交互接種になるが、今は、とにかく早く3回目の接種を終えることを優先しようと決めた。

 何故だか、今年は姦しいヒヨドリに襲われない庭のマンリョウの実が、夕日を浴びて赤々と輝いていた。
                       (2022年1月:写真:マンリョウ)

他山の石

2022年01月18日 | 季節の便り・花篇

 何事もなく、一日が明けた。当然のことながら、今日も昨日の続きでしかなく、いつもの通り起き抜けのストレッチを終えて、まだ明けやらぬ早朝ウォーキングに出た。気温も、昨日より3度ほど高く5度、皮手袋を突き刺す冷気もない朝だった。西の空には、まん丸い有明の月が雲の群れに追われて山蔭に逃げようといていた。
 石穴稲荷に詣でたのは6時20分、北面したゆるい傾斜に並ぶこの戸建て団地は、石穴の杜から朝日が昇るのは、9時過ぎである。南に低い冬の日差しは、昼前から夕方まで隣の2階建てのアパートに遮られ、我が家の庭は日陰になってしまう。洗濯物の乾きも悪く、一日晴天でも最後は部屋干しで仕上げることになる。

 83歳の誕生日を迎えた。いつの頃からだろう?親の年齢を超えることが、最後の親孝行と思い込むようになった。
 父は、昭和58年(1983年)7月14日に74歳で逝った。前日まで元気に庭いじりをしていたのに、老人性喘息で呼吸に基礎疾患を抱えていた父は、朝になって呼吸困難を訴え、明け方に救急車を呼んだ。その後、意識は戻らないものの、小康状態が続き、私は新会社設立を前に、組合幹部との協議を重ねるために出社した。昼過ぎに急変の知らせを受け、組合長に断って病院に駆けつけた。そのまま意識不明が続いたが、なんとか夜は越せそうだという医師の話を信じ、カミさんだけを残して帰宅した。再び危篤の知らせが届いたのは、帰り着いた直後のことだった。死に目には会えずに、カミさんだけが看取った。
 その後9年気ままに生きた母は、平成4年(1992年)7月22日に82歳で彼岸に渡った。最後の3年ほどは認知が出て、カミさんが介護に明け暮れた。今のような介護保険も制度もない時代だったから、負担は全てカミさんに来た。沖縄出張中の朝、ホテルで母危篤の電話を受けた。予定を切り上げて飛行機に飛び乗ったが、熊本上空を降下していた時刻に、父と同じくカミさんだけに看取られて母は息を引き取った。
 昨年、私はその年に届き、今日ようやく母の歳を越えたことになる。これで子としての親孝行の責任を果たし、ある意味、これからが本当の「余生」かも知れない。

 穏やかで豊かな日々を楽しむはずの余生が、いまコロナに翻弄されている。コロナ籠りは心身を少しずつ蝕んでいく。動きが鈍くなり、加齢が足腰を弱めていく。最近、階段や風呂場で不安を感じるようになった。カミさんは夜中に足がつって悲鳴を上げて目覚めたり、しゃがみ込んだら何かに掴まらないと立ち上がるのが困難になった。
 私も、左足人工股関節置換手術や左肩腱板断裂手術で、左手で重いものを持つことを避けるようになった。追い打ちを掛けるように、右腕から肩背中の帯状疱疹後神経痛が3年以上改善せず、右手も頼りにならなくなった。
 娘が見かねて年末に帰省、包括支援センターに相談し、早速ケマ・ネージャーが事情聴取に来て、介護保険の「要支援者」の申請を勧められた。家内外8か所の手摺工事の見積もりに専門業者が派遣され、市役所に申請書を出しに行き、年明けに市の調査員が審査に訪れ――事態が急展開し始めた。
 余生は、ただ待っていて与えられるものではないことを実感した年末年始だった。

 春の使者・蝋梅が咲いたが、まだまだ春の訪れは遠い。花言葉、「慈しみ」「ゆかしさ」。スーパーのレジや駅などで、モンスターみたいに店員や駅員をいじめている年寄り(ジジイが多い!)を見るたびに、蝋梅の花言葉に恥じない余生を生きたいと切実に思う。もって、「他山の石」としよう!

                         (2022年1月:写真:蝋梅)