好天に恵まれて新年が明けた。暖かな迎春だった。
小春日の日差しを浴びて、1匹のカマキリがエアコンの室外機の上をよろぼい歩いていた。大晦日に見かけた同じカマキリである。この季節に生きているのが奇跡である。もう年を越すことはないだろうと、少し哀しい気持ちで、陽だまりの中に休ませておいた。
「振り返れば、曲がりくねった長い道…せめてこれからは、平坦で真っ直ぐな道に、残り少なくなった一里塚を立てていきたいと思います」
春を寿ぐ賀状に、こう書いた。書いた時点では、こんな帯状疱疹の痛みなど予想するべくもなく、痛みに耐えながら形ばかりのお節に箸をつけた。痛みを増幅するから、お屠蘇で祝うことも出来ない。
三ヶ日が過ぎる頃から、発疹が潰れ始めた。そして、右胸右腕の疼痛がひどくなってきた。お正月休みが明けるのを待って、発症に気付いてくれた整形外科に駆け込んだ。
「帯状疱疹のウイルスは退治出来ました。これからは皮膚科の領域です」と、近所の皮膚科に紹介状を書いてくれた。さっそく、翌日、開院の30分前に駆け付けた。
塗り薬を塗り、腕と背中にそれぞれ4分間電気を当てて温める。それからは痛みとの闘いだった。神経ブロック剤と痛み止め、2種類の量を加減しながら、ひたすら痛みに耐える。副作用で終日トロトロと眠気が消えない。神経叢がある右胸の鎖骨の下辺りと首筋と上腕部の内側に、断続的にズキーンズキーンと痛みが走る。右腕が痛怠く重い。箸の上げ下ろし、歯磨き、髭剃りに難儀し、キーボードを叩くと、肩から背中に痛みが走る。文字を書くと、手が震えてのたくる。(この「ブログ初め」も、時折呻きながらキーボードを叩いている。)
痛みに呻吟しながら、カミさんの誕生日が過ぎ、私の傘寿の誕生日が過ぎた。祝うこともなく、初詣もないままに、ひたすら痛みの軽減を待ち続けた。
発症から4週間過ぎた。痛みは軽減することなく、むしろひどくなっていった。間欠的だった痛みが、今では24時間疼痛が消えることがない。お風呂で温めるひと時だけが唯一の救いだった。夜中も何度も痛みに目が覚め、呻きながら耐える日々だった。
医師が言う。「帯状疱疹の痛みは、通常3週間で消えます。4週間過ぎてもこれほど痛むのは、明らかに帯状疱疹による神経痛の段階に入ったと思われます。来週、もう1種類の薬を試すか、またはペインクリニックを紹介して、神経ブロックの注射に切り替えるか決めましょう。」
神経ブロックの注射は、専門の麻酔医にしか出来ない。幸い、隣り町に評判のいいペインクリニックがあり、そこを紹介するという。
「長い治療になります。数か月、場合によっては数年単位で痛みが残ることがあります」
数年単位?勘弁してくれ。痛みが出て発症に気付くまでに、5日過ぎていた。聞いていた帯状疱疹の痛みは、チクチク虫に刺されているような痛みだった…しかし、私の痛みは全く違っていた。丁度ひどく寝違えたみたいな痛みで、帯状疱疹など考えもしなかった。当然整形外科の分野と躊躇いなく思い、また整形外科医も頸椎を疑った。だから、治療開始が5日遅れた。正月休み2日前、別の整形外科医が気付いてくれなかったら、悲惨なことになっていただろう。大晦日の夜から三ヶ日の間、太宰府天満宮周辺は、初詣の大渋滞で救急車も走るのを難儀する事態になる。
医師が重ねて言う。「年齢ですね。」とどめのひと言だった。高齢者の帯状疱疹は、事後の神経痛になりやすいという。60歳過ぎると、2人に一人が発症するという情報もある。
「こんなことなら、10年前に発症しておけばよかった」などと、埒もない歯ぎしりをしながら、今日も痛みに耐え、ボーと生きている。チコちゃんに叱られても、ボーと生きているしかないのだ。「平坦な道」は、今年も望むべくもない。これも「with aging」と受け止めて、治療の日々を重ねよう。
エアコン室外機の裏で、あのカマキリがひっそりと骸になっていた。
「ご苦労さん、寒い中をよく頑張ったね。君の命、確かにもらったよ」
一瞬、粉雪が風に舞った。遅い遅い我が家の初雪だった。
(2019年1月:写真:陽だまりのカマキリ)