どこからともなく谷川の清冽なせせらぎを送ってくる薫風にそえて、木立を巡るツクツクボウシの哀愁味を帯びた声が、盛り上がった夏の陰にひそむ秋の気配を、ほのかに感じさせていた。
草いきれがむらむらと立ち昇る山径にしゃがみ込んで、五郎は半透明の絹の捕虫網をしぼるようにして、片隅に一疋の蝶を追い込んだ。枯葉色のその蝶は、次第に迫ってくる五郎の掌に鱗粉を空しく散らせながら、最後の足掻きを繰り返した。その足掻きが、沈黙以外にすべを持たぬ虫であるだけに、却って五郎に一抹の憐れみを感じさせた。
しかし、中学1年生の単純な心を支配するある意志は、その憐れみをたちまち逞しい力で抑圧してしまった。五郎の手はネットの隅で羽ばたく蝶を容赦なく捕え、2本の指の間に、その胸を押しつぶした。
無言の恨みをこめて2本の触覚が哀しげに痙攣した。パラフィンの三角紙に包みながら、五郎の頭の中に「ヒオドシチョウ」という名前が、事務的に閃き去った。
そんな五郎の背に頭に深緑の反映を投げかけながら、真夏の陽光がギラギラと照りつけた。小径の腐葉土の上を慌ただしく右往左往する山蟻の黒い一疋が、鮮明な光沢をもって暑さにうるんだ五郎の眸に映じた。じりっと吹き出る汗を無意識に手の甲で拭いながら、五郎はしばらく山蟻の背のつややかな光沢に心を奪われた。
(厳冬に泣かねばならぬ愚かさを本能的に悟る蟻は、この酷暑の中で勤労に励んでいる。もし彼らに耳があるとすれば、梢に高らかに歌い続ける蝉の声を何と聴くことだろう。……しかし、無感動に蟻は往来する…)
五郎の無意識の思索は、その時つと山蟻の上に差した人影によって破られた。白い靴の足が伸びて、山蟻を踏みにじった。五郎は突然の狼藉をなじる目で、影の人を見上げた。
背景の入道雲と蒼空の中に立つ女の姿があった。この暑さに汗をかいている様子もなく、焔のようなルージュに彩られた唇の端に、ゆがめたような皮肉な笑いが漂っていた。半ばの驚きを表す五郎の無言の顔に、ピンクのブラウスに純白のスラックスを着けたその若い女は、挑むような目で言葉を浴びせた。
「あんた、水持ってない?」
五郎は、返事が喉につかえたように、まばたきをして女を見上げた。そんな五郎に構わず、女は言葉を続けた。
「彼氏にはぐれて、道に迷っちゃった。喉が渇いたんだけど、水もってないかな」
五郎は、言葉を忘れたように無言のまま、水筒を肩から外してそっと女の前に差し出した。その水筒の上を、真っ赤なトンボが一疋スイと流れて去った。
女は水筒を受け取って、ものも言わずに飲んだ。目を閉じて喉を鳴らす女の姿に、五郎は人間離れした不思議な空気を感じて、ぶるっと身震いした。それでいて、何か心が魅かれるようでもあった。女は顔をあお向いて喉を鳴らし続けたが、その無くなっていく水のことよりも、女の白い喉にギラギラと照りつける陽光が何故か気になった。緑の木立のせいか、蒼白いほどに透明な喉元だった。そして、ピンクに盛り上がる両の胸。……
「あゝ、おいしかった。ありがとう」
女は飲み終わると、そう言った後で、思い出したように水筒を耳元で振った。
「あら、なくなってしまったわ」
一瞬、女は遠いところを見詰めるような目で、無感動に五郎の顔を見下ろした。笑いのない冷たい顔……これがさっきと同じ顔なのだとは、およそ想像も出来ないような激変した顔に、五郎は再び寒々としたものを感じた。しかし、女はすぐに元の、あの皮肉な笑いの漂う顔に戻った。
「悪かったわね」
そう言われても、五郎はまだ無言だった。不思議に女に怒る気持ちはなかった。
「虫採りか、楽しそうね。……はい、水筒」
女は五郎の沈黙を非難する様子もなく、その顔に視線を一瞬とめた後、ちらりと微笑んでから水筒を返して、くるりと山径を去って行った。純白とピンクの姿は、たちまち緑の中に没した。……
五郎は依然としてしゃがみ込んだまま、茫然と女を見送った。女の去った向こうから、湧くような蝉の声が一段と高くなった。五郎の心の中には、まだ女の白い喉元が焼き付いていた。挑むような皮肉っぽい唇や目の色が、鮮やかな残像を保っていた。
……と、再び真っ赤なトンボが五郎の視野をかすめた。奇妙な喜びと、名残惜しい気持ちが五郎の心に湧いてきたのはその時だった。
五郎はのろのろと立ち上がると、何かを求めるように小径を歩き始めた。足は自然に女の去った方に向かった。
(あの人は、何故蟻を踏みにじってしまったのだろう?)
蝉の声の溢れる中を掻き分けるようにして歩きながら、五郎は答えのない疑問を自問し続けた。
山径をうつろに歩いていく五郎の頭の上に、掴みかかるような勢いで夕立雲が広がってきた。 (完)
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高校3年の時に書いた掌編である。狐か、はたまた物の怪か、思春期の少年にとって、女とは謎の生き物だった(笑)
これを載せた「北斗」という修猷館高校文芸部の同好誌に、「春雷」と題した原稿用紙40枚ほどの小説と、「初秋」という詩まで書いて……多感な思春期の、まだ昆虫少年だった頃の自分がいた。……60年の昔である。
(2013年6月:写真:今年初めての月下美人)
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