蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

兄の生還

2006年12月31日 | つれづれに

 2006年が暮れる。大晦日の柔らかな冬日を浴びながら、ソシンロウバイが黄色い花をいっぱいに付けて、甘い香りを広げた。
 暮れも押し詰まった12月19日、広島に住む二つ上の兄が食道癌の手術を受けた。頑健な兄だった。子供の頃から風邪を引くことも稀で、商船大学を出て造船会社で働き、定年後は柔道2段の岩のような身体で80キロを越す体重を軽々と運びながら、好きな野鳥の姿を求めて歩き回っていた。兄一人妹一人の3人の中で、一番丈夫で長生きするだろうと誰もが認めていた兄だった。
 定期的な人間ドックで胃カメラを呑んだ。カメラを引上げる時、偶然食道にザラツキを認めた医師の勧めで、広島大学付属病院での精密検査を受けた。比較的初期の症状ではあったが紛れもなく食道癌であり、その広がりから転移を懸念して、内視鏡での掻き取りではなく、食道全摘手術と決まった。胸の脇を切って食道を切り取り、腹部を切って胃を引き上げ、鎖骨の下を切って喉につなぐという、聞くだけで青ざめるような6時間の手術が執刀された。
 「立ち会ってもどうしようもないから、来なくていいよ。」と笑う兄の言葉に従って、遠くからその成功を祈った。手術は成功し、二日間麻酔で眠らせて人工呼吸を続け、三日目に覚醒させる予定だった。その前日、兄嫁から電話が入った。「目覚める時、そばにいてやってほしい。自分ひとりでは心細いから……!」翌朝、家内を伴って新幹線に飛び乗った。
 6年間住んだ広島。懐かしさに浸る間もなく、大学病院に走り、11時からのICUでの家族面会に間に合わせた。目覚めるはずの兄は、まだ深い昏睡の中にあった。顔色を見る限りは、好きな酒を飲んで酔って寝ているときと変わらない。家内の沖縄での緊急手術を終えたときの死人のような顔色を想像していた私には、納得しがたいほどの兄の顔だった。しかし、10台以上の機械に囲まれ、15本以上の点滴や廃液の管、モニター用のコードに覆われた姿は、現代医学のすさまじいまでの進化に対する信頼感と、隙間なく管理される非情さとがない交ぜになった複雑な衝撃だった。
 夕刻の再面会。体内の水分の排出が滞り、覚醒は一日見送られた。明日は間違いなく…という看護師の言葉で、ホテルに戻った。
 翌日11時、三たび訪れた私たちを待っていたのは、「まだ浮腫みが取れない。今目覚めさせると本人が苦しむから、あと二日待ちます」という言葉だった。俄かに兆す不安を押し隠しながら、一旦太宰府に帰ることにした。帰りの新幹線は、言葉も途切れがちだった。
その夕刻、兄は片目を開き、苦しそうに声を上げながら暴れたという。鎮静剤の投与でやがて再び眠りについたが、たまたま付き添っていた兄嫁が半狂乱で電話をかけてきた。
 術後六日目、再び広島に駆けつけた。ICUで待っていたのは、綺麗に目覚めて目を開けている兄の姿だった!話しかければ応対し、苦しそうな様子もない。まだ譫妄の段階で、時折天井を指差して「あそこで小鳥が鳴いてる」などと言う。無意識に自分に一番心地よい世界に意識が逃避しているのだという。「お帰り!」と声を掛けながら、ふっと肩から力が抜けていった。翌日には譫妄も消え、好きな野鳥の観察ノートを取り出してみたり、夕方には早くも歩行練習が始まった。
 心配から安堵へと、慌しく振り回されながら師走が駆け抜けていった。今年は孫達も帰ってこない。日常の延長のような静かな迎春準備をささやかにしながら、冬晴れの空を見上げる。終わりよければ全てよし。蝋梅の香りに包まれて、2006年にさよならしよう。
 ……今夜は夜道を辿り、恒例の除夜の鐘を撞く。
        (2006年大晦日:写真:ソシンロウバイ)