蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

居座る夏に

2021年08月29日 | つれづれに

 ツクツクボウシが庭で鳴きたてるようになると、もう夏が背中を見せ始める――筈だった。長い雨の日々がようやく過ぎると、また34度の猛暑の日々が帰ってきた。もう振り返らなくていい!何にもいいことがなかった今年の夏、もうお前の顔は見たくもない!!
 夏は好きな季節だった。傲然と座り込む夏を憎んだのは、おそらく最初で最後だろう。

 もう一度、20メートルの海底に浮遊し、色とりどりの熱帯魚に囲まれて癒されたい!――そう願っていた座間味島で、コロナ感染が拡大中というニュースを見た。ちゃんとした病院もない離島に拡がるコロナ禍、島人たちの不安をよそに、本土から、それも緊急事態宣言が出ているところから、心無い観光客が絶えないという。
 まだコロナが発症する前、観光客が溢れて公害化している頃、ダイビングに訪れた時に世話になった民宿の若主人が、「本音を言うと、これ以上観光客が来ないでほしい!」と漏らしていた。結婚を機に、「もう一般客の民宿は閉じる。長年来てくれたシニア・ダイバーだけの宿にしたい」と。
 カードが使えない島に持参した現金が不足し、宿代も後日送金という願いを快く承知してくれた上に、ひと晩娘と私を晩餐に招いてくれた。初めて「体験ダイビング」に誘ってくれたのが、当時民宿の若い二代目の彼だった。錨綱に縋って僅か数メートルの海底に沈み、小さなサンゴ礁に群れる熱帯魚の美しさに目を見張った。
 いつか必ずダイビングのライセンスを取って、この海に帰って来よう!――その夢を叶えたのは、69歳の11月末、カリフォルニア・サンタカナリア島の島陰だった。高校生たちに交じって30人乗りのダイビングボートに泊まり込み、ジャイアントケルプの林と真っ白な砂の海底を漂いながら、最後の訓練を受け、イルカの群れに見送られながら帰り着いたロングビーチの港で、ライセンス実技合格の内示を受けた。50問の筆記テストをクリアして、待望のライセンスを取得した。
 その後、メキシコの海で潜り、念願の座間味の海に帰ってきたのはその数年後だった。その間にサンゴ礁は荒れた。破壊されたサンゴで死屍累々の海の景色は衝撃だった。温暖化による白化と死滅、オニヒトデの異常発生による死滅、それに加えて、観光客が踏み荒らした。
 それでも、残った岩礁にサンゴが育ち、その合間に数々の熱帯魚が遊び、ウミウシが這う海底は美しかった。ボートからバックロールでエントリーし、耳抜きしながら深度を深め、海底近くで呼吸だけで深度を調整しながら、全身の力を抜いて漂う――シニアでもダイビングは身体に負荷がかからない。だから、80歳を超えても可能なのだ。背負ったボンベのエアが尽きるまでの1時間はあっという間だった。
 
 しかし、もう潜ることは叶わないだろう。いつ果てるとも知れないコロナとの闘いは、当分終息はしないだろう。ワクチンで共存しながら、自由に交流できるようになる前に、こちらの体力が喪われる。そして、いつか命脈も尽きる。
 全てに終わりがあることを実感させられた夏だった。夏を追っ払っても、その事実は消えない。
 
 寝坊して、いつもの早朝ウォーキングが1時間遅れた。目が覚めたら、カミさんは既に出掛けた後だった。坂道の途中で帰り道のカミさんとすれ違い、いつものコースを辿る。昇り始めた朝日を浴びて、百日紅が美しく映えた。小さな下弦の月が、花の向こうに白く残っていた。
 帰り着いて浴びたシャワー、最後に浴びる冷水がいつの間にか冷たくなり、居座る夏の衰えを肌に確かめた。
 
 風呂場の前の八朔の枝で、ツクツクボウシが鋭く鳴きたてる。そして日が落ちると、我が陋屋は湧き上がるような蟋蟀の鳴き声に包まれる。居座る夏が重い腰を持ち上げるのも、そう遠いことではない。
                  (2021年8月:写真:朝日に映える百日紅)

究極の愛

2021年08月23日 | 季節の便り・虫篇

 カネタタキが、秋の扉を「チンチン♪」と叩く。半月続いた熱中症警戒アラート、その後に待っていたのは、無限に続きそうなほどの雨の毎日だった。二つの気候災害(それは決して自然のものでなく、積み重ねてきた人間の奢りへの報いでもあった)を引っ提げて、コロナは感染拡大を続けている。果てしない戦いである。

 切ないまでに壮絶な、究極の愛の記事を見た。8月21日、西日本新聞朝刊のコラム「春秋」から引用させていただく。

 ――生涯同じ相手と暮らし、協力して子を育てる。沖縄の森の朽木に生息するリュウキュウゴキブリは「厳密な一夫一妻」だという。雌雄が出会うと、互いの羽を根元まで食べ合って飛べなくしてしまう▼そんな不思議な生態を発見したのは、九州大の大学院生の大崎遥花さん(27)――

 そうなのだ、沖縄のゴキブリは大型で、飛ぶし、鳴く。限りなく虫を愛でる元昆虫少年の私でも、さすがにゴキブリと藪蚊だけは、殺すことを躊躇わない。
 その仲間のクチキゴキブリの物語である。

 ――雌が雄を食い殺すカマキリなど、異性を一方的に食べる行動は知られていたが、両性で食い合うのは今のところ、この種だけ。「相手を飛べなくして別の相手に出会わせず、育児に参加させ、子をなるべく多く残している可能性がある」と大崎さん。

 ちょっと言葉を添えておこう。「雌が雄を食い殺すカマキリ」という表現、交尾中に背中に跨った雄をむしゃむしゃ食べる、実はこんな例はごく稀で、カマキリの目には動くものは全て餌、それがカマキリの雄だからと言って、容赦はしないだけのことである。食い殺すのではなく、餌として食べる純粋な行為でしかない。

 虫の世界に、切ない愛(?)の話はいろいろある。 

 最近、めっきり見掛けなくなったミノムシ、蓑蛾の幼虫なのだが、その雌は一生蓑から出て空を飛ぶことなく、フェロモンを撒いて雄を呼び寄せ、ミノの底から尾を差し込んだ雄と交尾し、全身卵に埋め尽くされて蓑の中で生涯を終える。

 カゲロウは成虫となって川面を舞う時間は数時間しかない。なぜなら、陽炎の口はほとんど機能しなくて、餌をとることが出来ないのだ。オスは川面などの上空で群飛し、この集団中にメスが来ると、長い前脚でメスを捉え、そのまま群から離れて交尾する。餌を取らず、雌は水中に産卵すると、ごく短い成虫期間を終える。カゲロウは、ただ交尾して種を残す為だけに誕生する。

 里山の放棄・開発などで個体数を激減させているギフチョウの雄は、交尾が終わると、特殊な粘液を分泌して雌の腹部の先に塗りつける習性がある。塗りつけられた粘液は固まって板状の交尾嚢になり、雌は2度とほかの雄と交尾することが出来ない。よく、人間の貞操帯に例えられる。

 春秋の最後は、大崎さんのこんな言葉で閉じられていた。
 ――「好きなものをつぶさに観察していれば、どんどん疑問が湧いてくる。知られていないこと、面白いことは世の中にまだたくさんある」――

 初物の無花果をいただいた。あるブログに、こんな記載があった。
 ――古代から、イチジクは様々な神話に出てきます。ギリシャ神話では、豊穣の女神デメテルが与えたとされています。元々ティターンという巨人族との戦いの中、大地の母神ガイアの子供達が育てたとか、古代ローマでは、バッカスが伝えたとか、ロムルスとレムスがイチジクの木に助けられたとか。
 ユダヤ神話(旧約聖書)では、エデンの園で食べてはならない禁断の果実とされていたのがイチジクとも言われ(りんごとも言われてますが)、罪を犯したアダムとイブが、陰部をイチジクの葉で覆ったとか、
 まぁ、なんだかよくわかりませんが、とにかく古代から西洋ではイチジクが神話の中でも人々の生活でも欠かせなかったのでしょう。
そんな古代の神話と歴史に思いを馳せながら食べるのが、イチジクの醍醐味です――

 フム、神話を噛み締めながら、イチジクの醍醐味を味わうことにしよう。
                      (2021年8月:写真:初物のイチジク)

晩夏に供える

2021年08月07日 | 季節の便り・虫篇

 35度、6度、7度が当たり前になり、熱中症警戒アラートが半月以上続く中を、青息吐息の日々が続く。
 8月7日立秋、早朝ウォーキングで願掛けに詣でた石穴稲荷の杜の奥から、ツクツクボウシの初鳴きが降ってきた。去年より5日早い。まだ6時前の仄暗いこの時間は、森林性のツクツクボウシにとってはヒグラシと共存の時である。日が昇る前のこの僅かな時間はヒグラシもまだ鳴いており、アブラゼミとクマゼミと4種のセミのせめぎ合いの時間となった。
 寒さに弱いツクツクボウシだが、温暖化とともに、北限は東北まで拡がったという。呼応するように、東北地方のアブラゼミが少なくなっている。虫の世界にも、それなりの事情があるらしい。
 歩き戻った玄関の石畳に、命を終えたアブラゼミが横たわっていた。生殖の務めを果たし、ひっそりと短い命を終えた。もうそんな季節である。せめて、元気に鳴いていた頃の写真をブログに添えて、この晩夏の気配に供えよう。

 凶暴な暑さが続く中で、今年は小さな我が家の庭に異常が相次ぐ。多いときは100匹を、少なくても60匹を超えていたセミの羽化が、僅か29匹で終わった。10株のパセリのプランターで、もう何匹も育っている筈のキアゲハが全く訪れない。スミレのプランターにも、ツマグロヒョウモンの幼虫が現れない。そして、八朔の実が殆ど落ちた。
 何かがおかしい。自然界のリズムが、どこかで変調を来たしている。

 コロナの感染拡大が加速し続けている。連日、過去最高!とテレビが叫ぶ。デパ地下やスーパーやコンビニでもクラスターが発生、日常生活圏にじわじわと魔手が伸びてきている。
 シラケ切ったオリンピックである。バッハは「日本人の10人中9人が見ているから、大成功!」と一人はしゃぎしているが、どのテレビのチャンネルもオリンピックしかやってないから、BGM代わりに流しているに過ぎない。参加することに意義があったオリンピックも、今は拝金主義(金権と金メダル至上主義)に毒されてしまった。それを政治的に利用している愚かな政治屋がいる。

 そんな中で、数少なく期待して夜中近くまで待っていた男子400メートルリレーで、日本チーム途中棄権という信じられない事態が起きた。日本の専売特許であった「アンダーハンドパス」でバトンが渡らなかったのだ!
 一走の多田のスタートは非常によかった。しかし、二走の山県の手にバトンが渡らなかった。唯一この種目に賭けていた桐生は、呆然と佇むだけだった。アンカーの小池は何が起きたかもわからないような顔をしていた。

 「アンダーハンドパス」には、私自身の深い思い入れがあった。中学時代に陸上競技にのめり込み、365日走り込みを重ねていた。短距離と走り幅跳びが、私の得意種目だった。福岡市大会の100メートル走で、某中学の宿敵に負けて12秒5で2位に終わった。(翌年、11秒6の中学新記録が出たくらいだから、福岡市の水準はそれほど高くはなかったが)
 当時、中学には400メートルリレーがなく、一人200メートルを走る800メートルリレーが花形種目だった。
 多分全国全てのリレーで、バトンを落とすリスクが少ない「オーバーハンドパス」(前の走者が右手の掌を上に向け、後ろの走者が左手でバトンを上から掌に置く。受けた手を返して左手に持ち替える)が当たり前だった。しかし、後ろの走者のスピードが落ちて、タイムロスしやすいというデメリットもあった。
 たまたま、3年前の昭和26年(1951年)に創刊された「陸上競技マガジン」で、初めて「アンダーハンドパス」というバトンタッチを知った。
 前の走者が手の平を下に向け、後ろの走者がバトンを下から手の中に叩き入れると、反射的に前の走者は握り込む。その手を捻ることなく走りながらバトンを左手に持ち替える……そんなイメージで練習を重ね、次々に5本の優勝旗を勝ち取ってきた。県下無敵のリレーチームだった。68年前、私は二走、まさしく山県の位置にいた。

 その「アンダーハンドパス」を初めて採用した日本チームが、5年前にリオのオリンピックで銀メダルを獲った。バトンを落とすリスクは増えるが、スピードを落とすことなくバトンパスができるから、タイムアップが期待される。今回のオリンピックに較べ、9秒台の選手が一人もいない中で勝ち取った銀メダル、その一因はこの「アンダーハンドパス」にあった。近年、中国でも取り入れられているという。
 しかし、攻めの姿勢は裏目に出た。4人にとっては、悪夢のような一瞬だっただろう。

 68年前の、グランドを駆け抜けたスパイクシューズの感触を思い出しながら、昨夜の眠りはなかなか訪れなかった。
 こうして、青春は遠い歴史の中に埋もれていく。
                    (2021年8月:写真:アブラゼミ)