蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

三たびの逢瀬

2017年09月26日 | 季節の便り・虫篇

 草の葉の陰に、鮮やかなオレンジ色が舞った。前翅の縁に黒い斑紋、中央と後翅には目玉のような紋様がクッキリと浮かんでいる。
 俄かに、ときめいた。中国南部からインド、ボルネオ島、セレベス島など東南アジアに広く分布する草原性の蝶である。
 温暖化に伴い、1960年頃から大隅半島から宮崎県の海岸沿いに北上を始めた。
 勿論当時の北部九州では「迷蝶」と位置付けられ、稀に見る珍蝶だった。2000年夏に福岡市西区で初めて定着が確認され、同年9月21日付け地元紙西日本新聞の夕刊のトップを飾ったことがある。

 3年前の2014年3月、九州国立博物館裏の散策路で初めて出会った。昆虫少年のなれの果ての心を騒がせた、自分史に残る貴重な出来事だった。そして、翌4月に再び出会って定着を確信したのだった。
 四国や本州では、いまだに稀に見る「迷蝶」とされているが、もう北部九州には完全に定着したのだろう。

 太宰府政庁跡にほど近い古刹、観世音寺裏の畑地の脇の草叢だった。
 季節の変わりは激しく、乱高下する気温に負けて例年通り風邪を引き込み、しつこい咳に苛まれていた。薬効がきつく、深い咳は治まったものの全身の倦怠感が抜けず、鬱々の日々を送っていた。やたらに眠たい。テレビを見ていても、本を読んでいても、いつの間にか睡魔に襲われて我を失っている。

 外出するカミさんを送った序でに、気分転換しようと観世音寺に詣り、秋風の中を少し歩いてみた。そろそろコスモスが咲き始め、ヒガンバナは早くも盛りを過ぎようとしていた。その真っ赤な彼岸花の蜜を吸うキアゲハがいる。
 友人の畑には、ハナオクラ(トロロアオイ)が薄黄色の美しい花を咲かせていた。月下美人と同様、見た目の美しさだけでなく、さっと湯通しして甘酢で食べると、極上のとろみが舌に優しい珍味なのだが、友人は以前勤めていた文化財を修復する仕事の関係で、ハナオクラの根を採るために育てているという。
 根から抽出される粘液を「ネリ(糊)」と呼び、紙漉きの際にコウゾ、ミツマタなどの植物の繊維を均一に分散させるための添加剤として利用される。日本ではガンピ(雁皮)という植物を和紙の材料として煮溶かすと粘性が出て、均質ないい紙ができたといわれ、それがネリの発想の元となったという説がある。
(これは、ネットからの受け売りである)

 強くなり始めた日差しが煩わしくなり、汗を拭いながら引き返そうとしたときに、緑の中をオレンジ色の光が飛んだ。3年ぶりのタテハモドキとの再会だった。
 
「虫好きな人には、虫が寄ってくるんだね!」
 いつか誰かに言われた言葉である。こんな嬉しい邂逅があるから、やはり虫好きはやめられない。今年の巡り合いはベニイトトンボとタテハモドキ、これで今年の夏は十分報われた。焼き尽くされた烈日の日々は、もう遠い記憶になりつつある。
 ゆっくりと観世音寺に戻る秋空は、スッキリと晴れ上がっていた。

 駐車場の木陰に黒い車が思わせぶりに2台寄り添って憩い、その向こうに、開き始めたコスモス畑が広がっていた。やがてこの辺りは一面色とりどりのコスモスの海となる。
 確実に、秋が深まっていた。
                (2017年9月:写真:葉陰に憩うタテハモドキ)

果てしない旅

2017年09月22日 | 季節の便り・花篇

 庭の片隅に建つカーポートの裏に、見慣れない草の芽が出た。春が深まった頃の出来事である。こんな時は、育ちあがって花が咲くまで見届けて種を同定することにしている。
 異常な暑さをものともせずに、すくすくと育った。気が付けば1メートル近く伸び、草という範疇を超えてむしろ木に近い。車の出し入れに少し邪魔になるが、そのまま放置していた。いつの間にか庭の塀際一面に勢力を拡げていた。
 夏の終わりに美しいピンクの花が咲いた。お昼前に咲き始め、夕方には蕾んでしまい、ピンクの色をすべて包み隠してしまう。
 「萩の花に似てるね。このまま咲かせておこう」と、車の乗り降りの度に可憐な花を楽しんでいた。

 秋が来た。その頃から、車から降りて部屋にはいると、何故かジーパンの裾に草の種子が貼り付くようになった。その頃、久し振りに博物館裏山の「野うさぎの広場」への散策を始めて、ジーパンの腰から下にびっしりとイノコヅチや知らない草の種子を貼り付かせて帰っていた。
 ハッと思い当たって、図鑑を開いた。そこにあったのは、紛れもなくヌスビトハギの花だった。「種子は衣服に貼り付く」とある。小さな山を連ねたように三角形に並ぶ種子には、一面細かい毛が生えている。「マジックテープを持つ、くっつき虫」と書かれていて、妙に納得する。
 可愛い花に似ず、「盗人」の異名、その由来には諸説があるが、定かではない。
 1)実の形が盗人の忍び足に似ている。
 2)実が知らない間にこっそり服に付くのが盗人っぽい。
 このままでは、庭の手入れが大変なことになる。惜しみつつ、種子が熟す前にすべて抜き去り、ごみ袋に収めた。
 今日の法師蝉は皮肉に鳴く。「ツクツクオーシ、ツクヅクオーシ、つくづく惜しい!」

 大自然の智慧の妙、吹き過ぎる風に身を任せる種子、蜂や蝶に運ばれる花粉、鳥に運ばれて糞と共に分布を拡げる木の実や草の種子、そして人の衣服や動物の毛に貼り付いて移動する草の種子……自ら動くことが出来ない樹木や草は、様々な知恵で生存圏を拡げていく。
 昨年の秋に散策から帰っては、運転席に座ったままイノコヅチとヌスビトハギの種子を一つ一つ剥ぎ取った。(因みに、イノコヅチの食い込んだ突起は、洗濯機で回しても落ちない)そして散らばった種子が風で更に拡がり、今年芽生えて一気に庭中に縄張りを確保したのだろう。気が付かなければ、何処まで旅を続けたのだろう?賢く、果てしない旅路である。

 ふと、動物カメラマンであり卓越したエッセイストでもある星野道夫の「旅をする木」の一節を思い出した。アラスカの動物学者ビル・プルーイットの著書の引用である。

 ……早春のある日、一羽のイスカがトウヒの木にとまり、浪費家のこの鳥がついばみながら落としてしまうある幸運なトウヒの種子の物語である。さまざまな偶然をへて川沿いの森に根付いたトウヒの種子は、いつしか一本の大木に成長する。長い歳月の中で、川の浸食は少しずつ森を削っていき、やがてその木が川岸に立つ日がやって来る。ある春の雪解けの洪水にさらわれたトウヒの大木は、ユーコン川を旅し、遂にはベーリング海へと運ばれていく。そして北極海流は、アラスカ内陸部で生まれたトウヒの木を遠い北のツンドラ地帯の海岸へと辿りつかせるのである。打ち上げられた流木は木のないツンドラの世界でひとつのランドマークとなり、一匹のキツネがテリトリーの匂いをつける場所となった。冬のある日、狐の足跡を追っていた一人のエスキモーはそこにワナをしかけるのだ……一本のトウヒの果てしない旅は、原野の家の薪ストーブの中で終わるのだが、燃え尽きた大気の中から、生まれ変わったトウヒの新たな旅が始まっていく……

 人もその他の生き物も、いずれは大地に朽ち、最後は分子に還っていく。やがてその分子は何らかの形となって蘇ってくる。誕生以来46億年、地球の分子数はそれほど変わっていないという。
 壮大な輪廻転生、私たちの旅路には、決して終わりはないのだ。
                  (2017年9月:写真:盗人萩の花と種子)

それぞれの時、それぞれの想い

2017年09月16日 | つれづれに

 光陰は、時に矢のように速く、時にまどろっこしいほどに緩やかに過ぎていく。そして、速くとも遅くとも、それぞれの時に、それぞれの想いがある。

 全国有数の歓楽街、博多中洲……すぐ目の前の博多湾に向かって、那珂川がゆったりと流れていた。吹き過ぎる夜風が水面に縮緬の波を走らせ、色とりどりのネオンを砕く。昼間は何処か侘しさや荒廃を感じさせる中洲の街も、日暮れと共に夜のヴェールが全てを包み隠して、あたかもそこに美しい夢があるかのように思わせる。儚い一夜限りの夢を追って、今夜も酔客が千鳥足で中洲大橋を渡っていく。
 夜風が心地よくて、しばらく川沿いの公園のベンチで酔いを醒ましながら坐っていた。

 同期入社のOB会の帰りだった。ゴルフで集う会だから、私は時たまゲストとして懇親会に顔を出すだけである。9人が珍しく揃い、中洲の川の畔に建つビルの6階で宴席を囲んだ。以前は、大ジョッキを重ねていた仲間たちが、9人中7人までが「ワイン!」と叫ぶのが面白かった。「明日に残らないから」と言い訳しながら、実は歳と共に酒が弱くなったり、ドクターストップを抱えていることを、お互いに触れようとしない。
 「2時間飲み放題」の宴席では、下戸の私はいつも割り勘負けする。

 みんな6歳前後で終戦を迎え、戦後の食べるものもろくにない中で栄養失調気味の成長期を送った同期である。野草やイナゴを食った経験があるから、貧しさには強い。400人採用され、名古屋と神戸で200人ずつ自称「見習い天国」と大事にされながら研修を受けて、全国の工場や営業所に散って行った。高度成長期を企業戦士の尖兵として支え続け、残業や休日出勤をものともしない時代を戦ってきた。40年を勤め上げて、バブルがはじけた直後にリタイアした。退職と共に、待つことなく失業手当と満額の年金を受け取った最後の世代である。
 「俺たちは、いい時代を生きたよなァ」
 集えば必ず誰かの口から洩れる言葉である。そこには、どん底から始めて、自らの力で日本の繁栄を築き上げたという、ささやかな誇りが滲んでいる。

 会社のOB会は、ともすれば昔の上司と部下のしがらみに縛られ、仕事の自慢話などを延々と聞かされることが多いから、全社的なOB会には出たことがない。しかし、この9人の仲間の集いには、そんな話は滅多に出ない。勿論、想い出話はいろいろ出てくる。しかし、全国に散った仲間だから、共通の仕事や上司に関する話題が乏しいのが幸いして、「この頃、どうしてる?」と、今の生活に纏わる話が多いのだ。
 体質もあって、ビール一杯で真っ赤になるほど酒は飲まないし、意地もあって40年間、ゴルフ、麻雀、パチンコなどとは無縁で営業を全うした。入社間もないころ、ある先輩社員に「酒も呑めずマージャンも出来なくて、営業が出来るか!」とそしられ、「よし、酒もマージャンもなしで、営業やってやろうじゃないか!」……それが意地となった。
 若気の至り……しかし、人生の多くの転機や方向付けは、意外に若気の至りが決めているものだ。だから、今も悔いは微塵もない。
 ひとつの時代を生きた仲間たち、一人一人に、それぞれの時、それぞれの想いがある。

 久し振りに、博物館裏山の散策路を辿った。3ヶ月のご無沙汰だった。梅雨時から秋の半ばまで、この山道は藪蚊と蜘蛛の巣に悩まされる。博物館裏の散策路ののり面は夏草が生い繁り、湿地は早くもイノシシがぬたばとして狼藉の限りを尽くしていた。
 その道の一角、3メートルほどの間で20匹以上のコオロギが死んでいた。まだ弱々しく足掻きながら地べたを這っているコオロギもいる。何が原因だろう?昨夜まで秋を謳っていたコオロギたちの非情の死……自然界には、つかみ切れない不思議がある。
 やぶ蚊に散々苛まれ、頭から蜘蛛の巣を浴びながら、ほうほうの態で山道から逃げ帰った。「野うさぎの広場」にシートを敷き、木漏れ日を浴びながら風の歌を聴くのは、まだまだ先のことである。

 腰から下は、びっしりイノコヅチの実に覆われていた。ここにも秋の使者がいた。
                  (2017年9月:写真:夜の中洲)

やり残した夏

2017年09月12日 | つれづれに

 汗と泥にまみれた身体を熱いシャワーで洗い流し、いつものように冷水に切り替える……「うっ、冷たっ!」……水道の水の夏は終っていた。

 気になっていた庭の手入れに手を付けた。朝食後のまだ涼しい時間、コロ付き庭仕事椅子を持ち出し、庭中に生い茂った夏草をスクレーパーで一気に削ぎ取っていく。1本ずつ抜き取るなんて、まどろっこしい。椅子を転がしながら、陣取りゲームのように根っこからこそげ取るのが私の流儀である。
 雨を含んだ湿った空気に次第に汗ばみ、半ば削ぎ取った頃には額から汗が滴っていた。所々散らばっているスミレは残す。庭石を囲んで5センチほどの厚みでふかふかに広がっていた杉苔は、30年の間に姿を消した。その後を小さな踊り子を見たくて、庭の西半分の庭石の根方にはユキノシタを繁らせた。東半分には、春の白波を見たくてタツナミソウに縄張りを拡げさせている。間にはいりこんだ雑草を、つまむように抜き取っていく。
 「雑草と言う名前の草はない」と昭和天皇はおっしゃったが、庭いじりする身には雑草は確かにある。綺麗に始末しても、すぐに又逞しく繁り始めるしたたかさに、時に圧倒されて不毛の戦いの空しさを感じることもあるが、実は「庭の草取り」には無心になれる癒しの効果がある。だから、この作業は嫌いではない。心を空っぽにして汗にまみれる心地よさは、私にとっては捨て難いひとときなのだ。
 ドングリを探す熊のように地面を這いずる私を見かねて、カミさんが玄関先からカーポートまでの道路の落ち葉を掃いてくれた。ハナミズキ、ロウバイ、イロハモミジ、キブシ……これから木枯らしが吹き募る頃まで、朝晩の落ち葉掃きが私の日課になる。

 ついでに、伸びすぎたキブシの枝を払った。夏の日照りをものともせずに、この樹は猛々しく成長してカーポートの屋根を掃き、道行く人の傘に悪戯を仕掛け、走り過ぎる車の屋根を叩く。長く伸びた枝を20本余り伐採した。来年の3月に咲く花穂を、もう数百付けた枝である。少し心が痛むが、この程度でめげる奴ではない。
 3時間の作業で、庭に静寂の空間が蘇った。曇り空に法師蝉の声も遠い。今日の作業はここまでしよう。

 雨を挟んだ翌々日、玄関から勝手口側を綺麗した。二日前に草を取り終った前庭の庭石の脇から、白い彼岸花の花穂が小筆のように伸びはじめていた。

 もう一つ、数年前から気になっていた作業を片付けることにした。我が家を囲んで雨水の溜め桝が9つ並んでいる。放置しておくと、雨と共に流れ込んだ土砂が桝を埋め、土管を詰まらせてしまう。ひとつひとつ桝の蓋を開け、膝をついて蹲りながら中にたまった土砂をスコップで掬い上げていく。ショウケに5杯、掬い取った土砂を庭土に返して、土管をホースの強い水流で洗い流して作業を終わった。これで5年ほどは大丈夫だろう。

 3時間半が経過していた。膝から下、肘から先は泥にまみれ、這いつくばった足腰に鈍い痛みが溜まっていた。毎朝続けているストレッチとスクワット……日常生活ではあまり使わない筋肉を鍛え、体幹を整えるストレッチ、「痛みが出る寸前の、気持ちいい状態」を20秒保つこの体操を、自称「いたきも体操」という。起き抜けのベッドの上で続けているこの体操のお蔭で、これだけの作業をしても、翌日の凝りもさほどのものではない……筈である。

 夏前から綺麗な花を咲かせ続けているお向かいの木槿が、黙って秋風を呼んでいた。息の長い花である。この花は、ムクゲと書くより木槿と漢字で書きたい。同じく漢字で書きたい百日紅(サルスベリ)は、そろそろ花時を終えようとしていた。
 亡びと誕生と……移ろうものがあるから、日本の四季は趣が深いのだろう。
                    (2017年9月:写真:風に揺れる木槿)

遠くて近い異国

2017年09月11日 | つれづれに

 9月11日、カテゴリー4の巨大ハリケーン・イルマが、キューバを破壊しフロリダを水没させた。
 カリブ海のハリケーンも、インド洋のサイクロンも、そして太平洋の台風も、加速する温暖化でスーパー化の一途を辿っている。

 フロリダ……昔、アトランタで仕事していた次女の招待で訪ねたことがあった。有名なセブンマイル・ブリッジを経て、フロリダキーズ(オーバーシーズ・ハイウェイ)を走り抜けて、アメリカ本土最南端・国道US1号線の起点キーウェストに残るアーネスト・ヘミングウェイの家を訪れたり、カリブ海クルーズを楽しんだりした想い出の地だが、もう遥か遠い異国の記憶になってしまった。

 そんなハリケーンのひとつが、メキシコ・バハカリフォルニア半島最南端のカボ・サン・ルーカスにまで影響を及ぼしているとは思いもしなかった。ロサンゼルスから空路2時間余り、度々訪れた懐かしい地である。ダイビングや、荒野を疾駆するサンドバギーなどを楽しみ、日の出と日没をビーチから眺め、鯨のブリーチングを間近に見て感動し、プールサイドではバナナ・マルガリータに心地よく酔った。いつもダイビングの面倒を見てくれたのが、ダイビングショップ「Deep Blue」のオスカルさんと幸子さんご夫妻だった。
 安否を心配して打った娘のメールに、幸子さんから返事が来た。

 「マサさん、トモコさん、こんにちは。ご無沙汰していますが、お元気ですか?
 ご心配いただいてありがとうございます。トロピカルストームだったんですが、ほぼカボ直撃でした。
  風よりも雨がすごくて、家の中にもたくさん入ってきましたが、我が家は、その他は大丈夫でした。
  停電も今日の午後には復旧したので、家は普通通りです。
  町は、道路の復旧作業で大忙しです。場所によっては、被害の大きいところもあるようですが、今日は、お  店をチェックしに行っただけなので、どんな被害が出ているのかは、Facebook情報でしかわかっいません。
  応援部隊も来ているようなので、大丈夫だと思います。どうもありがとうございました」

 滅多に雨が降らない乾燥地帯である。そこに大雨が降った。信じられない異常気象だった。

 その娘婿のマサ君は、アメリカでダイビングとゴルフのインストラクターをやっている。そのマサ君が9月2日の新聞のスポーツ欄に突然登場して驚いた。畑岡奈紗と拳タッチをしているツーショットである。共同通信社の配信だから、おそらく全国の新聞紙面を飾ったことだろう。今年春から、彼は畑岡奈紗の総合マネージャー兼キャディーを務めている。
 昨年10月の日本女子オープンで初優勝を飾り、史上初のアマチュア優勝、17歳で宮里藍の最年少優勝記録(20歳)を大幅に更新し、日本女子プロゴルファー公式戦最年少記録まで更新してプロに転向、日本人選手史上最年少の17歳で、2017年度米国女子ツアー(LPGA)出場権を獲得してアメリカに渡った。
 LPGAで序盤苦戦が続き予選落ちを重ねたが、引退宣言をした宮里藍のアメリカ本土最終戦オレゴン州でのキャンビア ポートランドクラシックで通算10アンダーの15位となり、5位タイで終えた宮里藍に花を添えた。この試合からキャディーのマサ君が度々テレビ中継に登場する。
 翌週のインディアナ州インディ女子インテックでは、残念ながらイーブンパーの69位タイで終わり、来年度の再起を期することになった。

 LPGAは時差との闘いでもある。ポートランドでの最終日が終わって、シャワー浴びてそのままRed Eyeでインディアナポリス向かって、着いてそのまま36ホール周って練習したという。
 寝不足で赤い目をしたまま行動することを、アメリカではRed Eyeという。

 遠い異国が、思いがけない出来事で身近に還ってくる。ツアーでは決して味わえない滞在型の思い出をいっぱいもらったアメリカとメキシコ……もう訪れることも叶わない遠い遠い異国である。
             (2017年9月:写真:カボ・ランズエンドの夕映え)

風の訪問者

2017年09月10日 | 季節の便り・虫篇

 秋が優しい掌で、薄くなった夏の背中を押していく。苛烈さを失った乾いた日差しを浴びながら、洗濯物を干した。
 年々ニュースを賑わす「熱中症」に怯えて、もう1か月以上庭に手を入れていない。こんな夏は初めてだった。冬に弱く夏に強かった身体も、加齢と共に暑さ寒さ共に苦手になっていった。
 もうしばらく雑草の繁るままにしておこう。年中日曜日、「明日出来ることを、今日急ぐな」……現役時代は、「今日出来ることを、明日に回すな!」と部下を叱咤していたのに……無為浪々の身に、急ぐものは何もない。

 干し終ってリビングのソファーにへたり込んで額の汗を拭っているとき、古いジーパンを切り落としたショートパンツの太ももを、紅色の糸が撫でて過ぎた。
 「えっ?こんなところにベニイトトンボ?まさか……!」
 一瞬で見失った姿を探し回った。弱くなった視力に、4センチ足らずの細く儚げな姿はなかなか見つからない。咄嗟に開けた網戸から、もう飛び去ってしまったのだろうと諦めてお昼を食べ始めた時、テーブルの下からスイと舞い出た。紛れもなく、ベニイトトンボのオスだった。(真っ赤に染まるのはオスだけである)

 丁度7年前の今頃だった。九州国立博物館環境ボランティアとして、やがて2年半を過ぎる頃、研修の一環「自然環境セミナー」で館周辺の昆虫採集をした。残暑厳しい午後だった。
 その時のブログの一節である
  ……研修室で1時間の講義を受け、20人ほどの仲間と博物館北側の遊歩道沿いにあるビオトープに下りた。立入禁止地区に集団で入るため、一般来館者の誤解を招かないように、腕に「PRESS」のステッカーを貼る。
 此処は、自然の湧水と湿地と小さな溜池を生かして作られた空間だが、作られた当時の姿とはかなり変貌し、多分人為的に植え込まれた在来種ではない蓮があったり、放流された亀が生息していたり、水草が繁茂し過ぎていたり、本来のビオトープ(一定の組み合わせの種によって構成される生物群集の生息空間。転じて生物が住みやすいように環境を改変することを指すこともある)というには、やや疑問が残る……。

 その雨水調整池のほとりで、数匹の「幻の希少種」ベニイトトンボに初めて出会った。ルビーのような真っ赤な目が印象的だった。当時は絶滅危惧Ⅱ類、2012年に準絶滅危惧種と1ランク下がり、少し状況が好転したが、依然絶滅が危惧されるトンボであることに違いはない。
 通常は水辺を離れることはない。近くに池もないこんな住宅地の中で見かける筈はなかった。
 ここ数日、風の強い日が続いた。おそらく、風に乗って旅に出たのだろう。思いもかけない邂逅、秋風の悪戯に半ば喜び、半ば危惧しながら、写真も撮らずに網戸を開けて風の中に返した。
 彼が風に乗って、どこかの池に辿り着く可能性は限りなく低い。柔らかな捕虫網もなく、繊細な身体を手で捕えようもなく、元の池に返すことも出来ない。黙って見送るばかりだった。
 彼は、風に乗って私に何を告げに来てくれたのだろう?

 台風が時折、南の国の珍しい蝶を運んでくる。これを迷蝶という。温暖化が、南国の生き物を日本に移動させ続ける。趣味で飼っていた魚や昆虫や亀が捨てられ、多摩川にアマゾンのアリゲーターガーが住みつき、ヘラクレスオオカブトが森で生きる時代である。
 人や物が運ばれるに伴って、ヒアリやツマアカスズメバチ、セアカゴケグモなどの迷惑な上陸も多発してい る。外来生物は既に300種を超えるという。子供たちの庭先のお友達のダンゴムシも、明治期の外来種と知った。日本古来のダンゴムシは、山の中にしかいないらしい。
 生態系は日々変貌を続けている。それは人の営みが齎した、決して避けることの出来ないツケなのだ。

 ツクツボウシが鳴く。食欲の秋、「ツクツクオーシ、ツクツクオーシ……つくづく美味しい!」と鳴く。
            (2017年9月:写真:ベニイトトンボ ネットから借用)